責任はどこに
おそらく年内最後の更新です。(閑話をいれる踏ん切りがつかなければ)
今年はありがとうございました。来年もまたよろしくお願いします。
「どれくらい硬いかわからないんですけど」
「けっこう硬い。あたしが万全でもちょっと苦労するくらいだし」
「難しいですね」
話しながら、足の位置を調整する。向こう側にいる人間に衝撃が伝わらない方向から、ちょうど壁にジャストミートする位置に。
王の居室に使われるほどで、さらにグーゼルでも苦労するほど強靱な壁。……これを壊せというのは、力仕事のレベルではない気がする。
だが、まあ先ほどいきなり突っかかってきたヴォロディアを驚かせられるのであれば、なんでもしたい気分だ。頑張ろう。
「いきます」
「お願いします」
グーゼルに合図を送ると、マリーヤから返答がくる。どちらかといえば止める立場な気もするが、やはり怒っているのだろう。まあ、わからなくもない。有事において、何も行動しないのは責任ある立場としてはまずいと思う。
拳を緩く握り、腰の位置に。足首の力を上半身に伝え、腰を捻りながら拳へと伝え打つ。
ドン、という音がした。
それから、拳に伝わった金属の歪む感覚。金属ではあるが、まるでゴムのようにへこんだ感覚の後、その歪みがグワンと広がっていく。
水風船を叩いたように波紋が伝わり、おそらく一周して返ってきたのだろう、僕の拳を波紋が強かに叩いた。
その揺れが収まると、元の金属質の壁だ。叩くと響いた音が鳴り、柔らかさなど微塵もなくなってきた。
卵の殻は材質に比して頑丈だとは聞くけれど、その形のせいもあるだろうか。
……しかし、ならば。
「もう一回イケるよな」
もう一度。僕が言おうとしたことに近い言葉を、グーゼルが口に出す。機先を制され、振り返った僕にグーゼルは笑って頷いた。
「全力じゃねえだろ?」
「……ええ。単なる小手調べです」
実際は壊す気で叩いたが、僕はそう言い返す。単なる強がりだ。しかし、あながち嘘ではない。
硬さは大体わかった。多分、全力でやれば割れる。
延性があるはずの金属なのに、割れるとはおかしな話の気もするが。いや、衝撃によっては破断するか。
とにかく、拳に伝わってきたのはそんな感触だ。
「大きな音がするかもしれません」
「構いません。今のこの状況で、そんなものに誰も構ってはいられませんので」
お腹の辺りの生地をぎゅっと握りしめ、マリーヤがそう答えた。貼り付けたような柔和な笑顔は、先ほどの雰囲気がなければたしかに綺麗なのだけれど。
でも、今はそうは思えない。気のせいと思いたいが。
僕は、闘気を活性化させる。
レヴィンの腕を折ったときと同様に、僕から煙のような光が立ち上るほどに。
力が入る。身体にかかる重みの一切が消え去った気がする。上がった視力に、埃の一粒一粒までも鮮明に見える気がする。
冷たい空気は冷たいまま。けれど、照明からの温かさも頬に感じた。
床に押しつけた前足に力を込めて、床にこすりつけるようにしながら腰を捻る。
足下も不壊の建材だ。いくら力を込めようとも構うまい。
何のことはない。波紋が力を逃がす前に、全ての力を伝えきる。
それだけで、この卵の殻は破れるのだ。
バツン、とまるで硬いゴムが引きちぎれたかのような音がした。
拳の勢いをそのままに、不定型な三角形のように抜けた壁が部屋の中へすっ飛んで入る。
狒々色金の壁が衝撃のままに揺れる。張ったワイヤーを弾いたような音が、部屋と、周囲に響いていた。
「開きました」
闘気を抑えてから僕がそう報告すると、グーゼルは口笛を吹いて応える。
「やるじゃん」
「やはり、けっこう硬かったですね」
しかし、頑丈な素材だ。辞典より少し厚いくらいで、闘気もなしに僕の攻撃に一度は耐えるとは。この国で初めて見た素材だからおそらく貴重なものなのだろうが、武器などに転用出来ないのだろうか。
