音の鳴る方へ
森の中を、音も無く疾走する。
僕は慣れてはいるが、レシッドも隠密行動が出来るとは驚きだ。
いや、当然と言うべきか。
"汚れ仕事"の中には、そういう種類の仕事もあるのだろう。
枝から枝へ飛び移り、先を急ぐ。
そして、ある枝に飛び乗ったときに奇妙な音が聞こえた。
くちゃくちゃと、水気のある何かをかき回す音。
ギョリギョリと、筋張った肉を咀嚼する音。
音のする方を見れば、森の奥、闘気を使って集中しなければ見えない距離だったが、それはいた。
こちらからは後ろ姿しか見えない。
ただ、獲物となった大犬を貪るように丸まっている背中が見えるだけだ。
人型のそいつが手を伸ばし、肉を毟る。
その度に押されて肺から空気が漏れるようで、大犬の死体の口からゲッゲッと声がしていた。
横を見れば、レシッドが苦々しげな顔をしていた。
「……チッ……やっぱ、さっき止めるべきだったか」
「あれは何です?」
「おそらく、鬼だ」
鬼。
また、わかりやすい名前だ。
ここからは見えづらいが、言われてよく見てみれば確かに角がある。
横顔から見えた口には、鋭い牙が覗いている。
笑みを浮かべ、細くなった目は真っ白にしか見えなかった。
「どういう魔物か、聞いてもいいでしょうか」
しかし、この世界の鬼はどういうものなのか。
レシッドの反応から、出会いたくない魔物だと言うことは推測出来る。しかしそれ以外はわからない。
「……闘気を使う魔物だから、特別なことは出来ねえ。ただ怪力で、ただ頑丈なだけだ」
それを聞いて少し安堵する。そんな魔物だったら。
「だが、その闘気の密度が尋常じゃねえ」
簡単に相手取れる、そう思ったが続く言葉が物々しい。
「強いんですか」
「群れになれば、さっき見たような竜だって狩れる奴らだ。俺らで相手取ることは……無理だろうな」
自分や僕の力不足をあっさりと認める。
僕だけならまだしも、自分も勝てないと判断しているのだ。本当かどうかはわからないが、厳しいことは確かだろう。
「では、どうしましょう? このまま立ち去ってもいいでしょうか」
「他の村なら、侵入されたら壊滅してもおかしくない魔物だが……」
いったん言葉を切り、考える。
「ここはまだ、さっきの開拓村が近い。あそこなら、侵入されても問題は無いだろう」
「まあ、デンアがいますからね」
伝説の探索者の名は伊達じゃない。
「それでは、見つからずにここから……」
離脱しよう、と促そうとしたところで気がついた。
鬼の目、あの白い目が脳裏に浮かぶ。それに、笑っていた。
冷や汗が垂れる。これは、もしかして、まずい状況か。
「レシッドさん、もしも、鬼が追ってきたら逃げられますか?」
「……ギリギリってとこだな。街中なら逃げられるかもしんねえが、森の中なら全力を出しても追いつかれるかもしんねえ」
「では、レシッドさんが戦うとしたら? 勝てますか? いえ、どれぐらい足止め出来ますか?」
不思議そうな顔をして、僕を見た。そして、僕の冷や汗を見てギョッとしている。
「足止めも、正直厳しいが……。どうした? 何をそんなに……」
言いかけて、そして気付く。鬼の方を振り向いた。
先程、白い目が見えた。つまり、それは。
「まさか」
「ええ、多分、気付かれています」
先程の鬼は、こちらを見て笑っていたのだ。
レシッドの表情が、絶望に染まった。
「いや、まだあの犬を食ってんだろ。俺らのことは無視していくかもしれねえじゃねえか」
「そうかもしれませんが……」
食べるのに飽きたようで、鬼は犬の方をみてジッとしている。
「いえ、それならなおさら、急いで離れましょう」
「ああ、それには同感だ」
音を立てないように、振り向き、歩き始める。
レシッドも僕も、気付かれていないことを心底祈っていた。
帰りしな、最後の確認に、鬼の方を向いた。遠く、豆粒のように見えるその背中が、動かないことを期待して。
そしてその時初めて、鬼が大きな動きを見せる。
立ちあがり、こちらにゆっくりと体を向けた。
血の気が引いた。
「レシッドさん、急いで下さい! そして、デンアかシウム、誰か呼んできて下さい!」
