目を凝らして
やんわりとグロ注意です(作者判断でクラリセンよりちょっと低め)
モスクのいた事務所を出て、少しだけ通りを歩く。
懐かしい。五番街のここの音は、何一つ変わらない。
金槌が振るわれ、金属が叩かれる音。常に漂う黒煙の匂い。往来の人に構わず、たまに作業所から怒号が飛ぶ。
石畳の隙間には金属粉や木屑が混じり、本来は多少段差があるはずの石材を平坦にしていた。
すれ違ったのは、桶に突っ込まれた木材を荷車に乗せて運ぶ男。
乾燥し、割られたようなその細い木は火口だろうか。
この近くで昔、ニクスキーさんとともに鍛冶屋の男たちを叩きのめした。ともにといってもほとんどニクスキーさんの手によるものだったが。
その結果、ハイロが私刑を受けたのは申し訳なかったけれど。
あれから十年近く経っている。
衛兵と共謀し僕を私刑にかけようとした首謀者は、あのとき見た目五十代近かったと思う。今はもう引退してしまっただろうか。まあ、三年と少し前まではその名前を知る職人がいた気がするから、まだ活動していてもおかしくない。
切られたばかりの木材の匂いが僕の鼻に届く。
いつも思うが、ちょっと美味しそうな匂いだ。もちろん、囓っても大抵は美味しくないから食べないが。それでも、鉄剣を食べていたスヴェンのことを考えると、木ぐらいなら食べられる気もする。
匂いのほうを見れば、職人が汗を流しながら鋸で細い丸太を切断している。元は白いのだろうに、油で汚れたように黒くなった手袋。そういったものをつけて体を保護しているのに上半身裸なのは何故だろう。
そんなことを考えながら街を歩く。
どこへ行けば会えるだろうか。どこへ行っても目立つ彼女に。
今は街にいる。それだけはたしかだ。街で仕事があるからと彼女は言っていた。
ならばどこかで人が死ぬ……とは限らないけれど、それでも何かの事件を待てば会えると思う。
治療師が走り、衛兵が緊急配備されるような場所を探せばきっと。
けれど、やはり。
立ち止まり、耳に届く音をただ聞く。街の声。槌の音。足音。車輪が石を弾く音。
これから何かが起きるのは構わない。けれど、それが起きるのを待つのは何かが違う。何をする気なわけでもないのに、なんとなくそう思った。
「……探そうかな」
呟き、僕は身を翻す。視線は五番街を抜け、十二番街、そして貧民街まで。建物に遮られて見えないけれど、とりあえずそこまで戻ろう。
迷子になったときは、とりあえずわかるところまで戻るのが一番だ。
……あれ? そこで動かない方がいいんだっけ? まあとりあえず、そこまで。
十二番街と貧民街の間の門扉を見れば、やはり重たくぶ厚い丈夫な門だ。破城槌を当てても中々崩れないというのは本当なのだろう。
そこに連なる壁を見渡して目を凝らせば、いくつか本当に当てた跡がある。
丸太で作られた槌が当たった箇所は石材がやや潰れ、丸く跡がつく。もしくはよく見なければわからないほどのクレーターがある。壊れてしまったところは作り直したとして、よく見なければわからないような、使用に耐えうる問題ないところは残しておいたのだろうと思う。
……いや、これはきっと本当は見てもわからない。
多分、一般人には。それこそ、モスクのような専門家にしかわからないのだ。
同じように目を凝らし、僕は貧民街へと目を戻す。それからその道を伝い、十二番街まで視線を飛ばす。
そして思い返すのは、別れたときのエウリューケの仕草。視線。体の僅かな向きの変化。
身を屈めて、彼女の目線を再現しようと試みる。彼女が何を考えていたか、きっと何かがわかると信じて。
これだ、という明確なものはない。言語化も難しい。これこそがきっと経験によるもので、そして理屈では中々説明出来ないものなのだろう。
