いってらっしゃい
「では、失礼します」
話しすぎた。僕はこの月の住民ではなく、地上の民だ。ならば、もういかなければ。
そう告げた僕を、引き留めるでもなくアリエル様は笑顔を作る。
「そう。気を付けるのよ。長い人生、疲れたらたまにはいらっしゃい。またあんたが飲まれても、苗床にはしないようにエインセルには言いつけておくから」
「……ええ、ありがとうございます。アリエル様もお元気で」
この部屋にいる限り、アリエル様に何かあることもないだろうが。それでも、社交辞令的に僕はそう返した。
しかし、ここに来るためにはまた波に飲まれないといけないのか。乱暴な入り方だ。
「帰りは思い出の部屋を通っていくといいわ。繊月の部屋からでもいいけれど、あの部屋からなら何処にでもいける。もう、道案内も不要でしょ?」
「どうでしょうか」
僕は半笑いでおどけて見せる。きっと、迷ったりはしないと思う。
アリエル様もそれはきっとわかってるのだろう。優しい笑みで、僕から視線を外さなかった。
「良いことを教えてあげる」
「何でしょう?」
「あの部屋から、日本にも帰れるわ。あたしも思い出の部屋を使って日本へ行ったんだもの」
懐かしむよう、アリエル様は目を細める。きっと、嘘じゃない。
僕は頭のなかでその言葉を繰り返し、唾を飲んだ。
「だから、帰りたいならそこから帰ってもいいと思うわ。頼子さんの顔、もう一度見たいと思うなら」
優しげな笑顔が悪戯っぽく歪んでいく。妖精は悪戯好きだと聞いたことがある気がするが、これも悪ふざけだろうか。僕の反応を見て、楽しむための。
ならば、無反応がいい。アリエル様を楽しませないためには。けれど、僕はきっと反応薄くいられなかった。
僕は拳を握りしめ、せめてと笑顔を強めて返す。
「いいえ。頼子さんの顔は覚えています。もう、思い出さなくても刻み込まれてるほどに」
「イェア。なら大丈夫ね」
アリエル様の笑顔が薄くなる。そして、鼻で僕を笑った。
「そうよ。思い出に囚われちゃ駄目よ。思い出は、胸に抱えて進むものなの。たまに取り出して、力をもらうのもいいけどね」
「……本当に戻れるんでしょうか」
思いがけず、僕の口がそう言葉を紡ぐ。たった今断ったばかりなのに。未練がましい限りだ。
狙い通り、とアリエル様の顔が歪んだ。少しだけ悔しい。
「さて、どうかしら。あたしがそこを通っていったのは本当よ。思い出はどこにだっていける。過去にも未来にも、違う世界にだって飛んでいけるんだから」
だから、とアリエル様は言葉を切る。肩を一度上げて、下ろして。力を抜いて溜め息をついた。
「そこを思うがままに抜けていけば、そこはあんたが望んだ世界よ。どこに行くのかしらね」
「どこに出るんでしょうね。一応、リドニックに戻る気ではいますけれど……」
どこに出るかはわからない。
頼子さんのことは過去のことだ。もう僕がどうすることも出来ず、そしてどちらかと言えば戻りたくない。
頼子さんの姿を見るのであれば、きっとその傍らに、かつての僕がいるのだろうから。
でも、僕はやはり日本に戻りたいのかもしれない。
だからこその先ほどの言葉だろう。本当にどうでもいいのであれば、戻れることの確認などしなくてもよかったのだから。
言い淀んだ僕に、アリエル様は言う。
「そ。ならどこに出るか、楽しみにするといいわ。あたしはあんたがリドニックに出るほうに賭けてあげる」
「なら、僕は日本に賭けなくちゃ勝負になりませんね」
「ノン。好きな方に賭けたらいいじゃない。でもたしかに日本に賭けるのをおすすめするわ。間違って日本に戻ったら、『賭けに勝った』って喜べるもの」
「間違って、ですか」
「そう。間違って。あんたは日本に戻っちゃ駄目よ。それはあたしからのお願い」
アリエル様は立ち上がる。それから椅子を蹴ると、椅子は透けて消えていった。
「……あんたの両親は元気? もちろん、この世界の」
