観客たち
煙の臭いの中で、僕は温かい家族の光景を見ていた。
屋内から笑い声が響く。
まあ幸せそうな家族の光景だ。僕が手に入れられなかったもので、今から望んでも手に入らないもの。……実際には、父親としてならあの光景の一部になれるのだろうけれど。
家族四人の笑顔はこれで守られた。父親は息子を導き、妹の応援のもと息子は死の恐怖を乗り越えて薬を手に入れた。そして死に至るはずだった母親は助かった。寿ぐべき光景だ。
その幸せは、彼らが自分たちで勝ち取ったものだ。
僕が汚すべきではなく、そして邪魔するわけにはいかない。
しかし、背を向けて立ち去ろうとした僕の背後で、小さく声が上がる。
「……そういえば、あの治療師……じゃない、探索者のお兄さんは……」
「いいじゃんか、スラ。あいつはどっかいった。それでいいじゃん」
そのスラを、スタックが止めた。
スタックが正しいだろう。僕はこの場にそぐわない。僕は彼らが困っているのを見て、これ幸いと法外な料金で薬を売ろうとした悪人だ。
彼らの父親への……多分同族嫌悪から行ったちょっとした嫌がらせだが、その結果は結果として受け止めなければ。
「でも、あの人がいなかったらお兄ちゃんは」
「礼も言ったし充分だに。……まあ、助かったのは事実だけども」
後頭部を掻きながら、スタックは呟くように言った。
父親はその子供たちの姿を見て目を細め、そして二人に声をかける。
「じゃあ、スラ。お母さんは任せられるだか?」
「? うん。お父さん、どこへ?」
「ちょっくら出てくる。すぐに戻ってくるよ。マルーカも、まだ寝てな」
言うが早いが、父親は家から踏み出し坂を下り出す。見送る妻と子供たちにもう一度笑顔を向けて、それから周囲を何度も見回しながら明らかに何処かを目指して歩き始めた。
「やっぱし、いねえか」
何の気なしに後を尾けた父親は、僕と話した広場で足を止めてそう呟く。
溜め息に残念そうな響きが混じる。
……これは多分、誰かを探しているのだろう。自意識過剰と思いたくはないが、おそらく僕を。
どうしよう。あと少しだけ工作をして村を去るつもりではあったけど。
いや、ちょうどいいか。ここで彼と話をすれば、それで全て終わる。もう少しだけ演技が必要だけれど、きっとアドリブでも大丈夫だろう。
「せっかくの家族の団らんです。もっと楽しめばいいのに」
僕が姿を現し背後からそう呼びかけると、あまり驚くことなく彼は振り返った。
それから唇を吊り上げ友好的な笑みを見せると、僕に一歩歩み寄ってくる。
「……あんたのおかげで、そんな機会ならこっからいくらでもある」
「先ほど見てきましたが……息子さんのお手柄でしたね。息子さんのおかげで、マルーカさん、でしたっけ。奥さんも助かったようで」
「スタックじゃね」
「高所恐怖、恐れ病にも負けずに石壁花を採ってきた息子さんのおかげですよ」
僕は首を振る。そして荷物を開き、上に乗っていた手紙をどかして紙の包みを取り出す。昨日僕が採った石壁花だ。
「しかし、困りました。せっかくの商機だったのに、病人が自力で薬を手に入れてしまった。もうあまり価値はないですね、これ」
いや、実際にはあるのだけれど。残り二人の病人は昨日除菌したが、気管支炎までは治していない。咳止めとしての価値は充分あるし、今回すぐに彼が供出せず使われずに皆自然治癒したとしても、今後発生した労咳をとりあえず寛解させるための薬にはなる。
「もう僕が持っていても仕方がない。快復祝いと息子さんの成人の仮祝いに差し上げます。ほとぼりが冷めてから売るなり供出するなり何なりと」
「あんた……」
僕が差し出した石壁花を恭しく受け取り、眉を顰める。明らかな困惑。しかしなんとなく、それが僕には困惑というよりも悲しげな表情に見えた。
そして次には唾を飲み込み、顔を引き締める。真面目な顔に。
「……世話になっただ」
「息子さんを治した報酬ならばもう頂いておりますので、頭を下げる必要ないかと」
「あんたは、それでいいんか?」
頭を上げた父親は、不満げに唇を引き締めた。
バレている。その表情に僕はようやく気がついた。違う病気だったことに気がついて、それを僕が治したことも知っている。そんな気がする。
しかし、何故だろう。僕の演技がわかりやすいというのは今後の課題だが、考えてみればここに彼が現れた時点でもう気がついていた。
……ということは僕の演技は全くの無駄だったようだが、ここで全部バラすと尚更恥ずかしいのでこのまま続けようと思う。
