閑話:這い寄る悪夢
二番街に居を構える資産家の一人、ランカート。その居城ともいえる豪邸の一階は、庶民からすればこの世のものとは思えない光景だった。
おぞましいわけでも下卑ているわけでもない。ただ、豪華なのだ。
蝋燭を何十本と円形に並べた豪奢な室内灯が吊され、床は天鵞絨で誂えられている。並べられた調度品はどれも一級品で、花瓶一つとっても名工の作だ。
もっとも、その透き通る青色の花瓶の美しさを感じ取る者は、この部屋には存在しないが。
その一階のとある一室。本来廊下からの入り口しかない部屋だったが、今外に面した場所に扉が備えてあるのは、そこに人が集まれるようにと言うランカートの配慮だ。
そこに現在四人の人間が集まっていた。
それぞれが乱雑に並べられた長椅子に腰掛けて、今まさに直面している危機の対策を話し合う。話し合うといっても、一人を除き楽観的で、いざとなれば暴力でどうにでもなるという考えだったが。
その一人だけ意見を異にする男、エドワードは中途半端に伸ばした髪を毟るように撫で、それから大きな色眼鏡越しに周囲を見回す。
止まった視線の先には、槍の腕が自慢の男がいる。今は酒に酔ってはいるが、それでも素面ならば大犬の一体は軽い男だ。
「俺がやる。へへ。ニクスキーの野郎をぶっ倒せば、この街での天下は俺たちのもんだ」
「いいな、オトフシもレシッドも俺たちにゃ逆らえねえ」
へへへ、と笑い合う男たち。その顔を見て、エドワードは内心溜め息をついた。
これは駄目だ。手遅れだ。この街での金儲けはこれで終わりだ。そう思った。
目の前の傭兵は槍の名手。違う街の小さな田舎流派だが、水天流中伝以上の腕前はあるだろう。それでもニクスキーを倒すことは出来ない。それがエドワードの目算だ。
背中に横にかけてある双剣にわずかに触れる。鎧の下の鎖がチャリと鳴る。
ランカートに雇われた傭兵三人と探索者一人。彼ら四人が集められたのは、雇い主の意向に他ならない。
ランカートに雇われている者たちは他にもいる。だが今日、緊急の用事があると集められたのはその中でも武闘派の者たちだ。
集められてから、事情を聞いていた傭兵の隊長格に伝えられた事実。それは、エドワードにとって敗北を予感させるには充分なものだった。
自分たちが手を貸していたランカートの裏稼業。それを、石ころ屋のニクスキーが調査に乗り出したという。
集めるように握りしめた腕。鎖が布越しに肌に食い込む。
勝てるものか。この街で敵に回してはいけない相手、ニクスキー。
この街を実質支配する組織石ころ屋の幹部であり、首魁グスタフの懐刀。いくつかの季節の前、あの〈猟犬〉レシッドすら退けた相手だ。敵うわけがない。
エドワード以外の傭兵三人が下した判断は『抗戦』。対して、エドワードが進言した判断は、『逃走』。
エドワードも理解はする。傭兵たるもの、雇い主を見捨てて逃げてしまえば評判に関わる。戦い抜いて、それで信頼を得なくてはいけない。そうは思う。
だが、馬鹿なことをとも思う。
死んでしまえば次はないのだ。雇い主が死のうとも、自分が生きてさえいれば後のことはどうにでもなる。名前を捨てる、知名度を捨てる、その程度の泥さえ啜ればどうにでもなるのに。
「エドワード。怖じ気づいたならお前は手出しすんな。特別報酬の分け前はねえけどな」
「んなもん、いらねえよ」
特別報酬などいらない。生きて帰ることが出来れば。
そうエドワードは叫びたかった。
ランカートに雇われたのは、ただ報酬のためだ。
磨いた腕を使い、名を上げようとこの街に来た。
金が欲しかった。金さえあれば何でも手に入る。酒も名誉も女も。
名声が欲しかった。街中でのものではない。悪党も自分の名を聞けば震え上がる、そんな種類の名声が。
地位が欲しかった。何を申しつけてもよい傅く使用人。傷つけても殺しても誰も文句は言わない部下たち。そういうものを侍らせられる地位が。
そのために、ここまで努力してきた。
この街に来て、その権力の中枢にまで食い込む悪の組織を見た。
自分ではまともに戦っては勝ち目がないと思った。
