終末の獣
しばらく魔物と戦い続ける。
もう、何度も何度も繰り返した作業だ。
闘気を使う魔物の首や頭部を叩いて殺し、魔力を使う魔物は四肢に内傷を与えて動きを封じて放置する。
もう、幾度となくそれを繰り返した。
いつも使っていた山刀はスティーブンに一刀両断されているため、今の僕は素手だ。
四肢を引きちぎるのは素手で、そのためもあり当然飛び散る体液に噴き出す血。おかげで僕の両手は血に塗れて真っ赤に染まっているが、それもいいと思った。傷や汚れは、目に見えていたほうが気分が楽だ。もちろん、傷も汚れもない方が望ましいが。
そんな折り、ふと気付く。
風が止んだ。
おかしい。熊の頭を叩きつぶし、僕は足を止める。
周囲を見回し警戒する。しかし、状況に変わりはない。かなり数は少なくなってきているが、魔物たちは未だ防衛線まで少しずつ押し寄せてきている。
慣れてきたのか、それとも魔物のほうが疲れて弱っているのか、騎士たちの手際が良くなってきている。怪我人はいるが、それでも視界の中で大きな怪我人は出ていない。
狐の腕が砕かれ、防衛線から北へ向けて放り出された。
何だろうか。何かおかしい。
違和感がある。風が止んだと思ったが、そうではない。空気の流れは確かにある。
治療師の発した光の粒は、あれから三度の後効果を発揮したようで雲は割れた。その割れた先は、暗い青色の空ではあるが。
もう日が沈む。その雰囲気のせいだろうか。いや、それも違う気がする。僕は何かに違和感を覚えている。
前方にいた大きな熊。その胴体を蹴り破ろうと足に力を込めるが、その前にその熊は気合いの声とともに前後に割れた。
その裂け目から姿を現したのは、赤黒く染まった銀色の鎧。
髭も血で汚れたスティーブンだった。
「カラス殿! ここにいたか!」
「ええ!! 何かありましたか!!」
遠方同士、少しだけ声を張り上げて言葉の応酬を始める。だが、スティーブンも何か僕に伝えたいようで、言葉をまとめるよう口を開閉しながらしきりに北を指さした。
「いや、あれ! あれ!」
その語彙の少ない慌てかたと剣幕に急ぎ北を見れば、そこはウェイトたちの銃兵部隊の居場所だ。
遠目だが、ウェイトが何かと戦っている。それは一切変わりなく、だが確かにおかしい気もする。しかし、あのウェイトだ。危なげはないだろう。
何を慌てて……、ああ。
「銃兵たちが……」
我先にと逃げている。魔物と混じっているから一瞬気付かなかったが、奴ら、新兵か。
逃げている。ウェイトの教育は失敗だったということか。
彼らは戦場の恐怖に負けた。銃の愉悦よりも、安楽をとった。
それもまあ間違いではあるまい。自分の命は誰しも大事だ。それがこの戦場でなければ、迷惑とすら思わないかもしれない。
そこまで考えて、僕は思考を一度止める。
いや、それでも先ほどまでは調子よく戦っていたはずだ。散発的に響いていた銃声は、彼らの自信の表れそのものだろう。
それが止んだ。
弾薬が尽きた? それとも、自信がなくなるほどの何かがあった?
