異種間理解
見る間に小さな岩が溶け、溶岩の中に没していく。
背後にある大きな火山島はそれでも耐えているのか、まだ赤熱するだけに留まっていた。
「任せてもいいんですね」
「もとより我が輩が狩る獣だ。貴様はもう帰ってもいいぞ」
へら、とスヴェンが機嫌良さそうに笑い、溶岩の上で待ち構える。
水深……といってもいいのかわからないが、底のない溶岩の海を走ってくるとは相手も相当なものだが、それでも大丈夫なのだろうか。
というか焦熱鬼のほうはどこに立っているのだろう。
腰の辺りまで溶岩に浸かり、それでも走ってくる。焦熱鬼も大きいが、水深は腰よりもかなり深いはずだ。
そして、それよりも。
「それにしても、何しにこちらに向かっているんでしょうか。僕らを食べても、そんなにお腹は膨れないでしょうに」
体のサイズからすれば、人間を食べるのであればかなりの量が必要だ。それこそ、この前僕らを襲った蛸や探索の最中に幾度となく見た鮫などのほうが食いでがあるだろうに。
「……なに。単なる頂点としての意地だろう」
「意地?」
「奴は聖獣と呼ばれる魔物なのだろう? 見ろ」
スヴェンが溶岩海を見渡す。だが、その水面は焦熱鬼の立てる波以外は薙いでいる様子だった。
「探索の最中にはそれなりに見た生物や魔物たちがいなくなっている。 他の『食糧』は、奴を見れば逃げ出すはずなのだ。なのに、我が輩たちは逃げていない」
「……ですから、意地、と」
「そうだ。頂点に立つのは一人。そしてこの場では、それは我が輩が相応しい」
スヴェンの後ろ姿。髪の毛が若干浮かび上がる。臨戦態勢らしい。
僕はとりあえず飛び上がり、火山島に上陸する。
つるりとした瑠璃色の帯の地面が、僕の靴に叩かれ固い音を出した。
一度空を見上げる。
雲行きが怪しい。焦熱鬼の登場で陽炎でも上がったのかと思ったが、空気に湿気が混ざっている気がする。
見上げた先には黒々とした雲。焦熱鬼の熱で起きた上昇気流、それほどまでか。
視線を下に戻し、崖の上から二人を見る。一応ここから見ることは出来る。しばらくすれば、ここも危ないと思うが。
走ってくる魔物は、一つ目の下にそぎ落とされたかのように抉れた鼻の穴がある。逆立つ髪の毛に、近づいてくるだけで場の温度がぐんぐんと上がるその体。
近づいてきて改めて見ても間違いない。焦熱鬼だ。僕が見たことあるのは首だけだったが、体もきちんと人型らしい。
裸の男性……だと思うが、外性器もなく性別がわからない。性別がある種なのか、有性生殖する種族なのかどうかもわからないが。
指は六本。そこについている爪はぎざぎざに荒れているが、本来はそういう形ではあるまい。多分、土か何かを掘ったのだろう。……土が、彼の近くで原形を留めていられるかどうかは知らない。
じっと見ても、わからないことだらけだ。
わかっていることは、熱を放つ人型の魔物だということ。そして、その体はシャナの部屋に転がっていたものと比べるとやや小ぶりで……。
「……っ!!」
とても、俊敏だということ。
スヴェンの身長の半分ほどの大きさの掌で、握りつぶそうとでもしたのだろうか。それとも払って弾き飛ばそうとでもしたのだろうか。
ともかくその掌を避けきれず、スヴェンはまともに受けて弾き飛ばされる。掴み損ねた様子もないため、多分払っただけだろう。
赤熱した崖に溶岩の波とともに激突し、砕けた岩と宝石とが混じった飛沫を派手に散らした。
というか、僕の見ている崖のすぐ下だ。
地面が揺れる。立っていた青い宝石の層がぬるりと泥のように変形し、僕の靴が埋まる。
もう一撃。焦熱鬼の握られた拳が岸壁に突き刺さり、岩が崩れた。
飛び退いて確認する。一応焦熱鬼は魔力を発した僕ではなく臨戦態勢をとっていたスヴェンを狙っているらしい。ギロリと僕を睨むが、それ以上何をすることもなく焦熱鬼はスヴェンの倒れて沈む場所に目を戻した。
瞬間、焦熱鬼がたたらを踏む。
