あの空の向こうに
もうすぐ宿を引き払う時間だ。
僕は、テイクアウトした肉詰めのパンをかじる。
宿のベッドに座り、入り口越しに外を見ていた。未だ冷めない熱風は、夜中よりも大分強く僕の体を焙っていた。
明るい空、その下で和気藹々と人々が動きまわっている。道ばたで双六のような遊びをしている人たちは、仕事などはないのだろうか。それとも、今日たまたま休みだったのか。
そんなことを考えながら、青く狭い空を日陰の中から覗き込む。
彼らは何を考えて日々を生きているのだろう。
ふと、そんな考えが、今日の朝起きてから頭を離れなかった。
視線の先、水監視塔を凝視する。朝から作業をしているエネルジコが、陽炎の向こう側に小さく見えた。
彼もそうだ。何故、彼は空を飛ぼうと思ったのだろう。
はじめはレヴィンの影響かと思った。けれどそれは違っていて、彼は彼なりに自分の意思でやりたいようにやっている。でも、それは何故だろう。
難癖をつけたいわけではない。ただ単純に、何故なのか気になった。
きっとそれが、僕に足りないものだと思うから。
濃い味のソースで覆われた口内を水で洗い流せば、何となく爽快感があった。
なるほど、こういう楽しみもあるのか。水が美味しい。
感心しつつ、思考を続ける。エネルジコや、僕が今まで出会った人たちについて。
みんな、そうだったのだ。
リコは理由はわからないが、服飾関係に熱心に従事している。今イラインで建築を学んでいるはずのモスクは、僕と一緒にミールマンを探索した中でシャナの境遇を目にし、そして明日への期待と不安から、それらを何とか出来るかもしれない手段を探し始めた。
そのシャナは、その身を賭けて街を守っている。王族として生まれ育った義務感から、何の忌憚もなく。
彼らが人生を賭けて行っているようなこと。
それが僕には何もない。
僕は、何も夢中になれていない。
モスクには僕は同行していた。けれど、僕はモスクのような夢は持てなかった。自己弁護になるが、それは僕の欠陥や欠点というよりも個人の志向の違いだろう。
だがそのせいで、僕には夢がない。だから目標が作られず、進歩もない。
しなければいけないことにこだわるな。というのはアブラムの言葉だが、そうすると困ったことになる。
やらなければいけないことがなければ、何も出来ない。
……話には聞いたことがある、定年後のサラリーマンのようだ。まだそんなに老け込みたくはないのに。
だが、だからこそ、それをなんとかするためにエネルジコともう一度話したい。
彼は何を思って飛行機を作ろうと思ったのだろう。
この街には大勢の人がいる。だが、エネルジコと同じ考えに至った者が他にいなさそうなのは何故だろう。
何故彼は、彼だけは空を飛びたいと願ったのだろう。
それを、僕は知りたい。
まあ、迂遠な考えだがそれ故に、僕は朝からじっとここで水監視塔を見つめていた。
どうせ何もすることがないのだ。何もしないという贅沢な時間の使い方、それが出来るのは何もすることがない僕らの優位性だろう。仕事に追われていれば、それすらも難しいだろうし。
訪ねていってもいいが、そうするとまた追い返されると思う。透明化して忍び込んでも同様だ。話は出来まい。
まあ、どこで出会おうと僕の名前は変わらないし、話など出来ないのかもしれないが。
もちろん、そのためだけにこの名前を変える気はない。よく考えてみたら、これも靴と同じく僕のために用意されたものだ。元はハイロの悪口だが、そのためだけに考え出されたと思うとほんの少しだけ感慨深い。
だが、きっとここで待っていれば出会うことは出来るだろう。そう思っていた。
塔が直線上に見えるこの道に、昨日の宿屋の主人の言葉。それに、エネルジコが言っていたことと工房にあり今もまだいじっている作りかけだった木鳥。その要素をあわせれば。
昨日、この宿が半壊した時刻の丸一日後……実際にはちょっとだけ早いか。
そうして僕はじっと待つ。宿の主人に小銭を握らせ、半日ほど宿泊期間を延長しながら。僕と同じ事を察しているのだろう、延長については、宿の主人はありがたいといった感じで快く了承してくれた。
そしてやはり、屋台に人が集まり始めた後、その影は見えた。
「ぬああああ!!」
雄叫びをあげて、その影が大きくなりこちらに迫ってくる。
今度は、離陸からずっと観察できた。
エネルジコの木鳥は、水監視塔最上部から一度頭を下にしてそのまま落ちた。しかし、その勢いを前方にグッと向けたと思うと、そのまま滑空が始まる。
左右に小刻みに揺れているのは、エネルジコがプロペラに繋がるペダルを漕いでいるからだろう。よく考えれば、あれ昇降舵も何もなかった気がするが、どうやって上昇するのだろう。それに、旋回も……。
とりあえず宿から歩み出て、僕は木鳥の落下予測値点に立ちはだかる。
目算だが、おそらくエネルジコはこのまま宿に突っ込んでくるだろう。昨日と同じく。
だが、それはさせない。
