閑話:打ち込む楔
前後編の 前編 です。
黒髪の少年が、枕大の石に指を這わせる。
「さっきが五つで、今度は四つで……」
滑らかに整えられてもなおゴツゴツと起伏の残る白い石の表面に付いた粉を、無意識に指を擦って払い落とした。
それから、決めた基準点へ小さな釘で傷をつけ、糸の端を傷の位置で押さえる。
そこからもう一方の端を、あらかじめ決めておいた基準点へと向かわせ、足で押さえるとその糸に合わせて釘で傷を直線状に引いた。
「ゴラァ! 小僧! そんなちんたらやってんじゃねえ!!」
では、次に穴を開けて、楔を打ち込んで、と用意を始めたモスクに怒号が飛ぶ。
飛ばしたのは、この工務店の親方。この道四十年の職人である。
「しかし、親方……」
「てめえ、いつでもそんなまどろっこしいことしてんのか、こんなもん適当でやれ適当で!!」
もちろん職人にも様々な者がいるが、野外で作業を行うような職人は概して二通りに分かれる。
一つは、寡黙な職人。黙して語らず静かに一人で作業を行う。
そしてもう一つは、多弁な職人。人を束ねるのはこちらの方が多い。
この親方は、間違いなく後者だった。
しかし、腕も間違いなく言っていることも道理に適っていないわけではない。
「いいか? こんなもんはな!」
親方が、モスクの座っている場所の隣に積んであった未加工の石を抱える。
それを、ズン、と地面に勢いよく置いた。
今のモスクに与えられている業務は、石の加工。それも、作るのは塀の一部分を通行させるために、アーチ状に組む石材だ。
直方体ではなく、それよりもさらに難しい台形に近い形に仕上げなければいけない。そのために、まだ慣れていないモスクは慎重にそれをこなしていた。
釘を使い印を打ち、糸を使って直線を引く。その直線に合わせて楔を打って割り、断面を金槌で叩いて整える。その繰り返し。
間違ってはいない。むしろ、丁寧に根気よくそれをこなしている分、経験が浅い新人としてはかなり綺麗な仕上がりだった。
だが、それが親方には気に入らない。
たしかにそのモスクの手法は基本だ。石工から木工、それから建築まで一手に請け負っているこの工務店にいる者であれば誰しもが覚えているもの。
しかし十名ほどの工務店の従業員のうち、モスクを除いては、誰一人としてする必要もないものだ。
親方が、石に目見当で釘を打ち込む。それからその小さな隙間に向けて、強引に木製の楔を打ち込んだ。
水を楔に含ませ、膨らませる。モスクであれば少し待ってもう一度楔を深く打ち込むところだった。
だが、親方はそれを待たず、石の不要な箇所を金槌で叩いて飛ばした。
パキン、と硬い石が割れる音が響く。それから一度、二度、金槌を振るうと、すでに石の形はモスクの整えたものと遜色ない仕上がりになっていた。
「こうやってやればいいんだ、こうやって!」
加工を終え、一回り小さくなった石をモスクに差し出しながら、親方は吠える。
『こうやってやれ』というのが、この親方の口癖だった。
「……ですが」
「いいから早く手を動かせ! 昼までには二十個終わらせろ!!」
経験の浅い自分には、それが難しい。
そんなモスクの反論を聞かず、親方は背を向ける。ズンズンという、地面を踏み締める音までが聞こえてきそうな迫力だった。
その後ろ姿に、立ち上がったモスクは、ギリ、と歯ぎしりをする。
『こうやればいい』それはモスクもわかっている。だが、そのための技術が今のモスクにはない。
もちろん、それはモスクだけではない。他の店でも、年数の浅い新人は大体そうだ。だからこその基本の技術で、だからこそ基本の技術は洗練されている。
それを、一足飛びにしろと否定する。その態度に腹が立った。
それでも、今は雇われの身だ。工房での序列も弁えている。
今は自分が一番の下っ端で、文句を言える立場ではない。それはわかっている。
深く大きい溜め息をついて、モスクは腰を下ろす。
文句を言うよりも、まず手を動かさなければ。その言葉はたしかにその通りだと、苛つきながらも石を叩き始める。
その心を映すように、石は先ほどまでより歪んで仕上がった。
「ほんともう腹が立ちますよ」
