似たもの同士
透明なグラスの背景が歪んでいる。漂う匂いからしてかなり強い酒のように見えるが、それをプロンデは躊躇わずに一口含んだ。
寒いこの国でも、酒を冷やして飲む文化があるのだろう。傾けたグラスから、カラン、と音がした。
「……俺は、この街にきてお前の尻尾を捕まえてはいない。お前はこの街で、多分何もことを起こしてはいないだろう」
「それが、何か」
話が戻ったようで、プロンデは少しだけ楽しそうにグラスを傾ける。まるで水でも飲んでいるようだ。
「単なる確認だ。お前の口から直接聞きたい。『ワレリー・アントノフ』という男性に心当たりはあるか」
「……いえ?」
誰だろう。本当にない。
知っている人間にはそんな名前はいないし、名前の響きからするとリドニックの人間か。
しかし、リドニックで名前を聞くほど親しくなった者はいない。
本当に誰だろう。
「ここより少し南の街で、殺された上に家に火を点けられ燃やされていた」
「…………あー、はい。そうですか。しかし、そんな名前は知りませんね」
反応を返してしまうところだった。
名前は知らなかったが、その特徴からすると、僕が燃やした家屋の主か。
「彼は体の一部を切り取られていた。何か、知っているか?」
「いいえ。その男性については何も知りませんね」
本当だ。その男性に僕は会ったこともないし、勿論話したこともない。
僕が会ったときには既に、物言えぬ姿になっていたのだから。
「……もしやそれが、僕の犯行だと?」
「ウェイトはそう見ている。石ころ屋の、いつもの犯行だと」
目を伏せてプロンデはそう言い切る。しかし、妙な言い方だ。
「しかし、多分違うだろう」
その妙な言い方に補足するよう、プロンデは続けた。前を見つめ淡々と、しかし苦々しさを目元に湛えながら呟くように
「妙な話だが、石ころ屋の犯行ならばあの程度では済まないだろう。遺体の損壊ももっと激しく、そして遺体以外の何かが出るはずだ。けれど何度資料を思い返しても、アントノフ氏に殺される理由がない。お前が猟奇殺人者でもない限りな」
多分、殺したのが僕ではない。そう思ってはいるのだ。しかし、僕が関わっているとも思っている。その理由が想像できずに、その先の思考が出来ずに難儀している。
犯人がもう一人いるなど、想像しているようで想像出来ていないのだ。
「そこで、だ。お前を信用するために一つ聞いておきたい」
「何でしょう」
何だろうか。安易に信用されても困る。というか、何のつもりだろうか。相棒は僕を目の敵にしているのに、正直意味がわからなかった。
プロンデはもう一口酒を飲み喉を鳴らす。表情からその味は窺い知れない。まるで水でも飲んでいるかのように、全く美味しそうには見えない。
「お前はこの国に何をしに来たんだ? それがわからないから俺たちも困っているんだ。まあ、ウェイトは何も困ってはいないがな」
苦笑しながらの質問。
なるほど。意図がわからないから邪推するんだ、と簡単に言えばそういうことか。
ならば、その問いへの回答は、この旅中に何度もしている。
「雪を見るため、ですね。この国では四色の雪が降るそうで。それが、自分の目で見てみたくて」
「雪? そんなものを?」
「ええ。そんなものを、です」
観光の文化がないこの世界で、そういう理由で旅をする人間が珍しいのはわかる。
しかし、僕はそのために来た。だから胸を張ってそう言おう。
「今現在二つ見ていますが、綺麗でしたよ。蛍火雲から降る、橙色に光る雪。それに、浄華雲から落ちる冷たい赤色の雪」
あれから何度か蛍火雲は見ている。夜に降れば雪原にまさしく蛍が舞い降りたように見える様は圧巻だった。
だが、やはり白以外は珍しいのだろう。蛍火雲は数回しか、浄華雲に至っては昨日の一回しか見ていない。
「にわかには信じがたい話だな。高名な探索者であるお前が、単なる雪を見に国中を旅するなんて」
「ですが、真実です。まだもう一色見ていませんが、……灰寄雲と言いましたか。それが見れ次第、この国からは出ていこうと思います」
レヴィンの魅了の影響は城にはもう残っていない。ならばあとに残るはこの国の問題だ。
民主化する。銃を作る。それに伴い紅血隊を解散する。それらは全て、ヴォロディアが方針を決めることだ。民主化してしまえば、票を得た誰かが決めることだ。
この国の民でない僕が、手出しすべき問題ではない。
僕の言葉に、プロンデは静かに目を閉じる。
そして少しだけ溜め息をつくようにして頷いた。
「その言葉、ウェイトには吐かない方がいいな」
「……何故です?」
からかいや嘲りを含んだ様子ではない。これは多分、本当にただの忠告だろう。
「灰寄雲から降る雪……。……灰寄雲とはどういうものか知っているか?」
「いいえ。私が他の雲と勘違いしてそれが近づいていると言うと驚かれたことはありますが」
ササメは灰寄雲の接近という誤報に驚いていた。
今にして思えば、あれは少しの怯えがあったと思う。
「あれは、死を引き連れてくる。大量の死にあの雲は導かれ、そして現れた街には更なる死が訪れる……といわれている。凶兆なんだよ」
