閑話:追跡
木の床が軋む。
齢八十を越え、それでも机越しに来客者を睨むその眼光は衰えを知らない。
自分が呼び出した客人だ。しかし、この店の本来の業務を行う彼は、そこに愛想も何も持っていない。
「……つーわけだ。吸ってた奴らの証言も支離滅裂で信用できねえ。混ぜ物いりのその薬、誰がばらまいているか調べてこい」
「了解しました」
グスタフの言葉に、浅黄色の外套を羽織った無精髭の男が即答する。否というわけがない。幼少期よりの育ての親グスタフに逆らう気は、ニクスキーには毛頭なかった。
ニクスキーがグスタフに呼ばれた理由は簡単だ。
この頃、石ころ屋の顧客名簿に載っていない人物が禁制品の薬物を使ったことで処罰されている。もしくは石ころ屋に処理されている。その調査と、原因の処理のためだった。
処罰されたのはいい。彼らは禁制品を使った。処罰されるのが当然であるし、衛兵がきちんと対策をとっている証拠でもある。
しかし、その薬物中毒者が、石ころ屋が把握していない人物なのが問題だった。
この街で違法薬物を購う者は、必ず石ころ屋を通る。品物はグスタフが統制している売人を通し、各客に分配される。
そしてその客の名前や所属は、どれだけ手間がかかろうとも名簿としてまとめられていた。いつか共に破滅するために。
だが今多発している中毒者は、その名簿に載っていない。
それ自体もままあることだ。
禁制品として扱われている薬物は、煙として吸うその性状上、共有が容易だ。狭い室内で火を焚いて仲間内で共に吸うこともあるし、また漏れた煙を誤って誰かが吸ってしまい、その仲間となってしまうこともある。
しかし、その数が異常なのだ。
衛兵たちの間では話題になってはいない。それでもグスタフとしては違和感を持つ程度の数。
末端の工作員の調査でも、そう不自然な点は出てこない。それでも違和感は拭えない。
故に、グスタフはニクスキーに依頼した。
ニクスキーが調査し、無いならば無い。そう、彼のことを信頼して。
そして、あるのならば。これで尻尾を強制的に引きずり出す。
そういう策として。
グビ、とグスタフは水筒を傾ける。以前よりも薄くなった甘い味。自分に合わせて調整されたそれは、グスタフよりも弱った人間であれば簡単に命を奪うことも出来るものだ。
「必要なもんがあれば用意させる」
「いえ」
ニクスキーは、用意させるという言葉を断る。だが、その視線の先にあるいくつもの小道具をみれば、もう足りているという方が正確だ。
符丁で記された上に省略と言語の圧縮を重ねられ、外部の者……というよりもニクスキー以外には決して読めない名簿の写し。種々の薬品や細かい羽虫が何匹も入ったいくつもの小瓶。束ねられた、髪の毛のように細くそれでいて頑丈な糸と針金。その他、数々の小道具。
今回使うかどうかはわからない。だが、大抵の任務にはこと足りる。グスタフの細やかな心遣いだった。
幅広く長い布を広げる。そこに多くつけられた隠しに、台帳以外を入れて丸めれば外套の内側に入れられる。
まるで手ぶらなようで、実際は多くの道具を隠し持つ。常に大量の武器を携行する黒々流に学んだニクスキーの知恵だった。もっとも黒々流の場合は、戦闘中に展開することまで考えてあるため武器が露出している者も多かったが。
「では。明日までには」
「おう」
グスタフは、何ひとつ心配していない。これで事件は片付いたと、もはや安心しても良いほどにニクスキーを信頼している。
ニクスキーは無意識にそれを感じとり、深く頭を下げて石ころ屋を去った。
「それで、どこで?」
「…………!!」
二番街の路地裏で、レイトン・ドルグワントは男性の頭を掴む。彼がその目を真正面から見れば、目は口ほどにものを言う。
痣だらけの腕をだらりと下げたまま、男はレイトンの質問に口惜しそうに答えた。
「そう。ありがとう」
レイトンは男から手を放す。突然放された男は体の力が抜けて、勢いよく尻餅をついた。
恨めしく睨む男に、レイトンは笑いかける。その殺気を受け流すように。
「今後、冷たい煙が欲しくなったら、貧民街まで来なよ。あそこならいつでも手に入るからさ」
「……どうせ、……粗悪品だろ……」
やっとの思いで男はレイトンに反論する。レイトンへの反感から。
だが、レイトンはその言葉も笑い飛ばす。
「その売人から聞いたのかな? それは嘘だよ。むしろ、きみが買っていたもののほうが混ぜ物入りの粗悪品さ。それに、石ころ屋よりも倍は値がはるみたいだね」
ずるずると男は壁により掛かるように崩れ、ほとんど横たわるようになる。
もはや男のほうをレイトンは見ない。その視線の先は、男が先ほど喋っていた目的地の方を向いていた。
「じゃあ、ぼくはいくけど。とりあえず、今後は残った歯に気をつけなよ?」
