母親の恵み
まず、何処を目指すのか。それは問題だった。
正直、どこでも良い。人が暮らす場所、それも集団で暮らしている場所であれば。
始めは、僕を産んだ本来の親のいる場所を探そうと考えた。
だが、それは難しいだろう。覚えているのは、ぼんやりとした視界の中にあった髪の毛の色。それと口論の声。それだけだ。それだけを頼りに親を探し出すのは土台無理な話だし、そうする意味もないだろう。捨てられてすぐならまだしも、もうそれなりに時間が経っている。もはや親にとっては、もう僕は死んだ身だ。
仮に今僕を見ても、息子だとは思うまい。
もはや、お互いにわかることはない。『離れていても親子ならば一目見ればわかる』などという話を聞いたことがある気がするが、少なくとも僕は、そんなもの信じてはいない。
ならば、何処が良いだろうか。……実はその見当はついている。
魔法の練習中、何度か人間と遭遇しそうになったことがある。その度に木の陰に、茂みの中に、穴を掘った地面に隠れてきた。
その人間たちは狩人のようだった。鳥を捕る場面を目撃したこともある。そして、彼らは獲物を持ち、または手ぶらで暗くなってきた森を東に向かうのだ。
彼らの集落が東にある。それを知っていた僕は、日没と同時に東に向かうことにした。
道中の安全は問題ない。魔力での飛行に道は必要ないし、陽が沈んではいるが視界は良好だ。すでに透明化もしてある。
二回ずつ休憩と睡眠をとった。移動しながら四度目の食事を終えた辺りで森は途切れ、人の明かりが見えた。ひとまず、ここで夜明けを待とう。最後の睡眠だ。
顔に陽が当たり目が覚める。陽が昇ったばかりらしい。
僕は大きなあくびをすると、周囲を確認する。枝が落とされた樹木や切り株、明らかに人の手が入った林だ。そしてその先には、低い柵が申し訳程度に設置されている。そしてさらにその奥にある村の中には、もう何人か人の姿があった。透明化はしてあるはずだが、やはり緊張する。
「―――♪」
まず、中年の女性がいた。ご機嫌らしく、鼻歌を歌いながら水を汲んでいる。朝食の準備だろうか。別の容器に移した水で手を洗い、少し汚れたエプロンで拭う。そして、また家に入っていった。
よく見ると、畑のような区画ではもう働いている人もいる。彼らは朝日が昇る辺りから働き始めていたということか。
家畜がいる家もあった。牛のようでどこか違和感がある、しかしたぶん牛だろう動物や、豚がいる。ここは小さな農村のようだ。木や石で作られた住宅が並ぶ風景は、どこか日本の田舎を想像させた。
しかし、ここには子供もいる。もう畑に出られる年齢なのだろうか、まだ五歳かそこらであろう男の子が、懸命に草を運んでいた。大きな草は彼の身長よりも高いようで、それを束ねて肩に担ぐ、そのちょこちょことした仕草はとても微笑ましかった。当人にとってはそんな簡単なことでもなく、汗を流し必死な様子だったが。
しばらく見て回るが、どこも同じような建物が並び、どれも同じく畑や家畜の世話に精を出しているらしかった。
僕は、求める条件に合う家を物色する。
そうして動き回るうちに、皆は朝食の時間になったらしい。作業の手を止め、それぞれの家に入っていった。
適当な農夫についていってみよう。僕はそう思い、目の前を歩いている小さな子供を従えた農夫に目をつける。
彼らが家に入るのに合わせ、僕も滑り込む。扉は木でできた簡素な物で、内側から閂がかけられるようになっていた。
彼らの食卓は、あまり豪華な物ではなかった。クスクスのような、小麦粉を小さく固めたような物と葉野菜が入ったスープ、それと小さなパン、そしてヨーグルトのようなどろりとした白い液体。そういう物が並んでいた。
両親とその息子、家族三人で囲むその食卓で彼らは笑い合う。今日の目標を決めているのだろうか。なにかの教育だろうか。それとも、他愛ない冗談でも言い合っているのだろうか。
彼らの食卓は、あまり豪華な物ではなかった。前の世界からすると、たぶんそうなのだろう。けれどその食卓は、今の僕にはとても美味しそうで、とても手が届かないごちそうだった。