「まあ、それは仕方ないんじゃねえの。どこにもその工場のやり方があるし」
午後の業務前に入る休み時間。職人たちは銘銘食事に出かけ、または休息をとる時間だ。
午前の仕事を終えた後のそんな貴重な時間でも、まだモスクの腹にはわだかまりが残っている。
手づかみで食べる川魚の揚げ物は、丸のまま揚げられている。
その親指よりも少し大きい魚の大きく開けた口を迎えるように、モスクは頭から魚を口の中に押し込む。
高温で長時間揚げてあるその魚は、骨まで食べられる。その骨を噛み砕くバリバリという音を、殊更に立てている気が自分でもしていた。
そんなモスクを苦笑しながら見ている灰色の髪の青年は、持っていた水筒から一口水を飲み込んだ。
「他の先輩とかは問題ないんだろ?」
「そうですね、あの馬……親方以外は多分」
「多分?」
ハイロは、その濁した言葉を聞き返す。自信なさげに消え入るような声も、不思議に思って。
聞き返されたモスクも言いづらそうに口を開く。
「……あんまり話したことないんですよ」
「もうそこに勤めてから結構な時間経ってるのに?」
「そっすね」
そこからの追及を躱すように、モスクはもう一匹魚を囓る。飲み込んだ魚肉と一緒に、吐くべき言葉も飲み込まれた気がした。
「リコといい、お前といい、……ああ、あいつもか。頭良い奴らは大変だよなぁ……」
そう言いながら、ハイロはパンの端の切り落としを囓る。廃棄されるはずだったその部分は、この店で一番安い物だ。水を使って口の中でふやかす必要があるが、それでも懐に優しいのは素晴らしい。
「大変?」
「俺だったらさ、笑って『すいませんでした』って謝って済ませちゃうもん……クビにならない限りは」
少し前のことを思い出し、ハイロは自分を鼻で笑う。
仕事中、どこにいてもすぐ居場所が伝わるようにわざと不格好にした女装姿。そういった趣味のないハイロは、二度とやりたくはないものだ。
その衣装が未だに家に置いてあることは、何故だか誰にも言えなかったが。
「俺には、『そうじゃない』って言えないんだよな。なんか考えがないと」
ハイロはその『考え』をせずに、惚れた女性に迷惑を掛けた。
今思えばぞっとする。愛らしい少女メルティ。彼女は護衛されている最中だと聞いていたはずなのに。
自分が彼女を守り切れると、きっとあの時は本気で思っていたのだ。彼女の身柄を狙っていた敵からも、勝てるはずなどない味方の魔法使いからも。
「……なんだろうな、俺は頭そんなによくねえからわかんねえけどさ」
そう言って、ハイロはパンを口に含んだ。
それを見ながら、モスクは噛み砕いた魚を林檎果汁入りの水で流し込む。神経を使う作業の後は、甘いものが美味しいなどとも考えながら。
「考えって段階でもないですよ。明らかに、おかしいからおかしいんです。多分、親方は俺みたいな白くて細いやつ嫌いなんでしょう」
モスクは本気でそう思っていた。
働き出した当初はよく言われたものだ。『そんななりして、ちゃんと物食ってるのか』や、『部屋にばかり閉じこもってんじゃねえ』などと。
それはもちろん、親方もモスクの事情を知らなかったということもあるのだが。
「ハイロさんやリコさんは凄いですね。もう、きちんと外の人に認められている。俺は、無理かもしれません」
「外、か」
モスクの『外』という表現。それはハイロにも覚えがあるものだ。
自分たちのような親のいない子供。貧民街の住人たち。それに対する、街の人間やその活動を表す言葉。自分たちはきちんと言語化したことがないが、やはり疎外感のようなものは皆感じてしまうのだと、少しだけ安心した。
「まあきっと、親方はそんなことを考えてもないんでしょうが」
呟きながらモスクは俯く。
今自分がしていたのは言い訳だ。
モスクにも半ばそれはわかっている。親方は、自分が孤児で、ミールマンの穴蔵の中で生活していたからそう言ったわけではない。その結果の、肌の白さと肉付きのなさを見て言っただけだ。
『外』と『自分たち』で分けたのは、ただそうしたほうが楽だからだ。嫌われているのは自分で、『自分たち』ではない。そう自省していた。