暗くなりつつあるこの戦場で、何が。
「きゃあああああ!!」
僕らの耳に、叫び声が響く。
戦場には似つかわしくない悲鳴。多分、痛みなどの苦痛によるものではない。驚きや恐怖から逃げようと、反射的に助けを求めているものだ。
魔物か。それに、非戦闘員が襲われている。そう判断し、そちらを向けば、遠くで先ほど見た顔が逃げ惑っていた。
「! さっきの治療師……!」
先ほど、僕と話した治療師の女性。彼女が走って逃げていた。
咄嗟に駆け出すが、様子がおかしい。
彼女が、走って逃げられているのだ。いや、治療師は魔力を扱えるし自分を強化することも出来るだろう。けれど、それでもかなり遅い。遠目だが僕の素とあまり変わりはないと思う。
雪を踏みしめ、全力で駆ける。追っているのはどれだ。そう目で追っている魔物を探すが、魔物はいない。
……どういうことだろう。
僕は一瞬判断に迷う。いや、追っている存在はいる。幻のようなものでもなく、実体を持った存在だろう。だが、それは魔物ではない。
ようやく追いつき、そして彼女の奥襟に手をかけようとした、その人間の手を蹴り飛ばす。
「あぁっ!!」
手を蹴り飛ばされたその人間は、変な声を出して吠えた。そう、吠えたのだ人間が。
背後で、ボテッと音がした。治療師が転んだらしい。
だがそちらに目を向けることは出来なかった。
「……何ですか、これ」
僕は、背後の治療師に尋ねる。答えが返ってくることは期待していない。僕も初めて見た。
「わかんないんです! いきなり、襲って!!!」
涙声混じりで返ってきた言葉は予想がついていた。けれど、僕と同じ答えで少しだけ安心できた。
安心してもいられないのだが。
「あーーー!」
叫ぶその男。先ほど見た男たちと同じ服を着ているので、僧兵だろう。
けれど様子がおかしい。僕が『これ』と言ったのは理由がある。
鎧の胸部分の中央に、大きな穴が開いている。そこから血も流れたのだろう、鎧から血が滴り落ちている。
しかし、その血の量がおかしい。向こう側が覗けるほどの大きな穴。にも関わらず、出血が止まっているようにも見えるのだ。まるで血がなくなってしまっているかのように。
それに、この男の目。黒髪が濡れて張り付いている額の、そのすぐ下にある目もおかしな色をしていた。
初めは気のせいだと思った。けれど、真正面から見て改めて確認する。
瞳孔が完全に散大している。暗い中で散瞳しているのかもしれないが、それも度を超しているのだ。まるで、もう神経が機能していないように。
とりあえず制圧するべきだろうか。
いや、しかしもう無駄な気がする。この距離まで来ればわかる。周期的な肩の上下も胸の動きもない。出血がなく、神経の機能も消失し、そして瞳孔が散大している。
死んでいるのだ。この目の前の男は。
「あーーー!」
「少しうるさいです」
僕に向かって走り寄ろうとした男の頭を風の弾で弾く。何が原因かわからない以上、あまり死体の損壊は出来ない。出来れば調べておきたい。どうすれば行動不能に出来るだろうか。
やはり痛みは感じていないようで、伸びた首の筋繊維がブチブチと音を立てても、苦痛の声を上げずにグリンと首が戻る。そのままよたよたと、僕にとびかかろうとする。
治療師を狙っているわけでもないので、きっと誰でもいいのだろう。
とりあえず、物理的に立てなくすればいいだろうか。
身を屈め両膝を蹴り砕く。
その勢いで、前に倒れるような形になり、そして頭部が僕に近づく。
だが、そのとき僕は見た。男の口が大きく開くのを。
そこから何か、白い尖ったものが僕に向かって伸びてこようとしているのを。
危ないか。僕は障壁を張りつつ、だめ押しとばかりに、腹部を蹴り背骨を折る。
「あぁ!!」
漏れた声は意図的なものではなく、勢いで押された空気が声帯を鳴らしたのだろう。
手触りも妙だ。蹴り応えが筋肉などのようなものではなく、硬い紙風船を蹴ったような感覚だった。
「さて……」
僕は口の中で呟く。どうやって標本にしよう。この場で解剖は難しいし、魔力による体内の探査で済めば良いけれど。
そう考えながら後ろに下がる目の前で、男は前のめりに倒れた。
まったくの受け身などの防御行動をせず、ただ力なく前のめりに。
その身体の各所から、煙のような白い気体が漏れた。
「嘘……、白煙羅……?」
驚く声が僕の背後から聞こえる。ごそごそという音の出所を追い横を見れば、四つん這いになった治療師が、おずおずと僕の横から顔を出すようにして男を見た。
