最低の生活
それ以上は客が入れないであろう廊下。
中に踏み入り、それから立ち止まって用心棒は頭を掻く。
「ああ、そうだ。待っててもらった方が」
呟く声は、今気がついたかのような声で、……実際、今気がついたのだろう。客間とかに僕らを通してから目的の人物を呼びに行けばいいのに。
キョロキョロと辺りを見回し、それから一度頷く。
それから振り返り、用心棒は僕らに笑いかけた。
「すいやせん。こちらの部屋で少々待っててくれませんか」
指し示した先は、通り過ぎるところだった部屋。中を見れば恐らく応接室のようなもの……でもなく、殺風景だし、会議室のような部屋だと思う。
見た目十畳ほどの部屋に椅子もなく、ただ織物の絨毯が敷いてある。だが、その絨毯も毛が一切潰れておらず、すり切れもない高価そうな品だ。使われていないのか、それとも手入れが行き届いているのか、それはわからない。
周囲の石の床には木製の草履で擦ったようなかすかな傷があるので、多分手入れがされている方だと思うが。
白い壁に彫り込まれている彫刻は、娼館を守護しているとされる偉人の意匠だ。
両手に千切れた鎖を持ち、椅子の座面に立っている全裸の女性。
ムジカルの昔話に伝わる艶めかしいその肌は、古の王すらも虜にしたという。
絨毯を踏み部屋の奥へ歩み入ったランメルトは、無言で何もない白い壁を見つめる。
僕の方すら向かず、そわそわと肩を震わせて。
沈黙と静寂。
遠くどこかで誰かの声がしている気がする。その男女が何をしているのかはわかるので、集中して聞く気はないが。
「……あの……」
ただ待っているのも暇だと、曇りの少ない窓ガラス内の泡を見つめていた僕に、ランメルトは声をかけてきた。
小さくか細い声。けれども、今度はたしかに僕を向いて。
「なんです?」
「ここに連れてきて下さり、ありがとうございました」
少しだけ、会釈のようにランメルトは頭を下げる。その頬が腫れた顔にわずかな笑顔が出ていたのを見て取って、僕も少しだけ笑った。
だが、僕は首を横に振る。
「僕は何にもしていませんし、まだその目的の人に会ってもいないじゃないですか」
「……それでも……です……。ここまで来られれば、きっと……」
拳を胸の前で握り、体を丸めるようにして、呟くようにランメルトは言った。
ようやく出た礼の言葉。それが、遅いと咎める気はない。
というか多分、彼のきっとのその先は叶わない。『きっと会える』ならば、叶うと思う。だが、それが違う言葉に続いているのならば。
扉がないのでノックもなく、ただ部屋へと向かう足音だけが大きくなる。
僕ら二人が一斉に入り口を見ると、まず入ってきたのは用心棒の禿げ頭。
そして、その後ろにいた女性。
桃色の薄い布を体に巻き、その下は黒い布で仕立てられた服を着ている。
困惑した顔に、視界に入った僕に少しだけ目を開いたのはどういう感情かわからない。
だが、僕の方でもわかったことがある。緑の瞳、赤みがかった黒い髪はランメルトと同じ。ということは……。
「おまたせしたっす」
「いえ」
ニヘ、と笑う用心棒の向こうで、女性が息を飲んだ。当然のように、僕ではなくランメルトを見て。
ランメルトも小さく声を上げる。目当ての人物が現れた安堵だろう。
そして、その仕草でだいたい確認できた。彼らの事情が。
……やはり、ランメルトの願いは叶わないらしい。
「ブリランテさん、こちら、探索者のカラスさん」
用心棒が女性にそう僕を紹介するが、ブリランテと呼ばれた女性は僕のほうを見ない。それよりも、ランメルトの方が気になるらしい。これもきっと当たり前なのだろう。
「そしてこっちがあんたに会いたいって……」
「……ラン、メルト……」
ランメルトを紹介しようとした用心棒の言葉を遮り、ブリランテはランメルトに駆け寄る。
ぶつかる勢いで、熱い抱擁をする。涙まで浮かべて、嬉しそうに。
「……あの……?」
事情がわからない用心棒は目をしばたたかせながらその様子を見つめ、そして僕を見る。
だが、僕もあんまり説明したくない。別に、悪いことでもなんでもないけど。
「よかった、無事だったんだ……!」
「……姉さん……も……」
感動の姉弟の再会。
今僕らの目の前で起きている光景は、そんなところだろう。
「お父さんや、お母さんは……?」
