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捨て子になりましたが、魔法のおかげで大丈夫そうです  作者: 明日
戦う理由

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417/937

閑話:この戦いが終わったら

明けましておめでとうございます。

十日近いお休みをいただいて、また今年も連載再開します。

今年中に終わる自信がなくなってきましたが、今年もよろしくお願いします。




「勝手な約束を……」

 溜め息をつきながら、マリーヤは目の前の女性に対し申し立てる。たった今グーゼルから一方的に成された約束は、マリーヤにとって寝耳に水の話だった。

「いいじゃん、別に」

 ニヒ、とグーゼルは笑う。単なる私的な約束だ。公的なものでもなく、報奨を与えるというものでもなく、ただ昼食や夕食をともにしようというだけの約束。そう深刻に考えることでもないだろうという意味を込めて。


 それにはマリーヤも同意見だった。

 探索ギルドでは一目置かれている少年。高名な探索者である彼を使おうとするのであれば、それこそ大金が必要になるだろう。大量の金貨、ことによっては、マリーヤやヴォロディアの小遣い銭では済まないほどの。

 それが、単なる私的な約束で済んだ。王城からの依頼などではなく、単なる知人へ手を貸すという体で済んだ。

 経費節減という観点から見れば、グーゼルの言葉は巧いものだっただろう。『あのカラスが友誼により手を貸した』。彼個人の印象を除けば、対外的……主に政治的なものではあるが、それで済むのだから。

 けれど。

「グーゼル様一人でいけばよろしかったんではないでしょうか」

 そこに、何故自分を入れた。そう、平坦な口調でマリーヤは咎めた。

「あたし一人よりいいだろ。かわいいあたしと、国一番の美女のお前でさ」

「国一番とはまた大げさな……」

 目を閉じ、また一つマリーヤは溜め息をつく。けれどその反論は、実際には見せかけのものだ。

 彼女は自分の容姿が人よりも優れていることを自覚している。国一番とは流石に胸を張っては言えないが、それでもそこらの身だしなみに気を遣わない町娘に負けない自信はあった。

 女の色香に酔う単純な男は多い。それを武器に立ち回ることもある。だが、それを誇ってしまえば鼻につく。

 故に、謙遜を続ける。その儀式のような反論を、見破れるものもそうそういなかったが。


 そして、そのグーゼルの言葉にも内心頷いた。頷きたくはなかったが。

 そうだ。彼の力は危険でもある。なるべく、この国によい印象を持ってもらわなければいけない。それならそれこそ正当な報酬を支払えば文句は言わないだろうし、悪感情を持つような者ではないだろう。


 けれどその報酬を支払う能力が今のこの国にはない。

 今回の彼の出番は、国の重要な局面だ。金貨を何枚積めばいいのだろうか。しかし彼に対して大盤振る舞いをしてしまえば、国家の兵たち、騎士や衛兵たちに角が立つ。仮に、誰の目にもわかるほどの一番の活躍をしようとも、そう差を付けるわけにはいかない。所詮彼は外部の人間なのだ。


 これが探索者の集まりであればもっと単純で済む。仮に大差を付けた報奨を出そうとも、皆は羨み『次は自分が』と奮起するだろう。もしかしたら、嫉妬から奪いにかかるかもしれないがその辺りは関知せずともよい。これは、官と民の違いでもある。

 もちろん、官であっても差を付けることは重要だ。よく働いた者にはより多く、働かない者は少なく。働きに応じた報奨なしに、どうして皆頑張ることが出来るだろうか。

 だが、彼をその中に組み込めば、支出は多額なものとなってしまう。彼一人で、全体の支出を底上げしてしまうのだ。

 それを本人が望むのであれば、そうせざるを得ないだろう。けれどそれは、出来るならばしたくはない、最後の手段に近かった。


 これが国内の人間であっても簡単だった。

 報奨として、地位を用意する。官職や爵位など、そういったものを与えてどうにかすることも出来た。

 けれど、カラスは本人の自覚がなくともエッセンの人間だ。そんな意図がなくとも、無理やり取り込もうとしたとして、エッセンの敵対感情を煽ってしまうかもしれない。

 それに、多分本人が望んではいないだろう。既に、エッセンであっても一廉の人物だ。彼が歩める道は無数にある。けれどそれを歩もうともしていないように見えるのは、そのせいだろう。ならば、それは報奨にはならない。最悪、彼の対リドニックの悪感情を煽ってしまうかもしれないのだから。