突然の問いかけに、僕は一瞬動きを止める。だが、その答えは簡単だった。
「全くわかりません。生まれてすぐ森に捨てられてしまったので、声も良く覚えていませんし、姿をはっきりとも見たことはありません」
「……そ。あんたのことだから、上手くいってはいないと思っていたけど……、そう、捨てられたの。残念?」
「いえ。そのあとすぐ、どうでもいいと思ってしまったので」
今でもそう思う。あのとき、僕は顔も名前も知らない両親をどうでもいいと思った。それはきっと、命の危機が迫っていたからだけではなかったのだろう。
「ふふふ、本当、根が深いわ」
「ええ。本当に」
アリエル様の言葉に、僕は笑って頷いた。
ふと、顔を上げる。視界の周囲が白く染まっていた。
いや、これは視界が白く染まっているのではなく、実際に景色が白くなっているのだ。まるで、背後から霧に飲まれるように、黄色みを帯びた壁が白くぼやけていく。
アリエル様のいる机はその白に飲まれず、アリエル様とエインセルたちだけが、くっきりと見えていた。
「さあ、あんたはここにいちゃ駄目。ちゃんと新しい世界で、ちゃんと苦しみなさい。そのためにあたしはあんたをこの世界に連れてきたんだから」
アリエル様の声が遠くなる。実際に、少しずつ遠くになっていっている気がする。
「……親の……特に母親の役目ってわかる?」
しかし遠くなっていった割には、呟くような声がやけに近くに感じた。
「いえ。何でいきなり……」
「あたしはね、子供をどこかに送り出すっていうのが母親の役目だと思うのよ。子供を自分の世界に産み出したり、朝学校に行く子供を『いってらっしゃい』って送り出したり」
白い霧に包まれていく。まるで、思い出の部屋のように。
「あたしはあんたをこの世界に連れてきた。お腹を痛めてはないけれど、あんたをこの世界に連れてきたのは私」
「自分が母親だと言いたいんですか」
「イェア。ママでもマミーでもいいわ。むしろそっちのほうがいいわね」
何だろうか、突然。
「……あたしはあんたのママよ。産んだ母親は別にいるけれど」
優しげな声が響く。足下すら見えない白い部屋の中で、どこから聞こえてくるかもわからない声に包まれる。魔力を展開しても、なにもかすりもしない。
「今でもあんたは親なんかどうでもいいと思っているわ。いいえ、いないほうがいいと思っている」
「そうかもしれませんね」
「でも、そうはさせないわ。あたしはあんたをこの世界に連れてきたけれど、安楽な生活をさせるためじゃないのよ」
僕は頷く。先ほどアリエル様が言っていたことだ。『この世界で苦しい思いをさせるために』僕をこの世界に連れてきた。
それに関して、もうあまり腹は立たない。きっとそれは、僕自身が思っていたことだから。
視界が白一色に染まる。
「だから、忘れないで。あんたには母親がいる。母親の名は? と問われたら、胸を張って言い返しなさい」
ふと後ろを見れば、先ほどまでいた部屋があった。遠くで小さく開いている扉は、先ほど開けた扉だ。
その扉の向こうで、アリエル様がこちらを見ている。扉から顔を覗かせて、エインセルたちも。
アリエル様の囁くような口の動きに反して、頭に響くように声がする。
「あんたの母親の名は、アリエル。その名を使うことを許してあげる」
「今更新しく母親なんて要らないんですけど……」
空気をあえて読まず、僕はそう言い返す。本心だし、事実そうだろう。僕にとって、母親は子供に安楽な居場所を用意するものだし、子供が育つための用意をしてくれる存在だ。
そんな僕の胸中も、アリエル様は読んでいたのだろう。嘲笑うような含み笑いの気配がした。
「あたしだって嫌よ。まだセブンティーンなのにこぶつきなんて」
もう、視界の中には何もなく、見回しても何も見えない。けれど、やはりアリエル様は近くにいる。そんな気がする。
唾を飲む音まで聞こえたような気さえした。
