閑話:道徳の系譜
「あれ? どうしたのかな? 私はそんな失礼をしているかな?」
ニコリとプリシラが笑いながら問いかける。それはプロンデが手を動かす気がないのを見て取ってのことだったが、プロンデはそれを聞いて唾を飲んだ。
そうだ。どうして自分は今握り返さなかったのだろう。握手には応えなくてはいけない。明らかな敵でもなく、柔和な笑みでこちらを見ている女性に、どうして自分はこんなに過剰な反応を。
「……いや。申し訳ない」
差し出されたままのプリシラの手を、プロンデがそっと握る。
プリシラはその手をわずかに握り返し、必要な情報を読み取りきって目を細めた。
自分でも何故かは知らず、プロンデは一歩後ずさる。一歩といっても、足の幅半分ほど。注意してみなければわからないほどわずかだったが。
「そんなに警戒しなくてもいいと思うよ」
「警戒など」
そう言いつつも、プリシラの言葉にプロンデは自分の警戒に気付く。何故だろうか、今自分は明らかに目の前の女性に警戒しているのだ。
しかし、どこにその要素があるのだろう。
威圧的な態度をとっているわけでもなく、明らかな凶器を携えているわけでもない。指名手配の人相書きでも見たことがない顔で、挙動不審なところなど微塵もないといっていいのに。
いや、とプロンデは思い直す。
不審なところなど、山ほどある。
何故、自分の名前を知っていたのだろうか。活躍を見ていたと言った。それはどこで?
それに、何故今このときに話しかけてきたのだろう。先ほどの様子では、この廊下に佇んでいた。自分を待っていたのだ。
つまり、自分の居場所を知っていたにもかかわらず、それ以前には声をかけてこなかった。まるで、ウェイトと離れて一人になるのを待っていたかのように。
疑い出すと止まらない。けれど、明らかな警戒対象でない以上、無下には出来ない。
プロンデは少しだけ悩み、重々しく口を開いた。
「申し訳ないが、用があるんだ。何の用事だ? 手短に頼む」
「ひひ。さっき言ったじゃないか。少しお話を……ってね」
表情を崩さず、プリシラは一歩歩み寄る。廊下で立ち話をするかのような気軽さと距離に、一瞬だがプロンデの警戒が解かれる。
「こんな佳人にお話をと言われるのは光栄だ。だけど、大した用事がないのなら」
「嬉しいことを言ってくれるね」
しかし、次の言葉でそれは間違いだったことに気付く。
「なに、少し感銘を受けたんだよ。カラス君が、試金石だっていうあの話、とても上手い例えだと思って」
「……!」
プロンデは元々動きの少ない表情を凍らせる。
その話題は先ほどウェイトと話したことだ。そして、そこには自分たち二人しかいなかったはずなのに。
無警戒に立ち聞きをされるほど、二人は迂闊ではない。それこそ無意識のうちに、自分たちの話に注意を傾けているものは察知しているはずだ。
なのに、この女性は。
「……話を聞こうか」
プロンデの警戒心は更に研ぎ澄まされる。その上で、目の前の笑顔が不気味に映った。
「話というのは、君たちがさっき言っていたことに通じることだよ。カラス君が死んだ。ならば、試金石はもうないと思う?」
「……社会の健全さの指標というのであれば、彼だけではないだろ。死者の数、犯罪件数、人口の増加量、その他にもあるはずだ」
「そうだね。そういった情報を集めて精査すれば、とてもよくわかるだろう。でも、それだと少し不足があると思うんだ」
プリシラの言葉にプロンデは眉を顰める。意外にも真面目な話に、何となく居住まいを正していた。
「犯罪件数の減少は、社会にとって良いことだと思う?」
「それはもちろん……と言いたいけど、場合による」
プロンデの返答にプリシラは頷く。嬉しそうに。
「そう。たとえば『今後一切の殺人は合法とする』なんて悪法が出来れば、犯罪件数は減るだろう。そうなったとき、社会にとっていいことだとは思わないよ」
当然、プロンデもそうは思えない。なので、そこは黙って頷き続きを促した。
「開拓を行っている村々が開拓に失敗しても、都市部にその村民が流入して人口は増えるよね。それに、もっと極端な例を挙げれば、ムジカルよりももっと東の方の小国……今はムジカルの属国になっているけれど、その国境にある街は何十年か前に一気に人口が増えた」
「何故だ?」
プロンデは首を傾げる。不勉強を恥じながらも。