 正当な報奨は最善の手段。けれど、その手をとるのは避けたい。

 ならば次善の手段をとるしかあるまい。

 グーゼルとカラスの食事会は、体裁を作るのには格好のものだ。グーゼルは彼を歓待し、そしてそのまま帰っていった。それでなんとか形は作れる。それとなく自分が同席すれば賢い彼はその意を察してくれるだろうし、その場で伝えても構わない。


 それに。

 マリーヤは察していた。

 カラスには、論功行賞は意味を成さない。勿論効果はある。けれど殊更に与えようとすれば逆効果となってしまうだろう人物だ。

 積極的に探索者としての仕事を受けていた時期もあったようなので、名誉も報酬も受け取ることを拒否することはないだろう。しかしそれは、それを求めているというよりは、ただ単に無頓着なのだ。名誉や報酬だけならば、おそらく黙って受け取る。けれど、それに付随して厄介ごとが起きるようであれば、その名誉や報酬など容易に手放してしまうだろう。

 国が多額の報奨を与えるということ。それは、多分彼にとっての厄介ごとだ。



 いや。

 そこまで考えて、マリーヤはふと微笑む。

 本当に、そんな理由なのだろうか。思考を思い直してみれば、筋が通っていない気がする。本当にそうなのだろうか。金額の問題であれば、分割でもなんでも出来るはずなのに。

 それに、カラスは良いとしても他の三人だって問題は残っている。おそらく聖騎士だろう二人は自ら隠すだろうが、スティーブンというあの老人も。

 なのに、何故。その答えは、既に自分でわかっているが。

「……まあ、この国にはいらっしゃらない魔法使いです。多大な戦果を上げてくれるでしょう。その程度で済めば、いいのかもしれませんね」

 積極的に行きたいわけではない。そう言外に含めながら、マリーヤも承諾する。その言葉に、グーゼルも唇の端を吊り上げた。

「お前にゃ、『未来の戦力を取り込んでおけよ』とでも言っといた方がいいか?」

 密かにアブラムの顔を思い出しながら、グーゼルはそう笑いかける。


 グーゼルは頭を掻きながら、亡き部下を思う。

 あいつのおかげだろう。ほんの少しは、言葉の裏を読めるようになった。これは邪推かもしれない。けれど、人の思考ではなく心情を察するというのは、きっと必要なことだ。

 そうだ。多かれ少なかれ、アブラムのようなことを考えるのは多分自然なことなのだろう。『理由を作るな』そうあいつは言った。けれど、それが普通なのだ。

 人はみな、本心を隠して生きている。だからこそ、その本心を察して、そして互いに気遣い合わなければいけないのだろう。本心を明かすのは誰だって怖い。恥ずかしい。

 だから、察して、その本心を言葉の裏に隠す。単純明快な思考の彼女には少しだけ難しいことだ。けれど、第二のアブラムを作りたくはない。そんな心境の変化は、彼女の思考を少しだけ傾けていた。


 その心境の変化が何故起きたのかをマリーヤはまだ聞いていない。だがそんな内心の変化をわずかに読み取り、そしてその言葉の意味をほぼ正確に理解し、マリーヤは鼻で笑う。

「そうですね。彼とはいずれ、ちゃんとお話ししたいと思っておりました」

 未来の戦力などどうでもよかった。報奨の話であれば、本人に直接確認してからでも遅くはあるまい。

 その言葉は、本音だった。

 