「ええ。いいもなにも、僕は息子さんの怪我を治しただけですから」
それに、これでいいのだ。素直に全部話したら、強盗犯にされてしまった失敗もある。それを考えれば、いくらか虚言を使ってでも目的を果たせた方がいい。
少し声がうわずった気がする。けれどそれを指摘することもなく、父親は溜め息をついた。
「まったく、あのどら息子ときたら手間をかけさせて。そのせいで、ひとつ貴重な石壁花を無駄にしちまった」
「無駄になんかなってませんよ」
「……?」
おそらく本心ではないだろう卑下に僕は思わず言い返す。
「あれは彼が母親のために、勇気を振り絞って手に入れた贈り物です。母親を喜ばすために正しく使われた贈り物が、無駄になんてなってるはずがないです」
母親に、というところで背中がむずかゆくなる。僕にはまだあまり理解が出来ない動機だけれど。しかしきっと、そういうことだと思う。自己弁護も入ってはいるが。
だが、今の言葉からもやはり気付かれているか。先ほどまでは労咳だと信じていたはずなのに、どこで気がついたんだろうか。
「そっか」
一瞬気になったが、頷いた父親の顔を見てどうでもよくなった。
まあいいだろう。
僕と彼が口を噤んでいれば、真実は誰にも分からない。ならば、なかったのと同じ事だ。
僕も頭を下げて、一歩下がる。
用は済んだ。
「それでは、僕もこれで失礼します。お大事に」
「待った」
そう言って広場を出ようとした僕を父親が呼び止める。少しだけ笑いながら。
「あんたはすぐ表情に出るなぁ。もう、わかった。あんたがそう言うんなら、あれはスタックの手柄ってことでいいんだろ」
「その通りですからね」
「俺もちょっとだけかっこつけてみるが、いいか?」
「? ……ええ」
笑顔がスタックと同じだ。やはり、父と子は似るものなのだろう。僕は父親の顔も判然としないけれど、僕も似ているのだろうか。
というか、格好つけてると改めて言われるとまた恥ずかしくなってくるのだが。
彼は一つ咳払いをし、もったいぶって口を開いた。
「あんたも、きっと嫁をもらえばわかるだ。嫁さんの綺麗な目は、毎日見ても飽きねえもんだ」
言い切って、恥ずかしそうに目を逸らす。何の話か、などとは聞かない。というよりも聞けない。
それよりも、やはり顔に出ていたか。
「……ああ」
そしてその言葉の意味を察し、僕は少しだけ噴き出す。なるほど、だから彼は奥さんの病気が治っていることを知ったのか。彼女には、黄疸が出ていたから。
「仲がよろしいことで」
「自慢の嫁だに、当然だ」
胸を張って彼がそう答える。その恥ずかしそうな顔にもう一度頭を下げて、僕は歩き出す。
少し歩いてから振り返れば、また彼は頭を下げたままの姿勢で僕を見送っていた。
村を出る。
そして適当な場所で崖の上に上がり、僕は座り込んだ。
事態は収束する。これで流行病の発病者は一応いなくなり、じきにこの煙も収まるだろう。
そしてまた、いつも通りの日常が始まる。彼らの旅人向けの商売が再開され、またそれなりに村も元気を取り戻すだろう。
そんなのどかな気持ちで、僕は崖の上を見渡す。
割れ目や谷を気にしなければ、平坦な国。建物すらないけれど、その中で人間が蟻のように動き回り国を形成している。ミールマンほどではないが、やはり蟻の巣のような国だ。
退屈で、食べ物もあまり期待できない国。僕にとっては厳しい環境ともいえるだろう。
やはり早々にこの国を出よう。そう決意するには充分な二日間だった。
そして、もう一つ。
旅には何も影響がない異変が、僕の身に起きている。少しだけ驚き、そして少しだけ恐怖した。
僕は荷物を開き、中を確認する。
先ほど石壁花を取り出そうと開いた時に気付いた異変。荷物の内容にあまり頓着しない僕ですら気付く明らかな異変がそこにはあった。
わざわざ封蝋を使い、閉じられた白い封筒。僕は、こんなもの入れた覚えがない。
魔法で一応中身を確認する。
何か特別な塗料が使われているということなどもなく、毒が入っているわけでもない。危険なものは何もなく、ただ中には字が書かれた手紙が入っている。
開いてみれば、やはり見知らぬ便せん。
そこには、黄変しているわけでもなさそうな新しい黄色い紙に、深緑の達筆な文字が躍っていた。
『やあ、カラス君。私が姿を見せるのは少し憚られるから、こうして手紙だけで勘弁しておくれ。
まずはおめでとう。あの白い波の中、君が生き残ったのは喜ばしいことだし、私も嬉しいよ。
どうやったのかは知らないけれど、キミには妖精の加護でもあるのかな?
