最低限度の生活
「お前の客かい?」
気怠げに、それでいて厳しい目つきでガランテはブリランテを睨む。濡れたような長い髪の毛は、精油で整えてあるのだろう。まとまった光沢はあるが不潔な感じはしなかった。
「は、はい……!」
「迷惑だよ。静かに……?」
ブリランテを窘めながら、ランメルトに目を向けたガランテは言葉を止めて目を凝らす。そして一度足下から頭まで視線で撫でて、頷いた。
「……なるほどね。家族の再会とあっちゃあ仕方がない」
しずしずと部屋に入るその仕草も気怠げだが、隙と色気が混在していた。
「あんたは弟かい?」
「…………」
ランメルトはコクコクと頷く。先ほど入り口にいた女性には反応しなかったのに、今現在はその肉体に見とれているように見えた。まあ、美人だし仕方がないとも思うけど。
皺のない肌。会ったのは多分三回目だが、やはり年齢不詳だ。
張りのある若い五十代と言われれば頷くだろう。だが、肉感的な色気のある十代と言われても僕は否定できない。
薄い褐色の肌が艶玉を作る。首下にたるみもなく、目尻に烏の足跡がついてもいない。
どことなく年齢を重ねている雰囲気はある。だがどこかも特定できない。
きっと、同い年と言われても納得してしまう。
……。
…………それはさすがに言いすぎか。
そんな彼女が僕の方を向く。
「それで? カラス、あんたはどんな関係だい?」
絞り出すような声。だが、酒で焼けた喉から雑音を切り離したような声。きっとまだ第一線の娼婦としても活躍できるだろう。
「……僕は、彼の付き添いです。たまたま昨日知り合ったので」
「ほう」
それだけの説明で、彼女も納得する。そもそもあまり興味がなかったようだけど。
煙管を唇にあてがい、煙を吐き出す。
「ハモル」
「! へい!」
「手を出しな」
名前を呼ばれた用心棒だったが、その一言に表情を固めると静かに両手を差し出す。
そして、ガランテはその手に煙管からポンと灰を落とす。もう吸いきってしまっていたようで燃えてはいないが、それでも熱いだろうに。
「外に捨てといてくれ」
「……へい……!」
泣きそうなハモルの顔を全く見ずに煙管を帯に差すと、ガランテはこちらを向いた。
「私の店で大声を出した勇敢な少年よ。部屋においで。少しばかり話をしようじゃないか」
薄く笑ってはいるが、どちらかといえば怒っている。前半部分は嫌みだろう。
多分折檻も兼ねているのだろうハモルの火傷に関しては後で謝罪とともに治しておくとして、こちらもやはり薬が必要らしい。
「ブリランテは仕事に戻りな」
「……っ……」
「返事は?」
「……はい……!」
指示に応えなかったブリランテを軽く叱ると、ブリランテは慌てて返事をする。
もはや家族との感動の再会は終わってしまった。後に残っているのは、泣きそうな用心棒と、元気のなくなった娼婦。そして、困惑しながらも肩を落としている少年だけだ。
そして矛先は僕にも向く。
「カラス、あんたもその子と一緒に来るんだよ」
「……わかりました」
切れ長の目。きっと、美人の彼女に『部屋に来い』と言われれば、男なら飛びつくのだろうけれど。
当然のように、そんな色気のある話ではあるまい。
ついてこいと言わんばかりに振り返り、そのままガランテは歩き出す。
カランカランと下駄に似た木の草履が石の床を叩く音がする。
それを追おうとしたランメルトの横に並び、僕は指先ほどの紙の包みを取り出す。
そしてそれを、彼に渡した。
「……?」
「舌の下に入れて、ゆっくりと溶かして飲んでください」
戸惑うランメルトと視線を交わさないように歩き、さりげなくガランテから薬を隠す。
「予防薬です。飲んでおいた方がいいと思いますよ」