「ヴォロディア王」

 二人の会話を困惑しながらただ聞いていたヴォロディアに向けて、マリーヤは声をかける。

 ヴォロディアは、ただ肩を震わせて応えた。

「正門の横に馬車と、街を出たところに雪車(ソリ)が待機しております。速やかにお逃げ下さいませ。後のことは、私たちにお任せいただきたく」

「……ここで、『任せる』って言えばいい話か?」

「ええ。もちろんでございます。もとより、貴方様に指揮など期待してはおりませんので」

 花のようにマリーヤは笑う。失礼千万なその言葉の棘をその場にいる者が察せないほどの、見事な笑顔だった。


 振り返り振り返り、ヴォロディアは職人を連れて走っていく。マリーヤの言葉に従って、逃げるために。

 マリーヤとグーゼルは、それを黙って見送った。

 あんな男でも、生きていてもらわなければ困るのだ。逃げ延び、また散逸した王城の機能をまとめる中心とならなければ。

 この階級社会において、身分はとてもとても重要なものだ。個人の能力にかかわらず、王は王にしかなれず、平民は平民にしかなれない。その呪いに近い慣習はこれからもずっと続くのだろう。例外的なある種奇跡のような偶然により、ヴォロディアは王となった。ならば今現在、最も王に相応しいのはヴォロディアだ。心の底の呪いによって、皆もそう認めてしまうだろう。

 また新たな王が、平民から現れるかもしれない。けれど、今のところは王はあの男だ。

 野良犬とまで内心蔑んでいても、官僚すらその呪いには逆らえない。今のこの状況を治めるには、あの男の存在が必要なのだ。

 そう、二人は言葉を交わさず目だけで確かめ合った。


「さって、んじゃ、あたしは身体を休めて毒を早めに抜かなきゃな」

 伸びをしながら、グーゼルはそう言う。あくびをしながら。

「グーゼル様もお逃げ下さい。……北の戦場であれば、きっと、問題はないでしょう」

「ああ、だろうな。でも、あたしはここにいなきゃなんねえし。戦場の奴らは信じてるけど、それでもあたしは紅血隊。魔物から逃げるわけにはいかねえんだし」


 もし仮に、この城まで魔物や波が迫ることがあればもうこの国は終わりだろう。そうなることはないと信じている。けれど、もしもそうなってしまったら。

 そのときは、身体の全てを捧げる覚悟だった。


「あとで、食事会の時にでも詳しく話すけどよ。この事態の原因はあたしにもあるし。なら、逃げるわけにはいかねえだろ」

 食事会の時にでも。そう思ったところで、わずかに自嘲した。この身体の全てを捧げてしまえば、波に飲まれてしまえばそこで話すことなど出来はしないのに。

「いや、んなこと話すもんじゃねえな。まあ、また後で詳しく話すよ。あたしの七十年にもわたる自虐史だけど」

「……正直聞きたくありませんが」

「ハハハ、だよな!」

 聞きたくないだろう。そう同意する。当然だ。グーゼルとて、話したくはないのだから。

 

 そうだ。そんなこと、酒の席でも話すべきではない。そういった話は、親しい友とでも話すべきなのだ。

 そんな親しい友など、今まで一人たりとも存在したことはないが。

 まあ、そんなもの、今から作っていけばいいのだ。そうグーゼルは気持ちを切り替える。まずは、直近の食事会から。まずは、友人を二人作ろう。上下関係や、慰労などに関係のない純粋な友人を。


 だが、そこまで考えてふと不安が心の中に立ち上る。唇を結び、北を見た。

「……そういやさ」

 少しだけ重くなった空気。それを、マリーヤも怪訝に思う。

「なんでしょう?」

「いや、あいつさ、返事しなかったな、って」

 きっと、心配しすぎだろう。そうは思う。彼は魔法使いだ。自分と肩を並べられるかもしれないほどのあの少年に、何かあるとは思えない。仮に北の部隊が全滅しても、きっと彼だけは生き残って戻って来られるだろう。そう思った。