「……そうなんですか」
初耳だった。なるほど、だからササメは怯えていて、そして先ほどの僕の言葉は……。
「お前が誰かの死を望んでいる、とそう考えることも出来る。前後の文脈がなければ、俺も勘違いしてしまうかもしれなかったしな。面倒なことにならんように、気をつけろ」
「ご忠告感謝します。見てみたい気持ちはありますが、口には出しません」
「そうしろ。本当はその言葉も駄目だと思うがな」
プロンデはまた懐から煙草を取り出す。
先ほどの炭の棒はまだ火が残っているようで、それを使いまた咥えた煙草に火を点けた。
会話が途切れて手持ち無沙汰になる。それを誤魔化すよう、僕は残ったポタージュを、皿に口をつけて飲み干す。
美味しいし、具だくさんで食事にはなるのだろうが、それでもやはりお腹には溜まらない。だが吐き出した息は温かい気がした。
「それで? じゃあ、これからどうするんだ?」
吐き出した煙を纏いながら、プロンデは僕の方を向かずにそう尋ねる。尋問ではない。ただの世間話の口調で。
「まだ決めていません。灰寄雲の雪が見れない以上、もう長居しても仕方がないですし」
「……イラインに帰る気はないのか?」
「それも、どうでしょう……」
帰ってもいいが、帰らなくてもいい。北壁に向かおうという気も少しはあるが、別に積極的に越えたいわけでもない。越えられるとも正直思ってはいないし。
「まあ、俺はどうでもいいが。だが出来れば、早くこの国から立ち去ってくれると助かる」
「それは、何故でしょうか」
プロンデがグラスを指で弾くと、小さくなりつつある氷がカランと鳴った。
「勝手な話ではあるんだが……ウェイトに問題を起こさせるわけにはいかないからな。俺はあいつを速やかにミールマンまで引き返させたい。そのために、出来れば、な」
「僕が消えただけで、そんなに素直に引き返しますかね?」
「なんとかしとく。三十年もそばにいた。その辺はもう慣れてるよ」
あくまでも無表情に、しかし優しげな声でそう言う。
その声に僕は察する。仕事仲間、というだけではない。彼らは多分、仲のよい友人なのだ。
「わかりました。僕も、この国は合わないと思っていたところです。明日には別の場所にいきますよ」
僕は頷きそう答えた。
なに、どうせもうすることはないのだ。もう一色の雪を待つのはこの街でなくとも出来るし、それで面倒ごとがなくなるのであれば問題ない。
「すまないな。今度会うときは、敵同士にはなりたくないもんだ」
「そうですね」
プロンデがこちらを向くと、揺れた腰の剣が椅子に当たり音を立てた。
リドニックの辺境では手に入りづらくなっている質のいい剣よりも、イラインで手に入る剣よりももっと上等なもの。
拵えを見ただけでなんとなくわかる名品。
そんなものを支給されている聖騎士という職業。水天流の剣士だろう、その技術。
実際に戦ったことはない。しかしそれらを考えれば、なんとなく戦いたくない相手だ。
「では、失礼します。今日は適当に休むことにします」
「ああ。頼んだ」
そう声だけで挨拶をし、プロンデは酒を傾ける。
僕が食堂から出ても、一切振り返ることはなかった。
「さて、でもどうしようかな」
通りに出て、人とすれ違いながら僕はそう呟く。
次の目的地はどこにしようか。本当に、何も指針はない。
今まで歩いてきたこの旅も、雪とレヴィンが目的だった。
それが達成されてしまった。もう、歩く必要はない。
そして今、プロンデの言葉でこの街を立ち去ろうとしている。
僕の意思は、どうなっているのだろうか。僕は何がしたいんだろうか。
声を上げずに皆道を歩く。
昼を過ぎ、太陽が高い位置にあるのに寒い街。
他の皆はどこに向かっているのだろう。
今すれ違った人が着ているのは、多分すぐに脱げるように、ボタンが多く細かく別れて着脱できるようになっている服。話に聞く採掘師という人たちだろう。これから午後の仕事に向かうのだろうか。
前を歩く女性は、丈の長い外套の下にエプロンが見える。両手に抱えた風呂敷のようなものに包んでいるのは野菜らしきもの。買い出しかな。それもきっと、食堂の。
僕は立ち止まる。
今追い越していったのは、幅の広い剣を佩いた厚着の男性。そして、その横には同じように厚い毛皮を纏い、だが武器を持たない女性。男性を見るに、探索者だろう。多分、二人組の。
その二人も、前を向いてしっかりとした足取りで歩いていく。
これまで会ってきた多くの探索者には夢があった。
多くは一攫千金。それに、レシッドのように遊んで暮らすというものもよくついている。戦いを楽しみたい、という者もいた。<鉄食み>スヴェンは相手が弱そうな僕らだと知ると、心底残念そうな顔をした。強いものと戦うために探索者をしているのだ。
では、僕は。
僕は何のためにここにいるんだろうか。
いや、違う。夢があるのは探索者だけではない。
ここに至るまで、出会ってきた人たち。
モスクもシャナも、スティーブンも、ウェイトに至るまで、皆何かを目指して努力していた。
では、僕は?