「戦争が起きて、蹂躙された。敗戦国の末路なんて、あとはわかるでしょ?」
「……なるほどな」
渋い顔でプロンデはそう応える。
プリシラの笑顔も少しだけ翳りを見せた。外套の袖を使って口元を覆い、それを隠す。痛ましいと、彼女も本気でそう思っていた。
「同じように、死者の数もそうだね。死人が減った、というのは権力者が枠を上下させれば、それだけで変わってしまうものさ」
そう、嘆くようにプリシラは言った。
「もちろん、総合的に精査できればいいけれど。もっといいものがあると、私は思う」
そして、プロンデはここで気付いた。自分が無意識に持った警戒心の原因の一端。プリシラの発していた違和感の正体。
口調に雰囲気。察することが出来る材料はあったのに。
唇を結んで唾を飲み込んだプロンデを見て、プリシラは笑顔を強める。
「……重ねて名前を問う非礼を詫びる。……姓名を、もう一度伺いたい」
「プリシラ。街の隅で活動する、非才な占い師さ」
プロンデは、また一歩下がる。明確な答えはなかった。けれど、確信があった。
この語り口調、自分に悟られずに忍び寄る歩法、金の髪。
もう、確信していた。
彼女は、レイトンの縁者。ドルグワントだ。
「ひひひ。もう、そんなに怖がらなくてもいいのに」
「ドルグワントはもうあいつ一人しか残っていないと……」
戸惑いながらもプロンデは臨戦態勢をとる。未だ殺気の影すら見えない。けれど、彼女が本当にドルグワントだとしたら、殺気を感じた時点でもう危険だ。
剣の柄に手をかけ様子を見る。
敵なのか、味方なのか。
今戦えばただでは済まない。捕らえることが出来たとしても、双方無傷ではあるまい。無傷でないのは構わない。けれど、共倒れになってしまうことは避けたかった。
可能性があるとすれば、ウェイトと組んで制圧すること。それならば、充分な余裕を持ってきっと制圧できる。
だが、ウェイトを呼ぶために大きな声を出すのは難しい。ドルグワントがどうだかは知らないが、多くの犯罪者は無関係の者を巻き込むことを躊躇しない。物見高い見物人が来てしまえば、その者たちまで巻き込んでしまうことになるかもしれない。
残る手段は、ウェイトが来るまで粘ること。先ほどの様子ならば、もうすぐにここに来るだろう。
もしも、それまでに彼女が決着を付ける気ならば……臨戦態勢になった瞬間切り捨てる。
プロンデは覚悟を決める。
稀代の腕を持つであろう暗殺者を相手に、抗い抜く覚悟を。
だが、そんな覚悟も全く意に介さず、プリシラは続けた。
「私もね、試金石はカラス君だけじゃないと思う」
それからまるで天に向かい感情を吐露する舞台女優のように、両掌を上に向けて天を仰ぐ。
演技がかったその態度に、プロンデは反応できない。ただ、その一挙手一投足を見つめていた。見つめてしまっていた。その白い手が、剣にかかる瞬間に備えて。
「もっと単純で、もっと多くて、どこの国のどこにでもいる彼らこそ、試金石になっていると思うんだ」
「……彼ら、ってのは」
プロンデがようやく反応したのを見て取り、プリシラはプロンデを真正面から見つめる。
それから、その長い睫毛を二度羽ばたかせて、一つ頷く。
「子供さ。その村、その街、その国の子供たち」
プリシラの脳裏に浮かんだのは、自分が旅をしてきた中で見てきた子供たち。
イラインで、水辺に足を浸して遊んでいる子供。貧民街で、一つの餅を奪い合い血まみれになる子供たち。ミーティアで、朝から晩まで繰り返す水汲み作業に手を腫らす子供。とある開拓村で、自分が差し出した焼き菓子を美味しそうに分け合っていた子供たち。
「子供が元気な国は、きっと元気になる。健全な、とは言わないよ。そんなもの、権力者によって恣意的に変わるんだから。でも、彼らが身体的に、精神的に、社会的に健康ならきっとその国は大丈夫なんだ」
優しげな笑顔にプロンデは面食らう。聖母のような微笑み。まさか、稀代の暗殺一家であるドルグワント家の一員が、そんな顔をするなんて。
「……子供が好きなんだな」
目の前の女性は、子供を通してまた別のものを見ている。けれど、その子供を見るのが純粋に好きなのだろう。プロンデはそう感じた。
「好きだよ。子供は大体可愛いからね」
プリシラも、それには素直に頷く。本音だった。
話題が止まる。だが、それでもプロンデの思考は止まらなかった。