 首を振り、その不安を振り払う。

 そうだ。戦場は不安なものなのだ。そう、部下に教えられたばかりではないか。そう、内心を誤魔化して。

「何でもない。んじゃ、マリーヤも逃げろよ。今は、お前も仕事はないだろ」

「……ええ。各部隊に王の命令を伝えるよう手配して、避難するといたします」

 マリーヤも、グーゼルの表情からその不安を読み取る。けれど、あえて何も言わなかった。

「もうひとつ」

 そっと、マリーヤは懐に手を入れた。そして、一つの包みを取り出す。

 それを見て、グーゼルは眉を顰めた。

「そりゃ……」

「ええ。これは、貴方に預けておきます。どうか、御身を大事になさって下さい。そのついでに、この城を、国を守っていただければと思います」

 それが何とは言わない。けれど、グーゼルは不思議に思う。それは多分、この国からは大分前に失われたというもののはずだ。

「先ほどのカラス殿の言葉。それはきっと真実でしょう。魔物すらものともしない仙女。この国を守るのは、きっと貴方が相応しい」

「……ヴォロディア、怒るっしょ」

「どうせ、この国では貴方以外には使えないのです。……初めは、カラス殿に、と思いましたけれど」

 実質、その一択だった。信用が出来て、なおかつ神器を使えるほどの魔力を持つ者。あのときは、グーゼルを信用できるかどうか迷っていたから。

 けれど、今ならば信用できる。信頼できる。何故だかは知らないが、あのカラスの言葉でそう思った。

 それに、やはり彼は外部の人間なのだ。出来る限り、この国は自分たちの手で守らなければいけない。彼に、任せきりにすることは出来ない。この国は、私たちの国なのだから。

「<災い避け>、お預けします」

「しゃーない。あとで、何でお前が持ってるか聞かせろな」

「……ええ。お互い、全てお話ししましょう。貴方の自虐史とやらも含めてね」


 ふと笑い合う。騒乱の最中なのに、やけに静かに感じた。

 何も言わず、二人は別れる。

 信じると言うことは、とても不安なものだと、彼女はそのとき初めて思った。







 北の雪原で、騎士が一人溜め息をつく。

 魔物の群れが一段落し、雪の壁に背をつけながら。疲労からのその溜め息は、周囲の者達にも広がっていった。

 皆、既に疲労している。

 騎士隊長は、槍を杖にして前を向く。その、赤く染まった雪原を見つめて。


 長大な壁の前に積まれた死体は既に千を超え、また生き残った数百の魔物も手足を断たれ、怨嗟の声を上げ続けていた。

 戦いに慣れているはずの騎士たちすら、この戦いは惨いと思った。

 生き物が死ぬ声というのは、多くの生物にとって甚だ不快なものだ。相手は人間ではない。けれど、魔物であってもそれは変わらない。

 この戦いは、それをわざと上げさせるものだ。わざと殺さないように戦い、行動を不能にして放置する。

 騎士たちには魔物の声は理解できない。けれど、その意味がわかる気がする。『助けて』『許せない』そう言い続けている気がする。人の言葉ではないけれど。

 

 ここで彼らをそうしなければ、自分たちがそうなってしまう。それはわかっている。

 ここで魔物たちを食い止めなければ、自分の家族が波に飲まれてしまうかもしれない。その魔物が、愛する夫や妻や子供の喉を食い破るかもしれない。それは、わかっている。

 現に、騎士たちにも既に死者は出ているのだ。怪我人も多数出ており、既に腕を失った者もいる。

 治療師は走り回っているが、それでも膨大な数の怪我人を全て迅速に治療できるわけではない。間に合わなかったものも大勢いる。それを責めることは出来ないが。

 


 騎士たちの中には、耳を塞ぐ者もいる。

 殺すのであればまだいい。心が痛む者もいるが、それでもそれで行動を止めるのは騎士として不適格だ。そう思える。

 しかし今回は、この怨嗟の声の中、戦い続けなければならない。彼らの声が止まるようなことがあっては困るのだ。壁は、生きている生物でなければ鎮められない。殺すわけにはいかないのだ。たとえその声が、必要以上に騎士たちを苦しめていても。

 

 騎士隊長は、その部下たちを怒鳴りつける。この非常時に何を、と。それでも騎士か、と。

 騎士たちは、国家や都市の暴力装置だ。けれどその装置には心がある。

 職務上、騎士隊長は耳を塞いだ者を叱らなければいけない。必要なときに必要な指示が届かなければ、皆の生死に関わるかもしれないのだ。

 だが、それでも。その気持ちはわかる。生物を苦しめるのは心が痛む。ならば一息に殺してやりたい。そのために震える騎士隊長の声は、皆にも伝わっていた。



 また魔物の波が来る。

 騎士たちは果敢に戦う。魔物たちに打ちかかり、矢で牽制しながらその毛皮を槍で突き破る。闘気を使う魔物は迅速に切り捨て、魔法を使う魔物は手足を砕き切り飛ばし放置する。余裕があれば、闘気を使う魔物も放置しながら。