少しだけ涼しい風が吹いた気がした。飛行機が迫ってくるのが見えているということで、気のせいだと思うけれど。
「おい! 危ねえぞ!!」
飛行機と、そして僕を確認した屋台村からそんな声と悲鳴が飛ぶ。まあ本当ならば、僕はこれで飛行機に轢かれてしまうのだろう。大怪我を負うことは想像に難くない。
しかし触れなければ問題ない。
エネルジコの驚く顔。雄叫びが慌てた叫び声に変わる。
プロペラ自体、きちんとした速度も出ていないようであまり速くはない。推進力にはほとんど寄与していないのだろう。まだやはり、滑空をしているだけのようだ。
「どけえぇぇぇ!!」
焦りから出た汗までが見えるようで、本当に慌てているように見えた。まあ、一応人を巻き込まないように人が道から消えるこの時間帯に飛ばしているのだろうし、そもそも避けないのも想定外だろう。
この程度の質量、そして速度なら、僕には避ける必要もないけれど。
「お、おおおおお、おげ!?」
木鳥を念動力で受けて、空中で止める。一応急激に止めないようにはしたが、前につんのめるようになったエネルジコは顔を出しているコクピットの口の縁に頭をぶつけた。
そんなに強くぶつけてはなさそうだし、怪我もなさそうでよかった。
そのままゆっくりと木鳥を砂地に下ろす。車輪もない木鳥の機体が、ザ、という音とともに静止した。
「……大丈夫ですか?」
「あ、ああ、少年も、無事か」
「ええ。傷一つありません」
もともとぶつかってもいないのだ。僕への心配は無用だろうに。だがやはり、それが一番に出るということは、この男は悪い男ではないのだろう。そんな気がする。
それで。
「着陸も考えませんと、いつもこんなことをしていればいつか死ぬんじゃないでしょうか」
「……その通りではあると思うが、まずは飛ぶところから考えなければ。まだ浮かび上がることすら出来ていないのだ」
エネルジコはひらりとコクピットから降りると、僕の前に立つ。その顔は、昨日の僕の名前を知る前と同じだった。
「しかし、昨日の様子から察しはついていたが、魔法使いだったか」
「ええ。昨日飛び降りたことでしたら、魔法使いでなくても出来ますけど」
魔法使いと限定は出来ないだろう。そう僕が反論すると、エネルジコは分厚く巻いた頭の布を一枚外しながら答えた。……それ、一枚じゃなかったのか。
「魔法使いでなければまずやらんよ。闘気が使えるものでもあそこから飛び降りることは出来ようが、あの突飛な動きは魔法使い特有のものだ」
「突飛、と」
「ああ、常識知らずとも言えるな。……ああ、勘違いしないでくれ給え、褒めているのだ」
どちらかといえば貶す言葉だと思う。だがそれでも、エネルジコの表情に悪意は見えない。実際どう思っているかは知らないけど。
「それはそれとして、少年は、まだこの街にいたのだな」
「街に着いたのも、エネルジコさんのところから追い払われたのも昨日ですからね。いけませんでしたか?」
「まあ、その辺りは構わんさ。本物の烏ならば、今頃砂に混ぜて埋めているところだが」
そう言って、エネルジコはハハハと笑う。多分本気だ。
「だが、今回はいてくれて助かった。礼を言う。この機体を再利用できる」
「使い捨ての予定だったんですか」
「この機体はな! 昨日壊れた機体の精度をやや上げただけだから、この辺りに墜落させて再現性を取る予定だった」
……つまり、宿にぶつける気だったのか。
「翼の形は今までで一番良好らしい。今後は、これを基本にやっていく」
エネルジコはバンバンと翼を叩く。その度に、金具や翼本体が軋む音が響いた。
それから機嫌良さげにコクピットの中に身を乗り出し、手を突っ込むと右手でペダルを回し始めた。
「次はこの推進力の工夫だな。どうも、漕ぐときに機体が左右にぶれてしまう。足の周回軌道を調整して、内部のからくりをもう少し効率化してみよう」
シャリシャリと軸が内部を引っ掻く高い音が響き渡る。
だがやはり、そのプロペラは推進力を出す用は足せていないようだ。
しかし、この雰囲気なら少しばかり話も出来そうだ。そう感じた僕は、おずおずと切り出す。
「少し、お話いいですかね」
「少年とか? 何を馬鹿な……」
僕が話しかけると、エネルジコは眉を上げて噴き出すようにそう言う。
それから、居住まいを正し僕の方を向いた。
「……と言いたいところだが、今助けられた恩があるな。その程度の申し出を聞かずして、返さねば我が一族の名に悖ろう」
「恐縮です」
待ち構えていた僕のマッチポンプじみた行動だが、たしかに僕がいなければ彼はまた宿に突っ込み、そして宿は半壊していただろう。よかった、恩に着てくれた。
木鳥はとりあえず道の脇に寄せ、僕らは屋台村の机で向かい合う。まだ片付けられるまでの時間は少しありそうだ。
それで、とエネルジコは半身を僕に向ける。敵意は残っていないようだ。
「何故、エネルジコさんは木鳥を作っているのでしょうか? それが気になりまして」
僕がそう尋ねると、エネルジコは目を丸くして、それから口ひげを掻いた。
