閑話:クロスステッチ
「まったく、俺の苦労は何だったんだって話だよなぁ」
「俺のいない間にそんなことがあったんだ」
ハイロは、リコの言葉に焼き菓子をガリガリと噛み砕く音で応えた。固く甘い小麦の焼き菓子は、リコの奢りだ。
それから噛み砕いた破片を紅茶で流し込む。本来は香りを楽しみ、歯ごたえを楽しみ、控えめな甘みを楽しむものなのだが。
彼らが集まるのは、いつも五番街の食堂街。たまたま時間が合ったとき、その適当な店の適当な机で談笑するのが彼らの習慣だった。
「次の日の昼、ちょっと様子を見に工場に行ったらさ、先輩とかとなんか仲良くなってやがんの。前の日までは全然話したこともないとか言っててさぁ」
悪態と焼き菓子を砕く音は止まらない。
ハイロも、本気で言っているわけではない。むしろその逆だと、長年の付き合いのリコはその裏の言葉をきちんと読み取っていた。
小さくリコは焼き菓子を囓る。五年前は、こんなものを食べられるような身分でもなかったということを心のどこかで懐かしみつつ。
もっとも今日の高価な菓子は、今のリコでも嗜好品として楽しむのには高価すぎる代物だった。
「よかったじゃん。モスク君も続ける気になったんでしょ」
「そうだけどさぁ、ほら、俺たちも先輩なのにさぁ」
クス、とリコは笑った。
出来のよすぎる後輩が、もう自分から離れてしまった。それはもう二度目のことだし、慣れても良さそうなものだが。
それに一度目は、初めから良好な関係だったとはとてもいえない。
貧民街の後輩として街に住み始めた魔法使い。ハイロと仲の悪かった彼は、あっという間にこの街を脱出し有名人となってしまった。
ハイロも、その時のことをわずかに思い出しながら唇を尖らせる。本当に、彼らと自分は何が違うというのだろう。
後輩の魔法使いはまだわかる。魔法というごくわずかな一部の人間しか手にできない異能を武器に富を手に入れた。後天的な魔法使いというものをハイロは聞いたことがない。ならばあのカラスは、先天的な才能を持ち、這い上がるべくして這い上がっていったのだ。
しかし、モスクは。
特別な技能を持たない彼は、何故。
ハイロは知らない。
モスクも特別な技能を持たないわけではない。
ミールマンの通気口を日常的に通り生活していた彼は、通気口内部の構造を熟知し、その複雑な立体構造を把握するための三次元的な空間認識能力が抜きんでている。
その上、彼が独力で解析した古い時代の書物から、複数の力の大きさや方向を組み合わせた際の動作や計算もお手のものだ。
発火布と可燃性の固体を組み合わせた灯りや片手で使える簡易的な数取り機。資財の少ない中、それらを独自に考案する発想力は奇才エウリューケも感心するほどである。
しかしそれはハイロも同じこと。
ひったくりを生業としていなかったモスクは、ハイロのように街中を駆け回ることに慣れていない。狭く暗い空間内で暮らしていたモスクは、ハイロに比べても体が弱い。骨も未熟で筋肉も少ない。
モスクがハイロに勝る部分は数限りなくある。しかし、ハイロがモスクに勝る部分も同じように数限りなくある。
ただ、ハイロは気付かない。彼らはそれぞれが、それぞれ独自の技能を有していることを。
彼らにはそれぞれに、誇れるものがあることを。
それでも不満を隠せず、机にへたり込むようにハイロは頬を押しつけた。
見上げる目に嫉妬が混じる。
「お前もさ。お前の店、今度は一番街の貴族様に衣装を納めるんだって?」
「耳が早いなぁ」
苦笑しながらリコはそれを肯定する。隠すようなことではない。だが、知れ渡っているようなことでもないことから、目の前の親友が独自の情報網を持っていることがわかった。
「食料品店に新設された服飾部門、ってだけでも変わってんのに、それが今や一番街の、かぁ……」
いいなー、とハイロは机に突っ伏す。前に使った人間の食事の油が服に付くのも構わず。
「ま、おこぼれだけどね。なんか、一番街のお抱えの仕立屋の人が、禁制品の薬を使ってたことがわかったとかで衛兵に捕まっちゃって」
そして、そのおこぼれで得た仕事で、心付けとして配られたのが今食べている焼き菓子である。一缶銀貨一枚以上する菓子を平気で配れるその財力に、リコも圧倒されたものだ。
