閑話:後追いの思い出
SIDE:前話で追ってきた思い出
作中の『文豪』は、モデルはいますがフィクションです。実在の人物とは一切かかわりがありません。
「入水自殺らしいです」
「まあ」
彼が開いた新聞の見出しを読み上げると、頼子は驚きの声を上げた。
終戦から三年後、後に昭和の大文豪と呼ばれる作家の入水自殺の報だ。その文豪の書いた同人誌は、わざわざ取り寄せて二人で読んだこともあった。件の文豪は、玉川上水で戦争未亡人の愛人と入水したという。
男と女、どちらがそれを発案し、それを実行に移したのかはわからない。作家は穏やかな顔で、愛人は恐怖に引きつった顔で死んでいた。男物の下駄を土手に食い込ませ、抵抗したかのような跡があった。二人は赤い紐で互いに結ばれていた。そんな些細な判断材料はあるものの、やはり目撃者もない以上、当人たちしかそれを知る術はない。
彼はその事件に、微かなシンパシーを感じていた。
死ぬのは怖い。それは、生物である以上持っていて当然の恐怖だ。
しかし彼らの心のうちの何かは、その恐怖を凌駕した。その何かは、きっと明白なものだ。
二人は愛し合っていた。それも明白だったという。ならば、一人ではなく二人で死ねるのならば、旅立つ勇気も出るというものだ。
ちらりと彼は頼子を見る。
端整な顔立ちで、客人もお世辞抜きで褒めることすらある。安楽椅子が揺れる度、黒髪が揺れて頬に落ちた。
彼は考える。
彼女と一緒に死ぬのは怖いだろうか。
彼は想像する。
彼女と一緒に眠り薬を飲み、水に入る。
手首を切ってもいい。出血量の小さい手首では死ぬまでに時間はかかるだろうが、どうせ意識は混濁する。その中で苦しみなど、長引いても問題はない。
そこまで考えて、彼は笑った。
それを、どうやって実行しようというのだろうか。
この動かぬ足だ。そもそも、眠り薬などなくとも充分水に入るだけで溺れ死ぬだろう。それはいい。だがその前に、どうやって水辺に行こうというのだろうか。
頼子に頼む? 『自分と一緒に死んでくれ』と。
誰にも知られず、彼は自嘲した。
誤解のないように書き加えておけば、彼らは一緒に死のうと思ったことなどは一切ない。
彼も思う。彼女には彼女の人生があり、それを妨げることは何人たりとも許されない。自分がその道を断つなど、許されていない。
そう、許されていないのだ。
今の自分はどうだろうか。彼は自らを省みる。
親の決めた結婚だが、彼は彼なりに妻を愛している。その愛した妻に負担をかけて、それでどうして平気で笑っていられようか。
彼女が幸せならば、それはそれでいい。それならば、自分もきっと胸を張れる。だが、きっと彼女は……。
「でも……」
頼子は彼に借りた一冊の文庫本から目を離さず、口角を上げる。
「心中するって、すごいですね。よっぽど、好き合っていたんでしょうね」
話題の中心は、『心中』だ。およそのどかな話題でもない。しかし、穏やかに笑いながら頼子は本のページをめくった。
「きっと、二人は最期幸せだったんでしょうね」
「……そうでしょうか」
陽の当たる頼子の明るい頬を見ていられず、彼は窓の外を見る。新緑の季節、夏の早い訪れのように、庭には緑の葉っぱが茂っていた。
「頼子さんは……」
自分の名前を口に出され、頼子は目を上げる。彼は、その目を見ることが出来なかった。
「僕と結婚して、幸せでしょうか?」
眉を下げながら口に出された弱気な質問に、頼子の頬がまた綻ぶ。その頬を見ていれば、彼の胸中も変わったというのに。
「幸せですよ。貴方の家に嫁いで、幸せにならない女などおりません」
「……そう、ですか」
言葉通りの意味だった。
頼子にとっては、言葉通り、この家に、そして彼に嫁いで幸せだと伝えただけだった。
けれど、彼はそうは思わなかった。『貴方の家に』という何気ない修飾が、心の中で暴れていた。
裕福な家だ。金銭的な不自由など一切感じることはなく、好きなものを好きなように買うことが出来る。使用人のおかげで時間も制約されることはなく、家庭に入った女性の多くが感じるであろう、家庭の仕事の手間からも解放されている。
もっとも、彼女は一般人が望む以上の贅沢など興味はないし、料理や家事なども趣味の範囲で熱心に携わっていた。しかしその手にあかぎれなどがないのは、手入れの問題だけではないのも確かだろう。
彼は、年に数回、さりげなく折に触れてこのような質問を繰り返していた。
『自分と結婚して幸せか』『本当に自分と結婚してよかったのか』、と。
頼子は気にもしなかったが、それが彼の小心さを表していることを、誰も知らない。
彼はずっと気に病んでいた。望めば良縁も得られたであろう気立ての良さや美しさを持ちながらも、自分などと結婚させられた彼女の不遇を。
仮に彼女が『そんなわけない』と一言でも口にすれば、彼は自らの身や一族の体面を傷つけようとも彼女の願いを叶えようと尽力しただろう。尤も、それが叶うのは奇跡に近い難物だが。
彼は理解していない。
いくら気立てがよくとも、いくら恩があるといえども、いくら裕福な家庭であっても、もし好きでもない男だとしたら一緒に暮らすというのは苦痛となる。
その上で、今まさに同じ家で暮らし同じ部屋で同じ本を読んでいる頼子は、その行いできちんと自らの気持ちを示していることを。
家庭教師の視線は、彼を抜かして彼の父親を見ていた。
父親の部下たちが彼に対しする贈り物は、彼を通して父親に向けられていた。
誕生日祝いや彼への世話は、父親に対する覚えを良くするためのものだ。
周囲の人間は口と行動は伴えども、必ず心は違うところを向いている。そんな中で育った彼が、人の言動の裏を探ろうとしてしまうのは仕方のないことかもしれない。
けれど。
彼女はきちんと彼を見ていたのに。
彼女はきちんと、彼を見て答えていたのに。
その目を真正面から見つめ返せなかったのは、彼の心の弱さだった。
「羨ましい」
ぽつりと呟いた言葉は、頼子にとっては冗談のような響きだった。
「……僕も幸せに死にたいですね」
「いいですね。その時は、きっと見送ります」
頼子は、栞紐を文庫本の最後にかけて、パタリと本を閉じる。
「でも、滅多なことを言うもんじゃありませんよ。貴方と一緒に生きていくほうが、私にはずっと幸せですから」
「まだまだ先の話ですよ」
その言葉の響きが本当に冗談じみていたので、頼子は安心して、文庫本を本棚にしまった。




