親睦の食事
えーと。
僕は足下を見下ろし、僕に手を伸ばして倒れた少年を見つめる。
助けて、ときた。それも、蠍の魔の手……鋏から逃れた後で。
いや、考えてみればまだ魔の手からは逃れられていないのか。まだ魔の針の影響が残っている。
この蠍の毒はまず獲物を麻痺させる。その後、筋弛緩作用により、場合によっては死に至らせる。体の大きく強い大人ならば耐えられるかもしれないが、この少年には無理だろう。
……助けて、と助けを乞われた。ならば助けてあげよう。
とりあえず、この流砂から抜け出さないと。
僕は徐々に沈みつつある少年の腕を引き、地面から体を引き抜く。
見れば、まだ本当に少年。十に満たないくらいで、栄養状態も今は悪そうだが発達に影響は見られない。ならば、きっと年齢も見た目通りだろう。
唇から血が垂れる。消化器に何かあるのだろうか。
今は閉じているが、瞳は緑色。髪の毛は赤みがかった黒。……この国の人間ではない、と思う。元々色々な要素が混在している国だからわからないけれど。
そのままずるずるとひきずり、砂地まで引っ張っていく。
手を放せば、ボフ、という音とともに仰向けに倒れるが、反応はない。
息はしているし、拍動もある……がやはりこれは毒のせいだろう。
まずは毒抜きからか。
僕はしゃがみ、持ってきた背嚢を探りながら、少年の体にそっと手を当てる。
怪我としては肋骨が一部破断し、胃と十二指腸に食い込んでいる。口から漏れ出ている血はそこかららしい。
魔法で探査し毒を抜く……のも出来るが、面倒だ。
たしか、前に蠍の毒対策のために調合した薬がまだ残っているはず。そろそろ古くなってきて捨てようと思っていたが、まだ使えはするはずだ。
腹部の傷は魔法で塞ぎ、肋骨も繋いでおく。外傷だけならばすぐに治せるのに、面倒な話だ。
ついでにいくつか点穴する。毒が混じった血の巡りが遅くなるように。
そして、背嚢からようやく見つけた薬の入った小瓶。磨りガラスのような濁った硝子瓶を振れば、中に青緑色の粉が三分の一程残っている。どうせ捨てるものだ。全部使ってしまおう。
少年の鼻を塞ぎ呼吸を止める。しばらくすると、わずかに唇に隙間が出来た。
そこにさらさらとした粉薬を流し込み、鼻を解放し、今度は口を塞いでしばらく待つ。
手足がピクピクと動いているのは悶えているのだろう。
この薬、結構不味いから。
さて。
未だ気絶中ではあるが、とりあえず処置した。解毒剤を飲ませ、怪我を治した。これで助けたことになるだろうか。
少年には悪いが、僕にはやることがある。流砂の中程を振り返り、そこに裂けて倒れている蠍の死体に目をやった。
僕がこの砂漠のど真ん中まで出てきた理由。今回の目的は、あの蠍だ。
早く、虫などが集る前に。せっかくの獲物だ。
食事前でよかった。出来るだけ、腹の中は空のほうが肉には臭みが少ない。
その甲殻の中にある蟹に似た味を思い浮かべ、僕は唾を飲み込んだ。
蠍と気絶中の少年を道から少し離れた場所まで運び、僕は野営の準備をする。
蝋凝松の薪は、僕の手と同じくらいの大きさでも火は一晩以上長持ちする。真っ昼間のかんかん照りのこの砂漠で火を焚くなど、正気の沙汰ではない気もするが、食事のためならば仕方ないだろう。
置いてあった蠍の死体。その細い足を、根元からパキとへし折り、食べやすい大きさにもう一度折る。
細い足といっても、大蠍の足は僕の手首ほどはあるので食いでがある。
足の端、細くなり棘のようになっている場所は食べられないので、小さく折って火にくべる。これは燃料にするためや始末するためではない。一応の消毒だ。
パチン、と弾ける音がしたら、消毒も終わり。
その鋭く尖った足を、可食部の入っている足の外殻の開口部から突き入れる。