 終わりが見えない。既に二桁回にも及ぶ魔物たちの波をやり過ごしながらも、魔物が尽きる気配がない。もちろん、終わりが見えても困る。この波の終わりとは、即ち白い壁が見えたとき。それが迫ってくるのを心待ちに出来るほど、騎士たちの心は強くなかった。

 隣にいた友が倒れ、上司は胸を囓り取られ、部下は雪原を血で染めて事切れる。並べられてく死体に、鳴り響き続けるうめき声。新兵たちはおろか、革命前から騎士団に所属していた騎士たちの心も、折れそうになりつつあった。


 もはや治療師たちの魔力も尽きかけ、軽傷ならば治療することすらなくなってきていた頃。

 波をやり過ごし、騎士たちは雪に座り込む。

 残った部下たちを前に、神妙な顔をしながら騎士隊長は腕に包帯を巻き付けていた。

 じわりと血が染み出す包帯に、顔を歪める。角海豹の角が、闘気で強化された鎧を突き破り左腕を貫いたのだ。幸いにも、動かすことは出来る。けれど、指を曲げる度に響く鋭い痛みに、声を上げないよう懸命にこらえていた。

 包帯の先を、右腕と歯できつく締め上げる。そうして一息吐いてから、騎士隊長は周囲を見回した。


 皆、懸命に我慢している。

 きっと、もう嫌だと叫びたい者だって大勢いるだろう。死体が多く作られた。次の波で、自分が同じ死体になってしまうかもしれないのだ。

 そう思うことを咎めることは出来ない。そう、それを咎められるのは、目の前に座っている一人の剣士だけだろう。まだ諦めてはいない、彼だけが。騎士隊長はそう思った。



 スティーブンがこの場所で休憩をとっていたのは偶然だった。

 ウェイトの作戦で吸い込まれるように殺到する魔物たちを切り伏せ、白銀だった鎧が黒く汚れてしまうまでになった彼。彼は、ただ手近な塹壕で休憩するためにそこに座り込んだ。そんな偶然だった。

 だが、そこにいた兵士たちの姿を見て内心呆気にとられていた。


 騎士隊は、いくつもの塹壕に常駐できるよう細分化されている。ここにいるのはその一部隊。だが、この士気の落ちようでは、他も推して知るべしだろう。

 物資も人員も足りない中続く殺しあい。それはたしかに不安を広げるのに充分すぎる困難だ。だが、ここまでとは。

 一人の騎士に目を向ける。恐らく彼はもう限界だろう。もはや目の焦点が定まっておらず、歯を食いしばり、息を荒くしながら槍を握りしめている。なんとなく感じるそのあどけなさからして、多分新兵だ。

 ならば仕方のないことかもしれない。スティーブンはそう思う。周囲を見れば、そうした者が多い。恐らく、実戦を経験していないか、していてもかなり少ないのだろう。そう当たりを付けた。


 そんな彼らから広がる不安が伝染し、戦場に慣れているはずの者たちまで不安に染めている。そういうことなのだろうと推測する。

 だが、それでは駄目だ。遺体安置所はもう既に手狭になりつつある。そこをいっぱいにしてしまえば、もうこの国は守れない。この空気はいけない。この空気は、国を殺す。

 その解決策を考えたスティーブンは、ちょうど目の前にいた騎士隊長に目を向けた。



「あー、疲れたのう! これはあれじゃ、帰ったら女房に全身使える分の湿布を作ってもらわにゃ!」

 目の前にいた老人が、突然声を上げた。それを確認し、騎士隊長は瞬きを繰り返す。

 どう考えても場違いだ。その脳天気な声は、今のこの場にはまったくそぐわない。

「のう、貴方様はどうじゃ? 帰ったら何したい? 女房の料理が食いたいとは思わんか?」

「……私は、独り身なので……」

 戦い続けてきた彼は、まだ独身だった。騎士団の隊長ということで地位はある。素朴だが悪くない顔に、部下たちの祝い事には何かを必ず贈る気前がいい彼は、女性に避けられるような男性ではない。