その腹部に突き刺さるスヴェンの跳び蹴りが、確かに焦熱鬼を動かしていた。
グル、焦熱鬼が吠える。まるでスロー再生された人間の声のような野太さで。
「その首、落とすのは骨が折れそうだ」
呟くように言ったスヴェンの手が金属質に変形する。僅かに伸び、まるで刃物のような扁平さを持ったその指が、振り払おうとした焦熱鬼の指を第一関節から落とした。
もう一撃、と焦熱鬼が振るった拳にスヴェンが自らの拳を合わせる。
肉と骨が歪む奇妙な音が、ズン、と周囲に響き渡った。
「フ、ハハハハハ」
互いに少しだけ飛び退いて、それからスヴェンの哄笑が響く。
困惑している様子の焦熱鬼は恐らく無傷。だが、スヴェンの方は少し違っていた。
ケタケタと笑いながらも、右の肩が外れたように奇妙に曲がる。血のような赤い液体が白い手袋を染めて、溶岩へと滴って落ちた。
……しかし、楽しそうだ。生き生きとしたその表情は、先ほどまでとは全く違うものに見えた。まるで別人のように。
歪んだ右肩に手を添え、強引にその形を整える。ゴキンという骨がずれるような音がして、その見た目は一応元に戻ったようだ。
スヴェンが右手を溶岩の中に突き入れる。
それから大きく振り上げた先には、雫型の岩の固まりがくっついていた。
飛びつきながら、その右腕を振る。
今度は肉を岩が叩く音が響く……が、焦熱鬼は意に介さず大ぶりに振り払い、まともに受けたスヴェンが水面を跳ねて飛んだ。
と思えば、また焦熱鬼の懐まで飛び込む。それからその顔面に拳を打ち当てると、焦熱鬼は悲鳴のような声を上げて顔を振り上げる。
そして、堪えた焦熱鬼からの頭突き。あわよくば噛みつこうとしたようだが、それは功を奏さずスヴェンはその衝撃を受け流すように溶岩の上に立った。
なんというか、規模が大きくなっただけの殴り合い。
そんな風情だ。相手は遙か昔に世界を相手取った強大な魔物の一頭。そのはずなのだが。
しかし厄介なのはやはり、その体が発する熱だ。
未だに障壁を熱し続けているその熱量は、耐熱効果を付与してあるはずの障壁すら貫通して僕の体を焼いている。
汗が垂れる。貴重な水分なのに。
僕の耳に届いたのは雷の音。焦熱鬼がこちらに走り寄ってくる辺りから発生していた黒雲が、ついに雷を発し始めた。
色からすると、多分もう雨は降っている。地表まで到達していないだけで。
切り落とされた焦熱鬼の指が生えてくる。粘土細工のように。
その指についている爪だけが綺麗な形で目立って見えた。
仕切り直しは終わったらしい。また、二人が歩み寄る。
身長差は目測で四倍強。見下ろし見下ろされるような光景だが、二人がそう思っていなさそうなのが不思議だった。
足元のスヴェンを振り払うような鉄槌打ち。
スヴェンがそれを受け止める。
衝撃で溶岩の海が震える。焦熱鬼の足元の溶岩が派手に揺れているが、それ以上に細かい波飛沫の波紋が周囲に広がっていった。
……きっと、この一撃も地上ならば派手な破壊が待っているのだろう。周囲の建物が倒壊し、木々が倒れ、地面がへこむ。だがやはり、それを作り出しているのは強い腕力、それだけだ。
受け止めたスヴェンは、腕がひしゃげながらもその拳、腕に打撃を加えながら顔面へと迫る。だが、やはり体重差とリーチの差が問題だろう。跳んだ瞬間、打ち落とされるように溶岩の海へと沈んだ。
「……加勢しましょうか?」
僕がそう問いかけても、水面から頭部を出したスヴェンは首を振る。焦熱鬼は、その力を誇示するためだろう、じっとその姿を見つめていた。
「この程度、いらん」
「ですが」
「お互い本気ではない」
スッと立ち上がり、焦熱鬼を見つめて鼻を鳴らす。
それから歯のような金属片を吐き捨て、ゆらりと一歩踏み出した。
「奴はまだ舐めている。我が輩が小さく弱い生物だと」
まあ、そうだろう。呟くようではあるが、会話をする余裕まである。
焦熱鬼の方は、食事としてではなく、強さを誇示したい。そういう目的なのだろう。最終的には食べるのかもしれないが、心が折れるまで相手をするつもりなのだと思う。