「当然だし。水煉瓦と同じくらい昔からこの城にあった素材だぜ」
「やっぱり、壊しちゃまずかったですか」
水煉瓦の加工は一切出来ないという話だった。これは一応加工できると言っていたから、修理することは出来るんだろうが……。
「ま、簡単にゃ作れねえだろ。けど、お前は気にしないでいいぞ」
「ええ。カラス様は、ヴォロディア王の安否を確認するために中を覗けるようにしていただいただけ。王の安全です。他の何をも、代えられるものはないでしょう」
にっこりと笑いながらマリーヤはそう言い、そして一歩踏み出す。
僕の背丈ほどの大きさの穴から、暖簾をくぐるようにして中に足を踏み入れた。
僕らも続いて足を踏み入れる。平均的な成人女性よりも背が高いグーゼルは、壁の断端のささくれに長い髪の毛が引っかかって鬱陶しそうにしていたが。
そして、歩いていく。
人のいた方向へ。僕が確認をするまでもなく、マリーヤは一目散にその反応があったところに歩いていった。
壁で弾かれた調度品が割れて散らかっている。花瓶も割れ、中の水と桃色の花が床に飛び散っていた。……この花瓶、高価だったりしないだろうか。
そして、その破片を踏み割り、マリーヤは立ち止まる。
ソファーから転げ落ちたかのように固まっていた、ヴォロディアの前で。
筋肉質の身体を丸めるようにして、ヴォロディアは座り込んでいた。明らかに、恐れていた。目の前のマリーヤを。
「……こんなところで何をなさっているんでしょうか」
「マ、マリーヤ、何しにこんなところへ……」
マリーヤは一度、部屋の隅に目を向ける。そこには、先ほど指をなくした職人が壁にもたれ掛かって俯いてた。
それを見て、一度目を細めてからマリーヤはヴォロディアに目を戻す。
「決まっております。王を探しに。この非常時です、していただきたいことは、山ほどございますので」
「俺に何が出来るわけでもねえだろ。さっきの警報は、北壁の膨張だろ?」
「そうでございますとも。ええ」
ゆっくりとした口調。この非常事態には、決してそぐわない。
「じゃあ、俺は本当に何も出来ないだろ。戦場に出るわけでもねえし、こういうなんか、ほら、あれはお前らの仕事じゃねえか!」
「指示をいただきたいのです。命令を。国という組織は、そうしなければ円滑には動きませんので」
ヴォロディアは、声を若干荒げる。けれど、マリーヤはそれも流した。まるで、ヴォロディアに言い聞かせるように。
だが、ヴォロディアはその言葉を受け取りもしなかったらしい。
「お、俺、そういう話は詳しくわかんねえから、勝手にやれよ」
「でしたら、なおさらその旨を伝えていただきたく存じます。『ヴォロディア王の名を以て、現場の者は最善を尽くすように』というような、命令を。そしてその後、速やかに避難して下さい」
マリーヤは足下の棚の破片を蹴飛ばす。ヴォロディア王が、塞室を出るため道を作るように。
「それさえしていただければ、あとはなんとかしましょうとも。官吏たちも、無能ではありませんので」
しかしヴォロディアは立ち上がらない。まるで、足に力が入らないように。何かに怯えているように見えた。
「そ、そうだよ。そういう話だよな、そうだよ。お前ら国の人間はそのためにいるんだろう!? そこの、カラスだっけ!? お前も戦えるんだろ? なんとかしてこいよ。つーかグーゼル、お前も何してんだよ早く北に出て様子を……!」
「あ?」
聞き返す言葉に濁点がついた。グーゼルは一歩踏み出し、ヴォロディアを睨む。乾いた笑い声を出しながら。
それを見て、少しだけヴォロディアが後ろに引いた。
「てめえに言われたくねえし。お前こそ早く城の外に出てけよ。逃げるか働くか選べ。そして、やれや。こんなところに隠れてねーでさ」