「……禁制品ね……、薬くらいいいじゃんか」
「一応禁止されているんだし、駄目なんじゃないの?」
ハイロの遵法精神のなさを笑いながらも、自分を省みて内心リコは笑った。自分も、『一応』なのだ。そもそも違法な薬物というものが何故存在しているのか。そこからして理解していないのだ。
煙草や酒と同じ嗜好品。煙草で酔うことは銘柄にもよるが少ない。だが、酒は人を酩酊させ、過ぎれば正常な判断力を失わせる。
ならば同じことではないのか。
何故酒はよくて、禁制品とされている薬物はいけないのか。
貧民街で薬物中毒者に触れて育ったハイロもリコも、そう思っていた。
「幻覚作用もあるとかでさ、最近のその人の作った服も見てるけど、綺麗で刺激的だったんだ」
刺激的で良いものを作ることが出来る。ならば、その薬はリコのような創作者にとっては有益になり得るものではないのだろうか。
紅茶を啜る。その香りは、多くの人の心を安らがせる。
ならば。
「刺激的な服、ね」
「婦人服が多いんだけど、原色を多めに配置した大胆な構成でね? またそこに細かい蟻みたいな柄が……」
「そう、そうだ、リコ、そんなことより! 相談に乗ってほしいんだけど!! 手巾なんだけど!!」
また悪い病気が始まりそうだったリコをハイロは止める。
相談に乗ってほしかったのは本当だった。その話題に、この暴走を止める効能があったのは偶然だったが。
リコは首を傾げる。
「……手巾?」
そして当然のように不思議に思った。目の前の親友の荒れた汚い手。食事をすることにすら適さないその手を持つ彼の口から、手巾とは。
「その服には装飾に合わないし……、え? なに? 服から仕立てるの? お前今度は何始めるの? 詐欺?」
思わずそんな言葉が口から漏れる。本気で親友を心配して。
ハイロは首をぶんぶんと振って否定する。
「違えよ! 人に贈るんだよ!」
「人に? ああ、あれか、物を送りつけてから代金をぶんどるっていう……」
「どんだけ信用ないんだよ俺!」
リコが放った冗談に、ハイロが立ち上がった。その様子に、リコも安心する。そうだ、多分この親友は、そこまでの知能犯罪も出来まい。そう正確な予想をして。
ハハ、と笑い、リコは頷く。
「まあいいけど。で? 相談っていうのは?」
促され、少しばかりハイロの口が重たくなる。言うのが、親友相手であっても少し恥ずかしかった。
それでも、男は度胸、踏み出さねば。そう、心の中で自分で自分の胸を叩いた。
「……職場の人に聞いたんだけどさ、ほら、あの、女の子に好かれるには贈り物がいいって聞いてさ、どんなものがいいのかってやっぱり詳しい人に聞いた方がいいじゃん」
「女の子に? ……あ、あの、すんごく可愛かったっていう……」
「そう、メルティさん! 一番街の人だし、どんなものがいいかなぁって」
両手を胸の前で組み、テレテレと体を揺らしながら、ハイロは言った。その顔は赤く染まり、とてもわかりやすいとリコは内心溜め息をついた。
「……諦めた方がいいんじゃない? 相手は偉い人でしょ? 俺たちは元浮浪児だよ?」
「おま……!」
リコの本音に、ハイロが固まる。ハイロも内心釣り合わないと思っているからこそ、その言葉が胸に刺さった。
「だいたいその人の好みもわからないんじゃ、助言も出来ないし。その辺どうなの?」
「いや、そこを、なんとか……」
「好みど真ん中でもない手巾一枚を贈ったところで、良いところのお嬢様がハイロのことを好きになると思う?」
「ぐ……!」
言われてみればその通りだ。そう思ったハイロが胸の中央を押さえて俯く。そこが痛くとも何ともないのに。
その様子に、リコも少し可哀想になる。
これでも小さいときからの友人だ。その儚い恋も応援してやらねばなるまい。
それに。
恋というものを知る予定のない自分には、体験できないことをしているのだ。
リコが大きく溜め息をつく。
「仕方ないなぁ。まあ、贈り物が必要ってのもそうだろうし、選んでやるよ」
「ほんとか!!」
ガバリとハイロが起き上がる。
その喜色満面の笑みが、女性に好かれるために努力するその姿が気持ち悪いと、本気でリコはそう思った。
しかし、微かにリコが首を振る。それは自分の問題だ。ハイロもカラスも、誰も関係はないと、そう思い直して。