まだ、プリシラの目的が判然としない。こんなことを話すために、ウェイトと分かれた一人の時を狙うとは考えづらい。
「……しかし……」
「『可愛い』って、どういうことだと思う?」
目的を探るため、足止めのために話題を積み上げようとしたプロンデの言葉をプリシラは遮る。
その強引さに、プロンデは初めて直接的にプリシラがレイトンに似ていると感じた。
「どういう……」
「私はね、『弱い』っていうことだと思うんだよ」
どういう意味か、と尋ね返そうとしたプロンデの言葉は虚空に消えていく。プリシラは反応など関係ないように、ただ持論を口にし続けた。
「そして、『弱い』というのは自分の意志を貫けないことだ。その逆が『強い』。やりたいことを、やりたいように成し遂げる。それが、強さだよ」
プリシラは、壁を通して城下町を見る。きっとそこでは、明日にはまた子供たちが駆け回り、大人たちが明日のために仕事をするのだろう。そう、想像しながら。
プリシラの見せた晴れやかな顔に、プロンデはまた驚く。しかしまだ、その論旨は読み取れていなかった。もう、遅いというのに。
「子供たちは可愛い。まだ、やりたいことがあってもそれを成し遂げる力がないからね。それでも懸命に努力して、試行錯誤を繰り返して、それでもたまには成功して得意げに笑うんだ」
また、プリシラはプロンデに目を戻す。そこにあるのは、まだ優しげな顔。まるで、子供を見つめているような。
「カラス君は可愛かった。望めば何でも出来る力があるのに、望みがなくておんなじ場所をくるくる回っていた。それでも苦しんで、その輪を抜けようとして、そして輪から抜け出した」
目を閉じ、心地よく謳うように口にした言葉に、プロンデは眉を顰める。
「あいつの死を、馬鹿にするなよ」
「馬鹿になんかしていないさ。とても、とても好ましい。死んでしまったのは本当に残念だけど、悩んだ彼が出した結論だ。私はどんなものでも、肯定したよ」
一瞬で戻った真面目な顔に、プロンデは本気を感じた。まさしく、プリシラにとってはこれも本音だった。
「スティーブン殿も可愛いね。老いから逃げたいという確固とした望みがあるのに、それを成し遂げる力がない。壁にぶつかって諦めて、違う方向へと走り出しての繰り返し。いつか息を引き取るその日まで、彼はきっと足掻き続けるんだ。正解のない道を走り続けて」
楽しそうに話すプリシラ。端から見れば、美しい女人が高らかに詩を朗読しているようにも見える。
けれど、プロンデは拳を握りしめる。
嫌悪を感じた。
まるで、蟻地獄に落ちた蟻を、捕食されるまで見つめているような。
蠍の前に放り出した生き餌を、じっと見つめているような。
目の前の女性に覚えた、そんな印象に。
「だから、プロンデ殿の相棒……ウェイト君も私は好きだね。レイトンを追って、届かず悩む様子はとっても可愛い」
「……楽しいか? 人が苦しむ様が」
「やだなぁ。そんなわけないじゃないか。私は、皆が幸福でもそれでいいと思っているよ」
プロンデの問いに、けろりとした顔でプリシラは答える。
指先が震える。おぞましい。プロンデはそう感じた。目の前の女性が何を言っているのか、少しずつわかってきた気がした。
人の嗜好は個人の自由だ。だから、口出しをしたくはない。けれど、プロンデはもう聞きたくなかった。
「今回の騒動だって……」
「用件は、なんだ」
プリシラが先ほど答えなかった問い。しかしプロンデにはそれを繰り返すしかなかった。予感していた。その先の言葉を。
ニコリとプリシラは笑みを強める。その瞬間、プロンデの全身の毛が怖気だった。
腕が震える。だがその震えを、力を込めて強引に止めて、鯉口を切る。感じたのは殺気。
もう、これは害意があるとみて間違いない。
目では捉えられない。外見上は、先ほどまでと寸分変わりない。敵意も戦意もなさそうな佳人だ。
だが、水天流免許皆伝の腕前は伊達ではなかった。攻撃が来るという不可思議な気配に剣を合わせれば剣が結ばれる。
刃の中程まで食い入ったプリシラの直剣を見て、プロンデは息を飲んだ。
「こうやって反応できるだけ、君は強いよ。そう、強いんだ」
「……!」
プリシラが手首を捻ると、プロンデの剣が手から奪い去られ、弾き飛ばされ水煉瓦の壁に当たる。しかしそんな程度で諦めるわけにはいかなかった。