だが、多分……きっとエウリューケは中に入り、右に曲がった。足跡も匂いも残ってはいないが、その痕跡とも呼べる口に出来ない何かがある。
ただの勘と言ってしまえばそれまでだけれど。
それでも僕には実績がある。
ムジカルでの旅は、追跡や採掘の訓練にもなっていると思う。
水を伝って移動し、赤子や動物の臓物を盗み逃げる老婆のような魔物を追って殺した。数百年前の朽ちた地図のうち、描かれているモチーフとしか言いようのないものを頼りに遺跡の位置を再特定した。
盗賊たちの覆面の下の表情を予測し、その動きを予想した。武器や装備から、その能力や人数を特定した。
何のことはない。砂漠で野生動物を追うのと変わらない。いくつかの要素がなくなり、そして人が多い分余計な痕跡が混じってはいて、あれよりは難しいが。
彼女の習性、直前の行動、そして残っているとも言い難い痕跡。それら全てを統合し。
足を踏み出す。
これより、野生のエウリューケを追う。
五番街よりも北の四番街と、五番街東にある十二番街の北の十一番街。十一番街は左に弦がある三日月のような形をしており、それに抱き込まれるような形で四番街が存在する。
四番街の大きさは十一番街の大きさの三分の一ほど。
街の数字が少ないほど先に出来た街であり、そして内側に存在する。古い町である四番街は小さく、それでいて人口密度は十一番街のほうが倍はあるだろう。
商店などもあるが、どちらも住宅街に近い街。その接する中央部付近で僕は立ち止まる。
勘を頼りにいくつかの痕跡のない曲がり角を越えて、今度は臭いがした。
もともと臭いのある街ではない。だがそれでも香る食べ物や人の生活臭というような臭いに混じり、微かに感じた鉄の臭い。糞便のような臭いも混じる。これも、本当はきっと誰も気付かない程度なのだろうが。
間に合わなかったか。
いや、別にこれを止めようとかそういうことを思ってきたわけではない。だが、もう終わっている。それを感じ取り、僕はその方向に足を進めた。
アパートのような縦長の密集した住宅が並ぶ。
そのうちの一件。見た目では何も変哲のないもの。一階に扉があり、その横に小さな木窓。そして二階部分に大きな木窓。普通の住宅、そこから音がする。
騒がしいというわけでもない。むしろ、多分騒がしいのだろうけれど不自然なほどにその音は周囲に漏れていない。常に何かが響いている。隣の家から響く足音以下の音量で。
じ、と見ていれば、木窓のほんの僅かな隙間から漏れる光と影が何度も歪む。
中で誰かが動いている。
……多分、エウリューケが。
僕はその向かい側。ちょうど建物の壁になっていた場所に背中をつけて、じっと待つ。
中の人間がどういう人なのか僕は知らない。誰かに恨まれる理由など一切ない善良な人間なのか、それとも誰しもが死を望むような邪悪な人間なのか。エウリューケの『仕事』の理由も。
やがて、木の階段を一つ飛ばしで降りてくる音がした。未だに微かな何かは響き続けている。
そしてその階段を降りる音が一階まで来ると、鼻歌まで聞こえてくる。
扉が開く。
中から吹いてきた風が生臭い。そして一瞬だけ聞こえてきた複数の男女の爆笑する声に、僕は反射的に身構えて、そして出てきた女性の顔を見てようやく僕はその警戒を解いた。
「おやおや、おや?」
「お疲れ様です」
僕が声をかけても、いつもの青髪の女性だ。今背後から聞こえてきている爆笑など気に留めることなく、そして臭いに顔をしかめることもないその姿は、冷静に見れば違和感しかないのに。
扉を閉めると、また一切が漏れてこなくなる。音も静まり、臭いも風に紛れてどこかへ消える。
ごく普通の住宅地。人々が行き交い、普通に生活をしている場所。それが戻ってきた。
「……あたしの居場所なんて誰に聞いたんざましょ?」
「普通に探しました。これ以上どこか行かれると多分わかりませんでしたが」