「う……ん……」
ハイロはその様子に悩む。ともに石ころ屋の助けで就職した。イラインとミールマン、出身は違うがそれでも彼はこの街で働く後輩のようなものだ。
その悩みは自分たちも同じで、きっとあのカラスも考えたことだろう。
自分と同じような立場であれば、いつかは乗り越える壁。乗り越えるべきかどうかは未だによくわかっていないが。そう思っていた。
「……さて、俺はそろそろいかないと」
モスクは立ち上がる。それから一つ大きな溜め息をついた。
「休み時間はあと二つ鐘が鳴るまでだろ?」
「ええ。でも、工具は出来るだけ長く触っていろと言われているので」
無駄でもいいから金槌で石や木を叩け。鋸で木材に傷を入れろ。気に入らない親方の言葉だが、しかし今は彼に従うしかない。そんな萎えた考えに、足に力が入らなかった。
モスクは頭を下げる。たまたま休み時間に会っただけで、愚痴を聞いてくれた先輩に。
「それでは、失礼します」
「ああ、またな」
モスクを見送り、ハイロも溜め息をつく。
何となく放っておけない。どうにかしなければ気が済まない。何の腹案もなくそう思った。
実際には、モスクが石ころ屋に相談すれば手厚い手助けが行われる。
職場が変わることもある。従業員の顔ぶれが変わることもある。
ただしそれはグスタフに預けられた限りある金貨を消費しての話であり、そしてハイロは知らず、モスクも必要以上に頼る気がないため行われることがない処置だったが。
「…………」
パンの切り落としを頬袋一杯に詰め込み、喉を鳴らして飲み込む。
水がない。だが、胸を叩いて強引にそれを胃の中に落とした。
「……よし……」
それから、自分が思いついた案があまりによく思えて、にんまりとハイロは笑った。
「ちわっす! 『土鬼の髭』から、釘二百本です!」
「おう、そこに置いといてくれ」
次の日、ハイロはモスクの勤めている工場を訪ねていた。
他の工房に注文書を届け、その品物を注文した工房に届ける。五番街における流通の要所を担う。ハイロの勤める営業所の仕事の一つだ。
本来担当だった先輩にこの工場の仕事を代わってもらったのは昨日モスクと別れてすぐだった。先輩も遊び癖のあるハイロを訝しんだが、それでも一日だけの配置の変更だ。それはすんなりと行われた。
工場自体にも、何度かハイロは訪れている。故に、親方とは顔見知りだった。
「親方、ちょっと話いいっすか?」
「……なんだ? 改まって」
いつもと違い、少しだけ落ち着かない様子のハイロ。ただそれは、嘘に慣れていないだけだったが。
工場の端に移動し、世間話をするように二人は立つ。
ハイロは一応他の職人が話を聞いていないことを確認し、小さめの声で口を開く。視線を向けている者や聞き耳を立てている者の察知は、貧民街出身者としては平均的な能力だ。故に、それはきちんと行われた。
「モスクの様子はどうっすか?」
「小僧のか?」
何の話を、と内心少し困惑していた親方は聞き返す。それから、ハイロの意図をもうほぼ完全に読み取った。
そんな親方の内心を知らずに、ハイロは笑う。取りなすように、おどけながら。
「いえね? ほら、『あの老人』にも、紹介した責任ってもんがあるじゃないですか。どんな様子か気になっている様子でして、ね?」
「……おう……」
呆れを声に含ませないよう、親方は意識的にぞんざいに返す。それを口に出すべきではないのに、などと考えながら。
以前、この工場の経営も立ちゆかなくなりそうなときがあった。
はっきりとした理由があったわけではない。ただの、時期と運だ。
だがその生活が苦しく、金を貸してくれる人や店にも愛想を尽かされたとき。従業員にも暇を出さなければいけなくなりそうになったとき、親方はその店を頼った。
貧民街にある、得体の知れない店。
だが、何でも願いが叶う店。
結果、帳簿や領収書と引き替えに与えられたわずかな仕事と、その後起きた戦争の特需により、この店は存続することが出来た。
モスクを預かったのは、その時の恩義と手間賃からだ。
そうでなければ、あの店と関わる気はない。いいや、関わってはいけない店だ。