「っ……!」
男の歯は数本が既に抜けて、残りの歯の歯根部もほとんどが黒く腐蝕していた。腕や体についている痣とは違い、これはレイトンの手によるものではない。
むしろ、これがあるからレイトンはただ歩いていただけの男を疑い、そして情報を吐かせた。
依存性のある薬品の多くは唾液の減少や歯の食いしばりから、歯のう蝕、いわゆる虫歯を生む。
薬物中毒者にはそれが顕著で、この街では一般の人間にはほとんど見られない虫歯が大量に出来ることがままある。
そして、中毒者に見られやすい食欲減退からの痩身。微かな指の震え。その他数多くの生体反応からレイトンに注目された彼だったが、話を聞いてみれば薬物購入者の顧客名簿に載っている者ではなかった。
男が示したのは、また別の路地。そこは、色町と住宅地の境界に位置する場所だ。
そして、一番街の入り口である門の目と鼻の先。
なるほど、やはりその辺りか。
男も捨て置き、レイトンは歩を進める。その売人のいた場所へ。
そして。
「ここかな」
レイトンは、足を止めた。先ほど男に色々と尋ねた路地よりも更に狭い路地。人通りも少なく、馬車などであれば入れないほど細い路地。
石畳は荒れており、そして定期的に水で綺麗にはしているようだが所々嘔吐の跡で汚れていた。水はけも悪く、三日前に降った雨の湿り気がまだ残っている気さえする。
男の言った売人の居場所。しかし、注目すべきはそこではないらしい。
水たまりでもなく、そして嘔吐の汚れでもない。
洗浄されてもなおうっすらと残った血の汚れ。それも、喧嘩などの規模ではない。
血だまりの跡に目を留め、立ち止まったレイトンに、すれ違う娼婦も声を掛けない。ただ怪訝な目をして、自分の店の中に入っていく。
木の扉がバタンと閉まる音がする。
だがそれ以上に、レイトンの耳には叫び声とも笑い声ともつかない女性の声が響いていた。
しゃがみ込み、血だまりに手を当てれば更に鮮明になる。その声も、そして像も。
「……向こうから走ってきて、ここで意識を失った……わけじゃないか。倒れ込んで地面に体を擦りつけて掻き毟って……虫?」
狂ったように笑いながら、まだあどけない娼婦としては働けないであろう年齢の少女がここで倒れた。半裸で往来を駆け抜けて。原因は、どう考えても尋常なものではあるまい。
「……薬物による幻覚症状。グスタフも、子供には売りたがらないのに……?」
疑問が重なっていく。少女の様子は薬物による寄生虫妄想に似ている。ならば薬物を摂取したと考えればつじつまが合うが、そうすると彼女に近しい誰かが顧客ということになる。
「そして、ここで肌の下の虫をえぐり出そうと体を刃物で切り、最終的には首を切った……ふうん」
レイトンは一人納得する。
これは、また少し調べなければならない。
大量に血が出た。凄惨な事件だ。だが、自分は知らない。
もちろんレイトンもこの街で起きる全ての事件を把握しているわけではない。ただ聞いたことがなかっただけであれば良い。けれど、それが誰かの意思であるのであれば。
それも調べてみなければいけないだろうか。衛兵たちにとってこの事件がどういったものであるのか。
面倒なことだ。自分たちのことだと思っていた禁止薬物の流通が、官憲の問題へと繋がるとは。
とりあえず、この少女が走ってきたのはどこからだろうか。
点々と滴る血のような手がかり。彼女の叫び声を聞きながら、その道筋を辿っていく。
そして辿り着いた一つの娼館の木の扉を、レイトンは音もなく開いた。
「妹は、自殺なんかしていない! 殺されたの!! どうして話を聞いてくれないの!?」
二番街の衛兵の詰め所で、紫の髪の女性が叫ぶ。まだ少女といえなくもないあどけなさの残る女性だった。
髪を振り乱し叫ぶ彼女に、衛兵は溜め息で応えた。
「ザラ・イストラティさん。ですから、そういう事実はないんです。ご家族を亡くされて悲しいのはわかりますが……」
「だったら何で!? 何で!? 何で妹は死んだっていうの!? あいつらに殺されたのよ!!」
「それが本当なら、とても重大なことです。それを、何か証拠があって仰っているんですか?」
「……それは……!」
衛兵の追求にザラは言い淀む。『あいつら』を示す証拠が何ひとつ思い浮かばずに。
状況証拠だけならばある。だがそれも、口には出したくない種類の事柄だった。
「いい加減にして下さい」
衛兵は、その姿に更に言葉を重ねていく。
「妹さんは年齢的には禁じられているにもかかわらず、娼婦として金銭を稼ぎ、そしてその境遇に悲観し、自殺した」
ザラとしても耳を塞ぎたかった。前半部分はザラすらも認めていたから。
しかし、反論できる部分もある。