「お前に言われるまでもない! というか、俺が逃げてどうする! 俺が逃げたら、何言われるか……」
途中までは威勢のよかった言い返す声が、いきなり小さくなる。瞬きが多くなり、唇を結んで無意味に何度か頷いた。
「お、俺だって初めての事態なんだ、仕方ないだろ、……!」
そして、何者かに向けて弁解を始めた。誰に向けての弁解かはわからないが、今すべきことではあるまい。
「……プロンデ殿が言っていたことはこれですか」
マリーヤがぽつりと呟く。本当にただの独り言で、誰に聞かせる気もなかったようだが。
「では、ヴォロディア王の命令として布告します。文はこちらで考えますので、その許可をいただけますか。それだけでけっこうです」
何かを諦めたかのような力の抜けた声。何となく、気の毒だった。
「待てよ! 俺、俺の名前で出す意味なんてあんのかよ!」
「あんに決まってんだろうが。てめえは王様だ。この国のな。それもしたくねえなら、前の演説みたく広場で音頭取って早く逃げろや」
「演説って……」
「何度もやってんだ。簡単だろ? 簡単だよ。『今は一大事です、皆さんは荷物など気にせず指示に従って早く逃げて下さい』ってな。それだけだ。それだけで、お前にゃもう何も求めん」
グーゼルがそう言いながら溜め息をつく。かなり失礼なことをしているはずだが。
「そ、そんな話なんて出来るかよ! 逃げた先でどうにかなったらどうするんだ! お前に責任とれんのかよ!!」
「……やっぱそれかよてめえ……」
グーゼルが拳を握りしめた。危ない。いや、そんな短慮でもないと思うが、それでも殴りかからんばかりの怒気がある。
僕はさりげなくグーゼルの利き手側から、ヴォロディアとの間に肩を割り込ませる。容易に殴りかかれはしないように。
「カラス、お前……」
「死んじゃいますよ」
もちろん、ヴォロディアが。例え力の抜けた今であっても、グーゼルの拳は凶器と言えるだろう。多分。
もう一度溜め息をついて、グーゼルは拳を解く。
だが、口論の勢いまでは止められなかったらしい。
「わかったよ。王様、あんたが何を考えてんのか」
「お前に俺の話の何がわかる」
マリーヤへ向けた目と違い、グーゼルに向けた目は闘志を剥き出しにしている。やはり、嫌いなのか。それともマリーヤへ優しいのか。その辺は読み取れないが。
「お前の話は何が何だかわかんねえし。でも、あれだろ。今の、責任がどーたらってのがお前の言いたいことだろ。あれだろ? 民主主義ってのは、お前の代わりに誰かが全部決めてくれると思ってんだろ?」
「……」
「でもな、今の状況考えろよ。次も選ばれんのは、どうせお前だし。何? そんときになったら、いきなり全部出来るようになるの? お前」
「……そ、そのときはレヴィンが俺の隣にいる。いや、きっとレヴィンが選ばれるだろ」
そこまで口に出し、ヴォロディアは目を見開く。名案が浮かんだような顔で。
でも、その言葉は大体予想できる。
それは絶対に、名案などではない。
「そうだ、レヴィン、レヴィンを探してくれよ。あいつなら、きっとなんとかしてくれる。俺じゃなくて、あいつがきっと……」
不愉快になった。
その口を、強制的に閉じたかった。
するかしないかは即決した。する。だが、どうやろうか。
けれど、悩む必要はなかったらしい。というより出来なかった。無意識ににらみつけた僕の視線を、背中で塞いだ女性がいたからだ。
小さな背中。肩程までの黒髪が揺れる。その細腕は、しっかりとヴォロディアの襟を掴んでいた。
僕の動きも一瞬止まる。唐突で、予想できなかった。
「っ……! いい加減にっ……」
低い声。先ほどまでよりも、随分と荒々しい。
そして、緩く握られた右の拳。それが、言葉とともにゆっくりと振りかぶられる。
「……しろっ!!!!」