誤魔化すように咳払いをする。
「ただし、勘違いをしないこと。今回の贈り物は好かれるためじゃないからね」
「え? じゃあ、どういう……」
「忘れられないため、だよ」
リコの言葉に、ハイロの脳内で疑問符が飛ぶ。
「……たまにない? 今現在の仕事に関係ないのに、どこかの職人からどこか違う工場に贈り物が届けられること」
「あ、ああ、たしかに」
ハイロはリコの言葉に思い返す。
何度か見たことがある。多くは季節の変わり目に。果実や野菜など、そのときに旬の物が工務店間でやりとりされているのを。
不思議に思ってはいた。何故、仕事でもなく、余った物でもないのにわざわざ買って物を贈っているのか。
「あれは、忘れられないように、次も仕事を回してくれって頼んでるんだよ。その目的をわざわざ書いてとかはいないだろうけどね」
リコはハイロの分は否定したが、それでも理解してはいる。
物を贈られて、否定的な感情を持つ者は少ない。あるとすれば、嫌いな者から届けられたか、もしくは嫌いな物を届けられたか。
そうでもなければ、意識的であれ無意識的であれ、ひとまずは感謝の気持ちを持つものだ。
「ハイロはメルティさん……だっけ? 会ってもいないでしょ?」
「うん……あれ以来、一度も」
カラスが護衛していた騒動の時以来、一度も。ただ、ごくたまに手紙のやりとりはしている。もちろん、ハイロからの一方的なものだったが。
「どうせ、手紙をたまに送ってるとかでしょ? でも、一番街のお嬢様だよ? 下々の人からの手紙なんて、読まずに燃やされるだけだよ」
「…………」
その通りかもしれないと、薄々ハイロも思っていた。だが、思っているだけと言われてしまうのはやはり違うと、冷たくなった額を感じて思った。
「さすがに品物もあれば、中を確認しなければいけないし、無下にはしない……んじゃないかな。そこは自信ないけど」
「そこは自信あってくれ……」
ハイロの懇願。その言葉に、『無理なことを』とリコは心中で反論した。
しかしそして、女性への贈り物を自分に相談するとは、たまにはハイロも利口なことをする。慢心からではなく、リコはそう思った。
まだそのメルティが『お嬢様』という程度の存在だと思っており、贈り物として手巾で充分だという悲しい勘違いも残ってはいるのだが。
「じゃあ、最近流行の兎の毛を使ったやつでいいかな。短い毛をあわせているから毛羽だったりしやすいっていう欠点はある。でも、吸湿性もあるし、何より手触りが滑らかで光沢もいいんだよね。贈り物としては絹がやっぱり正道だとも思うんだけど、絹鳴りの音が俺はあんまり好きじゃないからそういうのが……」
「色は、色はどんなのがあるかなぁ!?」
度々、少しだけ早口にまくし立てるように喋り続けようとするリコを、ハイロは牽制する。その内容を聞いていないわけではないが、やはり専門の知識を持たないハイロからすればそれは難解な詩のような文章に過ぎない。
頼んでいる側だ。迷惑とも言い辛い。言えない。
「色、色ね……。どんなのがいい? そのメルティさんは金髪だったっけ?」
ハイロがリコにメルティのことを話す際、よく『綺麗な金の髪』と出ていたようにリコは記憶していた。ならば、金だろう。そして、ハイロは灰色。艶のない銀といってもいい。
「そう、すげえ綺麗な……」
「じゃあ、金糸と銀糸で刺繍しよう。地は黒……いや、白無垢がいいかな。柄は……、名前の感じからすると、イラインよりミールマンよりの出身だよね。そうすると、花は向かないし、あ、でも雪……六花をもう少し細かくして」
リコの脳内で、完成図が思い浮かんでいく。この程度の図柄なら、刺すのに一日もかからない。あとは素材の問題だが、在庫は店にもあったはずだ。
リコは止まらない。だがハイロはその様子に首を傾げた。
「え? お前作るの?」
「……当然だろ?」
何を当たり前のことを、とリコは言い返す。普通の人間が贈るのならばまだしも、ハイロには大きな問題があるだろうに。
「いや、もちろん、うちの店からよりも、良い店に発注して届けてもらう方がいいよ? 品質も安定しているし、受け取る方も安心感がある。でもお前、一番街の人間向けの特注の一品ものって、銀貨五枚とか平気で飛んでくけどいいの?」
