閑話:彼の夢
SIDE:
「やはり、負けてしまったね」
彼は、ベッドの脇にある窓から外を見下ろしそう呟いた。
青々とした草木の生い茂る庭。それに、池の水を飲み、瑞々しく光を弾く名も知らぬ小鳥たち。そこには戦火の燻りも血なまぐささもない平和そのもの。きらきらとした、いつもの午後があった。
ガアガアと雑音混じりのラジオの音が、日本の敗戦を告げる。実際にはまだ降伏をしたわけではないが、そうなるだろうとこの部屋にいた二人は感じた。天皇陛下の玉音が、きっと今全国に響いている。廊下の向こうで、使用人が泣く声が聞こえる。彼らは、本気で勝つと思っていたのだ。
生ぬるい風が、風鈴をリンと鳴らした。
「何というか、遠い世界の話のようですね」
「実際に遠いと思いますよ。僕らにとっては海の外、遠い国の話ですから」
遠い世界。彼にとっては、その言葉は言葉以上の意味を持っている。彼は、ベッドに投げ出された動かぬ自分の両脚を見つめる。
彼が腹にいる頃、彼の母親が飲んだ酒が原因で、生まれた彼の両脚は動かなくなっていた。脳性小児麻痺と医師は診断した。妊娠中の飲酒による障害としてはありふれたものだ。
彼は、溜め息をつく。安堵と落胆と、その両方を含んだ息を。
この足が原因で、彼にとっては遠い世界だった。
戦争が、ではない。全てが、彼にとっては遠い世界の象徴だ。
自らの足で立つことは出来ない。
ラジオの向こうで報じられる戦場も、大きな窓から見える外の景色も、妻である頼子の話に上がる近所の川も。
どこであっても、自分の足で立つことは出来ない。彼にとっての世界は小さな自分の部屋と、頭の中だけ。それ以外は、彼にとっては全て他人事といってもよかった。
だが、他人事で済ませたいわけでもなかった。
戦場に立ちたいというわけではない。ただ、申し訳なかった。
華族のうち、商売に成功した一族の跡継ぎ候補だった彼の家には使用人が大勢いる。その中でも、兵役にとられ、南方に送られていった者が大勢いた。
そして、今のところ誰一人帰ってこない。
彼らや、ラジオの向こうで雄々しく戦い散っていく兵士たち。彼らは何のために戦っているというのだろう。
天皇陛下は仰られた。『実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ』と。
それが嘘か本当かは彼にはわからない。だが、赤紙を送られた使用人が、庭の隅で泣いているのを遠目に見たことがある。それを思えば、きっとそれぞれに戦う理由はあったのだ。
そして、彼らの犠牲がなければ、北にソ連、西に中国、太平洋を挟み米英と、四方を囲まれた日本は、そしてひいては自分たちが火に焼かれてしまうことは目に見えていた。
だから、彼は申し訳なく思っていた。そして恥じた。
彼らの犠牲の下、生き長らえる自分を。当事者であるのに、共に戦えない自分を。
しかしだからこそ、安堵の息も吐いている。
彼は、戦場に出ずに済んだ。この動かぬ足のおかげで。
命を奪われずに済んだ。命を奪わずに済んだ。
そう安堵した自分が、また恥ずかしかった。
「そうでもないでしょう。今年の春、東京でも大きな爆撃があったそうですし」
「僕たちが東京を出た後ですね。やっぱり、遠いんです」
寂しそうに話す彼の顔を見て、頼子はふと目を細める。その、わずかに伝わった寂しさに。
リン、と風鈴が鳴る。
「……本ばかりじゃいけません。お昼ご飯は、庭で食べましょうか」
「……そうですね……」
沈んだ顔で、彼はパタンと医学書を閉じる。
脳性麻痺と診断されても、症状に認知障害などは見られず、ただ下肢の運動障害に限定されているのは不幸中の幸いだっただろうか。
一縷の望みをかけてでもないが、彼はそういった類いの本を読み漁っていた。解剖学から治療学、ドイツから取り寄せた最新の医学論文、果ては呪いに近い民間療法の風俗資料まで。物語を追うのももちろん好きだった。けれど、そういった本を読み込む程度には、まだまだ希望は持っていた。医者はおろか医学生にも、いや、通常の学生にすらなれるような生活はしていないというのに。
使用人が車椅子を押す。カラカラと車輪が鳴り、彼は外へと連れていかれる。
本当は、自分の足で歩けたらどんなにいいだろうか。そうは思う。けれど、それが出来たらきっと自分はここにはいない。そうも思う。
疎開先にわざわざ建てられた洋館は、階段はあるが段のない通路もあり、急造ではあるが車椅子にも適した形であった。それが、約四十年後にバリアフリーと呼ばれる気遣いだとは、まだ誰も知らない。
坂道を下る度、彼は思う。
自分の足で立ちたい。そしてそれと同時に、もう一つ。
ここで、手を放してもらえればどんなにいいだろうか。
緩いけれども、坂道だ。そこを転がり落ちるように転落し、頭を打つ。それが出来たらどんなにいいだろうか。
もう、誰にも迷惑をかけずに済む。
既に成人後の今となってはもう来ないが、彼のために雇われた家庭教師に会わずに済む。戦争が始まってからはもう来なくなって久しいが、彼の父親の心証を良くしようと、わざわざ見舞いに来る客も金輪際いなくなる。
知っていた。彼らが、自分のことなど本当は眼中にないことを。金のために、地位のために。ただ彼を透かして、彼の父親に媚びていた。
そして、本当は頼子もそうだと、彼は思っていた。
もちろん、そんなことは誰にも言えない。
頼んでそれが聞き入れられたとしても、手を放した使用人には、たとえ彼が一筆書いたとしても迷惑をかけるだろう。
それに、打ち所によっては助かってしまう。妻に、父親に、呼ばれた医者に、そして使用人にまた迷惑を重ねてしまう。
生まれてから今まで、迷惑のかけ通しだというのに。
一階につき、そして庭への扉が開かれる。
彼の心中を、誰も推し量らない。だが、明るい外に出るその前に、頼子は振り返り、彼に微笑んだ。