 ただ、機会がなかった。女友達すらいない彼にとって、スティーブンのその言葉は異次元の言語と言ってもおかしくなかったほどだ。

「それは気の毒じゃのう! こんな惨たらしい戦場にいるんじゃ、帰ったときの楽しみすらないとは!!」

 その言葉に、少しだけ騎士隊長はカチンときた。自分の人生で、女性に重きを置いていないことはわかっている。だが、楽しみとはそれだけではない。最近覚えた酒の味。温度をわずかに変えるだけで千変万化する味の探求は楽しい。部下に贈るために少しだけやってみた刺繍だって楽しいものだ。生活において、女性はそんなに重要ではない。

 それを、女房がいないから気の毒とは。失礼にも程がある。


 無論、スティーブンもそんなことはわかっている。わかって、言っているのだ。

「んじゃ、何が楽しみなんじゃ? 言うてみい」

「……それは……!」

 言いかけてやめる。まず浮かんだのは、部下の結婚に合わせて贈ろうと考えている刺繍の旗の完成。次の休みに、一気に仕上げてしまおうと考えていた。

「どうじゃ? ん? なんじゃ? 言わんのか? どうせ、ここで最後じゃろ、言ってしまえ、言ってしまえ!」

 スティーブンはなおも囃し立てる。何を言えなかったのはわからないが、何か言えるようなことがあるのはわかった。その内容が知りたいわけではない。だが、その言えない理由に着目してほしかった。


 騎士隊長は、ふと周囲を見る。

 周囲の騎士たちが、自分の言葉を待っているのをすぐに察した。人の秘密とは、それがどんなに小さいことでも甘い味がするものだ。

 しかし、言えない。刺繍の柄は、比翼という片羽の二対の鳥で、二羽が揃ってようやく空を飛べる魔物。夫婦の今後を祈ってのものだ。自分が作っていることは内緒にしており、当日驚かせてやろうという大作だった。

 当人たちはこの場にいないが、それを言ってしまえば、きっと噂は伝わる。もう驚きはなくなる。出来なくなる。()()()()()()()()()()()()()()……。


「あっ……」

 騎士隊長は、自らの考えた言葉で気付く。自覚していない感情に、驚いた。

 笑みがこぼれる。そうだ、まだ自分は生き残るつもりでいたのだ。生き残って、その日まで生きるつもりでいたのだ。部下とその細君も、無事なままで。

 瞬きを繰り返し、目の前の老人を見る。そしてその意図を知った。


 そうだ。

 周囲を見渡す。自分の言葉を待っている部下たちの死んだ目は、こちらを向いていた。

 そうだ。この場で一番の地位がある自分が、ここで同じ目をしてはいけない。困難など、笑い飛ばさなければ。覚悟は必要だ。だがその覚悟は、日常に戻るのを前提としていなければ。

 『もう嫌だ』という言葉を、騎士隊長自身も吐きたい。けれど、その言葉の続きまで考えてはいなかったのだ。『もう嫌だ、帰りたい』そう思わなければ、きっと生きて帰れない。


 まだ、部下たちは自分の言葉を待っている。けれど、どうしたものか。どういう言葉を吐けばいいものか。

 その助けを、スティーブンに求める。真っ直ぐな目に、スティーブンは彼が役目を思い出したことを悟った。

 彼の役目は、最後まで諦めないこと。部下たちを奮い立たせること。部下たちとともに戦い、傷つき、労うこと。けして、部下たちと共に死んでいくというようなものではないのだ。