故に、そこから儲けをかすめ取り力を蓄えることを選んだ。
多くの金が動く薬。その薬を扱う商人に取り入り、ここまでやってきた。
ランカートに、組織への背任を唆し、それに乗り巨額の利益を得た。
石ころ屋へ全て報告しなければいけない薬の購入者履歴。その顧客の一部を隠し、虚偽の申告をする。
顧客に『混ぜ物入りの粗悪品を買うよりも、混ぜ物なしの高級品を』と囁き、横流し品を高値で売りつける手法はエドワードが考え出した。もちろん、粗悪品というのは事実ではない。真実はその反対だ。
細々と、そして大胆に行ってきた。
石ころ屋の利益をわずかにかすめ取り、力を蓄え続けてきた。
三年だ。三年の間、財産も人脈も作り続けた。
なのに。
先ほど使いに出した工作員が戻ってこない。
その事実に、苛ついたエドワードは床を蹴る。闘気で強化すれば蹴破るのは容易いが、そうしないよう調整するだけの冷静さはまだ残っていた。
工作員に関してはエドワードの独断だ。街中のニクスキーを足止めし、エドワードが以前から用意していた偽の隠れ家に案内させて時間稼ぎをする。
適当な言い訳でそこに小一時間釘付けに出来ればそれでよかった。それを確認し、逃げ出す算段までつけていたのに。
ニクスキーの、石ころ屋の網がどこまで広がっているかは石ころ屋の協力者であるランカートにもわからない。
最悪、逃走のために街中に出た瞬間に襲撃があると踏んでの対策だったが、無駄に終わるのかと思うとまたため息が出そうだった。
エドワードも腕に覚えがないわけではない。
むしろその逆で、ランカートの下にいる武闘派の中では一番腕が立った。探索者としては凡俗だったため色付きにはなっていないが、評価が戦闘だけであれば二番街の探索者の中でも上位に食い込むだろう。
色付きに上がらないために、ニクスキーにもレイトンにも知られていなかったのは本人も無自覚の幸運だった。
エドワードは立ち上がる。
武器の確認をし始めた傭兵を尻目に、この先の計画を立てていった。
しばらくはこの街でのし上がることは諦めよう。今回は無理だった、だが次がある。
共に仕事をしてきたラッズと坊主頭のベタファンすら切り捨てる算段を立てていく。だが、それは後だ。彼らが戻り次第、この館から脱出しよう。
今現在、上階で悠々とニクスキー撃破の報を待つランカートのことはもうどうでもよい。
『自分たちならば勝てる。ニクスキーを殺し、グスタフを殺し、その地位に就ける』などという甘言に溺れ、傭兵たちに唆されるなど、あの男は主の器ではなかった。
エドワードは、自分が石ころ屋からの背反を唆したことも棚に上げ、そう思った。
「で、何だってんだよ、兄貴」
そんなランカートの家まで呼び出されたラッズは、息を整えた後そうエドワードに尋ねる。突然坊主頭の仲間に呼び出された彼は、エドワードの深刻な顔の意味がわからなかった。
エドワードは、薄い茶色の色眼鏡越しにラッズを睨み、親指の爪を噛んだ。
「細かい話は後だ。ラッズ、ベタファン、俺たちは逃げる。この家にある最低限の荷物だけ持ってこい」
その真剣な声は、小声だが二人に正確に伝わった。だが、やはりラッズには理解できない。見れば、仲間の傭兵たちは戦いの準備を整えている。ならばこれから何かと戦うはずであり、そこに自らたちも参戦してもいいはずだ。
「待てよ、ちょっとくらい事情を」
「いいから……なら聞け。ランカートの小遣い稼ぎが石ころ屋にバレた。ニクスキーが調査に乗り出したらしい」
「ニクスキー? ……〈幽鬼〉ニクスキー!?」
ラッズは目を見開く。初耳だったベタファンも。
エドワードは頷き、一度傭兵のほうを窺う。脳天気な表情だと、内心悪態をつきつつ。
「今まで何度か調査はあったが、ニクスキーが出てきた以上もう誤魔化せねえ。ランカートにまで辿り着くのは時間の問題だ」
「でも、ニクスキーの奴くらいなら、兄貴が」
「馬鹿野郎!」
ラッズの胸ぐらをエドワードが掴む。その剣幕に、ラッズは心底不思議に思った。
「エドワード、どうした?」
「……いや」