とにかく、よかった。それだけ伝えたくてこれを書いたんだ。
さて、そしてありがとう。ここからはついでだけどね。
このサンギエという国、実際には国じゃあないんだけど、それでもこの貧しい国で過ごす子供たちの努力がキミによって報われたんだ。
あの子が一度崖から落ちたときには少し背筋が凍ったよ。それもキミのおかげで万事解決したし、安心したけどね。
彼らの母親が助かったのも奇跡みたいなものだ。高等治療師にすら治療できないだろう病を見抜いたのも治したのも驚嘆に値するよ。すごいね。
まったく、キミには驚かされることばかりだ。
でも気をつけてね。
キミは今聖教会に注目されているよ。
今回のは私しか知らないから広まらないけれど、繰り返していればいずれは敵対する。
そうなるととても面倒だからね。
キミの尊い行動が正当に評価されないのは腹立たしいけれど、それでも私はキミの味方さ。
じゃあ、これからも頑張って。
キミの今後の活躍を祈っているよ。』
差出人は、文面のすぐ下にあった。
何一つ隠すことなどないという印象の堂々とした文字。それでいて、何故か不安になる書体で、『プリシラ・ドルグワント』と。
僕はその手紙を元の折り目通りに畳み、その文面を脳内で反芻する。
その内容自体は特に変わったことはないだろう。それどころか、優しい文章だ。
僕のことを心配してくれていて、そして僕の無事がわかったことを喜んでくれている。
そしてスタックやその母親が助かったことを祝う文章。そのあと、僕の今後を心配する忠告。
暗号のようなものもなく、何かを仄めかしているわけでもない。
だが、何故だろう。
プロンデを殺したと知っているからだろうか。僕はこの文章に、薄ら寒さを感じた。
それよりも、いつの間に。
今現在、僕に向けた視線はないと思う。魔力を飛ばして確認してみても、範囲内にはおそらくサンギエの人間とそれに案内される商人だろう人間が幾人かいるだけだ。
しかしこの文面からすると、ずっと見ていた。彼らを治し、そして彼らの母親を治療するまで。
いつ入れられた? 入れられたのは、おそらくスタックたちが薬を作り出した頃から、僕があの父親と広場で話し始めるまで。
流石に、透明化のために作り出している魔力圏に誰かが入れば分かる。そう思う。
すると透明化を解いている間? 父親に僕が声をかけてからほんの少しの間に?
改めて戦慄する。
なるほど、これはプロンデも殺されるわけだ。
レイトンと同じく、姿も見せずに忍び寄る技術。彼女とレイトンとの斬り合いで、何となくその技術の一端を理解したつもりでいた。事実、葉雨流のフェイントとミスディレクションは、前よりはきっと捉えられるようになっているだろう。
だが、進歩したようでもまだ遠い。
スティーブンが言っていた違い。それがここにも当てはまる。
僕の技術は体術。効率的に体を動かし、より力強くより素早く動く術。それに対し、彼らの技術は効率的に人体を破壊し殺傷する武術。
僕と彼らの競争は、獣と人間の争いに近い。
感覚器官を総動員すれば、人の気配は概ねわかるだろう。事実、今までそれで何とかしてきた。森の中でも、何とかなってきた。
けれど、いくら耳を澄ましたところで、目を凝らしたところで彼らはそれを欺く力を持つ。
進歩はしている。その自信はある。
しかしこのままでは、人間の知恵に獣は敗北するばかりなのだろう。
何処かで武術を学ぶ?