ヒュン、と風を切る音が聞こえた。
襟元を掴み、ヴォロディアの顔を固定してからの腰の入った右ストレート。
マリーヤの、綺麗に入ったその攻撃に、ヴォロディアは背後の壁に激突する。それから、力なく跳ねて前に倒れた。
「……!」
グーゼルも僕も息をのむ。壁際の職人すらこちらを見ていた。
しかし、良い動きだ。初対面の時に、ランプを振り回し僕に殴りかかってきた動き。あれ、素だったのか。
何が起きたのかを理解できておらず、俯せに倒れたまま困惑しているヴォロディアの上から、マリーヤが言葉を投げ下ろす。
「いつまでもいつまでもレヴィン、レヴィンと! あいつはもうここにはいないんだ! 玉座に座ってんのは、レヴィンじゃない! お前だ!!」
ようやく事態が飲み込めたようで、ヴォロディアはゆっくりと起き上がり、恐る恐るマリーヤを見る。だが、その視線を受け止めて身体を固めた。
それでも、言いたいことはあるのだろう。唾を飲み込み、瞬きを繰り返す。
「お、俺はやりたかったわけじゃ……」
「そんな言い訳通用すると思ってんのか!!」
言いながら、マリーヤは花瓶の破片を勢いよく踏みつぶした。砕けた破片がパラパラとヴォロディアの手にかかる。
微動だにせず、マリーヤは長い息を吐き出した。その言動を省みるように。
「……私が間違っておりました。書類が少し片付いたから、好転したものと、そう思ってしまった。王の資質は、一昨日までのほうがずっとあったのに!!」
「……」
僕は一瞬口出ししようと手を伸ばす。けれど、声が出なかった。
「革命から一昨日まで、貴方は私たちの前に立っていた、民の前に立っていた! レヴィンという仮初めの杖を支えにして!!」
ヴォロディアも声が出ないようで、ただ黙って聞いている。とりあえず、逆上したら面倒だけどその危険もないらしい。
「レヴィンがいないと決めるのが怖いですか!? レヴィンがいれば、責任を全部取ってくれると思いましたか!!? そんなわけないでしょう! レヴィンがいようがいまいが、王はお前だ、責任もお前のものなんだ!!」
もう一度、マリーヤはヴォロディアの奥襟を掴む。そして、力なく項垂れそうなヴォロディアの顔を、強制的に自分に向けた。
「いいか? レヴィンは死んだ! もう、ここは私たちの国だ! そして、この国は私たちが力尽くで奪い取った!! みんなの国じゃない、私たちの国なんだ!!」
借りてきた猫のようにおとなしく、ヴォロディアはマリーヤを見返す。
「私たちは先王の首を切り落とした! 次に首を切られるのは、お前や私だ! もうこの国の何も、他人事じゃないんだ!! わかったら自分の足で立て! 王として、自分の責任で選べ!」
なんとか、爪先に力を入れてヴォロディアは立ちあがる。マリーヤの細腕に縋るようにして。その、自信のない表情はそのままに。
「……だって、もう無理な話だろ。北壁が広がった。なら、魔物も来るんだろう。もう奇跡でも起きなきゃ、もう……」
「まだお気づきでないのですか。貴方には、私たちにはもう諦める権利なんてないんです。最後の瞬間まで、貴方は生き抜く努力をしなければならない。その義務がある」
双方落ち着きを取り戻しつつある。手を離し、なんとか話し合いという雰囲気に戻りつつあった。
「レヴィンの残した言葉に従って動くのではなく、貴方の言葉で、貴方の行動でどうかお願いします。王としての力量はまだまだでも、ならば私たちに任せていただきたく。この国に仕える者として、官は、全てこの国のために動いているのですから」
懇願するように、マリーヤは言う。
聞いていて、僕は内心自嘲した。
正直その言葉は、僕の胸にも引っかかった。
自らの責任を放棄するヴォロディア王。
すべてレヴィンが、誰かが決めたことだと、未だに自分の責任を回避しようとする男。