僕の叫びに、レシッドも驚く。
「お前は!?」
「僕は足止めをします! 早く! 僕を殺したくなければ急いで!」
レシッドには逃げ切れない。そう自分でも認めていた。
レシッドは仕事に忠実な人間らしい。ならば、「勝てる」という予想は外れても、「勝てない」という予想は外さないだろう。
そして、レシッドが逃げられないということは、僕も逃げられない。
全力のレシッドの速度がどれくらいかわからないが、僕と変わらないくらいであろう事は想像出来た。
もしかしたら、魔法と闘気を併用すれば逃げられるかもしれない。レシッドを置いて、僕一人だけ。
けれども、それをするのは後味が悪い。
ただそれだけで命を投げ出すことになるかもしれないが、それでも多分悔いは無い。
一瞬の逡巡のあと、レシッドは駆け出す。
真っ直ぐに、村へ向かって。
思った通り、先程までよりずっと速かった。
僕が生き残れるかどうかはわからない。
けれど、僕の命を失っても、レシッドが情報をグスタフさんに届けられれば、それで今回の任務は成功だ。
レシッドと僕が共倒れになる状況は避けろ。
グスタフさんが出立前に言った言葉は、そういうことなのだろう。
決意を固め鬼の方を睨むと、突然鬼が走り出した。
地面に足跡がくっきり出来ている。その強い踏み込みからわかるように、鬼は先程のレシッドよりも幾分か速いようだった。
迫る鬼へ、牽制の矢を放つ。
足下の小石を、高速で射出する。どれも当たれば、人間であれば致命傷だ。
「ガアアアアアアアア!」
鬼が叫ぶ。その声はまだ遠いここまで届き空気を揺らした。
石は当たった。
しかしそんなもの、ものともしない。
体に当たった石が砕け散る。当たらなかった石は、後方の木をいくつも貫いて何処かへ行ってしまった。
「だよねぇ」
僕は半ば諦めの境地である。
尋常じゃない密度の闘気が、鬼の体を強化している。魔法では対抗出来ない。使われたのが、何の強化もされていないただの石ならばなおさらだ。
白兵戦は得意ではないが、それしかないだろう。
闘気を活性化し、備える。
自分の体と比較出来るほど近くに来れば、さらに鬼の体は大きく見えた。
「やっぱり大きいなあ」
山のような大男を想像して、そこから更に一回り大きくしたようなくらいだろうか。
土気色の肌に、大きな角が二つ。やはり、見た目からして鬼だ。
息も切らさず、僕に迫ってくる鬼は、まだ笑っているように見えた。
今日は厄日だ。
今日はデンアといい、鬼といい、厄介な相手に対峙する日なんだな。
鬼が僕から少し離れたところで止まる。
そして、その豪腕が振われた。
ゴウという音が鳴る。そして、その腕に払われた木の幹が折れ、僕に向かって飛んできた。
「うわ」
それに手を掛け、空中へ跳ぶ。ヒラリと身を躱したつもりだが、端から見ればどう映っているだろうか。
鬼が僕に向かって跳ぶ。
そして、その大きな手が僕の頭を狙うように伸びてきた。
僕はそれをダッキングして躱すと、伸ばされた腕に全力で突きを入れる。
鈍い音がする。
鬼の筋肉がへこみ、僕の拳の跡が付いた。しかし、鬼は無反応だ。
骨を折る気だったが、やはりそう簡単にはいかないようである。
反対に、僕の拳が痛む。
こちらの骨も無事なようだが、硬い物を殴りつけた衝撃で拳頭がズキズキ痛む。
「かったいな、もう」
そうぼやく僕の体に、返す刀でもう一撃加えられる。
「……っ!」
胴体と拳の間に挟んだ腕の骨が痛む。
恐らく、罅が入った。
慌てて鎮痛魔法を使い、鎮痛する。
その間も追撃が来ないのは、きっと僕が舐められているからだろう。
無意識に歯を食いしばっていた。
腹が立つ。
どうにかして、一矢報いたい。
いや、むしろ、こいつを狩ってしまいたい。
デンア達を呼びにレシッドを走らせた。
ここはまだ村にほど近い。十分もすれば、援軍は来るだろう。
そのときまで、生きていられるかはわからなかった。
だが、こいつのニヤニヤした顔が気に入らない。
デンア達が来るまでに、僕がこいつを狩る。
何の計画も無いが、僕はそう決めた。