視線の先で、煙がまとまって球体になる。
それを見て、急ぎ治療師が立ち膝になり手を前にかざした。
「我が名コルネア=ミフリーが神の名の下に命ず! ……ええと……漲る水と災いを退けよ〈救風〉!!」
突風が吹く。僕や治療師からではなく、もっと後ろのほうから。
飛ばされるようなものではない。事実、僕に当たってはいるが踏ん張る必要もなくただの涼しい風のような感じだ。
だが、その白い煙にとってはやはり堪ったものではない。
掻き消され、散らされ、飛ばされていく。
それからすぐに風は止み、何事もなかったように静かに戻った。
「危なかったです!!」
息をつき、大きな声で彼女は宣言するように言った。
胸を張っているのはいいのだが、立ち膝のままでは威厳も何もない。
しかし、白煙羅と彼女は言った。それは、以前聞いたことがある名前だ。国に入ってすぐの街の辺りで、敵を嬲るような知恵を持つのは雪海豚と白煙羅だけだと。
「あれが、白煙羅ですか」
「ええ、そうなんです! あー、びっくりした。……彼は、殺され操られていたんですね!」
元気よくそう答えてくれたかと思うと、治療師はシュンとして僧兵を見る。
先ほどは白煙羅が動かしていたという言葉通り、元通りの死体に戻ってしまった彼は、もうぴくりとも動かなくなっていた。
手を当て探査をしても、もう既に死んでいる。何も残らず、ただの死体が残されている。
……これ、僕が殺したと思われるやつじゃないか。
まあいいか。この死体に関してはもう気にしても仕方がない。それよりも今はあの魔物だ。
「白煙羅って、どういう生き物なんです? 先ほど風を使って散らしていましたけれど、あれが本体でしょうか」
「探索者さん、知らないんですか!!?」
驚いたように治療師は振り返る。立ち膝のままで冷たくないのだろうか。
その目は僕を貶すようなものではなく、純粋に不思議がっていた。
「ええ。この国で初めて見ましたから」
だから僕は素で返す。別に、無知なことは恥ずかしいことではない。これから、必要ならば知れば良いのだ。
それが必要になることは、これ以後ないと思うけれど。
治療師は一瞬悩んだように眉を顰め、それからゆっくりと話し始めた。
「あれは……、煙の化け物って言えばいいでしょうか、あれが本体です!」
「煙が本体で、そして死体を操る魔物、と」
「そうですね! 死体とか、家具とか、水筒とかに取り付いて、増えたらバーってまたどこか行って取り付いて、ってのを繰り返すらしいです!」
身振り手振りを交えて、彼女はそう解説してくれた。よくわからないが、物や動物に寄生する魔物ということだろうか。
「小っちゃいと何も出来ないらしいので、炎が使えない私たちは風で散らして対処するんですけど、そうしなくても取り付く物がなければ勝手にどっか行っちゃいます。そんなところでしょうか!」
「炎が使えれば、問題ないんですか?」
「熱に弱いらしいです! 紅血隊の人とかは手から熱を出して攻撃するそうですけど! でもそれでも一部が残ればいずれまた増えちゃうんで、土竜の穴を塞ぐようなもんですね!!」
元気よく、嫌な情報を言い切る。
しかし、僕はそんな元気を出せない。
面倒な魔物だ。
風を使い、散らせば問題ない。そして、火で簡単に死ぬ。そこまではいい。
一部を残せばまた再生し、そして何かに取り付いて動かす。そういうことだろう、多分。
こんなときに……。
いや、雪原に住む魔物なのだ。今、必ず現れるだろう魔物ということはわかっている。
そういえば、こちらへの対処で忘れかけていたが、銃兵たちが逃げてきていた。
火薬を使うとはいえ、彼らも火は使えない。
もしかして、この白煙羅が何か関わっているのか。
治療師は僕が黙ったのに何かを察したのか、身体を捻り僕の顔を下から覗き込んだ。
「探索者さん?」
「おおお、カラス殿、とうとうやってしまったか……!」
ようやく追いついてきたスティーブンが嘆くようにそう叫ぶ。
途中から、ドスドスと殊更に音を立てて走ってきていたのは、この場を和ませるためだろう。スティーブンも、僕が死体と戦っていることに気がついていたのだ。
僕もそちらを向き、治療師からの視線を意図的に切った。
「一応否定しておきますけれど、違います」
「わかっとるよ。んで、先ほど見えたのは白煙羅とやらか」
スティーブンは知っていたか。その口ぶりでは、スティーブンも初めて見たようだが。
「ええ。治療師の方を殺し、その死体を操っていました。彼女や僕を襲ったのは、増える苗床を探すため、でしょうか」