……なんというか、僕の心中が少しだけ焦熱鬼に好意的になってきた気がする。意地というか、誇りを理解しているのだ。多分。
ぽつりと僕の頬に水滴が当たる。
水の粒。ついに雨が降ってきたか。舐めてみると少しだけ酸味があるが、飲めないほどではないようだ。
もちろん、溶岩は雨に当たろうと何の変化も見せない。ただ感じた湿り気に、不快指数が急上昇した。
スヴェンの準備が整ったようで、足場が分厚くしっかりとした岩盤へと変化する。やはりしっかりとした足場の方が蹴った力は良く伝わるのだろう。もっともいくら分厚く作ろうとも、スヴェンが離れればすぐに溶岩の海に没してしまうが。
「舐めている。ならば、我が輩の力を見せつけなければな」
もう一度。スヴェンが焦熱鬼に飛びかかる。
焦熱鬼も反応はしたが、その腕すらも切り落としながらスヴェンが腹部に取り付く。
そして、魔力を込めた右手が焦熱鬼の腹部に食い込み、貫いた。
「ギャアアアアアア!!」
初めて焦熱鬼が苦痛の叫び声を上げる。先ほどの指を見ればどうせ治るだろうが、痛いのは痛いらしい。
それでも、スヴェンの攻撃は終わらない。
ゾボ、と妙な音がした。
「さあ、貴様の力を見せるがいい」
呟くような言葉だが、妙にはっきりと聞こえる。それでも焦熱鬼の耳に届いているのかどうかはわからないが。
爆裂するかのように、銀色の欠片が飛ぶ。
焦熱鬼の背中から、腹部から、指先よりも小さな鉄の吹雪が噴き出すように飛び出した。
遅れて血飛沫も飛び散る。苦痛の声は止まず、懸命に抵抗しようとしているのだろう、焦熱鬼の蹴りが、スヴェンに直撃した。
それを一応避けたようだが、掠ったために抉れた腹。そこから触手のように銀の枝が伸びて修復していく。
どうだ、と言わんばかりにスヴェンが焦熱鬼を見上げる。焦熱鬼は、まるで駄々っ子のように手足を振り回して威嚇し、スヴェンを遠ざけた。
焦熱鬼の傷口の数は多いが、大きさ自体は小さい。もちろん貫通しているので、内臓などを傷つけてはいるだろう、だが、それでも行動不能にはならないらしい。
もう一撃、とスヴェンが今度は跳び上がり、頭部への攻撃を加えようとする。
瞬間、焦熱鬼が吠えた。
「オオオオオォォ!!」
虚を突かれ、音の圧力に押されたスヴェンが弾き飛ばされるように後ろに下がる。
そして溶岩に足場を作り、着地しようとした。
だが、それも無理なようだ。
焦熱鬼から広がる熱波。色などないはずなのに黄色みを帯びている気すらするその波は、僕らを突き抜けて遠くまで飛んでいく。障壁の温度が更に上がり、一瞬息が詰まった。
両腕を顔の前で構え、防ごうとするスヴェンの体が歪む。
「…………!!」
さすがの焦ったような吐息。そして、腕が飛ぶ。
腕どころではない、全身、四肢が歪み溶け千切れ、吹き飛ばされるかのように溶岩に落ちている。
それだけではない。
「うえ!?」
僕の立っていた崖が崩れ去る。液状化し、もはや足場として用をなさない。
先ほどまでは何とか保っていた形を失い、真夏の氷のように溶けていく。まるで昔見た、南極の氷が溶けた瞬間のように、溶岩の津波が起きる。
慌てて浮遊し、立っていた場所を見る。
岸壁は蕩け、その岸部は消え失せる。立った状態で左右の端が見えなかった崖が、ソフトクリームをスプーンで削ったかのように焦熱鬼を中心に溶けていった。
悪夢のような光景だ。
赤熱した岸壁はぼこんぼこんと泡を出し、柔らかくなるどころか水のような粘性で崩れていく。
「オオオオオォォン!!」
それだけでは収まらないらしい。
咆哮で口を開けた焦熱鬼。その大きく開けた口が光を発する。
そして大きく首を振ったのに合わせて、鋭い熱線が薙ぎ払うように遙か後方の岸壁を切り裂いた。
背後で爆発音が響く。だが、焦熱鬼から目が離せなかった。
赤熱した体は圧力を増し、湯気もないのに白い煙が上がる。