少し暗い気分になりながら、村の散策を再開する。
ふと下を見る。地面には緑色の木の根が多く、ぼこぼこしている。そこを踏み固めただけのようだった。この木の根はどこから続いているのだろう。見回してみても、近くに大きな木は無かった。
赤子の泣き声が聞こえる。僕は反射的にそちらを見た。
そこには、まだ若い少女のような女性に抱きかかえられ、泣いている小さな乳幼児がいる。その栗色の髪をした子供は、何が気に入らないのか、あやす女性のことなどお構いなしに泣き叫んでいた。
まだ産まれたばかりらしい赤ん坊……条件に合うところが見つかったようだ。よかった。僕は少し安堵しながら、そちらの方に足を向けた。
僕が色々と盗む家。そこに求める条件というのは簡単なものだ。それは、小さな、できれば産まれたばかりの子供がいる家、それだけだった。
子供がいるのならば、子供用の物品だってあるはずだ。そして、子供の成長に必要な物だって揃っている。食料や衣服だけではない。子供には必ず行うだろう教育、躾や言語の知識、それが今の僕には喉から手が出るほど欲しい。
だから、しばらくはこの子供の近くにいよう。この子供を見守ろう。僕はそう決めた。
この子供の親は、僕の親にもなってもらうのだ。
僕はその赤ん坊の家に忍び込む。ぐずる子供は小さな毛布の中に寝かしつけられた。その寝顔はとてもかわいらしく、先ほど泣いていたときの様子とはまったく違っていた。
母親はその寝顔に口づけると、部屋からそっと出て行ってしまった。家事でもしにいったのだろうか。
部屋の中を見回せば、そこは簡素な部屋だった。赤ん坊が寝られるベッドとまだ使えないだろう小さな机、それに親用なのか安楽椅子が置いてある。
隙を窺い、他の部屋も見て回る。家自体はわりと大きな家らしい。先ほど朝食を見た家と違い、子供部屋が用意されていることからしてもそうなのだろう。工房のような部屋、薬品庫のような部屋、それに小さいが書斎らしきものもあった。
母親は洗濯を終えたようだ。そしてまた赤ん坊の下に戻ると、寝ている赤ん坊を見下ろしながら、ニコニコとして編み物を始める。そうして、それは父親らしき人物が帰ってくるまで、何時間か続いた。
一緒に過ごすことに慣れると、色々とわかる。
おそらく、この赤ん坊の名前は『フラウ』という。母も父も、頻繁にその言葉を赤ん坊に向けて呼びかけていた。まだ僕の語彙が少なく、それが『かわいい』や『大丈夫?』のような言葉であるかもしれないという恐れは残るが、たぶん名前だろう。
他の赤ん坊を見た覚えがないのでわからないが、フラウは大人しい子供だと思う。僕以外誰もいなくなった部屋にいてもあまり泣かず、天井や壁を見て過ごしている。そして辺りを見回したかと思うと、時たま視線の先へ向かってキャッキャと笑うのだ。その笑顔はとても楽しそうで、僕はその笑顔が好きだった。
その大人しさも、何ヶ月か経つと打って変わり、危なっかしいことをするようにもなった。首が据わって、ハイハイができるようになると、一人で歩き回ってしまう。
大抵は、洗濯や食事の用意をしている母親を探しに行くようだが、外に出ようとしてしまうこともある。さすがに危ないと思い、その度に邪魔をするのだが、子供の好奇心の前には無駄な行為らしい。一向にやめる気配はない。
そしてやはり、フラウへの、母親であるエルシーの読み聞かせは役に立った。言語や文化の勉強に、僕はフラウ以上に熱心に聞いていたと思う。そのおかげで、この村に来て三年目に入る頃にはほとんどの言葉が聞き取れるようになっていた。
その結果、聞いた世界はやはり、今までいた世界と勝手が違う。
なんといっても魔法があるのだ。使える者は少なく、そしてその分強大な力を持つ技能。魔法使いが一声発すれば、地が揺れ風が巻き炎が地表を焼き尽くす。虹を渡り、掌の小石が際限なく増えていく。金色に変わった猪が敵を踏み潰す。自分の死体を次々と作りながら、女性が姿を変えて敵を翻弄する。