小声でランメルトを促す。ガランテに気付かれるとまた心証を損ねるかもしれないので、あまり丁寧な説明が出来ないのは申し訳ないが、ここは信じてほしい。
魔法を使っても、何となく気付かれる気がして怖いし。
廊下ですれ違う娼婦が僕らを見て小さく声を上げる。
緑の髪の娼婦。話した覚えはないけど見た覚えはあった。
その声に、そちらを向いたガランテが顎を上げて上を示した。
「セシーレ。お客様にお茶を。あたしの執務室まで持ってきな」
「わかりましたー」
甘い匂いを振りまき、セシーレと呼ばれた女性が元気よく返事をする。笑顔がこぼれるというのは、こういう顔のことを言うのだろうとふと思った。
階段を上がる。
石造りの、継ぎ目の見えない階段。白地にマーブル状の黒が入っているので、大理石のように見えるが踏み心地的にはそれよりも少し柔らかい材質だ。多分、ヤスリで簡単に形を変えることもできる。
カツンカツンと、若干カーブしているその階段を上りながら、「そうそう」とガランテは横目でこちらを見た。
「カラス、あんたの置いてった軟膏、評判は上々らしいよ」
「……評判?」
評判とはどういうことだろうか。
軟膏については心当たりがある。この前皮膚病を癒やした女性に、手の肌荒れを相談されて渡したものだろう。腿の皮膚が破けてきた際に、水で洗えば良かろうと常に洗っていたために手が荒れてしまったらしいが。
だがそれは彼女にしか渡していないはずだ。
僕の言葉にガランテは笑みを強める。
「あんないいもの、うちの子たちが共有しないはずがないだろう? すっかり、横流しされて出回ってるよ」
フフ、とガランテは笑う。なるほど、多人数で使ったのか。まあ、別に肌に塗る分には無害だしいいんだけど。
「あんたが定期的に卸してくれるんなら、もっと大量に買い取りたいところだね」
「定期的には難しいかもしれません」
「だろうねぇ」
僕の答えにガランテはすんなりと頷いた。僕が頻繁に砂漠や近隣の街を放浪しているのを知っているということだろう。
気まぐれに出る、何の当てもない旅。いつ出ていっていつ戻ってくるか自分でもなかなか予測できない以上、定期的に薬を調合し売るというのは難しい。
いや別に、そう習慣づければ出来ないわけじゃないが。
話の途中で、ランメルトが薬を飲んだ。
それを確認し、僕も安堵する。甘い味は彼に合っていたようで、少しだけ顔を綻ばせていた。
執務室に入ったガランテは、そこそこ広い部屋の中央奥にある執務机に着席する。
肉桂のような甘い香りに、ピリと鼻を刺激するスパイシーな香りは隅に焚かれた香炉から漂う。
いつ見ても、よくわからない部屋だ。書類のようなクリーム色の分厚い紙束が乱暴に突っ込まれた本棚に、アラベスクのような蔓草が描かれた絨毯。壁には至る所に獣の彫刻が彫られ、素材のマーブル模様が歪んで見えた。
象牙のように真っ白な執務机は、おそらく一つの大きな石の結晶を削ったものだろう。引き出しなどはないようで、ただの平面だけのシンプルな天板にこれまた大量の書類と筆記具が並んで積まれていた。
「それで? あんたは何を騒いでいたんだい?」
黒い陶製の容器から嗅ぎ煙草を一つまみ鼻に擦り込み、ガランテはランメルトに尋ねた。
ほんの少し跳ねるようにしてからランメルトは背を丸める。先ほどまでの勇気はすっかりなくしてしまったようで。
だが、まだ目に力は残っている。目を凝らすように目元に力を入れ、無理に入れられた力のようだが。
「……姉さんを……、返してください」
「無理だね」
はは、とガランテは笑う。まるで初めから答えの言葉を決めていたかのような即答だった。
「こんな稼業してるとね、あんたみたいな手合いはたまに来るよ。娘や息子、兄弟姉妹を取り返そうと、私の城に乗り込んでくるんだ。さすがに親をってのはなかなかないがね」