「……多分、鉱床採掘のほうに回されるって……荷車を引いてた奴らが、そう言ってた……」
「……そう……」
涙を浮かべたブリランテは、それだけ言って改めてランメルトを強く抱き締める。
数十日ぶりの家族の再会。まあ、死んでてもおかしくなかったのだから喜ぶのも当然だ。仲も悪くなかったようだし。
だが、その後が問題だ。
これだけでは終わるまい。
僕はちらりと用心棒の方を向く。
用心棒的にも一応理解は出来たらしく、家族の再会を見て少しだけ目に涙を浮かべていた。
ブリランテの胸の辺りに顔を埋めていたランメルトはガバッと顔を離し、一度唇を結んでからブリランテの顔を見上げる。
「……帰ろう、姉さん。こんなところにいちゃ駄目だ……!」
「おい?」
これで終われば何事もなく終わることが出来る。再会を誓い、また姉弟が離れていく。そんな展開ならば、きっと何事もなく終わったのに。
ランメルトはその言葉が本心から通ると思っているのだろうか。
そして、用心棒は素早く反応する。
さすがに看過できないらしい。
当然だろう。
『帰ろう』という言葉の意味と、彼らの境遇を考えれば。
「逃げよう。砂漠を越えて、父さんと母さんを探して。それで、ストラリムに帰ろう」
きっと、本当は感動的な場面なのだろう。
砂漠を越え、九死に一生を得ながら命からがら辿り着いた街で、姉と再会した弟。
姉弟の両親も行方がわからず、どこかで鎖に繋がる目にあっているかもしれない。大事な労働力である奴隷を簡単に死なせるとも思えないが、それでも死んでいてもおかしくない状況。
そんなときに口に出した『逃げよう』という台詞。
きっと、劇や物語では見せ場のようなものに違いない。
しかし、これは物語ではない。
「おう、このガキ、てめえ……」
僕は溜め息をついて静観する。多分、僕も止めなければいけないんだけど。
抱き合っていた二人が、揃って用心棒の方を向く。
こうして揃ってみれば結構似ている姉弟だ。ランメルトの方が、やや女性的な顔をしている。多分変声期くらいになればまた顔つきも変わるのだろうが。
「まず、まず離れろ。それから……一度黙って考えろ。それを、今この場で相談する意味が、わかんねえか」
「…………っ!」
ランメルトの表情的に、本当に今気がついたらしい。
『逃げよう』。奴隷である彼女に向けて、主人側である用心棒の前で言ってはいけない言葉だ。
それだけ必死で、そして後先を考えてないから単身で装備もなく砂漠を越えるという難行を乗り越えられたのだろうが。
せめて人払いでもしてから口に出すべき言葉だった。
弱々しい目で、ランメルトが僕を見る。
見られても困る。そもそも助ける気はないし。いざとなれば用心棒の味方になるし。
そして僕からの言葉がないとわかると、ランメルトはキッと用心棒を睨む。今まで見た中で一番強い目つきで。
「……何度でも……」
痰が絡まったかのような、喉が詰まったような声。自信がなさそうだった先ほどまでと変わらない声量。
だが、大きく息を吸って仕切り直し、もう一度口に出す。
今度は、大きな声で。
「何度でも言ってやる! 僕らは帰るんだ!!」
「てめえっ!」
飛びかかろうとする。だが、用心棒の眼前には、守るべき嬢もいる。故にただ凄むだけに留まり、用心棒は一度地面を蹴った。
「…………」
言葉が出ないように、黙ってランメルトを見つめるブリランテ。その目が揺れる。まるで迷っているかのように。
「こんな国にいちゃ駄目だ! こんな、人殺しを何とも思わない国のど真ん中で!! どこの誰とも知らない男の相手をして金を稼いで!! こんな、最低な暮らし……!!」
「……!」
だがランメルトが啖呵を切ると同時に、ブリランテの、迷っていた目が見開かれる。
どちらだろう。そう一瞬考えた僕の結論よりも早く、ブリランテはランメルトを押しのける。
腕の長さの関係上、抱擁を切られたようになったランメルトは、言葉を止めてブリランテを見た。
「……ごめん」
「姉さん?」
力のない言葉。だが明確な拒否に戸惑うランメルト。
そのランメルトを見つめて、今度は力強くブリランテは口を開いた。
「あたし、帰らない」
「……え……?」
ランメルトの肩を押さえながら、静かに首を振るブリランテ。だが、信じられない、といった風に目を見開き、ランメルトは食ってかかる。用心棒に向けた剣幕よりも少しだけ穏やかに。