子供向けのお話だ。情報も全然足りないし、事実と違うこともあるだろう。だが、そういうものがあるというのは確からしい。エルシーも、それを何度も力説していた。
魔法がある。それは前世と比べたとき、確実な優位点だろう。しかし反面、やはり優位でない点もある。
この世界には、ろくな機械がない。たとえば、移動手段は馬車のような物が使われている。そんな調子なので飛行機や車などがある訳がない。そして電気などの利用も考えられてはいないようで、当然冷蔵庫や洗濯機なども存在していないらしい。
戦車や戦闘機など存在する訳がなく、戦争で用いられるのは専ら槍と弓と剣。それと少数の扱う魔法で決着がつく。想像だが、ファランクスでも組んでいるのだろう。
この村の生活様式だって近代的な物などまるでない。本や農具など、生活に必要な物はあるが、それもあまり高度な物ではなかった。
一応、たまに来る行商の売っている物を見れば都市部ではそれなりに技術が発展しているらしいが、こんな小さな村ではそんなものだ。
まだ発展途上ということもあるだろう。だが、その速度は確実に遅い。
魔法のことを考えれば、それも当然と思えば良いだろうか。必要がなければ発明など起こらない。呪文を唱えれば火が得られるのであれば、火打石など必要なくなる。
魔法という、優れたものが一つある。ならばきっと魔法以外にも、この世界には前世よりも優れたものがあるのだろう。それに頼ることで、また違った発展をしているのだ。
読み聞かせで選ばれる本の中で、フラウは勇者の英雄譚が好きなようだ。悪い魔王を倒す旅に出た勇者とその仲間たちが、道中で人を助ける場面。その場面が特にお気に入りらしく、フラウはよくそこの朗読をせがんでいた。
「次の町へ向かおうと、勇者たちは森へ入りました。すると、そこへ娘が一人現れて『ああ、ああ、どなたか知りませんが、私にお恵みください。もうしばらく食べてないのでお腹はぺこぺこ、喉もからからなのです』と話しかけてきました。勇者は気の毒に思い、鞄から干し肉を差し出します。そして勇者は立ち去ろうとしたのですが」
「そのむすめは、ゆうしゃのてをとってなんどもおれいのことばをいいました」
「あら、もう覚えちゃってるのね」
クスクスとエルシーは笑いながら息子を褒める。そして息子の言葉を継いで、朗読が再開された。
ストーリーは単純な物だ。世に悪い魔王が現れる。その余波で魔物の動きが活発となり、国が乱れていく。そんなある日、王様に命じられた勇者は、王女様と共に魔王を倒す旅に出た。その道中、深い森に住む魔女や力自慢の武闘家、同じく世のために旅をしていた聖女などを仲間にして魔王の配下を倒して周り、そして魔王を倒す。その後勇者と王女は結婚し、幸せに暮らすのだ。
「威張った顔をした兵隊は『ここは通しませぬ』と、勇者に向かって槍を向けます」
「がんばれゆうしゃ! 」
物語は進んでいく。先ほどの勇者に干し肉をもらった女は実は聖女で、勇者の旅に同行することになった。そして町に着くと、そこで勇者に嫉妬した将軍の配下に難癖をつけられて邪魔をされるのだ。しかし勇者の説得で兵士は改心し、以後意地悪な将軍から勇者を守るようになる。
「『私の剣は人を守るための物で、あなたたちと戦うための物ではない』勇者がそういうと、兵士は槍を落とし、そして涙を流しました。王女はなんだか嬉しくなって、勇者の首っ玉にかじりつき、その頬に口づけをしました」
「わあ、わあ」
ここでフラウの頬が赤くなるのはいつものことである。実はこの物語のそこかしこで、女性から勇者へのキスや抱擁があるのだが、そこでフラウはいつも顔を赤くして恥ずかしがるのだ。その様子はとても微笑ましいもので、エルシーもニコニコとその姿を見守っていた。
勇者の旅路は長い。この世界には、五大聖領と呼ばれる土地があり、その周辺に国が点在している。勇者はその国々を巡り、力を蓄え仲間を増やして魔王を倒すのだ。