後半はもはや当てずっぽうに近い感覚だった。
ただ、臭いがした。その臭いを追って、ここまで来られただけの。
それに、ニクスキーさんやレイトンならば、きっと最初の曲がり角でわからなくなる。他の工作員でも、多分。そういったことに一番疎い彼女だからこそ追ってこられたのだ。
エウリューケの笑顔が歪む。そして表情が消えて大きな目が僕を捉えると、少しだけ空気が冷たくなった気がした。
「それで? あたしを探したんは何故? 理由は大体わかってるけどさ」
「多分、正しいでしょう。……グスタフさんの体についてです」
バタバタと鳥が飛び立つ。建物の上で餌を探していた椋鳥たちが、一斉に。
「……カラス君が出来ることはないよ。今はただ、じっちゃんと会ってあげなさいよね」
「何も、本当に出来ることはないんですか?」
「ないよ」
一瞬静まりかえった場に、エウリューケの背後からの爆笑がまた響く。まるでコメディでも皆で眺めているような。
しかし、建物の中はそんなに楽しい光景でもないだろう。また一層、血の臭いが強まった。
「チッ……うっせーなぁ……」
エウリューケが溜め息をつき、小声で珍しい悪態をつく。
ガタン、と二階の木の窓が開く。そこから半身を覗かせたのは女性。
上半身が赤い……いや、服かと思ったら違ったようだ。素肌が流れる血に染まり、そしてその目は見開かれケタケタと笑い続けている。
そちらを見ずに意識だけを向け、エウリューケはニコリと微笑む。
「ちょっち場所変えよーぜ! ここも騒がしくなっちゃうみたいな感じだし!!」
「……はい」
まあ、騒ぎにはなるだろう。既に、木戸を開けた後哄笑を続けている裸の女性には衆目が集まり始めている。
そこから少し目を下げれば僕らがいる。どうせ彼女を追及する者はいないとしても、望ましい事態ではあるまい。
僕が頷くと、諭すようにエウリューケが僕の肩に手を乗せる。
次の瞬間視界が歪み、そして先程の住宅を見下ろせる向かいの屋根に僕らはいた。
「あの様子だと、他の全員は死んだみてえだなっす」
未だ言葉にならない言葉を叫び続け、そして笑い続けている女性を見下ろしエウリューケは呟く。
僕もその様子を窺い見るが、明らかに普通の事態ではない。女性の後ろ、奥にも血だまりが見え、そして桃色や白い何かが見えているということは出血どころか肉も裂けている。
一応女性の様子だけ見れば……。
「何かの薬物による幻覚……ですか?」
「ちゃうちゃう」
エウリューケは僕の発問に、手を振って否定する。だがその眉は額に皺が寄るまで顰められ何か困っている様子だった。
「しかし、そう見えちゃうんねー……うーん、失敗したかぁ?」
「失敗?」
「まあまあ、死ねば別にいいんだけどお、薬物使用で片付けて欲しくないしい」
屋根をペタペタと叩きながらエウリューケは天を仰ぐ。僕の疑問は晴れずに、どんどんと溜まっていくばかりだが。
見ている間に、血の滴を振りまきながら女性が窓から身を乗り出す。
全くの支えなしに行われたその行為は、予想される範疇に収まる結果を出した。
十人ほど集まってきていた観衆がどよめく。そして、まばらに立っていた彼らが一様に身を引いたように見えた。
まるで、窓の前に空間を作るように。
その女性が落ちてきても、誰も受け止める気がないように。
西瓜を叩き、割れたような音がした。
女性の黒い髪を割り、見えた白とピンクの筋。白い肌に赤い血が塗りたくられたように纏わり付き、体中の至る所にある掻き毟ったような傷を隠そうとしているように見えた。
落ちる前からついていたようなお腹の傷。そこから管が飛び出し、石畳に血の筋を書く。
ゼンマイ仕掛けの人形のように、地面を四肢が叩く。
