閑話:北を見つめて
騒動から七日後。スニッグの北の端、雪原に面するその一角に、大きな黒曜石の石碑が建てられていた。
そこに刻まれている文字はまだ真新しく角があり、そして研磨されずとも有する光沢は研磨されることにより、より一層輝いているように見えた。
「……数多の戦士たちが倒れた地、か」
その、細かく刻まれたこの碑が建てられた経緯。その最後の一説を読み上げて、老人は肩を落とす。
真っ白に光っていた白銀の鎧は先日の騒動を経て傷が増え、へこみを直してはいるもののやはり新品とは違う風合いになってしまっている。
その白銀の光に負けないほど、白く光る髭。艶はないが顎の下まで伸びたその髭に絡みついた氷を指で払い落とし、スティーブンは石碑から視線を外した。
代わりに見つめるのは、その遙か北の方向。
その石碑に記された戦場。その先にある山脈。そして、その先にある北壁だった。
「みんな、死んでいきよる。もう年老いた儂が生き残ってしもうたのに」
呟かれた言葉は誰の耳にも届かなかったが、ただそれを呟いたスティーブンの耳には充分すぎるほど反響した。
既に、闘気による強化なしでは遠くなりつつある耳。それがこんなときにはよく聞こえなくてもいいのに。スティーブンはそう自嘲した。
スティーブンは、若さを求めてこの地に来た。
だが、その結果はどうだっただろう。
求める不老長寿の妙薬は存在せず、そしてそこに付き合わせたせいで、若者が一人死んでしまった。
もちろん、彼だけではない。死んだ騎士団員は大勢いるし、彼だけを特別扱いすることは難しい。しかし、やはり後悔は残る。
この事件を起こした犯人は、あの少年を北砦で初めて発見した。ならば、自分があの少年、カラスを北壁に誘わなければカラスは狙われなかった。
この事件に対して、部外者で済んだはずだった。
きっとあの少年も、部外者であれば命を投げ出すことはしなかっただろう。
その後にマリーヤに聞いた顛末によれば、誰かが命を投げ出さなければ全員が危なかったとも聞いてはいる。そして、カラスが命を投げ出さなければグーゼルが死んでいたということも知っている。
それ以外の方法は、スティーブンには思いつかない。グーゼルが死ねばいいとも思わない。けれど、カラスがその身を投げ出したのは、自分が巻き込んだからだ。そう思っていた。
自分が若さを求めたせいで、若者が死んだ。そして、それでも老いからも逃げられない。
その事実をもう一度反芻し、スティーブンは目を強く瞑る。
いつまでこんなことを繰り返すのだろうか。答えの存在しない道を走り続け、犠牲を出し続ける。今自分がしていることは、きっとそういうことなのだろう。
何故、生き残ってしまったのだろう。スティーブンはそう自分を責める。
何故、あのとき足止めに残らなかったのだろう。少しでも時間を稼げば、自分よりも優秀な彼らなら、もうそれ以上の犠牲のない解決策を考え出してくれたかもしれないのに。
死ぬのがそんなに怖いか。そんな声が暗闇に響く。
ああ、怖いとも。死にたくない。老いたくない。誰を犠牲にしてでも。
応える内心の声が、また虚しかった。
ふと、スティーブンは振り返る。背後に気配を感じて。
隠されていたわけではない。スティーブンも気付いてはいた。けれど、脅威もないその影に、関心を向けられるほど心に余裕もなかった。その時までは。
「月野流当主、スティーブン・ラチャンス翁とお見受けいたします」
「その通りじゃ。なんじゃ? お主らは」
ぞろぞろと、三人の男が前に出る。その後ろで、もう一人、スティーブンに声をかけた男が首を鳴らして佇んでいた。
「立ち会いを願いたい。私たちは、白波傭兵団とでも名乗っておきましょうか」
「白波……知らん名じゃな」
「そうでしょうとも。旗揚げしたのはつい昨日ですからな」
三人の男が、すらりと剣を抜く。まだ一度も使っていない、新品同然の剣だった。
「……手合わせする理由がないのう。お断りしよう」
「それでも構いませんがね」
男たちが一歩躙り寄る。目つきの悪いその男たちは、スティーブンの顔を見て笑っていた。
後ろにいる一人がその中央の男の肩に手をかける。止めるため、というポーズではあるがその手に力は入っていない。そして、軽い口調で補足した。
「先日の戦場で名を上げた月野流のご当主に手合わせを断られた。良い宣伝になります」
「売名するなら相手を選ぶがよい。今は少し、余裕がないのでな」
スティーブンは、もう話は終わりとばかりに背を向ける。無防備な背中だった。
前に出ている男の一人が、その背に向けて叫ぶ。
「先日の戦場で生き残った奴らは、それだけで名を上げた! その中で、あんたはいい鴨なんだよ! へっ、こんな老いぼれが」
「……それ以上の言葉は吐かん方が身のためじゃぞ。若いの」
ぴり、と空気が震える。それにわずかに違和感を覚えるも、全く怯まずに男は続けた。
「こんな老いぼれが生き残れるんなら、俺らも参戦してりゃあよかっ……」
鮮血が弾ける。
剛剣が男の腕を切り落とし、剣も、鎧も、全てを二つに切り裂いた。
「立ち合い前に、武芸者に真剣を向けた。そして、身の丈に合わん暴言を吐いた。お主等にはわからんようじゃな、その意味が」
呟くようにそう言葉を口にするスティーブンの目の前で、腸をはみ出させながら、男の体が崩れ去った。