断熱効果を持たせた障壁が役に立たない。僕の体を高熱が焙る。無防備な状態でムジカルの炎天下にいるような気温。外の気温は想像を絶するものだろう。
空気の臭いが変わる。酷く生臭い。
溶岩に浮かんだスヴェンの片腕が、形を留めているものの赤黒く変色していく。
バチバチという火花を放つような音が、焦熱鬼から鳴り響き続ける。
そして、感じた光に上空を見れば、雨雲が消え失せて晴天が広がっていた。
「フン、本気というわけだ」
のんきな声が響く。仰向けに浮かんだスヴェン。もはや頭部とそこに繋がった胴体しか残っておらず、四肢がもがれたままで無抵抗のまま。
しかし、本気。これほどか。
僕は思わず唾を飲む。そして血走った目で咆哮を続ける焦熱鬼を見て、ああ、と少し納得した。
本気かどうかはわからないが、それでも本腰を入れただけでわかる圧倒的な力。
岩や宝石を簡単に溶かし、地形を変化させる。本当ならばおよそここにいることすら出来ず、シャナの言うとおり一般の人間であればかなり離れた位置でも即死するだろう。
見上げれば青い空。先ほどまではどんよりとした雲が覆い、雷が鳴り雨まで降ってきていたのに。
天候すら変化させる熱。
単純だが、恐ろしい力だ。
そしてその恐ろしい力は、まだまだスヴェンに向けられているわけではない。
風が吹き荒れる。自身の頑丈な髪の毛を誇示するように揺らしながら、ギロリとスヴェンを睨む。唇を結んだスヴェンが急ぎ触手のような金属質の糸をシュルシュルと伸ばし、四肢の修復を開始する。
だが間に合わないようで、焦熱鬼の渾身の振り下ろしがスヴェンを挽き潰し、大きな波を起こした。
僕の障壁に溶岩の飛沫が当たる。
飛沫と波紋と焦熱鬼の拳でスヴェンの姿が見えなくなる。そして、それでも終わらない。
「アアアアアァァ!!」
何度も何度も執拗に、その拳が振り下ろされる。
一発一発が振り下ろされる度に空気が震える。拳が水面を叩く前に破裂音が響く。衝撃波で背後の崖が崩れる音がした。
焦熱鬼が溶岩の中に手を突っ込み、何かを拾い上げる。
人の上半身のような形の金属の塊。銀色が露出し、頭部や片腕がかろうじて原形を留めているような姿の何か。
……大丈夫か、あれ死んでないだろうか。
そして全力の投擲。
背後の崖にスヴェンが投げられ、激突……するまえに追撃される。
瞬間移動のような速度で焦熱鬼が走る。そして今まさに空中に投げ出され猛スピードで崖に激突しようとしているスヴェンに跳び蹴りを浴びせ、崖に叩きつけた。
崖が大破する。直径数十メートルはあるだろうクレーターが作られ、それがまた融解していく。赤く蕩ける壁に叩きつけられたスヴェンが、また何度も蹴りつけられ埋まっていくように見えた。
「オオオオオォォォォ!!」
……これはさすがに不味いか。まだスヴェンに約束を果たしてもらっていないのに。約束を果たさせる気も今のところないけれど。
僕は魔力を展開し、念動力を作用させようとする。固さからすると潰せはしないと思うが、それでも拘束するくらいは出来るだろう。
今の焦熱鬼に近づくのは難しいが、それでも人型ならば何とかなる。
そうは思った。
だが、それも必要ないのかもしれない。
「ガァ……!?」
焦熱鬼の咆哮が止まる。そしてその背中からずるりと生えるように出てきたのは、金属製の刃。僕の身長よりも大きいくらいの。
それが振り抜かれると、豆腐を切るように滑らかに焦熱鬼の胴が切り裂かれた。
「余計な手出しをするな、と」
声が響く。まったくの焦りが見えない声が。
焦熱鬼の前方で、爆発するように赤い液体が飛び散る。
その勢いに押され、焦熱鬼が弾き飛ばされるように下がった。
それから、四つ足で走るかのような前屈み。
分裂したかのような数本の腕……多分、一本の腕が解かれているのだろう。編まれたような金属の線が解かれ、再生途中の体が、千切れそうなほど頼りなく見えた。
しかし頼りないわけでもない。
飛びかかり、拳での一撃。当たった焦熱鬼の肩が弾けた。