誰かに似ている。そうだ。それだ。
僕も、そうだった。
嫌な気分だ。けれど、嫌な気分でもない。どちらともいえない複雑な気分。そんな中、ようやく言葉に出来る気がする。そうだ。僕は、ヴォロディアと同じだった。
僕はあの花売りの少女を殺した。僕が、僕の手で。
でも、あのときはそうとは思っていなかったのだ。その思考の齟齬が、今に至るまでの後悔の原因だろう。
僕は、少女に手を差し伸べた、フリをした。
僕は、あの少女がその手を掴むとは思っていなかったのだ。同じ孤児だ。初対面に近い相手を信用できないことなど、僕自身、よくわかっていたのに。
だが、差し伸べた。なんのために? 簡単だろう。ヴォロディアと同じだ。
僕は、あの少女に責任を押しつけたのだ。
彼女が僕を信じなかった。だから、殺したのだと。
そうじゃないのだ。本当は、そうじゃなかった。
僕が殺したのだ。多分、食人に対する嫌悪感とか、努力不足に対する怒りから、僕は彼女に殺意を抱いていた。そういうことだと思う。
彼女に殺意を抱かなくてすむ理由だってあったのに。僕は、あのとき思った。食人は仕方がないと。それに、努力不足も僕の視野の狭さが招いた錯覚だった。そういうことすら、あのとき考えたはずなのに。
指先が震える。こみ上げてきた笑いを懸命に抑える。
僕は、ヴォロディアを責められなくなった。
どうして僕が責められよう。
レヴィンが言ったから。だから、やりたくないけど王をやる。
そう主張する男をどうして責められよう。
少女が僕の言葉を信じなかったから。だから、少女を殺した。
そう言い訳し続けた僕が。
僕は、彼女を殺さない選択肢もあった。
急がない旅だ。衛兵に訴えでて信用されずとも、言葉を尽くして説明してもよかった。彼女を、グスタフさんと同じくらい長い時間をかけて信用させてもよかった。
でも、僕はそうしなかった。僕は僕の不快感をなくすために、手っ取り早い安易な道を選んだのだ。
ヴォロディアは、王とならない選択肢もあった。
現に、革命軍には市井に戻っていった者も大勢いる。彼が嫌ならば、王にならなくてもよかったのだ。
もちろん、そこにはレヴィンが関与しているかもしれない。王として彼を選んだのは、レヴィンかもしれない。その影響下にあったのであれば、やはりヴォロディアのほうが僕よりもマシだった。
魔法使い病と謳ってはいるが、これは病気でも何でもない。
僕は、僕の心持ちでなんとでもなったのだから。
決めた。
「……ヴォロディア王は、この騒動の後もこの国に残る気でしょうか?」
突然言葉を発した僕に、ヴォロディアもマリーヤも驚き視線を向ける。……僕もずっといたのだけれど。
「カラス殿? 何を?」
「いえ、そうでなければ、かける言葉が変わるので」
僕も一歩踏み出す。僕はヴォロディアに向けてではない。壁際にもたれた職人に向けてだ。
多分、彼もヴォロディア王の言い訳のために連れてこられたのだろう。
『自分は彼を保護するためにここに残ったんだ』という言い訳のために。もしくは、一人で死ぬのが怖かったから、ということもあるかもしれないが。
だが、彼はきっと幸運だ。
もう僕は、非戦闘員とはあまり会わないと思うから。
「残ると仮定して言葉に出します。……恐れながら、これから学ぶべきことが多いとは思います。けれど、けして挫けませんよう。この国には、魔物すらものともしない仙女と、王に手を上げて諌言することも厭わない忠臣がいる。彼ら優秀な臣下が、貴方の味方なのですから」
「まるでどっか行くみてえな言葉だな」
グーゼルは、笑いかけるようにそう言う。だが、まるでではない。そのつもりだ。
僕は、何処かへ行く。
「ええ。もう、魔力も回復しました。毒は消え、体調も元通りです。我ながら現金とも思いますが。……北に向かいます」