 その決意が戻ってきたことを知ったスティーブンは、助け船を言葉として出す。

 もっとも、スティーブン自身、そこから先は何も考えていなかったのだが。


「……じゃー、あれじゃのう。独身じゃし、誰ぞ好いたおなごなんぞおらんか」

「……」

 不慣れな彼は、スティーブンの言葉を聞いて咄嗟にある女性の顔を思い浮かべる。素直なのは美徳ではあるが、彼は並外れていた。

 誰か思い浮かべた。それを察して、適当に考えた言葉の続きを使えると思い、スティーブンはほくそ笑む。

「その者に思いを伝える、というのを楽しみにしては……」

 あとは適当に流して、話題を終わらせればいいだろう。そう思い続きを言葉にしようとしたが、騎士隊長は止まらなかった。

 周囲の者たちが期待している。自分が何を言うのかと。その思いに応えなければいけない気がした。呆れるほど、素直な男だった。


「では、私は、この戦いで生き残ったら……マリーヤ様をしょ、食事に誘うとしましょう!」


 自身のことには慣れておらず、どもりながらの唐突な宣言。

 その宣言に、もとより静かではあったが、一瞬場が静まりかえった。


「……お……」

 またも、スティーブンは呆気にとられる。目を丸くして。ここまで男女のことに初心だったとは、流石に察することは出来なかった。

 次の瞬間、笑いがこぼれる。スティーブンではない、周りの騎士たちから。


「はははは! 隊長! そりゃ無理ってもんでしょ!」

「マリーヤ様が誰かと食事に行ったなんて、聞いたことないです!!」

 囃し立てる声に、騎士隊長の耳が真っ赤に染まる。自分は、何を言ってしまったのだろう。そう、自責の声が内心で溢れた。

 だが、いいな、とその場にいた幾人かは思った。


 そうだ、マリーヤ様は貴族の娘。対して、自分たちは騎士ではあるが平民で、婚姻の相手としてなど考えられもしなかった。精々が、酒の席で夢物語として語る程度だ。

 けれど、それは今や現実的なものとなっている。

 ヴォロディア王はいけすかないが、それでもその政策の一つに身分の撤廃がある。革命後はマリーヤ様もただの女性。平民の自分たちであっても、婚姻の対象になるはずだ。

 もちろん、今のままでは駄目だ。騎士団の中でも、地位がなければあの佳人の眼中にはきっと入らないだろう。

 ならば、実績を立てればいい。そんな絶好の機会が、今まさに目の前にあるではないか。

 

 そんな気付きに、奮起する者がいた。騎士隊長の言葉が予期せずして彼らの士気を上げたのである。

 そんな、都合よく憧れの女性に近づけるということすら夢物語であるということは、無意識にどこかに追いやりつつ。



 空気が緩む。緊迫していた空気。淀んでいた空気が笑いで吹き飛んだように。

 その空気に、槍を握りしめていた身体の力が抜ける。緊張と不安まで、抜けていくように。

 こちらは、スティーブンの最初の目論み通りだった。大分違う形ではあるが。

 もはや『もう女房は男作って出て行ってしまったがのう』という用意していたオチすら使えない。だが、それは別によかった。


「こりゃ、隊長を生き残らせるわけにはいかねえな!!」

「いやいや、お前、馬鹿! 誰か結婚する度に血の涙を流していた隊長だぞ! 今回くらい応援してやれ!」

「お前こそ馬鹿! 俺が誘うんだよ!!」

 張り詰めていた分だけ、緩くなる。この戦いの後のことを考えて。

 そうだ。死を見つめるのは悪いことではない。けれど、死に縛られては何も出来ない。小粋な軽口でも飛ばすべきなのだ。 


 死も、老いも。

 スティーブンはそう、目を細めながら思った。




 鐘が鳴る。

 また、次の魔物たちだ。

 基本的に、この雪原は北壁に近いほど過酷な環境だ。山を越えて、その先にある雪原はさらにその傾向が顕著になる。

 そんな過酷な環境に耐えられる魔物。それは即ち強大な魔物であり、打ち倒すのも困難であるということに他ならない。

 それを証明するように、魔物たちはだんだんと強くなっている。

 先ほど、北砦にいた兵たちがもうすぐ避難してくるという報が回っていた。それを知った騎士隊長は気を引き締める。

 北砦で魔物たちを抑えていた兵たちは、北壁の膨張を観測したことにより逃げ出したはずだ。ならば、北砦の兵たちがこの第二防衛線に辿り着けば、北壁はすぐそこということになる。