たたらを踏む。それでも敵意は消えていないようで、反撃をしようとするが……。
「ハハハハハ! シャイニーコルト、この程度だったのか!!」
その焦熱鬼の拳を叩きつぶしながら、スヴェンが腕を引きちぎる。刃物と化した腕が焦熱鬼の肉に食い込む。反撃を受けて千切れた足が、焦熱鬼の爪を巻き込みながら再生した。
巻き上がる溶岩。熱気が上がる。
レイトンとプリシラの戦いのような種類ではなく、荒々しくそれでいて素早く見えづらい殴り合い。
伝説の魔物と殴り合うとは相当なものだが、押し返しているのも凄まじい。
スヴェンの拳が当たる度、焦熱鬼の拳のような破裂音が響く。焦熱鬼の肉が抉れ、骨まで見えた。
「ハハハハハハハ!!」
「ガアァァァァァ!!」
哄笑と咆哮が響く。鉄片と血の塊と溶岩を嵐のように撒き散らしながら。
数十合と打ち合う拳と蹴りの応酬。押し押され、一進一退の攻防。
その攻防も、見ていればようやく決着がつく。
「ハ……!」
スヴェンが蹴り飛ばされる。受け身も取れずに転がり、溶岩を飲みながら側臥位で浮かび上がり、哄笑も止まった。
フウフウと焦熱鬼が息をつく。肩で息をしている仕草が、妙に人間ぽく見えた。
トドメを刺そうとしている。そう思った。
ズシンズシンと、どこを踏んでいるのかはわからないが足音を響かせながら、焦熱鬼がスヴェンに歩み寄る。
足をぐいと持ち上げ、スタンプ。
決まったと思った。
しかし、逆だった。
スヴェンが飛ぶ。片腕で跳躍し、もう片腕の先を大きな刃へと変形させ。
焦熱鬼の背後にスヴェンが落ちる。上半身だけになり、人間には見えない姿で。
血飛沫が飛ぶ。
そしてその背後で、焦熱鬼の首がずるりと落ちた。
焦熱鬼が死に、莫大な熱量が眼球から放出される。
先ほどの本気とはまた隔たりのある熱。爆発するように焦熱鬼の頭部付近が光り、今度は本当に光が広がっていく。
これはまずい。そう思った僕は、倒れ伏したスヴェンを拾い上げる。片腕を掴み、力なくされるがままになっているスヴェンを、浮遊したまま連れていく。焦熱鬼から出来るだけ離れるように。
「…………っ!!」
背後に揺らめきが迫る。最高速度で飛び去りながら、水平線をいくつも超える。
銀の林、宝石の川、途中通過した火山島が全て背後で溶けていく。溶岩の中にいた蛸や蛭が焼け死んでいくのを感じる。
麻のローブの端が焦げる。障壁の中にあるのに。
「ハハハ、凄まじいな」
「……元気あるなら自分で走ってくれませんか!?」
まだ足も再生していないスヴェンが笑うが、僕は笑えない。溶岩の波よりも危ない。危険度的には、リドニックの北壁と変わらないだろう。
髪の端を焦がしながら、水平線の向こうにエーリフの岸辺が見えた頃、ようやく僕らの障壁で熱を感じなくなった。
息をつき、振り返る。
浮かんでいた火山島が形を変え、いくつも丸みを帯びている。
「離しますよ」
「ああ」
スヴェンの手を離し、溶岩の海へと落とす。
足の再生を終え、足場を作りスヴェンも振り返る。その達成感のある横顔に、スヴェンが人間なのだと改めて感じた。
「いや、今回も死ぬかと思った」
戻ってきた拠点で座り込み、さくさくと銀の枝を囓り、スヴェンが呟く。
そうだろうとも。爆心地近くに倒れていれば、多分僕も生き残れはしまい。あのミールマンの焦熱鬼は、シャナが抑えているからあれで済んでいるのだということを知り、少々僕は戦慄している。
シャナが死ねば、熱がミールマンを駆け上がり街がオーブンと化す、どころではない。多分街自体が蒸発する。それが正しい認識だった。
それにしても。
「気は済みましたか?」
「ああ。これで前哨戦は済んだ。焦熱鬼討伐時のシャイニーコルトは越えていることがわかったのだ。シャイニーコルトに挑む準備が整った」
クツクツとスヴェンが笑う。
だが、それは困る。
「やめときましょうよ。シャナ様に何かあったら、街自体消えそうですし」
「それがどうした」
「何千人の人間が死にます」