どうもこの物語は、千年以上前に実在していた勇者をモデルにしているらしい。時代の流れか国名こそ今と違うものが出てくるが、その聖領は名前も変わらず実際にある。
というか、僕が捨てられ、いまだに食料を採っている森も、辺境ではあるがネルグという聖領の一部だそうだ。
この村に来たときは気付かなかったが、森の奥の方に大きな木が立っている。それは大きい、という形容詞で収まる物ではない。かなり離れているこの村から見上げても上の方は霞が掛かるほどの高さで、僕を前世での平均的な子供とした場合の目測ではあるが、幹の直径はおそらく何キロメートルもあるだろう。その木と、その木を中心として、地平線の彼方まで広がる根が絡まる土地全体がネルグと呼ばれている。
五大聖領は全てそれぞれ環境が違うらしい。たとえばネルグは大きな木。その他にも、底が見えず深さも推定できない海や山脈が浮かぶ溶岩の池、結晶化した鉄の塔など、様々なものが英雄譚には出てきた。そして、どれもが結果的に過酷な土地となっている。
結果的、というのはその土地自体が悪い訳ではないからだ。むしろ、生き物にとっては魅力ある土地。だからこそ、過酷なものとなってしまう。
その中でも、現地にいるからだろうか、ネルグはわかりやすい。とても肥沃な土地なのだ。中心の大樹の加護といわれているが、この森では植物は成長が早く、丈夫に育ちよく増える。
そして、その植物を食べる獣たちがいる。
そこまでは良い。過酷な土地でもなんでもない。けれど、その獣たちを食べる魔物が生息してしまっている。そこまでいけば、それは大問題だ。僕も魔物というものを実際に見たことがないのでその脅威のほどはわからない。しかし英雄譚の中で、兵士たちの一団が大きな犬やネズミに食べられてしまっていることから考えれば推測は立つだろう。
兵士の集団を容易く食らう魔物が群れを成す土地。過酷でなければなんといおうか。
幸いにも、魔物や獣たちは森の奥の方で大人しくしているものが多い。木の幹に近いほど果実の種類が多く、食べ物に困らないらしい。
そしてそのネルグの端っこに、人間も暮らしている。森の辺縁から得られる収穫物と、ネルグの効果だろうか、実りの多い農産物、それで充分すぎるほどの生活がおくれるのだ。もっとも、僕の食料はいまだに森の中での狩猟頼みだが。
「剣が折れてしまった勇者は、折れた剣を杖にして立ち上がり、『俺は、みんなを守るために死ぬ訳にはいかない』……あら、今日はここで寝ちゃった」
フラウは昼寝の時間になったようで、うつ伏せに倒れて寝てしまっていた。エルシーはそんなフラウを重そうに抱え上げると、ベッドに寝かせ、頬を撫でて部屋から出て行った。
フラウが寝ている以上、僕もここに用事はない。ふよふよと浮かびながら、外へ向かった。
僕はふとネルグの森を見る。そこには小さな火の手が上がっていた。よくあることだ。魔物が火を吐いてそれが引火しているとか、遠く離れた、それでも隣の聖領エーリフの溶岩の海が地中を伝ってここまで来ているとか、大人たちはそういう話をしていた。どれが本当かはわからないが、この火が大規模な山火事になることはない。火が出てしばらくすると、ネルグの張り巡らされた根から、樹液のようなものが吹き出して消火されてしまうようだ。
一度、火が消えた直後の場所へ行ってみたことがある。そこはやや粘度が高く若干青臭い液体に塗れていた。ちなみに、その液体は青臭くはあるものの、わりと食べられる味だった。
集落の一角では、十数人の住民が戦闘訓練をしていた。戦闘訓練と言っても小さいもので、長い棒を槍のように扱う素振りや、ランニングなどの体力作りが主らしかった。
かなり少ないが、森の中から獣が出てくることがあるのだ。それらを撃退するため、集落の端には当番制で見張りが立っている。その見張り役のための訓練である。
あまりやる気が感じられる訳ではないが、それでも力強い掛け声が周囲に響く。そもそも大体が農民なのだ。体力などないはずがない。力は有り余っている。