そうは思った。だがここに至って僕はまだ、誰かに師事したくはない。
スティーブンの勧誘を断ったのは本心だ。
敬意を払うことは多分出来る。礼をとることは出来る。けれど、何となく忌避感がある。上手く言葉に出来ないけれど。
これからまた成長期が来る。
今のペースでいけば、体はきっと成長するだろう。より力強く、より丈夫に。それで強くはなれるだろう。質は変わらないが。
別に誰かと戦わなければいけないわけではない。
でも、このままでは負ける。誰にかはわからないが、誰かには。
昔、月野流の門下生であるバーンを負かしたことがある。あの時は僕の自分に対する色眼鏡を鑑みても、圧倒的な差があったと思う。でも、今はどうだろう。成長期で体は成長し、そして弛まぬ訓練を積んでいるであろうあの少年と僕の差は。
スティーブンも、正気を失っていたから勝てたのだろう。周囲の温度を奪い、酸素を凍結させようとも、正気ならばまた結果は違ったかもしれない。
月野流も葉雨流も水天流も、どれも侮れない。武術は強い。生物を殺傷するために長年研鑽されてきた技術だ。けっして、甘く見ることは出来ない。
右手の人差し指を噛んで僕は考える。
プリシラの手紙。重要な人物からではあるが、その中身はあまり重要ではない。
グーゼルやマリーヤへの友誼としては、彼女をリドニックに連れていくべきだろう。しかしその位置が分からない以上、それをするのは不可能だ。
それよりも。いや、だからこそ。この手紙が僕の荷物に知らぬ間に入れられていたこと、そちらを軽視すべきではないと僕の勘が告げている。
別に誰かと戦わなければいけないわけではない。
紛争の解決は武力が手っ取り早いけれど、話し合いでも交渉でも、無数に手はあるだろう。
武力は手段の一つだ。武術がどうしても必要なわけではない。持っていて損はないし、最低限持っていなければ交渉も出来はしないかもしれないが。
それに、武力ならば僕には魔法がある。
掌の先に魔法で白い鳥を形作る。
以前食べたことのある鳩のような鳥。それが羽ばたき、そして煙のように消えた。
しかし、この『魔法』で、対抗できるだろうか。
今まで、白兵戦で勝てなければ魔法で、魔法で勝てなければ口三味線で何とかしてきた。
しかしそれで何ともならなかったのがこの前の強盗事件で、結局は最後に人に頼ってしまった。
プリシラは、プロンデを殺した。
だとするならば、僕とも敵対する恐れがある。そしてそのとき、対抗できる手段を持っていなければ話し合いすら出来ない。
そのとき、魔法で対抗できるだろうか。
話術では敵わないだろう。きっと占い師としての経験や技術は、そのまま話術へと転用されている。僕との職業的な違いだ。
まだ、敵対はしていない。手紙の内容を信じるのであれば、きっと。
まだ時間はある。そして必要になる機会もないかもしれない。
でも、ようやく一つ言葉に出来る。ずっと感じていた焦燥の原因の一部。
きっとこの問題は繋がっている。
何か一つ、僕が胸を張って『出来ること』と言えるものを作らなければ。生来のものではない、何かを。
そうしなければ、きっとリコやモスクに顔向けできない。
そんな気がする。
……ここにいても何もならない。
この岩だらけの国……でもないらしいが、この国ではきっと何も。
僕は立ち上がる。
まだ答えは出ていないけれど、それでも歩き続けなければ。
とりあえず、今日は移動に費やそう。いい考えが浮かぶまで。
『考え続けなければ』と、そう以前レイトンに言われた。その意味がやっと分かってきた気がする。僕にとってはそれ以前の問題だったけれど。
それから僕は、夜になるまで岩の上を飛び続けた。