躊躇なく、プロンデはプリシラの襟を掴もうとする。ここに至ってもまだ制圧を考えていたのは、この男の優しさからだった。
しかし、その手は伸びない。力が全く入らなかった。
「二太刀目はちゃんと防いでる。今までちゃんと修行を積んできた証だね。誇っていいよ」
「お前は、何がしたい……」
だらりと下がったプロンデの手に、赤い線が入る。それでもまだ、プロンデの目に諦めはない。闘気を活性化。細く光がプロンデの体から立ち上る。
「私は何がしたいわけでもないよ。可愛い誰かを手助けして、側でただ見ていたいだけ」
ニコリと、まだプリシラは笑みを崩さない。プロンデは、心底それを不気味に思った。
「君の心には正義が宿っている。君はこれから、道を違えず正道を歩み、世の中を正していくだろう。邪道を歩み、いつか世の中を正そうとしている石ころ屋のように」
「奴らと一緒、というのは不本意だな」
「そして、いつかは必ず君の望みは叶うよ。グスタフ翁の叶わない夢とは違ってね」
プリシラは落ちた剣を拾う。そして、それを動かないプロンデの腰に納めた。
「ああいう試みはさ、民がやるから見ていられるんだよ。公権力がやって、全部上手くいきました、なんて見ててつまらないんだ」
プロンデが感じているのは、悔しさ。奥歯を噛みしめる音が、周囲に漏れるほどに。
「もう、わかったろう? 私が言いたいことは」
「……」
プロンデは言葉を発しない。
もう、発することが出来なかった。
「君は、可愛くない」
石像のように固まった体の、両肩と、首からぼたぼたと血が垂れる。
光が消えていく瞳。それでも微動だにせず立っていられるのは、プロンデの意地と、プリシラの腕前の両方が作用していた。
プリシラが振り返る。仲の良い友達に呼び止められたかのような動作で。
「さて、遅かったね」
「……!」
衝撃。その頬に、金髪の男性の蹴りが入る。しかしその足刀は、プリシラの手によって弾かれていたが。
飛びかかった男性が、プロンデの動かぬ体を確認する。もう、何も喋らなくなった彼を。
そして、呟く。心底残念そうに。
「……やってくれた」
「レイトン。《散焦》の修行がおろそかになっていないかな? 姉として心配だよ」
レイトンは、後頭部を一度掻き、それからすらりと剣を抜いた。
「お前が隠れなければ、すぐに見つけ出してやったさ」
「誰も隠れない隠れんぼなんて、つまんないじゃないか」
クスクスと、袖で口元を隠しプリシラは笑う。それすらも、レイトンにとっては苛立つ仕草だったが。
「さて、可愛い弟の顔も見たし、私はもう退散するとしようかな」
「逃がすと思う?」
「私が、逃げる算段も立てずにそんなことを言うと思う?」
にこやかだが、緊張感のある言葉の応酬。その中でも、やはりプリシラは何事もないかのように壁に歩み寄る。
そして、壁の水煉瓦を一つ押した。
「みんな、壊れない素材という先入観から調べないからね。城というのは、必ずこういうものがあるのに」
丸く、壁が崩れ去る。それは脱出口。大きく開いた穴は、人一人が悠々と出ていける大きさだった。
その先の光景を見たレイトンが舌打ちをする。それも、プリシラは楽しそうに見ていたが。
「追ってきてもいいけど。でも、闘気をまともに扱えないレイトンにはちょっと難しいよねぇ」
プリシラは、腕だけ外に出し、人差し指の先に雪を乗せる。
降り出していた灰寄雲の雪。それは黒く、触った者の病魔を奪い去り、そして与える。
「じゃあね。今度こそ、さよならさ」
ひょい、とプリシラがそこから身を投げ出す。三階という高さから身を投げ出すという、ありえない行為。だが、彼女にとっては階段に足を踏み出す程度のことだ。
レイトンは、それを黙って見送る。
横に立つ石像も、背後から走り来る女性の足音も気にせず。
煙草の匂いは、まだ残っていた。
城より遙か北。
白い空間の中で、黒ずくめの少年が倒れ伏していた。
顔は雪に埋もれ見えておらず、ただ力なく四肢は投げ出されていた。
その姿を見下ろしているのは、小さな二つの影。
背中には昆虫じみた透けた羽根。短い髪の、少年とも少女ともつかない者たち。
「ねえ、この人の匂い」
「うん。匂いがするね」
「アリエル様の匂いがする」
倒れ伏していた少年の目が、微かに開く。
そのわずかな隙間から、誰かが覗いていた。