 ここで生け捕りにした魔物たちだけで足りるだろうか。そんな不安が、また頭の中をもたげてくる。

 先ほど、北壁に関する資料を総隊長が入手したという報もあった。紅血隊隊員が独自にまとめたというその資料は、今精査されている。その記述によっては、即座に退避命令が出るだろう。


「左方より接近!! 一班、二班! 切り払いつつ引きつけろ!!」

 士気は上がったが、それでも状況は変わらない。近くで血飛沫が飛ぶ。その出所が何かを確認する暇もなく、騎士隊長は応戦する。遠くで老人が叫ぶ声に、何故だか安心できた。

 

 突然、ドンという音が響く。

 近くではない。まだ遠く。だが、剣戟の中そちらに目を向けるとたしかに見えた。


 大きな獣が舞っている。魔物に見える。けれど、おかしい。何故あんなに軽々と、まるで紙くずが舞うように宙を飛んでいるのだろう。

 また一匹舞う。血を吐き出しながら、来た方向に向かって飛んでいく。

 

 目の前の魔物がびくんと跳ねた。

 近づきつつあるその音に怯えるように。そして、周囲を見回し左方へ逃げようとする。その音の、反対方向に向かって。

 何が起きている。騎士隊長は不思議に思う。

 魔物は北壁から逃げてきている。だから、自分たちはここで踏ん張っているというのに。なのに、今の魔物は西へ逃げた。北壁に近づくことは選ばずとも、北壁から逃げるよりもあの音から逃げるように。


 また一つ音が鳴る。先ほどよりも大分近い。騎士たちの、悲鳴じみた声が上がった。

 しかし、音の出所を見ることは出来ない。一頭の氷獅子が、目の前に走ってきている。その牙も、爪も、気を抜いたら危ないものだ。

 その獅子に応戦するため、騎士隊長が剣を左腕の上に滑らせる。シャーッという音の後、氷獅子の顔が上下に割れた。

 脳までは達していない。まだ死なない。それに怯む氷獅子の手足を切り飛ばす。続けて顎を蹴り上げれば、後ろからもう一匹迫ってきていた氷獅子に衝突した。


 まだ敵はいる。部下たちを死なせないために、眼前の敵は一匹たりとも逃がせない。

 十歩の距離を跳び、騎士隊長は逃げる魔物の首の後ろを切り裂く。こいつは闘気を使う魔物、殺すべきだ。そう即座に判断して。

 

 部下が一人倒れる。だが、大丈夫、死んではいない。それを横目で確認した騎士隊長が、その原因となった角海豹を切り捨てる。

 臓物をばらまきながら落ちるその身体を空中で蹴り飛ばし、次の魔物を、と探した。


 それが、隙だった。


「隊長!!」

 気付いた騎士が声を上げる。だが、遅かった。

 ヌッと雪面から角の先が現れる。それから一切の間を置かず、その先端が騎士隊長の胴体に迫る。

 現れたのは、もう一頭の角海豹。今まさに切り殺された角海豹の、子供だった。


 やけに遅い光景。

 騎士隊長は、その様をしっかりと見ていた。止まったような時間、ぼんやりとした音。

 その角が、自らの胸に伸びているのを正確に把握していた。


 身を捩る。けれど、その動きは遅く、そして角は大分速い。

 このままいけば、心臓を貫くだろう。これは、もう駄目か。もう、これ以上は……。


 遠くでスティーブンがこちらを見ている。いや、最期に見た人がこの老人というのも味気ない。しかし、それ以外にも見えるのは部下たちだけだ。

 これは仕方ない。せめて、最期に愛しい女性でも思い浮かべることが出来たらよかったけれど。

 視界が闇に染まっていく。まだ、角は刺さっていないにもかかわらず。これはきっと自分が目を閉じているのだろう。そうか、自分は自分の死を見つめるほどの勇気もなかったのか。そんな自嘲が脳裏をよぎった。


 ああ、まだ刺繍を完成させていないのに。あの旗を、もっと早く作り始めればよかった。

 後悔。だが、それをする時間もない。



 ドン、という音がした。




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