そして、逆の端を砂地に刺し、薪に立てかけるように置いて、火が通るように調整すれば準備は完了だ。
パチパチと松の薪が弾ける。まだ焦げてもいないその薪は、まだまだ持つだろう。
足一本で、きっとそれなりにお腹が膨れる。それを食べてもまだ足は五本もあるし、鋏もある。それにお腹の身もまだまだある。
久しぶりの蠍の肉。
楽しみだな。味付けは塩といくつかの香辛料で良いだろうか。
僕は小さな布を敷いた砂地に座り、下から見上げるように蠍の死体を眺めてその時を待った。
「あ、れ……」
とりあえず足を一本平らげ、もう二本をまとめて焼いている最中に、少年は目を覚ました。
むくりと起き上がり、周囲を見渡し僕の姿を認める……が、その次の瞬間目が見開かれる。驚いているわけではないらしい。
「……う、おぇ……」
そして何かを吐こうとする仕草をする。胃が強制的に収縮しているようだが、それでも何も出てこないようで苦しそうに這いつくばっていた。
「……大丈夫ですか?」
顔を歪めるその仕草からすると、痛みなどではなく不快感から……というかまず間違いなく薬の味からなのだが、害はないはずだ。作った際には僕も味見している。
「……おえ、な、なにをのあせ……」
「蠍毒の解毒剤です。結構お高いんですよ?」
蠍毒の解毒剤には、大蠍の体内から取れる消化液と分泌腺を使う。つまり、大蠍に対抗するためにはまず大蠍を倒さなければならないというヴィゾーヴニル的な話だ。
だがまあ、金銭を取る気はない。元々廃棄する予定だったものだし。
顔の表面の艶のなさを見ると、衰弱はしているらしい。
しかし今のところ命を奪うほどではないだろう。薬の味でわずかに唾液も出たようだ。汗もかいていないが、それでも体内に水分はまだ残っている。
それよりも。
足もそろそろ焼き上がりだ。一本を手に取り、少しだけ風に当てて冷ます。熱風だがやらないよりはマシだ。
それから熱い殻に噛みつき、はふはふと、噛み砕いた蠍の足の端から肉を口で引きずり出す。
やはり美味しい。
蟹のような繊維というよりも、どちらかといえば蒸した大蒜などの野菜系の繊維質。栗のような甘さと肉の旨みが、温められわずかに滲み出た水分から感じ取れる。
とりあえず塩だけで食べてはいるが、あまり香り付けも要らないかな。香草もいくつか持ってきてはいるが、それよりも醤油とかが欲しい。無いけど。
「……食べてる……」
「そりゃ食べますよ。殺したんですから」
彼……鋏の大きさからして多分雄だが、彼の嗜好は知らないが、緊急時でもない限り殺した命は無駄にしたくない。さすがに人間とかは食べたくはないし、お腹いっぱいなら食べられないけれど。それでも、食べられる限りは。
それに、今回は昼食でどうしても食べたくなった。ならば、食べないわけがない。
もちろん、今ここで食べきるのは無理だ。殻を含めると僕よりも重たい蠍。可食部的にはそれよりも大分少ないが、さすがに今全て食べきるのは量的に厳しい。
この場で解体し、肉は冷凍して持っていこう。今夜は煮て食べよう。
でも、ああ、一応礼儀的には必要だったか。
僕は蠍を眺めていた視線を少年に向け、焼いている足を一本手に取り差し出す。
「食べます?」
「いや、あ、僕は……」
やや身を引いた少年。表情から見ると、生理的に気持ち悪い、といったところか。
何故。
「……美味しいのに」
食べていた足を、広げるように割る。殻の中に残ったわずかな身を歯でこそげ取るようにして食べて、残った殻を火にくべる。しばらく焼けば風化しやすくなるだろう。
しかし、食べないならば、もう一本の足も食べてしまおう。
そう思い、一度置いた足を手に取り、焼けた端を噛み千切ろうとしたそのとき……。
少年のお腹が鳴る。
どうやらお腹が空いているらしい。まあ今の衰弱ぶりを見れば、きっと数日間何も食べていない程度ではあるのだろうけれど。