机の上から手に取った小箱の中からマッチのようなものを取り出し、咥えた煙管に点火する。エッセンでは奇術として扱われていた点火が、この国ではそれなりに知られているものらしい。
「でも、無理だね。ブリランテは今あたしのもんだ」
赤い唇から煙を吐き出しながら、ガランテはそう宣言する。
「あたしが買った。金貨十五枚で」
だがその嗜虐的な笑みが気に入らなかったようで、ランメルトは顔を上げる。歯を食いしばりながら、睨むように。
「……人は、……売り物なんかじゃない」
「残念ながら、この国じゃ売りモンなのさ。あんたもその口だろ?」
「…………僕は……!」
「捕まって、どこかに売られた。用途はなんだろうね。荷を運べるような腕じゃなし、頭を使う方だろうけれど、もしかして、その綺麗な顔じゃあ姉貴と一緒かね」
言葉を詰まらせたランメルトを嘲るように、ガランテが続けた。
それから、そうそう、と言葉を止める。
「名乗るのが遅れたね。あたしはこの城の主、ガランテ。あんたは?」
「僕は……ランメルト、……です……」
「へえ」
値踏みするような目でランメルトを見て、ガランテは目を細める。殊更に吹かした煙管の煙の匂いに、僕は唇を結んだ。
「あんたのご主人様はどこだい?」
「どこにも……いません……! 僕は、奴隷なんかじゃ、ない……!!」
「おやおや」
舌なめずりをし、噴き出すようにガランテは笑う。
「奴隷じゃない。じゃあ、どこかから逃げてきたのかい? それとも、焼き印を押されていないとでもいうのかい?」
「焼き印も、押されて……いません……」
ランメルトは胸の前で両手を握り、背中を更に丸める。嘘をついているようにも見えるけれど、実際どっちなんだろう。
だが、ガランテは信じた。
「じゃ、あんたは逃げるか隠れるかしていたわけだ。親や姉がムジカル兵に連れ去られていく姿を見ながら」
ランメルトを詰るために。
「ちが……」
「美人の姉貴の泣き叫ぶ姿を見るのは楽しかったかい? 兵隊さんは乱暴だからねぇ」
ククク、とガランテは笑う。ランメルトはその言葉に、聞こえるくらい大きな音で歯ぎしりをした。
「そこで何も出来なかったくせに、ここにきて吠えるのかい。吠える相手を間違えてりゃしないかい?」
「……今、お前が姉さんを、こんな仕事をさせて……!」
「まあ、いいかね。たしかに、今働かせているのはあたしだよ。でも、『こんな』? お前は、あたしたちの仕事を『こんな』と言うのかい?」
先ほど下でした問答とほぼ同じこと。だが、今回はきっと相手が悪い。
「っ! そうだ! 誰ともしれない男たちの相手をして、金を稼いで! 今に神の裁きが……」
「あたしたちに神なんざいないんだ」
ふう、と煙を天井に向けて吐く。そして、灰が落ちないようにしながらも煙管をランメルトに真っ直ぐに向けた。
「神の裁き? あんたも聖教会の信者かい。ストラリムっちゃあそうかね。エッセンみたいに、あの教会に毒されちまってるのか」
「毒……され……!?」
「あたしもこの稼業長いけどさ、神の裁きなんざ、今まで一度もお目にかかったことがないよ」
足下にある灰入れにポンと灰を落とし、そのまま煙管で自分の肩を叩く。
「じゃあ、『こんな仕事』をブリランテから奪ってみようかね。するとどうなると思う?」
「…………?」
「あたしの奴隷として街に登録してある以上、あたしの許可なくどこも雇ってはくれない。あたしが主人契約を破棄したとしても、学もない、字も書けないあの子は、体を使うしかない。そして、あんだけ見た目の良い子だよ。働く場所なんか決まってるだろ?」
「どこででも、生きていく場所は……」