「……っ!」
その場に残った三人が息を飲む。そして、初めて気がつく。目の前の老人の放つ気炎に。
その刀身に曇りはない。しかし、目の前の惨状がその剣により引き起こされたものだということは容易に想像がついた。
だが、怯えを出すわけにはいかない。リーダー格の男は叫ぶように言い返した。
「か、開始の合図もなくこれでは立ち合いとは……」
「戦場では、開始の声などあるわけなかろう」
視線を向けられた右の男が肩を震わせる。勝敗は既にわかっていた。しかし、その剣を下げるわけにはいかない。ここで剣を引いてしまったら、面子が重要となる傭兵団の旗揚げなど出来ないことも知っていた。
「わ、あぁぁぁ!」
飛びかかるように気合いを入れて剣を構え、そして突く。
男たちが仲間内で研鑽した剣術だった。
しかし、その剣は届かない。
月野流の基本を使うまでもない。スティーブンはだらりと下げた腕を高速で切り上げる。
それだけで、突き出された剣と、それを握る拳と腕が真っ二つに割れた。
「ひいいいい」
腕を押さえて呻く。スティーブンはそれを見下ろし、残った二人のほうへと顔を向けた。
「動きが破綻だらけじゃ。実戦など一切経験しておらんようじゃな」
「……余計な詮索を……」
「この老いぼれにも生き残れた戦場じゃもの。生き残れてしまった戦場じゃもの。参戦していればよかったのう。それで、お主らも身の丈がわかったじゃろうに」
その言葉とその冷たい視線に、リーダー格の男はようやく気がつく。
自分たちは、言ってはならないことを言ってしまった。手を出してはいけない者に手を出してしまったと。
「き、気に障ることをしてしまったのは謝罪する! だが、命まで奪うことは……!」
一歩スティーブンが踏み出す。男たちの血を踏みながら。
「何をいっとるんじゃ。真剣を使った立ち合いともなれば、人は死ぬ。まさか、自分だけは大丈夫とでも思っておったわけではあるまいに」
その迫力に負け、リーダーは尻餅をつく。
侮っていた。名があるとはいえ、目の前の老人の力を。
戦場で人が死んだと聞いた。だが、そんな遠い世界の話など、自分の身には起こりえないと思っていた。
覚悟がなかった。荒事に関わる世界に入ろうとしたにも関わらず、命を張ることの意味をわかってはいなかった。
武芸者として、一瞬の躊躇もなく命のやりとりに踏み切った目の前の老人が、恐ろしかった。
「……今回の痛みは授業料じゃ。早く、その二人を治療院に運ぶがよい。今ならばまだ助かる」
スティーブンが剣をしまう。そして無防備にまた背を向けた。
切り裂いた腕も、割った腕も、治療師ならば治せるだろう。その程度に斬ったはずだ。そう確認しつつ。
それよりも、ここで死んでほしくはない。もう誰も、この雪原で死んでほしくはない。そう願っていた。
残った一人が、剣を構えて威嚇した。
「こ、こんなことしていいと思っているのか。え、衛兵があんたを捕まえに来るぞ……」
「言えるもんならいってみればよかろう。老い先短い身じゃ。多少の罪はどうということはない。それに……」
スティーブンは横目でリーダー格の男を見る。上に立っているだけあって、その証言の意味は重々承知のようで目を逸らした。
「傭兵も探索者と一緒じゃ。訴えられるかの? この老いぼれに負けたと」
「……行きますよ……!」
スティーブンの声に返させぬよう、余計なことを言わせないようにリーダーは男を促す。はみ出た腸をこぼさないように、腕を拾い上げて脇を縛り、手早く止血する。
「…………」
「はよ行け」
そして最後に、悔しそうにスティーブンを睨む。だが、その目には、嫉妬と絶望が混じっていた。
去っていく招かれざる客人の足音を聞きながら、スティーブンは北を見つめる。
また、勝ってしまった。この老いぼれなど、死んでしまえばいいのに。軽く手合わせして、適当に褒めて終わればそれでよかったのに。
だが、やはり怒りは抑えられなかった。
この老いぼれが生き残れた戦場。それは間違いではないだろう。けれど、それを指摘されるのが腹立たしかった。あの戦場で死んだ若者たちが馬鹿にされた気がした。
それから、スティーブンは溜め息をつく。
これから、このような輩が増えるだろう。そう思って。
ムジカルとの戦の後でも起きたことだ。大きな戦火があると、それに伴い地位や名声に大きな影響がある。
そこで、思ってしまう者が多いのだ。『自分も成り上がりたい』と。
それ自体は間違いではない。若者は夢を追ってもいいものだし、何よりスティーブン自身も戦で成り上がった身だ。それについては文句を言えない。
けれど、それを願う多くの者が、戦については部外者なのだ。
その成り上がりを願う者は、当然『生き残った』者たちを見て、自分もと願う。
死んだ者については、端から気にも留めないのだ。だから、生死が軽い。簡単に生き残れるものだと思ってしまう。
騎士たちや紅血隊員たちが、自分たちの代わりに命を散らすかもしれない戦場に立ち続けていることを、軽く見てしまう。
「……癇癪を起こさなければいいがのう……」
視界の中にふと見つけた鳥か魔物かの黒い影を見つめ、スティーブンはぽつりと呟く。
その言葉は、現在城に詰めているこの国最強の女性に届くことなく、白い雪の中に消えていった。




