一匹だけの鬼退治
小さな傷を作っただけだ。
しかしその傷は、予想以上の効果を上げた。
「ギイィィアアァァァァ!」
鬼が叫ぶ。手を振り回し、血をまき散らす。
僕の体にも血飛沫が飛んできた。
僕は少し驚いた。
だって、あんなに些細な傷だ。
けれども、あれだけ頑丈な体なのだ。鬼にとっては初めてに近い損傷なのだろう。
事実、手を振り回すその姿は怒りに震えているというより、痛みを堪えているという感じだ。
苦笑いではない。笑いが込み上げてくる。
大の大人よりも大きい、あの巨体を持つ鬼が、痛みに我を忘れているのだ。
犬を殺し、獲物を殺し、さらに僕を殺しかけている鬼が、掌を貫かれただけで。
しかし、その醜態もすぐに終わった。
鬼が手首を押さえ、手に力を込める。そして、闘気が活性化される。細い光が力を増したかと思うと、みるみる傷が塞がっていった。
「……ハハッ……」
無茶苦茶だ。
確かに闘気を活性化すれば、傷の治りは早くなるという。しかし、それも悪化せず回復が早いというだけであって、みるみる治っていくようなものではないはずだ。
尋常じゃない密度の闘気、そのせいで、こんな非常識なことまで起こせる魔物。まさしく、目の前にいるのは怪物なのだ。
鬼は得意げに嗤い、手を僕に見せつけるかのように何回も開閉させた。もう、普通に動かせるようだ。
その仕草がかわいらしい子供のようで、なお笑いを誘った。
僕は、何故この怪物を恐れていたのだ。
その小さな傷よりも、僕の体は傷んでいる。その小さな傷がついただけで、この目の前の怪物は慌てふためいていたのだ。
何故恐れていたのだ。
こんな鬼。ただ力強く、速く、頑丈で傷が早く治るだけの筋肉達磨。
技術も知恵も無い、こんな筋肉達磨など、何を恐れることがある。
四肢に力が戻る。
そうだ。この鬼は、闘気で傷を癒やした。
程度は低いだろうが、僕も同じ事が出来るはずだ。
動けるようにはなるはずだ。
そう信じ、全力で闘気を活性化させる。
この状態は長くは続かない。
全力疾走しているようなものだ。数秒で終わってしまう。しかし、痛みを軽減させるのには、充分なものだ。
屈んだ姿勢から、後ろへ跳ぶ。態勢を整えて一息ついた。
改めて見てみれば、僕は何を怖がっていたんだか。
強大なのは変わりは無いが、先程よりも鬼が一回り小さく見えた。
いくつかわかったこと、今の僕に出来ることを検討する。
それらを統合して考えてみれば、もう勝てない敵ではないことに気がついた。
まず鬼は、痛みに弱い。
闘気を帯びた硬い体のおかげで、傷ついたことが少ないか皆無なのだろう。掌を貫いただけ、というのもおかしいが、そんな小さな傷であの痛がりようだ。
そしてその事実から、あいつはその闘気に頼り切りになっていると推測出来る。
要は、あいつは闘気を消せば、力も速さも見た目相応で、傷が治ることも無く、とくに頑丈でもないただの生物になるのだ。
その上、闘気が無い状態で生活する機会など無いのだろう。外部からの刺激に極端に弱くなる。
闘気を消す、というのも何とかなる。
あいつは闘気を発散させて僕の魔法を掻き消していた。
そこで何故思いつかなかったのだろう。闘気と魔力を混ぜれば、その両方が消えるのだ。
強い魔力であいつを覆えば、体に帯びている闘気を中和することが出来る。
魔法使いならば、鬼には攻撃が通らない。
闘気を使える戦士ならば、鬼より強い闘気を帯びることが出来なければ攻撃が通らない。
しかし、その両方を使える僕だけが取れる手段があるじゃないか。
全力での闘気活性化は長くは持たない。痛みを抑えてはいるが、もう時間が無い。
早いところこの鬼を片付けて治療しなければ、僕は死ぬ。
腹は決まった。
この後魔力切れで倒れるかもしれない。闘気活性が途切れるかもしれない。そもそも今の案が通用しないかもしれない。
しかし、何もしなければ、鬼に殺される。
何だ。やっぱりあのときと同じじゃないか。