「そこが、『こんな仕事』よりも良い場所だと良いねぇ」
そこまで聞いて、まだ理解できていないようなランメルトは一歩踏み出す。机に手が届く場所に。
まあ、理解しがたいのも当然だろう。ガランテの言葉は、『娼館の主』としての言葉だ。実際にはランメルトの言うとおり、どこででも生きていくことは出来る。それ以外の道も無数にある。
「奴隷に、そんな仕事しかないなんてない。……僕は、この国に来て何人もの同郷の人を見ました。神の教えに背かない仕事なんて、山ほどあった」
「それを選ぶのは、ご主人様の仕事さ。あんたらに仕事を選ぶ権利なんざない。それとも、あんたがあの子のご主人様にでもなるかい? なるほど、そうすりゃあの子は働かずに済むねぇ」
「人間は、誰のものでも、ない……!」
「またそこに戻る。いい加減、駄々をこねるのはやめておくれよ」
煙は吐かず、ガランテは溜め息だけ吐く。
「それがこの国では正しいことなんだ」
「……人殺しが街で自慢話をして、……他の国の人間の自由を奪って働かせるこの国が、正しいはずがない……です……」
「なら、戦いな。この軍事商業国家ムジカルでは、自由は与えられるもんじゃない。奪い取るもんだ」
煙草の葉を丸め、煙管に詰めてまた火をつける。……これは、先ほどとは違う葉っぱか。
大丈夫、これならまだ効かないはず。
「お前たちが奪っておいて……」
「奪ったのはあたしじゃないよ。軍の人間さ」
「……他人事のように、言わないでください……」
ランメルトの言葉に僕も噴き出しそうになる。たしかに、ガランテも他人事で言うべきことではない。今はブリランテの身柄を買い取り、働かせているのは彼女だ。
「お前たちが、姉さんや、あの人たちにあんな最低の生活をさせて……!」
「馬鹿にすんな小僧!」
今までの妖艶な雰囲気を一変させ、ガランテは一喝する。
その剣幕は、人を束ねるための態度だった。
「あたしはあの子らに日差しが当たらぬ部屋を与えた。飢えぬよう食事を与えた。着るものも、体を洗う布もあたしが与えたもんだよ。それを、最低?」
ごんごんと煙管で机を叩く。それに怯えていないランメルトが、少しだけ気に入らない様子だった。
「あんたは働き口のない奴隷を見たことがないのかい? 夜砂漠で寝たことも? 毒虫が這い上がる砂の上で寝て、砂中の蟻をかき集めて口に運ぶ。襤褸を纏って肌に火ぶくれさせる生活、あれが最低の生活ってもんさ」
緊迫した空気。
だがそれを途切れさせるように、こんこんと扉が叩かれる。そこからのっそりと顔を見せたのは、先ほどセシーレと呼ばれていた女性だった。
「失礼しまー……す……、邪魔、しましたか?」
「いいや、入りな」
「へ、へへ……」
笑いながら、セシーレは盆に乗せた花茶をこぼさないようにしずしずと歩く。
そして花茶を客用の机に置き、最後にガランテの机の空いているところに置いた。
髪の毛から漂う匂いが先ほどと違う気がする。
セシーレは一歩下がり、僕に並ぶと、また笑いかけてきた。
「ど、どうぞ?」
「あ、はい。ありがとうございます」
応えても、まだ見てる。どちらかといえば、客向けの笑みのような気がするが……。
「……以前、お見かけした薬師の方ですよね?」
「ええ。多分、見かけられたときにはそうだったと思います」
この娼館に来るときは、探索者というよりも薬師としてだ。故に、変な返答になった。
「私も、ちょっと分けてもらいましたが、仲間に分けてくれた軟膏すごく役に立ちました、ありがとうございます」
「それはよかったです」
営業スマイル的な笑顔。だがそれで話題が切れることなく、セシーレは僕の手を取った。
「手だって、こんな滑らかに、ね。肌がどれだけ綺麗になったか見てみません……?」