それでも、食べたくないなら仕方ない。強制する気はないし。
「そういえば、もう体は快復したんじゃないですか? 街に向かうんじゃ?」
「……そう、ですけど……」
怪我は癒え、意識を取り戻したということは体内の毒も失活している。健康とは言えないまでも、もはや命に別状はない。
バリバリと殻を噛み砕く。この殻も食べられたら良いのだが、食べても歯ごたえがあるだけで味がしない。よく焼いて粉にするとか、そういうことも今度試してみたいな。
そもそもなんでこの少年は未だにここに留まっているのか。
命は助けた。ならば早くここを立ち去り目的地に向かえばいいのに。
道がわからない、ということはありえない。
この国の、街から街を繋ぐ標。それは空を見上げて探せば、ほぼ必ず視界に入る。日の位置と、朝か夕か程度の時間から方角を照らし合わせれば、近隣の街へ向かうのは迷わないはずだ。
……ならば、やはり……。
仕方ない。僕は食べかけの足を置き、立ち上がり、蠍の足をもぎ取りにかかる。
「お腹空いてるんでしょ? どうぞ」
「い、いや、いやいやいや、それは……」
手早く足を処理し、火にかける。
それが焼き上がるまで、少年は座り込み、拳を握りしめて何かに耐えているようだった。
焼き上がった足。串代わりの足の棘を握り、少年が唾を飲む。唾が出ている以上、食欲はあるだろうに。
「…………!」
それから目を閉じ、大口を開けてかぶりつく。殻ごと食べそうな勢いだが、あまり美味しくないだろう。
「んんんん!!」
明らかに必要以上に食いしばった前歯。焼けて脆くなった殻が口の中に入り、そこに繋がった肉がずるりと手にある殻から抜け出る。しかし、やはり。
「殻は出した方がよくないですか?」
蠍を食べ慣れていないのだろうか。そう思い忠告した僕に涙目を向けた少年は、もごもごと口を動かす。
そして、何とか引きずり出した肉を口の中に入れ、代わりに噛み千切った殻の端を口から取り出した。
「もしかして蠍食べるの初めてですか? 何か食べてはいけない決まりでもあったり……」
多数の民族が暮らすムジカルでは、そういう決まりが多い。
元いた国、民族によって決まり事が対立することがよくある。前に通ったサンギエの『石壁花の採取は生涯に一つだけ』というのもそうだが、食べてはいけないものが多い者もいる。
珍しいものでは、『他者に運ばれてはいけない』というもので、怪我や病気で倒れてもその場から動かされることを拒否する者たちもいた。彼らは駱駝や蜥蜴にも乗って移動できないらしい。騎爬は僕も苦手だけど。
しかし、もしそうならば悪いことをした。
お腹が空いているからと、食べられないものを無理に食べさせてしまうとは。
もごもごと、口の中で磨りつぶすようにした後、一度飲み込んでから再度反芻するように戻しそうになったものを飲み込む。
そして少しだけ荒くなった息を整えて、少年は切れ目から涙が滲む目をようやく開いた。
「……いや、大丈夫です、……美味しい、です……」
「……そうですか?」
その様子からはそう見えないが。ならば、もしくは味が好みではなかったのか。
まあ、蠍料理自体この国でも見たことはないし、食べ慣れていないのも仕方ないか。
エッセンには蠍自体いなかったし、まだ食べる文化がないのだろう。
こんなに美味しいのに。
結局少年はもう一本足を平らげた。気に入ってもらえたようで何よりだ。
「……いつも、こんな……こういうの、食べてるんですか?」
「その時々ですね。……こんな?」
少し棘のあるような言葉を聞き返すと、少年は全力で目を背ける。やはり気に入っていなかったのか。
僕は立ち上がり、蠍の解体にかかる。
基本的に、蠍の肉に価値はない。あるのは蠍毒の中和剤になる消化腺と、蠍毒を分泌する毒腺。あとは変わり種の武器として下腹部の針だろうか。