多分そうだろう。最後にこの男の口から伸びようとしていた尖った何かは、きっと僕を殺すための攻撃だ。
先ほどの煙の身体に運動器官は見当たらなかった。粘菌なども運動できるし、動くことは出来るのかもしれないが、それでもきっと素早い移動には何かの助けが必要なのだろう。
「治療師様は早く避難を」
だが、白煙羅についての対処法はわかった。火を使えばいい。ならば、それなりに簡単だ。
「た、探索者さんたちも逃げましょうよ。もうそろそろ戦いも終わりますし、ね?」
「まだまだ戦いは終わっていませんよ。現に今、新しい問題も起きているようですし」
僕とスティーブンは北の方を向く。逃げてきた銃兵が、そろそろここら辺まで到着する。闘気も使えないようでかなり遅いが。
とりあえず、彼らに話を聞いてウェイトの救援に向かうべきか考えよう。
気を取り直し、僕は治療師の方を向いた。
「戦えないのであれば、無理せず塹壕へ。避難済みの負傷者の治療に徹して下さい。……と、こういう指示は僕が出すようなものではありませんが」
言ってから口を噤む。方針は治療師たちと騎士隊長たちの間で決めることだった。魔物と騎士たちが戦う中を縫って走り回る彼女を、止める権利は僕にはない。
「心配要りません! 私が勝手にやってることなので! でもちょっと逃げたいです!!」
強気な言葉と、素直な言葉に僕は小さく噴き出す。スティーブンは大きな口を開けて笑っていたが。
「……でしたら、ご自身を一番にお考え下さい。治療師様の代わりはいないんですから」
代わりの利く兵と違って、治療師の一人当たりの戦場に与える影響は大きい。だがその力も、まずは治療師が健在でなければ意味がないのだ。
だが、治療師は僕の言葉に唇を尖らせた。
「そんなの誰だって一緒です! 探索者さんもお爺さんも、代わりなんてどこにもいません!!」
「……」
「ほほ、お爺さんとはまた……」
スティーブンはまんざらでもない顔でそう笑う。年寄り扱いされているけれどいいのか。
「……それでは。お気を付け下さい」
「はい!! お二人も!! 私が治す羽目になんかなりませんように!!」
そうはならないだろう。僕も治療は出来るし。そう思ったのだろう、スティーブンも僕の顔を見て苦笑していた。
逃げてきている魔物をとりあえず判別せずに気絶させながら、一番早く走ってきていた銃兵の前に立ちふさがる。
「ひっ……」
引きつる顔に硬直する身体。罪悪感はあるらしい。その片手に持った拳銃は、しっかりと握りしめられたままだ。
僕を避けてそのまま逃げようとする腕をつかみ、声をかける。勢いを殺され前につんのめりそうになったその身体を腕だけが支えていた。
怯えながらも、抗議の目が僕に向けられる。僕が黙ってそれを見返すと、何も言わず後ろめたそうに目を逸らしたが。
スティーブンも僕の背後から追いついてくる。息が切れているのは闘気の使いすぎだろうか。
「何があったんです?」
先の白煙羅騒動のことはあえて言わず、ただそう問いかける。
戦場から逃亡を企てていた者たちだ。余計な情報を与えれば、そこからきっと嘘を組み立てる。そんな予感がした。
「し、知らねえ、俺は何も……!」
銃兵はそれだけ言って、僕の手を振り払いまた走り出そうとする。
この反応は、恐怖か。知らないのではなく、説明よりも何よりも、早くここから逃げたい。そういう反応だ。
「ひっ!?」
雪中から突き出してきた角海豹。立ち止まっていた僕らを狙ったその一撃が迫る。
これかな? いや、銃兵も驚いてはいるが、この様子では逃げてきた原因とは無関係だろう。
僕はそれを確認した後、角海豹にカウンターを合わせようとする。だが、その拳が動く前にスティーブンがそれを切り払った。
雪中から飛び出してきた角海豹の一撃で、何人も死んでいるらしいのに。一切の危機感なしにそれに対処するとは、やはり剣を持たせれば頼りになる。
「踏みとどまって戦えとは言いません。何が起きたのか、状況を説明してから逃げて下さい」
無駄に命を散らせとは僕は言えない。だがせめて、最低限の情報は置いていってくれなければ。もう一度走り出そうとした銃兵の腕を握る力を強める。
それだけ促しても、しきりに振り返り逃げてきた方角を見つめる彼。もう無理か。スティーブンも首を横に振った。
「もう、聞いても無駄じゃろ。救援に向かうとするかの。そのほうがずっと早かったわい」
「そうですね。何が起きているかはわかりませんが、行きましょう」