距離が近い。これは、あれか。客引きの一環か。
「セシーレ。お客様だ、そういうことは、話が終わってからにおし」
背中からガランテにそう言われ、セシーレはぎくりと表情を固める。それから振り返り、少しだけ真面目な顔で頭を下げた。
「……失礼しました」
「それから、ブリランテを呼んできておくれ。どうせ、客も取れずにボーッと待ってんだろ」
「はい」
頭を下げたままの返答。その姿にガランテがただ手を振って退出を促すと、頭を上げてセシーレは出ていく。
最後にもう一度僕に笑いかけて。
なんというか、仕事に熱心というか、マメというか……。
扉が閉まり、ガランテは目を細める。
「さて、どこまで話したっけね」
「ランメルトさんの『最低の仕事』という言葉を、ガランテさんが否定なさったところまでです」
僕が頬を掻きながら答えると、そうそう、とガランテは組んだ腕を軽く叩いた。
それからランメルトをもう一度見つめて、少しだけ笑みを作る。
「それで、あたしはあの子らに最低の仕事をさせてるって?」
「…………」
答えられず、ランメルトは唇を結ぶ。ずっと考え込んでいたように、ランメルトは俯いていたが。
「あんたが答えられないんなら、あたしが答えるよ。あたしはあの子たちに最低限度の生活をさせてるんだ。生きるために必要な場所を用意して、たまには客を追い払って、あの子たちの利益を守ってる。そのついでに、少しばかりの金銭を掠め取っても、それは許されるってもんじゃないかい?」
「それでも、……姉さんたちの、自由を奪っていることには変わりない……。こんなの、牢獄にいるのと変わりない……!」
「牢獄? こんな自由な場所が?」
ランメルトの言葉を、ガランテは笑い飛ばす。そして一転して笑顔が消えたと思うと、ランメルトを真正面から睨み付けるように見た。
「あたしたちを馬鹿にするんじゃない。自由は与えられるもんじゃない、勝ち取るもんだ。あたしはこの街で、自分を買い上げて自由になった」
壁の彫刻を示す。そこには、下の階にあった偉人の彫刻とほぼ同じものが、やや細かく精密に掘られていた。
「古のアマービレも、王の寵愛を受けついには王母にもなった。あたしたちは、自分の意思で自由を勝ち取ることが出来るんだ。あんたの姉貴は、今戦いの真っ最中なんだよ」
「……そんなの、お前たちがいなければ起こらなかった戦いだ!」
僕、ここにいなくてもいいと思う。
適当に抜け出して帰ろうか。
二人の剣幕に、何となくそう思えてきた。
「静かに暮らしていた僕たちを襲って、自由を奪って、そして自由を勝ち取るために戦えって、そんなの絶対おかしい! 勝手な戦いに、僕たちを巻き込むな!!」
「その勝手な世界にあたしたちは生きてんだ。 生きるためには二択なんだ、戦うか、従うか! 静かに暮らすのは、ただ従ってるだけなんだよ、あんたが好きな神様にね!」
また煙管で叩かれた机から、ビシッという鋭い音がわずかにした。ヒビが入った気がする。
「あんたが好きな神様は何してくれた? 祈ってりゃ、兵たちに襲われる姉貴を助けでもしてくれたかい? そこで祈りの手を解いて、農具でも握ればまた違ったかもしれないのに」
「そんな、こと……」
ランメルトの握られていた手が解かれる。
重力に引かれてだらりと下げられた腕は力なく、少しだけ震えていた。
ガランテは眉を顰める。その視線が僕の方を向いて、僕は自分のしたことが悟られたと思った。
「……おかしいと思ったよ。お前の仕業かね」
「何の話でしょう」
「わざとらしいことだよ」
煙管から吸った煙を、僕に向けて吐く。煙たいはずなのに、なんとなく良い匂いがした。