僕の言葉に、キョトンとスヴェンが目を丸くする。それから眉を顰め、首を傾げた。
「重ねて問うが、それがどうした。人間ごとき何人死のうと関係なかろう。それともなにか? 人が死ねば、貴様に不利益でもあるのか?」
「あんまりないですけど……」
たしかに、顔も名前も知らない人間が何人死のうとあまり僕には関係ないけれど。
「ならばよかろう。我が輩の道を遮るほどの理由ではあるまい」
銀の枝の表面の黒ずみを削り落としてから折り、まとめて数本咥えて噛み砕く。既に銀の樹一本ほど消えているがまだ食べるのか。
それに、とスヴェンが続ける。
「なにかそのような不利益があるのであれば、シャイニーコルトも本気を出すであろう」
「……まあ」
多分、スヴェンは本気を出したシャナと戦ってみたいのだ。ならばたしかに今喧嘩を売れば本気を出してくれるだろうけれど。
しかし、ならば。
「それならば、精霊化が完了してからの方が良くないですか?」
「完了? 既にあれは精霊化しているわけではないと?」
「ええ。本人の言ですが。精霊化にはあと百年以上かかるそうです。ちなみに焦熱鬼の熱が尽きるのは千年くらい」
「ふむ」
スヴェンは新たな枝を手に取り、パキと折る。宝石が取れていなかったようで、ちぎり取り、酸性湖の中に投げ込んでいた。
「それを早く言え。待つとしようではないか」
「いいんですか?」
僕は聞き返す。言ってはみたが、その程度小さいことと、強行しようとすると思ったが。
「良いも何も、その方が手強いシャイニーコルトと戦えるのだろう。ならば待つ。たった百年だ」
「百年という長い時間を『たった』と言いますか」
「たった百年だ。違うのか?」
きょとんとお互い見つめ合う。
なんかこんな会話を、この前もした気がする。
もごもごと口を動かし、西瓜の種を吐き出すようにスヴェンが何かを口から吹き出す。小さなクレーターを作り、赤い宝石が地面に突き刺さった。
「……貴様ほどの魔力を持つ者が、人間のようなことを言う」
溜め息をつきながらスヴェンが呆れるように言う。
「まるで自分が人間ではないとでも思っていそうな言葉ですが」
「我が輩を化け物と呼ぶのは奴らではないか。貴様が『人間』と言った奴らがな」
銀の樹の根元は金で出来ている。スヴェンはそれをしゃぶりながら、美味しそうに喉を鳴らした。
「なるほど。貴様は自分が人間だと思っているのだな」
「僕は、人間です」
「違うな。貴様は我が輩と同じ、魔法使いだ」
輝きのなく、瞳孔の開いた目が僕を射貫く。
正直、先ほどの焦熱鬼との戦いを見て、同じ生物と思えなくなっているのは事実だ。だが、それでも僕と彼は確かに一緒だろう。同じく魔法使いで、同じく人間だ。
「同輩として忠告してやる。奴ら人間を自分と同じとは考えないことだ。人間は老いる、容易く死ぬ」
「その程度は、わかっています」
わかっている。そのはずだ。気軽に聖領で活動できるのは僕が魔法使いだからで、普通の人間は立ち寄れないこと。魔物と相対して互角に戦えるのは僕が魔法使いだからで、普通の人間では死を覚悟するような事態なこと。
眼鏡の縁を無意識に持ち上げる。視界の中で、銀縁の線が動いた。
「たった数百年、と人間が言えないことは我が輩も理解はしている。奴らは老いる。百年を生きることも出来ず、仮に闘気を扱えようとも日々老いていく」
たしかに。闘気は老化を遅くするだけで、いつか必ず終わりが来る。老いることがない限り老いないという不可思議な性質を持つ魔法使いとの決定的な違いだ。
「もっとも、人間どもが我が輩の言葉を理解できないことも理解している。鼠と象の命の時間が違うことは貴様もわかるだろう。我が輩たちは象、奴らは鼠だ。理解しあうことなど出来はしない」
凍らせてから火で焙った蛸の薄切りを囓る。厚紙を噛んでいるような歯ごたえだが、じんわりとした旨みが口の中に広がった。
「そしてこれは勘だが、程度の差こそあれ、貴様も似たようなものだろう」