エウリューケのことを笑えなくなった。先ほどの衝撃的な光景で、気分が変わったのか。それともその後の内心の変化でか。それはわからないが、魔力が回復している。
霧は晴れた。万全ではないが、魔法を使うのには支障はない。
「北から魔物が追い立てられてきています。これをなんとかして、そして北壁もなんとかすれば、残るのは魔物の数が激減した平原です。いいじゃないですか。この国は、しばらく安泰になる」
「……アブラムみたいなこと言いやがるし」
悲しそうに、グーゼルは言葉を吐いた。思い出させてはまずかったか。だが、アブラム曰く僕は彼と似ているのだから、きっと思考も似てしまうのだろう。
いや、これくらい、誰もが考えることだと思うが。
「そんな大災害を乗り越えて、後世にはヴォロディア王の善政が語り継がれる。そうなってほしいものですね」
「……俺には……」
「仮にそうなるとするならば……」
弱気なヴォロディアの言葉を無視して、僕は職人の手を取る。荒れた手だ。治療師もそこまでは治していないのだろう。軽い火傷と擦過傷を繰り返した、お世辞にも綺麗とは言えない手。
しかし、それは今までの仕事の証だ。きっとそれは誇れるものだ。
だがひとつ、足りないものもあるだろう。
力なく、抵抗する気もなく職人は僕を見返す。それほどショックだったのか、今だに茫然自失としていた。
僕には心は治せない。だが、それも治ってくれるといいな。
「奇跡くらい、起きなくちゃいけませんよね」
僕は、職人の手に魔力を通す。
指を生やす。骨をつくり、筋肉を形作り皮膚を張る。大事業だ。けれど、それは脳よりも単純だし、何より今は出来る自信がある。
魔法があれば、なんだって出来る。やってきた。
指の欠けた皮膚に切れ目が出来る。僕が作ったものだけど。
ミチミチとそれが広がり、骨が出来る。材料は近くの骨から引きずり出したものだ。材料不足のせいで骨粗鬆症状態だけどいずれ治るだろう。
そこに血管を絡みつかせ、筋肉を生やす。最後に、皮膚を伸ばすように再生させる。
見た目では、ずるりと指が生えてきた。多分、そんな感じだ。
「……ぉ……ぁ……」
自分の手を見て、言葉が出ない様子の職人から視線を切り、僕はグーゼルたちの方を向く。
「では。こちらのことはよろしくお願いします」
僕は歩き出す。外へ向けて。その背中に声がかかった。
「ちゃんと戻ってこいよ」
背越しに見れば、グーゼルが手を伸ばそうとして引っ込める。止めようとしたのか。それとも激励でもしようとしたのだろうか。
「終わったら、一緒にメシでも行こうぜ。マリーヤも連れてくし。な?」
魅力的な提案だ。この国のご飯は、僕には魅力的でもないのだけれど。
僕は会釈で返す。
「……では」
ヴォロディアも職人も呆然としたまま。マリーヤだけは、僕にまた会釈で返してくれた。
プロンデは言っていた。
この国はいい国だと。
今は少しだけそう思う。今はそうでなくても、多分いい国になるのだろう。そんな気がする。
僕は城を発つ。やっと戻ってきた魔力と闘気を併用して。
なるほど、いい国かもしれない。
魔力があるのに、今は寒い。足下は頼りない。
久しく忘れていた、この世界に直に接する感覚。それを教えてくれた国。
あの少女は死んだ。もう何をしても、死んだ彼女には何もならない。
だが、何もしないではいられない。少女のためではなく、僕のために。
彼女の命を奪った。それは多分明らかな間違いで、だからこそ今こんなにも後悔している。
しかしもはや返せるものでもない。失った命は戻らない。
彼女に謝りたい。もう、彼女に会うことはないかもしれないけど。
失った命は戻らない。それでも、きっと出来ることはある。
一つもらった。だからさいごに、一つ僕からも返したい。
返さなければ。