リンゴを食べたあのときは、空腹で死ぬか毒で死ぬかの賭けだった。
ならば、僕はこの賭けに勝つ。この鬼も、容易く倒せるはずなのだ。
あのときのリンゴに、毒など無かったのだから。
鬼が強く踏み込む。
距離を嫌い、またタックルが来るのだろう。
もう、させない。
肩から伸ばした魔力の腕。その先で、鬼を掴む。
闘気により溶かされていくが、魔力をつぎ込めば維持出来る。
「桃太郎も猿もいませんし、犬は逃がしました。僕は雉でなくカラスですが、鬼退治といきましょうか」
鬼の踏み込みが目に見えて弱くなる。先程よりも、ダッシュが遅い。
これならば、迎撃出来る。
「……フッ!」
魔力で覆いながら、鬼の頭を蹴り飛ばす。僕の闘気は正常だ。
「ガァ!」
呻きながら、鬼の頭が後ろに揺れた。
着地し、闘気を込めたナイフで袈裟切りにする。
スッパリと、簡単に傷が付いた。
ブシュッと音を立てて血が飛び散る。動脈には浅かったか、いや、出血は充分だ。
鬼は自分の胸を撫で回している。血を拭こうとしているのか、それとも止めようとしているのか、それはわからないが明らかに動揺している。
しかし、表情に怒りが見えた。
悪寒が走る。咄嗟にしゃがんで右へ跳ねた。
僕の頭があった所を、鬼の左ミドルキックが通り過ぎる。
その動きはかなり遅い。
その刹那に、足の動脈を切断出来た。
血溜まりが出来るほどに出血が広がる。
鬼の呼吸が乱れている。生涯初めてかもしれない重傷に、戸惑っているのだろう。
闘気が増していく。回復をしようとしているのだろうが、そんなことはさせない。
注ぎ込む魔力を増加させる。これではあと何秒かしか持たないだろう。
その間に、決着をつける!
折れた丸太を振り回し叩きつける。
僕が抱えなければいけないくらいの太さの丸太。普段であれば、鬼にとってはこれくらい何ともないだろう。
しかし、闘気の封じられた鬼は、ただの筋肉達磨だ。しかも、自分の体を使い慣れていない。
あっさりと、鬼がはじき飛ばされる。
ざまあみろ、僕を何度も飛ばしてくれたお礼だ。
このくらいで鬼が死ぬわけが無い。
後は無我夢中だ。
一心不乱に、鬼に駆け寄りマウントをとった。
そして、苦しむ鬼の顔目掛けて、拳を振り下ろす。
ぐしゃりと鬼の顔が歪む。
頑丈な鬼だ。手を引けば、また元通りに戻った。ただし、鬼の苦痛に歪んだ顔はそのままに。
全力での闘気活性はもう持たない。息切れがする。しかし、まだ終わらせるわけにはいかない。
魔力も底をつきそうだ。視界の端が白く染まる。体の下にある鬼以外に、何も感じられない。
弱められた闘気で強化された鬼の身体と、限界が来ている全力強化された僕の拳。
どちらが勝つか。
勝負だ。
「オォォォォォォォォ!」
聞こえているのが僕の咆哮か、鬼の咆哮かわからない。
力を込めて、顔を殴る。
必死で、それ以外は考えられない。
グシャグシャと拳に感覚が伝わる。僕の拳が壊れているのか、鬼の顔が壊れているのか。
何度も、何度も拳を叩きつける。
これで勝てなければ、もう反撃の手段は無いだろう。
必死に殴り続けた。
突然、痛みが戻ってくる。
腹部の激しい鈍痛に、腕の骨に激痛。体の力が抜ける。
まずい、もう力が入らない。
握られた拳がほどける。肘が上手く伸びない。
ペタン、と肉に僕の手が当たる。
マウントを取っていられない。
地面から伝わった衝撃に、僕が倒れたことだけが認識出来た。
「おい! おい!?」
僕の頬が張られる。誰だ。痛いな。
「へえ、生きてるじゃないですかー」
暢気な声が頭に響く。いや、この声は確かに耳に入ってきているのだ。
黒く染まった視界に、切れ込みが入る。
その切れ込みから、周りの景色がチラリと見えた。
草の匂いに、人の気配。先程の声は、レシッドか。
全身の痛みに僕は呻き、そしてまた景色が暗転した。
その間際に思ったこと。
僕はきっと、生き延びたのだ。