その他にも、どんな弱みを握られているかわかったものではない。二十年以上経った今でも、そのような仕事を押しつけられるのだから。
そんな後ろ暗い店と関わっている。
それを口に出すハイロは迂闊であるし、身の危険もあると親方は考えていた。
今回のハイロは嘘をついている。仕草から、話し方から明白だった。
自分の名を勝手に使われる。それは、人によっては侮辱に等しい行為となってしまう。
実際には、グスタフもそこまで狭量ではない。
というよりも、反応することが出来ない。『自分の名を勝手に使われた』という行為自体は敵対行為とも取れるが、ハイロのような小物まで咎めてしまえばそれはそれで面目も潰れる。
特に彼のような種類の犯罪組織にとって、面目とは重要なものだ。
しかし、親方もそこまでは知らない。
そのため、そこに関してはただひたすら怯えることしか出来なかった。
だがそれよりも、親方には重要なことがあった。
モスクに関する話題。そして、それをハイロが尋ねてきた意味。
相手がハイロだったから、というのが大部分の理由ではあるが、その意味を読み取ることが出来たのは、親方の心にもどこか淀みがあったからだ。
「そうだな……、問題はねえよ」
「本当に?」
ハイロは聞き返す。そう言ってくれるとは思っていたが、それでも酷く貶されるかもしれないと思ってもいた。その場合は、自分の計画は全て計画倒れとなってしまっていたが。
「向いてないとか思ってないっすか?」
ならば、続きを、とハイロは促す。その無意識の笑みに、親方は苦々しい思いだった。
「そりゃ、はじめっから出来るやつなんてほとんどいねえ。でもよ、あいつは俺の言ってることに納得いかなくても、やるべきことはきちんとやってら。手を抜かず、腐らず、丁寧にな」
目を向けた工場の端には、木材の端を整形するモスクの姿があった。自分や、他の職人がやるよりも倍以上の時間を掛けて丁寧に作業するその姿に、親方は目を細めた。
その言葉に、ハイロの口の端が吊り上がる。
そうだろう。きっと、親方もモスクのことを嫌ってなどいない。そう思っていた。そして、モスクを褒める言葉を引き出そうとして、この芝居を行ったのだ。
親方は、ハイロのその表情を見て目を閉じる。
親方も、事情は既に読み取っていた。たまにモスクやもう一人と食事をしている姿を見かけることがある。きっとハイロはそのモスクに相談されたのだろう。モスクが、この職場に不満を持っていることは知っていた。
しかし自分が何を言っても伝わらない。というよりも、どう伝えればいいのかわからない。
自分が育てられたときは、叱られ、殴り飛ばされて腕を磨いたのだが。
数年とも言われたが、その間は手塩に掛けて育ててみたい。石ころ屋との義理など関係ない。親方はそう思っていた。
だがその育て方がわからない。
細い腕。白い肌。きっと同年代だった頃の自分とは真逆の存在に、戸惑っていた。
故に出た自らの悪態じみた諧謔に、モスクが否定的な感情を持っていることも気付いていた。
だが、止めることは出来なかった。
罵られ、その傷ついた心を歯を食いしばり我慢して、いつか見返そうと精進した。自分はそうして育っていたから。
そんなとき、ハイロがやってきた。
これは、使えると思った。直接は伝えることの出来ない言葉を、彼伝いなら伝えられるかもしれない。そう思った。
「ああいうやつは向いてようが向いてなかろうが大成するだろうよ」
「……わかりました。そう伝えます」
親方の意図には気付かず、ハイロは応えた。伝える対象が石ころ屋だという嘘が、見破られてないと信じて。
「そんだけか?」
「はい。それだけです! あざっした!」
あとは、この言葉をモスクに伝えればいいだろう。明日の昼に、五番街の食堂を探せばきっと見つかる。話はその時でいい。
狙い通りに終わった。そう、安堵した。
注文書をまとめて詰め込んだ鞄を背負い、空になった台車をがらがらと押しながら、ハイロは去っていく。
……あの元気だけは、モスクにもほしい。
その背中を見ながら、親方はそう思った。
次の日の朝。
いつもの時間。
しかしモスクは、工場に姿を見せなかった。