槍使いが突然叫んだエドワードに尋ねる。だがエドワードは力なく首を振ると、小さく舌打ちをした。逃げるというのは秘密だ。この男たちにバレてはまずい、が、何も言わないのもまずいと感じた。
「……こいつも、参加したいとか抜かしてな。あんたたちだけで充分なのに」
「カハハ、その通りだ、が、元気がいいじゃねえか、臆病なお前と違ってよ」
傭兵の囃し立てた言葉に今度は大きく舌打ちをする。だが、それだけで抑えた。侮られる程度構わない、こいつらは即日死んでしまう運命なのだから。
槍使いの肩にしなだれかかるよう、直剣使いの傭兵が肩越しにラッズに語りかける。
「まず俺たちが今から適当な空き地に罠をはる。ランカートの下の工作員がニクスキーをそこに誘い出して、始末するってのが計画だ。お前も参加すんなら、お前には分け前やるぜ」
「報酬が出るのか?」
ラッズの顔が少しだけ明るくなる。
だが、それ以上にまた不思議に思った。
報酬が出るならば何でもやる。そうしてやってきたエドワードが、今回は何故渋っているのだろうか。
ニクスキーに代表される石ころ屋の幹部たち、レイトン・ドルグワントにエウリューケ・ライノラット。どれも実際に会ったことはないが、たしかに手強いと聞く。
だがそれ以上にエドワードは強い。そう信じていたのに。
「俺の命令が聞けねえのか」
「だってよ、兄貴……」
ラッズが見つめた先はエドワード。いつもの自信ありげな表情も態度もそのままに、それでいてその言動は今や弱気な限りだ。
「兄貴……」
ベタファンもその顔に落胆に近い違和感を覚えた。自分を使いに出した理由がこんなものだったとは。
「……兄貴、俺ぁやるぞ。なに、腕自慢の傭兵が三人もいんだ。何とかなるべ」
「ニクスキーの首を持ってきゃ、石ころ屋の奴もびびるだろ。な?」
「…………」
これは、切り捨てるまでもないか。楽観的な仲間二人を見て、エドワードはそう思った。
これは止めても無駄だ。自分たちの力を過大評価し、張りぼての力に溺れている。暴力で女を釣る方法も、交渉ごともすべて見せて教えてきた。それがここで仇となるとは。
「お前ら、ほ……」
ならば、もう自分だけで脱出しよう。ニクスキーの手がここまで伸びてくるまでにそう時間はかからない。今日中に、いや、日が沈むまでに、それよりも、今すぐに脱出しなければ。出来れば、彼らには気付かれずに。
そう思ったエドワードの耳元が粟立つ。殺気も音もないただの圧力に、部屋の扉のほうを見た。
机の上に並べてあった針のように細い小剣を数本まとめて手に取る。投擲用のその小剣は、即効性の溶血毒が塗られていた。
ちりちりと髪の端が震える気がする。
これは、既に遅かった。時間からすれば、ラッズが尾行されていたのだろう。そこまで追跡が行われていたということは、もはや……。
言葉を止めて小剣を手に取ったエドワードを見て、またラッズは不思議に思う。
だがその表情は真剣で、次の瞬間には今危機が迫っているということを知ることが出来た。
衝撃音。それと、木の裂ける音が響く。
乱暴に勢いよく蹴り破られた扉は、その勢いのまま蝶番を回り壁に打ち付けられる。
今だ、とエドワードは腕に力を込めた。
今はそこにいる。奇襲であろうが、それを読まれていたとは露にも思うまい。いや、ニクスキーならもしかしたら。
一瞬の間にそこまで思考し、それでも小剣を投擲する。都合五本の小剣は、伝えられるニクスキーの身長から割り出された頭部と心臓、それと腹部にまとめて刺さるような形だった。
突然の出来事に、ようやく傭兵たちが身構える。
遅い、とエドワードは文句を言いたかったが、今言ってもそれこそ遅い。
壁にぶつかった扉が、その勢いでまた反転し、ギイという音を立てる。
頼む、その向こうに死体が倒れていてくれ。死体でなくても、少しでも手傷を負っていてくれ。そう願うエドワードの額に冷や汗がたれる。まるで血のようだと、エドワードは感じた。
だが、その願いも虚しく終わる。
もう一度、扉がギイと鳴る。そしてふらりと足を踏み入れた浅黄色の外套の男の手には、今まさに投擲したはずの小剣が二本、しっかりと握られていた。




