引っかかるはずがない
「……ええと……」
どうしようか。僕は、死体のように眠るエネルジコを見下ろして瞬きを繰り返した。
あれ? この男にはレヴィンの影響はなかったということだろうか。いや、それにしては飛行機などという発想がそれらしく思える。
しかし、現実に僕が精査してもレヴィンの影響は微塵もない。
それに先ほど僕の名前に激しい反応を見せていたし……。
「あ」
そこまで考えて気付く。
そういえばこの男は、僕のことを『知らない』とはっきり言っていた。嘘かもしれないが。だがそれは、魅了され僕の悪口を吹き込まれていた他の者とは明らかに違う反応だった。
そして僕のことを他の者のように悪し様に罵ることもなく、ただ出ていけと……。
僕は、エネルジコを抱き起こす。
もしかして、僕はまた思い込みからまずいことをしてしまったのかもしれない。今回は殺していないため取り返しが付くとはいえ、それでも酷いことをしてしまったかもしれない。
彼に悪いことをした。レヴィンの影響は受けているのかどうかまだわからないけれど、とりあえず魅了されてはいないのだ。僕が魔法を使って黙らせることはなかったのに。
とりあえず、どうしよう。
酸欠で気絶させた件はいきなり倒れたと誤魔化しておけばいいが、それでは何となく気まずい。
今は眠っている彼の言うとおり、このまま出ていってもいいがそれも何となく申し訳ない。
……気付け薬は、残りあったかな?
結局、僕が背嚢を探っているうちにエネルジコは目を覚ました。
軽度の酸素欠乏による意識消失で、脳への影響など後遺症は残っていない。
というか、これで脳への影響を残してしまっては僕はレヴィンのことを悪し様に言いづらくなる。先ほど見た限りでは、大丈夫だろう。
「……ぅ、く、ここは……私は……?」
目頭を押さえ、浅黒い肌を青ざめさせてエネルジコは周囲を見渡す。嘔吐などはなくてよかった。
「ああ、よかったです。いきなり倒れたので、気がついてよかった」
「……あ、ああ、君か。なんだ、まだ帰っていなかったのかね……。早く、この家から出ていけと言っているだろう……!」
力なく、それでも僕に言ったことは覚えているのだろう、同じ言葉を口にする。それよりもまずは、自分の身を気遣うべきだろうに。
袖の中から見える腕には、擦り傷と痣のようなものがある。間違いではあるが、きっと心当たりはあるだろう。
「依頼取りやめのために、こちらに名前を書いてもらわなければなりませんので」
僕は、懐から紙を取り出す。慣れた作業だ。
「そうか、そういう決まりだったな。そうだな」
エネルジコはよろよろと立ち上がり、部屋の隅に転がっていた小さく細い棒を拾い上げる。
それから、その横に放置してあった釉薬のかかった壺の蓋を開き、中に突き入れる。この匂いは、中に入っているのは草を搾った汁か。
小さく細い棒は葦らしい。多分。
その端を潰した葦ペンで、僕から奪い取るようにとった依頼箋に名前を書き入れる。僕へ向けて、突き返すようにその依頼箋を差し出した。
「これでいいだろう! さあ、出ていきたまえ!」
「……まあ、構いませんけど」
これで、契約はなくなった。そして、レヴィンの影響もない。ならば、僕がこの男に関わる理由はない。
早々に立ち去って良いわけだ。
だが、何故だろうか。彼が僕を追い払う理由。それは少し気になっている。
レヴィンの影響がないのであれば、それはまたどのような理由が。
「しかし、何故僕では駄目なんでしょうか?」
僕が首を傾げても、エネルジコは腕を組んでそっぽをむく。明確な拒絶、だが一応話をする気はあるようで口を開いた。
「カ……少年だから、というわけではない。君のそのカラ……ああ、その名前が我慢ならんのだ」
「カラスという名前がでしょうか……?」
「言うな! 口に出すな! ああああ! 腹立たしい!!」
僕が名前を出した途端、頭に巻いていた布を外して頭を掻き毟る。
だが、腹立たしいとはどういうことだ。
「名前を、ですか?」
僕は重ねて口に出す。それに、エネルジコはぶんぶんと頭を振って頷いた。
「僕が何かしましたか? それとも、その名前に嫌な思い出でも?」
僕だからというわけではないということは、僕が何かをしたわけではなさそうだ。だが、名前が嫌いというのも不思議な話だ。
嫌いな人物がいて、その名前と同じ名前の者を嫌う。そういう場合、その同名の人には気の毒だが、ないわけではないだろうし、気持ちもわからないでもない。
だが、僕のこの名前、結構変わっているのか僕以外に見たことがない。
もしかしたら、ムジカルではそうでもないのかもしれないけど。
「だってあいつらは空を飛ぶではないか!!」
布を床にたたきつけて、エネルジコは叫ぶ。
え? まさかそちらの?