「自殺したんじゃない! 殺され……」
だが、その反論に衛兵は耳を貸さない。事件の当事者は、一人で充分だと考えて。
強い口調でザラの言葉を遮る。本心から。
「妹さんは自殺した。それを止めることが出来たのは、姉妹である貴方です。まずは認めましょう? 貴方にはこれからの人生があるんですから」
「……何度相談しても、貴方、貴方たちが……!!」
噛み合っていない会話。だが、衛兵としては噛み合っているつもりだった。
もう一度、衛兵は溜め息をつく。両耳の下を掻き毟るザラを目の前にして。
「……わかりました。では、『あいつら』とは誰です?」
家族を失った悲しみから、妄想に囚われている。ならばその妄想を全て聞いて否定しよう。そう決意した。
その判断を、ザラも感づいていた。目の前の衛兵はまともに話を聞く気がないのだと。
それでも一縷の望みを掛けて、ザラは口を開いた。
「……妹が、ヴィネが入れ込んでいた男よ」
「どこの、誰、です?」
「…………」
しかしザラは黙る。妹が最近、男性と仲良くなったのは知っていた。だがその名前も彼女は恥ずかしがって口に出さず、顔をあわせたこともなかった。
「たしか、探索者だと……」
「それでは探せませんねぇ。探索者なんて、それこそごまんといますから」
「…………っ!」
ザラは歯ぎしりする。たしかに、その条件で探せるわけがない。このイラインの中でも数百人はいる探索者。誰かを絞って当たるのであれば簡単だが、どこにいるのかもわからず、たえず動き回るその一人一人を当たることは衛兵にはほぼ不可能だ。
「で、その彼に……彼? もう『あいつら』ではないじゃないですか」
複数形から単数形に変わっている。その齟齬を衛兵は指摘する。半分笑いながら。
「あいつと、あいつとその仲間よ!」
「ではその人たちが妹さんを刺し殺したとでも?」
「そうよ!」
「ですから、その証拠も何もないじゃないですか」
はあ、と何度目かの溜め息をつく。これではこの会話を何度も繰り返すだけだ。
妄想に凝り固まった女は面倒くさい。
この事件は、酒に酔った女性の自殺。そう決まっているというのに。
「……まあ、意見として聞いてはおきましょう」
もういいだろう。これ以上は『衛兵の仕事』ではない。そう判断した衛兵は、話を切り上げる。この他にも、処理しなければいけない届け出は山ほどある。
「また聞き取り調査を行います。何か不審点が見つかったらまたお伺いしますので、今日のところはこれで」
お帰りください、と外を示す。
その仕草に、ザラは立ち上がった。帰るためではない。衛兵の態度への不信からだ。
「どうでもいいと思ってる? 思ってるの? 女一人死んだくらいで、って? 今日、今から調べてよ!!」
「ザラ・イストラティさん」
唇を結び目を閉じ、衛兵は首を横に振る。
それから、詰め所の壁に貼られた手配書を示した。
「どうでもいいとなんて思っていません。ですけれど、今は他の警備や調査で手一杯なんです。男性二人の路上での不審死なんかもこの前ありましたし、乱闘事件なんかもあった。貧民街の奴らによる窃盗や強盗もよくある。そんなときに、娼婦の自殺など……」
「それを! どうでもいいと思ってるって言ってるんです!」
ザラは叫ぶ。往来にも響き渡る声で。
物見高い見物人は、詰め所を覗き込むように見た。
その視線が恥ずかしく、衛兵は咳払いをした。
「……どうしてもと仰るなら、それこそ探索者に聞き取り調査でもお願いすればいい。奴らほど信用できない人間たちもそうそういませんがね」
「…………!」
ザラの白い肌が赤く染まる。
ふざけるな。もうこの衛兵と顔をあわせていられない。
そう思ったザラは、挨拶もせずに詰め所を飛び出す。どこに行くかも決めず、ただ怒りのままに。
ガツガツと、革の靴が石畳を叩く。
許せない。妹を死に追いやった男も、自分の話をまともに聞かない衛兵たちも。
涙が浮かぶ。
ふざけるな。自分も妹も、真っ当に生きてきた。なのに、何故。
妹が娼婦の真似事をしているのは死ぬ直前に知った。それがいけなかったとでもいうのだろうか。
殺してやりたい。その、妹を殺した探索者も、あの話を聞かない衛兵も。
怒りで視界が赤く染まっている気さえする。悲しみで、周囲が暗くなっている気さえした。
「面白そうな話してたね。ちょっとぼくにも聞かせてよ」
突然だった。
ただ、横合いから誰かが声を掛けてきた。その声に、紫の髪を翻して振り返る。
それだけで、視界が明るく、広くなった。そんな気がしただけではあるが。
「誰?」
「ぼくはレイトン・ドルグワント。今日は……そうだね、正義の味方さ」
ふざけたことを。そうザラは苛つく。
だが突然現れた不審な男を、何故だか無視は出来なかった。