「そうではないと思いたいですが」
「いいや。よく考えてみろ。貴様の時間の感覚が理解されないことはなかったか? 軽く口にした約束の時間を、大幅に超過したことはないか?」
ないとは思う。……だがなんとなく頭のどこかで引っかかりがあった。
「それが悪いとは我が輩は思わん。所詮は違う生物だ。だが、そういうことがあることを知っているのと知らないのでは、それでも差は出るだろう。これからも人間と付き合いたければ、そういうことにも気を配るのだな」
大きな口を開けて、スヴェンがあくびをする。激戦の後、やはりこの男も疲れるらしい。
「そういう経験、あるんですか?」
「我が輩が思う失敗談はないな。貴様らの基準に合わせて言うなら、適当に銅の鉱脈を食らいつくして帰ったら、闘病の末父親が死んでいたことなどはあるが」
「大失敗じゃないですか」
何を軽く語っているのだろう。親の死に目に会えないのは、それなりに大問題な気がする。……と思ったが、先ほどの言葉からするとやはりスヴェンには問題はないのだろう。
魔法使いが闘病するのはないわけではないだろうが考えづらい。その父親は、『人間』だったのだ。
ごろんと横になり、頬杖をついて僕の方を向く。その顔には、何か思いついたような笑みが浮かんでいた。
「……そうだ、そうだな。そんなにも人間を気にしているのならば、貴様も悠長にしていていいのか?」
「何をですか?」
尋ね返すと、スヴェンの笑みは強まる。目が細まり、人間味を僅かに感じた。真っ直ぐに僕を指さす。
「ムジカルでそこまで成長したということは、それなりに長い時間を過ごしたのだろう。貴様は確かエッセンで活動していたと思ったが、会わない間に近しい人間が誰か死んではいないか?」
「そんな、たった三年ですから……」
言いかけて、気付く。僕の口から吐き出された『たった三年』という言葉。スヴェンの『たった百年』とどう違うのだろう。
「我が輩の記憶が間違っていなければ、人間たちの『三年』もそれなりに長かったはずだがな」
「……そうですね」
そうだ。思い出した。
よく考えてみれば、僕はエッセンを発つ前に、エウリューケに言ったはずだ。一年程度で戻ると。
それなのに、ここまで伸びた。確かに時間の感覚も狂っていたのかもしれない。
口に出した以上、守らなければいけなかったのに。数日や数ヶ月程度ならばまだしも、年単位のずれはたしかにおかしい。
まだ、間に合うだろうか。
「明日僕は帰ります」
「そうか」
靴を直しに帰ろうと思ったのに、寄り道までした。おかしな話だ。
急ぎイラインに帰ろう。また旅に出るかどうかは知らないが、それは約束を果たしてからだ。
話題が途切れ、どちらともなく睡眠の準備に入った。
スヴェンの洞窟は住居ではなく倉庫となっているらしく、中には金属の塊が大量に詰め込まれている。
岩の斜面のくぼみに腰掛けるように横たわり、夜空を見上げていた。
僕はといえば、一応熱風を防ぐように穴の中に潜り込んでいたが。
「ときに、カラス」
「なんでしょう?」
視界の外から声がかかる。まだ寝ていなかったのか、声はどことなく眠そうだが。
「殺したい相手は決まったか?」
「……いいえ」
クツクツという笑い声が響く。殺したい相手とは剣呑な話題だが、以前僕と交戦したときの約束の話だろう。
命を見逃す代わりに、一度だけ無料で依頼できる。誰であれ殺すと言った、国王でも、聖騎士団長でも。焦熱鬼も殺せるこの男であれば、誰であれ達成できるだろう。時間制限がなければ。
「早く済ませるがいい。そうしなければ、我が輩は貴様を狙うことが出来ん」
「律儀なことで」
「約束は守る。当然のことだろう」
スヴェンらしからぬ言葉。いや、『らしい』『らしくない』と判断できるほど親しいわけではないのだが。
だが、その言葉に何となく毒気を抜かれた僕は、聞こえぬよう小さく忍び笑った。
というわけで次は商人の閑話でこの章終わりです。