「私がこれだけ心底空を飛びたいと願っているのに飛べず、奴らはそれをせせら笑うように私たちの頭上を飛ぶ! この屈辱! 誰だってわかるだろう!!」
「……ええと、……はい……」
両の拳を握りしめ、エネルジコはそう力説した。
正直わからないが、とりあえず同意しておく。何となく、どうでもよくなってきた。
「つまり、……鳥のカラスが苦手だと?」
「嫌いだ、大嫌いだ! 奴らをこの街から根絶したときにはせいせいしたぞ! ハハハ!」
一歩踏み出し、大きな手振りでエネルジコは街を指し示す。たしかに、部屋の開口部から見える街の景色には鳥は一羽もいないけれど。
「では……つかぬことをお伺いしますが……」
「何だ?」
「レヴィン・ライプニッツという名前に心当たりは……?」
「知らんな! 誰だそれは!」
本当に外れだったのか。思想的にも全く影響を受けていないと。なるほど。帰ろう。
しかし、言い切ってから、エネルジコは「待てよ?」と顎に手を当てた。
「……いや、レヴィン? エッセンの発明家として名前をたまに聞いたことがあるな」
「あ、はい、それです。その方とは面識はないんでしょうか?」
「無い! 一度お目にかかってはみたいがな! いい着想をくれるかもしれん!」
「……そうですか」
やはり、名前自体は伝わっているのか。その伝聞の中身は知りたくないが。
「そういうわけだ。さあ、帰ってくれ!」
叫ぶエネルジコの声音は本気だ。本気で鳥の名前が嫌いで、本気で僕に帰ってほしいのだろう。ならば、もうここにいる意味もない。
「そうします」
促されるまま、僕は一歩踏み出す。部屋の開口部に向けて。
はしごと階段を下っていってもいいが、面倒だ。少々高いし、建物を足場に使うことも出来ないが、それでも下は砂だしなんとかなるだろう。
「……おい?」
「お邪魔しました」
一応頭を下げて、僕はそこから跳ぶ。
飛び降りてから気がついたが、空を飛べば良かった。……いや、またそれでエネルジコは怒るだろうか。関係ないけど。
そんなことを考えながら、迫る地面を見続ける。
本当に、空を飛べばよかったと後悔したのは、着地した勢いで砂が舞い上がり、口の中に砂が入ってからだったが。
とりあえず周りの家屋に被害が出なくてよかったと、僕は口の中の砂を吐き出しながらそう思った。
砂漠の夜は暑い。
いや、この国特有のものかもしれないが、耐えがたい暑さだ。
僕は夜半、温いどころか熱風ともいえるほどの隙間風が体に当たる不快感で目を覚ました。本腰を入れてはいないが、魔力を使い和らげてこれならば、本当はもっと暑いのだろう。慣れているとはいえ、よくこの国の人たちは生活できると思う。
水筒の水を冷やして飲めば、冷たい水が食道を伝い胃に流れ込むのが鮮明にわかる。
体を支える編まれた蔓は通気性を確保しているものの、暑さ対策としては正直あまり効果はない。砂の上に直接寝転がらなくて済むというだけで、布を張ったのと大差ない気がする。
たまに地面の中を這う蠍のような毒虫もいるのを感じるので、どちらかといえばそれ対策な気がする。今度どこかで聞いてみよう。
さて。
僕は一息吐き、ちょうどいいと明日の予定を考える。
たまたま立ち寄ったこの街。特に用事はないが、早々に立ち去っていいものだろうか。
いや、立ち去ってはいけないはずがない。もともと補給のために立ち寄っただけで、特にすることを決めてもいなかった。この街自体が目的地でもないし、そもそも目的地などない。
明日の朝、標を辿って早々に別の街に発ってもいい。
だがしかし、どこかひっかかるものがある。僕はまだこの街でやることがある気がする。
違う、何かやりたいことがある気がする。考えるまでもなく、おそらくあのエネルジコの『飛行機』に関してだろうけれど。
けれど、僕は何がしたいのだろう。あの木鳥に関しては、僕が手出しをする謂われはないはずだ。レヴィンの関与も否定され、本人がやりたいようにやっている。
たまたま僕はそれを作っているのを目にしただけ。気にもしていないが、きっと他の街でも発明やそれに類するものはあったはずだ。
なのに、何故あれだけが気になるのだろう。勝手にやらせておけばいいはずなのに。
僕は、邪魔したいのだろうか?
そうではなく、手助けしたいのだろうか?
それとも、もっと他になにかあるのだろうか?
知ってしまっただけ。なのに、何か引っかかるものがある。
『飛行機』に、嫌な思い出も何もないはずなのに。
面倒なことは明日考えよう。
先延ばし癖は僕の悪い癖ではあるが、それでもよく寝なければいい考えも浮かばない。この熱帯夜の中、浅い眠りではよく寝た感じはしない。
魔力で覆い、部屋の中の温度を下げていく。結露した露で地面がじっとりと濡れる。凍結した霜がきらきらと月の明かりを弾く。
その光に、僕は天を見上げる。
またきっと、彼女にとってどうでもいいことで悩んでいる僕の姿を見て、眉を顰めているのだろうか。あの小さな母親は。
いや、彼女がいるのは満月の間だ。
今空に浮かんでいる半月からは、僕は見えないだろう。きっと。
そう考えて、僕は何故か少しだけ安堵した。