「それでも、忘れないで。あたしたちは空からずっと、あんたを見守っているんだから」
それきり、声は途絶えた。
上下左右何もなく、浮いているような頼りない空間。
だが少しだけ、足下に感覚が戻ってきた。裸足で何かを踏む感覚。
目の細かい砂を踏むような、さらさらとした感触。足の指で摘まむと、確かに何かが指の間に絡んだ。力を抜くと、液体のように離れて消えていくけれど。
綿のような不安定なその足場を、一歩一歩進んでいく。
実際には、進んでいるかどうかもわからない。だが、あまり焦りはない。この部屋の中にいる限り、外は何ひとつ変わらないということを知っているからだろう。
温い空気が頬を撫でる。その空気に、匂いまで混ざっていた。
草の匂い。それと、お茶の匂い。
そうだ。あの玉音放送の日。庭に出た僕の昼食。
当時の日本にしては珍しい、イギリス式のアフタヌーンティーを模した食事だった。
ビスケットのような固いパンに生クリームとイチゴを挟んだショートケーキ。スコーンにクロテッドクリーム。それに、紅茶。今からして思えば、終わったとはいえよく戦時下であれだけの食事が出来たものだ。
覚えてはいないが、きっと使用人も不満は溜まっていたと思う。
白い霧の中に、影が映る。
ぼやけているが、それが何かは僕にははっきりとわかった。
まさに、そのときの昼食の風景だ。
日傘が差された丸い机で向かい合い、僕と頼子さんが座っている。傍らのいくつかの影は使用人だろう。
あのときの味が、口の中に蘇ってきた気がする。美味しかった。
甘さのないスコーンにクロテッドクリームとジャムを乗せて囓り、奪われた水分を紅茶で潤す。そんな組み合わせの妙味もあるだろう。
でも、そうじゃない。きっと、味の問題ではない。
楽しかったのだ。使用人はいるが、二人の昼食が。何の変哲もない……いや、日本は激動の日だったけれど、何の変哲もない昼食と、それに伴う他愛のない話が。
一歩進むと影が濃くなる。話し声まで聞こえてきた気がする。
もう少し、聞いていたい。もう少しだけ、その空気を味わいたい。
そう思ってしまった。
足が砂に潜る。重たくなった足が、前に進まなくなってきた。
それを感じて我に返り、僕は笑った。
アリエル様やエインセルたちが言っていたのは、きっとこういうことだ。
思い出に囚われて、前に進めなくなる。これは、アリエル様の部屋に行くとき追ってきた思い出と違い、きっといい思い出なのだろう。
良い思い出を求めるか、悪い思い出から逃げていくか。そのどちらでも、きっと僕は前に進めなくなる。
そうだ。思い出は、胸に抱えるものだとアリエル様は言った。
囚われるな。僕はそう心に念じ、拳を握る。
あれは過去の思い出だ。仮にそこに戻れたとしても、僕はただの傍観者だ。
たまには思い出すのもいいだろう。昔を懐かしめばきっと足に力は入る。けれど、あの日の昼食をもう一度体験することは出来ない。
美味しかった、楽しかった、もう過去のこと。
僕はそれを心に沈めて、また辛い現実を生きていくのだ。
思い出の影が動きを止める。だが思い出は消えることなく霧が晴れていく。
ふと、その中の二人が振り返ってこちらを見た。
二人が僕を見て笑う。今の僕には似ても似つかない成人男性と、頼子さん。
一瞬だけだが、確かにそう見えた。
霧が晴れていく。
顔に光が当たる。眩しく、透明感のある日の光。
空気が冷たい。だが不快ではない。
一歩踏み出す。足に触れるさらさらとした感触の雪。
振り返れば白い壁。
石膏のような、プラスチックのような不思議な質感。それに触ることは許されない。
『行ってきます』と挨拶はしない。だが、頭を下げる。僕がしたのはそれだけだったが、応えるよう壁の奥から笑い声が聞こえた気がした。
そしてもう一度壁を背に前を見れば、あの日グーゼルが案内してくれたときにはなかった青空が、山脈を白く輝かせていた。