死んで闘気を帯びなくなった蠍の殻は防具としても使えず、もちろん食用にも向かない。なので、この辺は捨てる。
腹部の殻を手で強引に剥がせば、そこに靱帯のような繊維で張り付いた内臓がいくつか取れた。
その中から目当ての消化器を切り取り、他は要らない。味もあまりよくないし。
筋肉部は切り取り、とりあえず殻の上に置いておく。これは後で冷凍だ。
あとは、毒腺だが針の根元にあるため針ごと切り取ればいい。
「どうして……、……そんなに慣れてるんですか?」
「これが生業なので」
解体を見ている少年が僕に尋ねるが、答えは決まっている。
僕は探索者。依頼や仕事がなくとも、魔物の価値ある部位や遺跡から出た何かを探索ギルドに売って日銭を稼ぐ。この国の国民ではないため、僕は稼がなければ生活できない。
最悪、砂漠の中でも生きていけるけど。
だが。
「貴方も、家畜とかを捌くのは慣れているんじゃ?」
「え?」
疑問符で返された。だが、僕は続ける。
「その髪の色と目の色。あと、言葉の感じからするとムジカルの北東部にあったストラリム出身ですね。この前占領された」
ほんの少し前まで、ストラリムはムジカルと戦争をしていたはずだ。もちろんムジカルから宣戦布告した侵略戦争だが。
「ストラリムの主な産業は畜産。多分家族でそれをやってた……ってだけですけど」
「…………」
少年の目の色が沈む。一応正しいらしい……が、そうすると今の境遇に関してもいくつか問題点が浮かんでくる。
占領された国。まだ独り立ちはしておらず家族とともに仕事をしている程度の年齢の子供。
それが、この砂漠のど真ん中を歩いている。その意味が、なんとなくわかった。
毒腺は破けずに綺麗に取れた。
消化腺は確保し、後は一応埋めておく。内臓には既に蟻が集っていた。
「……別に捕まえたりとかそういうことをする気はないですけど、行く当てでも?」
「……ない、です……。……でも、行きたいところは……あります……」
「へえ」
じゃあ、あとは行ってくれればいい。
解体も終わり。手も魔法で水を作り出し濯いだ。火も消した。
あとは、ここで解散だ。
「あの……」
そう思い荷物をまとめ終えた僕に、少年は力なく下げた拳を握り、息を吐く。
それから、両手を組んで、両膝を砂につけ頭を下げた。
「……荷物持ちでも……何でもします。迷惑は、かけません。でも、もう襲われたら俺は多分死んでしまいます……! ジャーリャまで、連れてってください!!」
言い終えてから、あわあわと落ち着きなく周囲を見回す。なんとなく可笑しな姿だった。
「荷物なんてほぼないですけど」
からかうように僕はその姿に声を掛ける。
僕の持っている荷物は胴よりも細い背嚢だけ。それをここまで担いで持ってきているし、そもそもそれだけの荷物なら信用できない相手に持たせるのも不味いだろう。
一応蠍から採れた素材もあるが、精々同じくらいの荷物が増えただけだ。それに、凍り付いている肉は僕が魔力を通し続けなければ溶けてしまう。出来ないわけではないが、渡すのも面倒だ。
だが、たしかその格好はムジカル北部以北の最上級の礼だったと思う。僕の認識で当てはまるものとすれば、土下座している、と解釈しても構わない。
これが僕に何か負担であれば断るけれど、そうでない今であればまあいいだろう。
「いいですよ。ただ、普通に歩いていきますけど」
ここからジャーリャに戻るだけ。たった数時間の付き合いだ。
先ほど使った僕の魔法すら目に入らない必死さ。
たった今会ったばかりの僕を頼るほど、追い詰められているとみた。
「一応言っておきますが、不穏な動きをしたら即、砂に還ってもらいますので」
僕の言葉に何度も頷き、少年はよろよろと立ち上がった。