「姉さん、なんで……!」
「……最低、なんかじゃない……」
自分でも言葉の意味がわからないようにブリランテは辿々しく言う。
その視線がちらりと自分の手……多分指先に向いたのは気のせいではないだろう。
言葉を整理するように長い瞬きをし、ブリランテは僕を見る。この部屋に彼女が入って、僕を見たのは二度目。ランメルトしか目に入らなかったのだろうが。
「あんたのご主人様?」
ブリランテの問いに、僕は首を横に振った。
「いいえ。今はただの付き添いです」
「……砂漠で、僕を、助けてくれた……人……」
ランメルトの補足にブリランテは微笑む。
「そう」
「姉さん、なんで……? ……帰ろう……?」
「あたしは、ここで暮らすの。年季……なんてないけど、年季が明けるまで。いつか自由になったときに、豚飼いに戻るかは決めることにする。今のあたしは、奴隷だもの」
奴隷だもの、ときっぱりとブリランテは言った。しかしその理由は少し本心とは違う様子だった。
だが先ほどこの部屋に入ってきたときよりも顔は明るくなっている。それが、弟に会えたからかもしくは他の要因かは知らないが。
「こんな国の決まりなんか……!」
「いい加減にしろク……ガキ!!」
押しのけられて、ブリランテから離れたランメルト。
そこに用心棒は割って入るように飛びかかり、ランメルトはそれを避けて僕の側に逃れてきた。
途中ちらりと僕を見て用心棒は言葉を変えた。そこは別に遠慮する必要もないのに。
「俺の前で堂々と足抜けの相談なんかしやがって! クソっ!!」
用心棒は言いながら、ほとんどランメルトの後ろにいる僕を見ている。
そこでようやく気がついた。これは遠慮しているというか、困っているのだ。彼が。
困らせて申し訳ない。そんな意味で用心棒を見つめて少しだけ頭を下げる。
その仕草に少しだけ緊迫感が薄れたのか、用心棒は思った通りの困ったような顔を見せた。
「カラスさん、お連れさんと一緒に帰ってくだせえ! これ以上うちのもんを困らせると、俺はあんたごと叩き出さなきゃなんねえ!!」
「僕は抵抗した方がいいですか?」
僕がそう言うと、じり、と用心棒が一歩下がり構える。半身になり、右手を振り上げ左手を腰に。ムジカル特有の円武という武術の系統だ。そのまま腰の曲刀を抜けば、臨戦態勢が整うだろう。
「……あんたが言うと冗談になんねえんだよ!」
そんな、涙目で叫ばなくても。冗談なのに。
「……やりませんよ。彼は連れて帰ります。まあ、門のところでお別れですけど」
彼のために、そこまで戦う義理はない。
助けを求められたので、砂漠で命を助けた。誰か……姉に会いたいと願う彼を、ここまでは連れてきた。そこまでは、僕がしたかったからした。
けれど、姉の説得は、彼自身がすべきことだ。そして彼は失敗した。僕自身が助けようとも思っていないのに、家族の話に口を挟むのはきっと不幸な人が増えるだけだろう。
後ろから、ランメルトの肩を掴む。
「ご迷惑をおかけしました」
「……なんで……」
僕を気にせず、ランメルトはまだ呟く。もはや姉への問いかけにもなっていないが、その泣きそうな声は先ほどとは違う種類のものだろう。落とした肩が痛々しい。
「何か、言っちゃいけないことでも言ったんでしょう。僕は知りませんけど」
推察する気もない。多分、『最低な暮らし』というところだろうけれど。
沈んだランメルトにかける言葉はない。だがそのせいではなく、僕は一瞬黙った。
もう一つ、足音がこの部屋に近づいてくる。
木製の草履が石を叩く音。簪のような髪飾りの立てる音。僕はこの音を知っている。以前、この娼館で娼婦の皮膚病を癒やしたときに。
……とりあえず、準備をしておこうか。
僕はランメルトから手を離し背嚢を探る。
探しているのはちょっとした予防薬。僕はまだしも、ランメルトには必要だ。
「うるさいねえ。この屋根の下で響く声は、嬌声だけにしておくれ」
しわがれたようで艶のある声。四人の視線が、一斉に入り口に向く。
「営業妨害ならよそでしな」
緑なす長い黒髪に、肉感的な起伏をわざと隠すような何枚も重ねた衣装。長い睫毛がバサリと羽ばたく。
この娼館の主。ガランテが煙管から赤い唇を離し、そう告げる。
用心棒とブリランテの背筋が伸びたのが、少しだけ可笑しかった。