「沈静香が二種も効かない。体質にもよるが、あたしたちみたいに慣れてなけりゃ、こんなことはそうそうないだろう」
「きちんと話し合ってほしかったので」
少しだけ苦い顔をして、ガランテは顔を背けた。本人もこんな長々と話をする気もなかったのだと思う。
先ほどランメルトに飲ませた薬。それは、ガランテが吸う沈静香と呼ばれるいくつかの葉の解毒剤だ。
職業上、この館で騒ぎを起こす客もそこそこいるが、沈静香はそのために取られている防衛手段なのだという。
効果はいくつかあるが、どれも簡単に言えば意識を軽く朦朧とさせる。闘争心をなくし、握られた拳に力が入らないようにする。
そして、ガランテの言葉に素直に従い、穏便に帰っていただくということらしい。
「以前、ただ働きをさせられそうになった意趣返しも含んでいますが」
「……それは口に出して言うもんじゃないよ。ただでもないしね」
ケッとガランテは苦々しく言う。この煙で、詐欺まがいのことも出来るということだ。
たしかにただ働きは言い過ぎだ。けれど以前、この娼館の一晩の利用と引き替えということで誤魔化されそうになったことがあった。そのときもきちんと銀貨でお支払いいただいたが。
「おかげで、小言を言って穏便に帰そうと思ったのが思わぬ長丁場になっちまった」
「それは申し訳ないです」
ふふ、と僕も殊更に笑う。苦虫を噛み潰したように眉を顰め、ガランテは追い払うように手を振った。
「お前と話していると調子が狂うよ」
それだけ言って、ガランテは口を閉じた。
一瞬の沈黙。
だが、僕は口を開く。
本当は、僕が口を出すべきことではないだろうけれど、しかしただガランテの擁護をしてみたくなった。先ほどの最低限度の生活の話。そこに、すこしだけ共感を覚えて。
「ランメルトさんは、戦争前は豚飼いだったとか」
「……はい……」
僕に声をかけられると思っていなかったランメルトは、一瞬びくりと震えたあと、僕の方を向いて頷く。もう、その顔に先ほどまで残り香があった勇気は残っていなかった。
「豚は大事ですよね。大事な家族か、それとも商品かは知りませんが」
「……商品、です……」
目を伏せ答えるランメルト。
「なら」
であれば、話は簡単だ。
「大事に育てましたか? それとも、適当に……最低な生活をさせてましたか?」
「もちろん、大事に……!」
ランメルトは目を見開く。わかったようだが、内心納得も出来まい。その答えに至ったのは、きっと思考が柔軟だということだろうけれど。
「肥え太るように、飢えないように餌を与え、寝床を用意する。シラミをとり、怪我や病気をしないように注意し、大切に育てる。商品として」
「……一緒だとでも、言いたいんですか……」
「ええ。一緒です。奴隷を娼婦として、商品として扱うガランテさんと、豚を食肉として、商品として扱うランメルトさんと」
そしてきっと、あの人も。
僕は遠いイラインに思いを馳せる。盗品を商品として扱うあの老商人も、きっと。
「とりあえず、ここにいる限り死にはしない。損得勘定の秤に乗せた上で」
助けるのに金貨三十枚必要だとか、損をするのであれば多分切り捨てるだろう。けれど、それ以上の利益を出すのであれば助力は惜しむまい。商品として。
そもそも、娼婦に最低な生活をさせているのであれば、皮膚病にかかった娼婦を治すために僕を呼ぶまい。
彼女らも、きっとここを出て生きていくことは出来る。
どこかで良い暮らしをするかもしれない。けれど、悪い暮らしをするかもしれない。
だが少なくとも、ここにいて、働いている分には困らない。
ガランテは、奴隷たちを生かしているのではない。奴隷たちに、生活をさせているのだ。
もっともその生活は、ランメルトの言うとおりこの国がなければ必要のないもので、戦争がなければ生国で静かに生活できたのだろうけれど。