銃兵の腕を放すと、舌打ちをしてからまた駆け出す。
「化け物がきた! どうせお前らも死ぬんだざまあみろ化け物ども!!」
そう、捨て台詞を残して。
「さ、行くか」
スティーブンはその言葉に取り合わず、僕にそう促す。
僕がまだ銃兵のほうを見ていたのに何かを感じたのだろう。いや、まあ、やっぱりその男も連れていこうかくらいには思ったけど。
だが、戦場だ。僕の悪ふざけで命を散らせるわけにはいくまい。
それにしても。
「スティーブン殿は持ち場に待機でいいのでは?」
さっきから、どうして一緒についてこようとしているのだろう。ウェイトの救援に行くにしたって、僕だけでも構わないだろうに。
僕の問いに、スティーブンは一瞬目を丸くする。そしてそれから、唇をぐにゃりと曲げた。
「い、いや、なんかのう。ついていかんといけん気がするんじゃよ」
「何か起きるという勘でしょうか?」
「いや、そうじゃなくてな。なんというか、お主を見ているとな」
やはり、僕の不調でも気にしているのだろうか。確かに今は魔力を全開では使えないが、それでもそれなりの力は残っているのに。
しかしこれも、スティーブンの気遣いか。相変わらず、どうしていいかわからないが。
「……足を引っ張らないように気をつけます」
「そういう意味でもないんじゃが……まあ、いいか。お互い気をつけんとな」
「ギョオオオオオオ!!!」
頷き、走り出そうとした僕に北からの声が響く。
なるほど、本当に何かいた。しかもこの声は、聞いたことがない。
低く、声のようではない。だが叫び声。無理矢理絞り出している断末魔のような、悲壮な声。
僕とスティーブンは走り出す。だが少しだけ北に向かえば、もうその声の主はすぐにわかった。丘のような起伏の関係と暗さでわかりづらかったが、そこにいたのは巨大な何かだ。
スティーブンも驚いたように一度のけぞる。それでも剣を手放さないのは先の教訓のおかげだろう。疾走からの急停止に、スティーブンの足下の雪が弾けた。
「なんじゃありゃぁ!?」
視線の先は遠く、だが目の前だ。
薄暗闇の中でも簡単にわかる。その巨大さと異質さに、僕も驚いた。
「ああああああ」
絞り出すような声が、巨体の上半身から響く。
いや、たしかにその声は口から出ている。だが、その口の数が異常だった。
雪に下半身を埋めているように、それはいた。シルエットは豹のようなネコ科の獣だろうか。しかしその大きさがおかしい。
僕やスティーブンの身長など遙かに超え、小さな丘のようにまで見える巨体だ。
そして、その顔も、爪も、すべてが異質だ。
寄り集まった獣といえば間違いではない。だが、寄り集まった? それも少し表現が違う気がする。
まるで、前世で見た浮世絵、寄せ絵と言っただろうか。
その顔も、腕も、耳も、全て動物の固まりで出来ていた。
「シャアアアア!!」
その何かが叫ぶ。その豪腕が振るわれる。まるで竜の爪のようなその一撃を、剣でいなしてウェイトは大きく舌打ちをした。
「……何です? あれ……? 白煙羅、ではない……?」
予想は外れたか。僕は一歩身を引きながら、スティーブンに尋ねる。恐らくスティーブンも知らないだろうが、何か言わなければ、その存在について探らなければ耐えられなかった。
「わからん。いくつもの魔物が合わさった、合成獣というものを聞いたことがあるが、あれが、そうかのう……!?」
スティーブンも焦ってそう答えてくれる。だが、その言葉も僕は頭の片隅のほうで聞いていた。
また腕が振るわれる。原材料は熊だろうか。指の一つ一つがそれぞれ一匹の熊の巨体で作られており、千切れたらしいその脚の骨が露出して爪を形作っていた。
顔は氷獅子が主らしい。鼻にあたる部分に、氷獅子の顔がそのまま使われているのがフラクタル構造のようで不気味だった。
一歩身を引く。
「考えてもしかたないな。あれだけの大きさでは、カラス殿は素手では近接戦闘出来んじゃろ。魔法で援護を頼む」
「……出来なくもないですが……」
僕はそう言いかけて止める。確かに、あれには近づけない。近づきたくない。
「ウェイト殿! 助太刀いたす!!」
スティーブンはそう叫んで飛びかかる。指の一本をとってもスティーブンよりも大きいのに、それでも果敢に向かっていく。
「スティーブン殿! 助かる!!」
ウェイトも応え、体勢を整える。攻撃が厄介なわけではない。だが、その巨体故に攻めあぐねている様子だった。
だが、僕はといえば、その足が踏み出せないでいた。
歯の根が合わなくなる。
僕の頭を支配しているのは、恐怖。