ハイロは、懐が寂しい。今となっては貧しいわけではないが、裕福でもない。とてもではないが特注品を平然と買えるほどではないはずだ。
「既製品、買えば……」
「別にいいけど。で、その場合も予算の問題があるけど」
ハイロの絞り出した答えに、リコは間髪を容れずそう返した。既製品であっても、良いものというのは大抵高価だ。それを探す労力からしたら、リコにしてみれば自分で刺繍してしまった方が早い。もちろんそれは、リコがそういったものが得意だからという条件下にあってのことだが。
それに、たとえリコにとっては嫌悪する事象であっても、親友のそれは自らの手で応援したい。既に、頭の中で、今日中に品物を用意する算段は整っていた。
「心配すんなって。安くするから」
「……おう……」
何より、今の自分が所属する店も、一番街で認められつつある。
自分の店も、『良い店』の一つだという無意識の自負があった。
「じゃあ、用意しとく。品物は自分で届ける? いやでも、手紙とかつけた方がいいか。明日またここに持ってくるよ」
「頼んだ」
リコの自信をハイロは読み取る。
この親友も、きっと少しだけ遠いところに行ってしまった。そんな嬉しく、そして寂しい疎外感に、ハイロは微笑むことしか出来なかった。
休み時間も終わり、リコとハイロはそれぞれの職場に戻っていく。
席を立ち、そして談笑も終わった机に静寂が流れた。
二人の会話を偶然後ろで聞いていたレイトンは、溜め息をつく。
また面倒なことだ。そう思いつつ。
手巾に関しての話ではない。その少し前、違法薬物に関しての話だ。
エッセン王国で規制されている薬物の基準は簡単だ。
快楽を伴い、幻覚作用と依存性をもつ、燃やして摂取する薬草。
そういった薬草の多くは部屋の中で焚いて大人数で使い、そして騒乱を引き起こす。それを防ぐために、古くからある法だった。
故に、錠剤や水薬であれば、酒と同様、幻覚剤も依存性のある薬品も認められていた。ただし、そういった薬品すら一般に出回ることはほぼないが。
認められている以上、資産家や貴族など、依存性のある薬品を持ち込むことを多くの者が考える。だが、大荷物を持ってこの街に入るためには検問を通らなければいけない。
そこで確認された薬品の多くは、激痛に苦しむ病人や狩猟で使う狩人、治療師など必要な者が使うものを除き、いつの間にか『紛失』してしまうのだ。
検問を通った荷物の中で、薬が消えていた。もちろん、検問の衛兵の手の中にすらない。
そんな事例が相次ぎ、それでもその真相は究明されることなく今日に至る。
『この街には何故か合法薬物が持ち込めない』そんな共通認識とともに。
そして、この街で薬物を扱っている民間の店は、石ころ屋と呼ばれる貧民街に存在する店だけだ。
当然、煙の出る薬品も扱っている。購入者の個人情報と引き替えに。
だが。
レイトンは目の端を人差し指で上に引き延ばしながら思い出す。
現在存命の購入者千五百二十七人の中に、今回処罰された仕立屋はいないはずだ。
先日処理された薬物乱用者二人のうち一人もそうだった。
偶然かもしれない。仲間内での薬物の共有はよくある話だ。それが容易だから、禁止されているということもある。
だが、少しだけ調べる必要があるらしい。もう一つの恐れがあった。
石ころ屋以外に、薬物を扱っている者がいる? それも、グスタフに捕捉もされずに?
その考えに至ったレイトンは、静かに席を立つ。
石ころ屋に管理されていない違法薬物。
そんなものは、この街には不要だ。
首魁の命も危ない中、自分たちが倒れたとき、残るものがあってはならない。
正義も悪も、全てが敵。
自分たち以外の悪は、この街にはびこる唯一の悪として許せるものではない。
さて、どうしようか。
どこで誰の話を聞けばいいだろうか。
人は強い感情に晒されれば、必ず多くの情報を残す。この街の至る所に残っているそれを拾い上げ、レイトンは正確に組み上げる。その人間の幻として。
レイトンの視界に映る死人の幻影。未だに叫び続けている彼らの横を素通りし、とりあえず一番街へ。
先ほどの二人組の行く末に見えた明るい道。
それとは対照的な、死人が蠢く街。
自分の行く先に見えたその光景に、レイトンの笑みは強まった。