頭から落ちて不自然に曲がった首。それでもその頭部にある口からは、ゲラゲラと笑い声が周囲に響き続けていた。
「もとは強盗団だったんだよねー」
「強盗団?」
エウリューケがぽつりと呟いた言葉を聞き返すと、エウリューケは頬を掻いて頷いた。
「そんなに活動していたわけじゃないんだけど、たまーに適当な民家に押し入って家主を殺して金や高価なものを奪ってた。そんな奴らだよ」
「彼らがですか」
視界の先には、一応もう声も掠れるように消えていく、死体になりつつある女性。そして、駆けつける四人の衛兵がいた。
「あたしが踏み入ったときに、あいつらは言ってたんだよ『笑いが止まらねえな』って心底面白そうに」
「…………」
突然、何を言い出すのかと思ったが……。もうその続きが何となくわかった。
クスクスとエウリューケが笑う。そして、袂から小さな瓶を取り出した。
「だから、瘴気……いやもうカラス君流に言えば微生物? のうちの出す液体をいくつか飲ませて、痛みに応じて快楽が巻き起こるようにしてみた。そして、頭の前っかわに針を刺してグリッと捻ればあの様よ」
精神外科手術……。あまり効果は見られないと聞いたことがあるけれど。
「自制心を消して笑いが止まらないようにしただけで、面白いようにあいつら殺し合ったね、単純馬鹿や! うはー!」
ようやく沈黙した転落女性。治療師が駆けつけたようだが、首を振るだけで立ち上がってしまった。
助からないのだろう。額から流れる血が、溢れるように勢いを増した。
「さすがに二人は針刺したところで失敗しちゃって死んじゃったけど、残り三人立て続けに成功したからこの手法はもう何度もいけるみたい。でも、薬物幻覚に見えちゃうなー、そうなー……」
がば、とエウリューケは顔を上げる。その勢いで首だけで天を仰ぎ、更に後屈して僕を逆さに見た。
「で? もうこんなことはどうでもいいよね。それよりも、じっちゃんの話だ」
「……ええ」
正直、どうでもいいとは言わないが目の前で落ちた女性が死んでもあまり動揺はない。痛ましいくらいには思う。
だが痛ましい以上はない。強盗犯だから、という話ではなく。ただ、心情的に。
「おおかた、『じっちゃんの寿命を延ばせこの天才美少女魔術師め!!』みたいなことを言おうとしてきたんじゃないの?」
「概ねそうです」
後半は全くのでたらめだが。
「でもね、それは出来ないんじゃねえの? って思うよ」
向き直ったエウリューケと視線が交わる。真面目な顔、まるでガラス玉のような澄んだ目。
「寿命ならもう延びてるよ。カラス君は気付いてるかどうかしらんけど、じっちゃんは甘露で寿命を延ばしていた、もう限界さ」
「それは先程聞きました。でもきっと、……」
何かあると言おうとして、それでも思わず口を噤んでしまう。拳を握りしめ、自信なさげになっていく僕の言葉を奮い立たせた。
「他には、何か手が……」
「あるかもしれないけど、今現在それが形にすらなっていないのであればじっちゃんには間に合わない」
僕の言葉を遮りつつ、エウリューケは首を横に振る。それから少し、背伸びをした。
「寿命って不思議なもんだよねー。あたしたちにはないのに、逃げられない人たちもいる。どうすりゃいいんだろ。あたしにも、寿命の奴を足蹴にして、あたくしのおみ足を舐めさせる方法はわからんちん」
溜め息をつき、エウリューケはまた僕の顔をじっと見る。
それから自分の横の屋根を叩いて、僕へと勧めた。
「ま、座りなよ。お話ならしてあげる。きみの反論も聞いてあげる」
どうせ無理だけど、というような顔で、エウリューケは悲しそうに笑う。
「さあ、真理の階梯に足をかけて、一歩ずつ昇ろうじゃないか! 青空討論会といこうかね!!」
その、いつもと変わらない元気さが何となく空元気に見えたのは、僕の願望ではないと思いたい。