魔法ではない。雪などによる外的要因でもない。ただ、純粋に怖い。あの、人工生物を見たときと同じ恐怖。
暫定的に付けた呼び名だが、合成獣の腕が吠える。
寄り集まった動物たち。見た目はもう完全に絶命している彼らの声帯が震える。合唱のように揃えられたそれは、怨嗟の声とも違う、もっと悍ましい声だった。
「むん!!」
スティーブンが合成獣の腕を手首に当たる部分で切り落とす。
そこにちょうど熊の顔があったようで、脳漿が飛沫のように雪に飛んだ。
それに対する悲鳴も上げず、合成獣はもう片方の手を叩きつぶすように振るう。
スティーブンが飛んで躱すと、雪が派手に抉れ地形が変わった。
見ているばかりでは駄目だ。
僕は頭を振り、思考を切り替える。何故怖がっているんだ。こんなときに。
これでは先ほどの逃亡兵を笑えない。戦わなければ。ここは戦場だ。明らかな敵に対し震えていれば、ただの非戦闘員だ。
スティーブンの足を引っ張らないと先ほど言ったばかりではないか。
太ももを強く叩き、気を引き締める。
もう一度、合成獣を見る。その手足から剥がれ、ぶらんぶらんと動き続ける獅子や熊の手足。それを見て、僕の胃が強制的に収縮した。
「……ぉ」
思わず口に手を当てる。胃に何も入っていなくて良かった。口の中には何も現れておらず、何を飲み込むこともなかった。胃液の味はあんまり美味しくないから、飲みたいものでもない。
涙も薄く出てきた。こちらは嘔吐に付随するものだろう。
頬を張る。
少しだけわかってきた。僕が怖がっているものが。
思えば、僕が初めて魔物を見たときも、僕は恐れおののいていた。
多分あれは、けして魔物の強さや異様さに驚いたわけではなかったのだ。
深呼吸する。
今もなお、ウェイトたちは戦い続けているのだ。ウェイトよりも大きな腕を振り回す相手に傷を付け、攻撃を防ぎ続けている。ウェイトたちに任せておくわけにはいかない。
先ほどスティーブンが切り落とした腕が、また元通りになる。地面に落ちた死体がそれぞれ動いてまとまっていったのだ。
心に刻み込むように僕は唱える。
そうだ。あれは死体だ。寄り集まっている理由はわからないが、それでも、あれは寄り集まっているのだ。けして、足があれだけの本数生えているわけではない。
というか、死体、死体か。
少しだけ気分が楽になる。まだ横隔膜が痙攣しているが、それでもあれが死体だと認識しただけで楽になった。
これはもしや。
そうだ。あれは死体なのだ。
先ほどの男と同じく。筋肉量の違いか、何かの違いか、大分こちらの動きのほうが素早いけれど。
「……攻撃いきます!」
一応声をかけて、僕は火の玉を放つ。合成獣の頭部に向けて。
急ぎ撃ったので拳大だが、それでも効果はあるはずだ。現に、鼻の代わりをしていた氷獅子に命中した火の玉が弾けると同時に、そこにぽっかりと穴を開けた。
「あああああああ!!!」
頭部にいくつもある口が叫ぶ。様々な生き物が雑多に集まった声。それが鳴ると、魔物たちの固まりがうぞうぞと動き、それからまた元通りの顔になった。……多分、一回り小さくなって。
「おお!!」
思わぬ成果にスティーブンが感嘆の声を上げる。ウェイトはこちらをちらりと見て、鼻を鳴らしてまた合成獣に向き直った。
その辺りはどうでも良い。小さくなったのも別に実はどうでもよかった。
だが、知りたいことは知れた。
スティーブンに向かい、僕は声を張り上げる。
「やはり白煙羅です! 死体を、つなぎ合わせて寄生してます!!」
「やっぱかー!」
スティーブンも吠えた。まるで知っていたかのように。
先ほど、僕は見た。穴を開けた箇所から、僕の魔法によらない白い煙を。
ならばもう話は簡単だ。
それがただの死体の集まりで、しかもその原因が白煙羅。やはり、知らないというのは恐怖だ。
ならば簡単だ。燃やしてしまえばいい。火の魔法で速やかに。
だが。
「おい、カラス殿、あれを……! まさか……!」
そう簡単にはいかないらしい。スティーブンが、攻撃を捌きながら合成獣の遙か向こうを指さす。悠長なことを、とも言えない。そこには怖いものがあった。
暗闇の中に見える白い線。雪ともまた違う白が、地平線と重なって浮かび上がって見える。
「ああああああああ!!!」
必死になったのか、合成獣もまた大きな声を上げる。
その気持ちは、とてもよくわかる。
僕らの視線の先には、白い人の群れ。その手に捕まれば、命の保証はない地獄の門。
北壁が、肉眼で見える位置に迫ってきていた。