獣が出るような事態はそうないとされ、そして意味のない体力作り。必要の薄いこの訓練にそれでも皆が参加するのは、参加者に旨味があるからだ。
一言で言うと、酒だ。
見張り役は基本的に三日で交代するが、見張り役となる者はその三日前から毎日訓練に参加することが義務づけられている。そして、その訓練の終わりと勤務明けに、参加者に酒が振る舞われるのだ。
酒は、大体九日おきに来る行商が持ってくる。それを集落で集めた金で買うのだ。
あまり量は多くはない。それでも娯楽の少ないここではその酒が貴重らしく、見張り勤務に関係ない者まで訓練に参加することもあるほどだ。あまり僕には理解できないが。
酒は出ないが、僕も端で訓練に参加する。体はすでに三歳児相当だ。もちろん大人のようにはできないが、棒を振り、走ることは多少できる。魔力ばかりに頼り、貧弱な体にはなりたくない。視力を魔力で補っていたからか、今のところまだ目はあまり良くないのだ。それに気付いてからは、なるべく透明化と消音、それと必要なとき以外は魔力に頼らないようにしている。
それに、最近面白いことも発見した。
やる気のない大人たちに混じり、よく参加する、やる気に溢れる少年がいるのだ。その逞しい少年はキーチというらしい。やる気かある若者程度なら、他にもいる。しかし、キーチはひとつ違うところがあった。
ある日の訓練中、珍しく模擬戦を行っていた。そこでキーチと、壮年の男性が対峙しているのを僕は見ていた。人相手にはしたことがなかったのだが、そのときたまたまよく見ようとして、魔力を広げてしまった。そのとき、驚くべきことにキーチはこちらを振り返ったのだ。偶然ではない。明らかに、こちらを訝しんでいた。
魔力を感じ取ることができるのか。ならば、キーチは魔法使いなのか。そう思い、しばらく観察してみたが、そうではなさそうだった。
また、魔力での探査に反応したのはそれ一度きりだった。
原因がわからない。僕が魔法を失敗したのか、それともキーチがなにかでこちらを観測することができたのか。
考えてもわからない。だから、僕はキーチの訓練を極力観察するようにしていた。
今日はキーチはいない。僕は、棒を無心で振る。息が上がって、腕が疲れて汗だくになっても、できるだけやめない。大人たちがやめるまで、頑張ることにしていた。
百数えただろうか、正面打ちの素振りが終わる。次は、正面突きだ。息を整える時間はあまりない。数分の休憩だろうか、大人たちは談笑できるほどになっていたが、僕はまだ回復できていなかった。
また素振りが始まる。大人たちの使う表面が整えられた槍ではなく、枝を落としただけの木の棒を使っているからかというのもあるだろうが、手の皮が弱い僕には特に辛い時間だ。棒を滑らせる左手が痛い。出血は最近少なくなってきたが、それでもまだ痛い。今回は血が出てしまい、六十回ほどで中断した。
横面打ち、巻き落とし、素振りは続く。血が滲むこの作業は、なかなか慣れないものだ。
今回も、素振りが終わって走り込む前に、寝っ転がって休んでしまった。上がった息が戻らない。
空が青い。涼しい風が汗を乾かしながらも、そこにまた汗が噴き出てくる。
どうも、僕は槍が苦手らしい。たまに森で犬を追い払うのに使ってみることがあるが、役立つことはなかった。結局は火球を使うか空を飛んで逃げるので、それでも良い気はするが。
休んでいる間に、手を治療する。魔力を使い、人工皮膚を作るように透明な膜で傷口を覆う。すぐに素振りを再開などすれば破けてしまうが、このまま待っていれば明日には綺麗に治る。必要に駆られて考えた治癒魔法だ。
休憩が終わり、大人たちは不承不承といった感じで走り出す。この走り込みが終われば今日の訓練は終わりだ。酒を思い浮かべ、浮かれた感じで走っていく。僕も、その後に続く。苦しくてやめたいが、体を鍛えるためである。限界を迎え、足がもつれて倒れた時には、ようやく終わったという安堵から、深い深い溜め息がこぼれた。
あ、立ち上がれない。