「空を飛びたい。それ以上の欲求が必要かね?」
「それが、何故だか知りたいんです。失礼ながら、街の方はそんなことを考えてもいない様子で、どうしてエネルジコさんだけが、と」
「そんなことか」
ハハ、とエネルジコは笑った。
「簡単なこと。私には余裕があって、他の者にはない。手元を見て歩いたか、空を見上げて歩いたかの違いである」
「余裕、ですか」
「あの標を見たまえ」
そう言って指さされた先は、あの芥子粒のような空に浮かんだ標だった。
あの黒い塊、どんなものかは気になっていたけど。
「あの標がどういうものか、何で作られ、何のために誰が作ったのか、どうして浮かんでいるのか、知りたいとは思わないか?」
「少し気になりますけど……」
「この国の誰もそれを知らないのだ。元々我ら水守の一族は、あれを追って水を掘ってきた。水脈との関連性はあると知られているが、それが何なのか我ら一族にすら伝承が残っていないのだ」
そこまで言って、エネルジコは手元に置かれた水を飲み干す。まるで酒を飲んでいるかのように。
「ならば私が、と考えてもいいだろう。他の者は、自分の生活で手一杯なのだから」
「そうしたほうがいいから、ですか」
僕の声のトーンが少しだけ落ちたのが自分でもわかった。
少し、残念な気がした。要不要が、このエネルジコの思考にも影響しているのだと。
だが、エネルジコの声は逆にトーンアップする。僕の考えを否定するために。
「いいや、違う。これは私が私のためにやっていることだ」
「……それは、どういうことでしょう」
「あの標の調査。それを行うというのは方便である。あの標の調査を終えた後も、完成した木鳥は残るのだから」
もう一度、エネルジコは空を指さす。今度は、標とは違うところを。
「あの空の向こうに何があるか、皆は知らん。私も知らん。だから皆はその先がないと思っている。月の向こう、太陽の向こう、空にはどこかで境界線があって、そこから先には何もないと。だが、それは本当にそうだろうか?」
「…………」
「本当かどうか、行ってみなければわからん。見たこともないものを無いと断ずるか、あるかもしれないと思うのか、それはやはり皆と私の余裕の差であろう。私には時間も金も充分にある。その先になにがあるか、思考する余裕もな」
「……他の方々には、その先を想像する余裕がない、ですか」
「この国の民には、享楽的に生きる義務があるからな。私はもう飽きてしまったが」
……つまり、言葉のままに捉えれば『遊ぶのに忙しくて知らないところまで考える余裕がない』ということだろうか。
ちょっと失礼な気がする。働いている人もいるのに。
「それに、だ。いかがかな? 少年は感じたことがないか? 周りの誰かは出来ているのに、自分には出来ない。そんな悔しさを」
「悔しいというのは違うかもしれませんが、否定は出来ませんね」
多分、今まさにそれを味わっている最中だ。
エネルジコは遠い目で空を見つめた。
「私がそうだった。あの翼を持つ奴らは、何処かから来て、この街で羽を休めてまた何処かへ飛んでいく。あの空の向こうまでな」
それから、大きな溜め息をつく。
「何故私にはそれが出来ない? あの羽があれば、私も空の向こうまでゆけるのに。思い立った私は、すぐさま外に出て両腕で羽ばたいてみたよ。もちろん、飛ぶことなど出来なかったが」
ハハハ、と自嘲の笑みを浮かべた。だが、楽しそうに。
「それに現状、空を飛べる人間は一部の高位の魔術師だけだ。鳥は例外なく空を飛ぶのに。そのような限定されている能力を、万人に解き放ちたいと思えるのも地に縛り付けられた私だけなのだろう。あの者たちは、私たちを見下ろしている。それも見返してやりたい」
グ、と握られた拳には力が込められている。清々しいルサンチマンが見て取れた。
「だから、だ。少年の『何故私だけが木鳥作りに挑んでいるのか?』という問い。それに答えるのであれば『私だけが、と……あれを羨む余裕があったから』であろう。さあ、いかがかな? 疑問は解消されたか?」
「……ええ、ありがとうございます。だいぶ」
多分、エネルジコの話は理解できたと思う。だが、それ故にやはり少し残念だ。
余裕のなかったリコやモスクとは違った。シャナのような、生い立ちからでもなかった。
再現性がない。つまり、参考にならない。僕にとっては。
「……その引っかかった表情、まだやはり何かあるのか。仕方ないな」
ふう、とエネルジコは溜め息をつく。それから立ち上がり、親指で木鳥を指さした。
「さあ、運んでくれたまえ。私の家までな」
「手間賃はいただけるんでしょうか?」
僕がからかうように反論すると、エネルジコも噴き出すように笑った。
「手間賃、手間賃か。払おうとも。昨日のことを謝罪し、私の家に招き入れよう。もう少し、私の話をしてやろう」
「唐突ですね」
「それが手間賃だ。いかがかな?」
不敵な笑み。
断る理由もなかった僕は、頷いて立ち上がった。