恐る恐る階段を上る足音がする。
ブリランテだろう。それと、もっと足音を殺したセシーレがそれに続いて。
控えめなノックの後、扉が開く。だが、入ってきたのはブリランテだけだった。
「失礼、します……」
ブリランテは部屋に入り、ガランテの視線を受けてびくりと肩を震わせた。なんというか、ランメルトと動作が一緒だ。
その扉前で立ち止まったブリランテを気遣うこともなく、ガランテは煙を吐く。
「ブリランテ、この弟、あんたに任せるよ」
「え……?」
だがびくついていたブリランテも、ガランテの言葉に眉を上げる。ランメルトも、それに合わせるように。
「……姉を助けるために、隣国からわざわざ来た。泣かせる話じゃないか。煮ても焼いても構わない、あんたの好きに使いな。あんたが必死に働いて養うもよし、そいつの働いた金であんたの身請けしても構わない」
「え、でも……」
「そいつは奴隷じゃないんだ。あたしがどうこうできる問題じゃないんだよ。家族のことは、家族でしっかりやっておくれ」
それだけ言って、ガランテは立ち上がる。心底つまらなそうな顔で。
「今すぐに自由にさせるとは言わない。あたしも損をしたくないんでね。そこがあたしの考える落としどころさ」
「……あの……」
ランメルトが呟くように、何かを尋ねようとする。だが、その言葉を無視して、ガランテは一歩踏み出す。
「その代わり?」
ズンズンと、勇ましい足取りで机の前、ランメルトの目の前まで来た彼女は、ランメルトを見下ろすように威圧する。
「ブリランテを逃がしたり、このあたしの城に何か不利益でも与えてごらん。逃げた奴隷は街ぐるみで追われるんだ。絶対にとっ捕まえてやるさ」
ランメルトの顔を両手で掴み、自分から目を逸らさせないように捕らえた。
「食い物は死なない程度にしかやらない。寝泊まりは路上で、垢じみた男たちの相手をそこでさせる。代金はもちろん最安値だ。あんたの大事な姉貴に、あたしたちの考える最低の暮らしをさせてやる」
「っ…………!」
ランメルトの顔が、少しだけ赤く染まる。
それは、義憤だろうか。
「そんなの、結局は、お前がただ得をするための……」
「そうさ。損なんてして何になる。それでも、あんたに適当な仕事を紹介してやるよ。頑張って、大事な姉貴の解放を早めてやりな。ここは軍事商業国家ムジカル。戦え、自由を勝ち取れ! それがあんたが今できる、最大限のことさ」
突き放すように、ランメルトの顔を放す。
それから、ブリランテに向けて突き飛ばすように差し出した。
「話は終わりだ、ブリランテ。住むのはハモルたちの部屋。しばらくはこのあたしの城で下働きでもしてもらおうかね。そこで話を聞いているセシーレと一緒に、案内しておやり」
「うそっ!?」
扉の向こうで、小声でセシーレが叫んだ声がする。気付かれていないと思っていたらしい。いや、ランメルトは気付いていなかったと思うが。
「ランメルト……」
わずかに首を振り、ブリランテはランメルトを呼ぶ。だがランメルトはガランテを仰ぎ見て、宣言するように静かに言った。
「絶対に、取り返します」
「そう、頑張りなよ」
扉まで静かに歩いたランメルトは、振り返らずに拳を握った。
その横で、ブリランテが頭を下げる。
「失礼、します」
ガランテの反応を待たずに、飛び出すように二人が部屋を出る。
外で合流して三人になったが。
「えー、私あっちがいいー」
そんな声が聞こえてきたが、こっちの話を聞いても面白いことはなかろうに。
扉が閉まり、静かになる。ガランテと、僕だけが部屋に取り残されて。
そして、さて、という一言とともに、ガランテが溜め息をついて机に寄りかかった。