「悩む人間に道を示すのも、占い師の仕事だよ」
また、気付かないうちに……。
いや、多分今日は僕の方からこちらにきていたのだ。無意識に向いた足。僕はきっと、どこかに助けを求めていた。
しかし、今は違うものが気になる。悩みを打ち切り、顔を上げて、声の方を見た。
やはり。何もいないと思っていた道ばたに。
誰かも捉えられないような薄い気配が漂っていた中。
いつもと変わらぬ笑顔を湛え、プリシラはそこにいた。
「そうですね。いくつか占ってもらえると嬉しいです」
僕は歩み寄る。確かに、指針がほしいのは本当だ。占いとは、そういうことにも使えるだろう。
そこに頼りたいのは本当だ。
しかしその気配の隠し方に、昨日までは何とも思わなかったが、気付いたことがある。たった今。遅すぎるくらいだが。
「でもその前に、疑問を解消したいんですが」
「? なにかな?」
「プリシラさんは、何か武術でも修めているのでしょうか」
いたのに、いないと思っていた。
気配があるのに、ないと思っていた。
僕はさっき、それを違う人物で体験しているはずだ。
僕の問いに、ふとプリシラは笑みを強める。フードの中で、金の前髪が揺れた。
「しているよ。これでも女一人旅だ。心得があるに越したことはない」
「……心得がある、という程度とは思えませんが」
「お褒めにあずかり光栄だね。それほどでもないけど」
「それほどでも、あるんですよ」
惚けた顔で、僕の言葉を受け流そうとするプリシラ。だが、それほどのことだ。
人の気配に敏感な僕が、察知できなかった。それだけならばまだ凄腕だということで片付く。
けれど、この二人は違う。
察知出来ていないのではない。しているのに、わからないのだ。
まるで幻惑されているかのように。まるで、そういった魔法でも使っているのかのように。
「見えてはいるんです。確かに視界には入っているし、音も聞こえる。なのに、見えない。そして聞こえない。……凄い技術だと思いますよ」
そう言葉に出し、プリシラを煽る。これくらいで煽れる人とも思えないが。
この技術については知っておきたい。今後敵になったとき、対処できるように備えておかなければならない。
誰に強制されたわけでもない。だが、そんな使命感があった。
「そうでもないんだよ。本当にね」
苦笑するようにプリシラは眉根を寄せる。それから、二度瞬きをして何度か視線を周囲に行き来させ、また僕の方を見た。
「でも、褒めてくれたんだ。君がほしがっている、対処法だけ教えておこうかな」
「さらりと人の目的を読みますね」
僕は苦笑する。
こういったことも、経験はある。しかし、やはり金髪は相性が悪い気がする。
「ひひ。占い師だからね。いいかい?」
そう言いながら、プリシラはその白く細い指で自らの目を指した。
「私たちを見たければ、目を凝らしちゃ駄目だ。私たちの息づかいを聞きたければ、耳を澄ましちゃ駄目だ……と、もう来たか。早かったね」
まだ言葉は続きそうだった。
しかしプリシラは言葉を止めて、それから僕に軽く頭を下げた。
「ごめんね。時間があるならあの女の子みたいに、手取り足取り教えてあげたんだけど」
「時間……ですか?」
何のことだろう。しかし、プリシラは僕の言葉には答えず、手を机の下にしまった。
「とりあえず、二歩右に歩いて。そうしないと、死ぬから」
「…………」
突然の言葉。口調も表情も、深刻そうには見えない。
けれど、僕の体は反応した。何かから逃げるように、二歩、足を踏み出す。
次の瞬間、まるで突風でも吹いたような殺気の嵐に、僕は襲われた。
周囲の雪や石畳は裁断されたかのように細かくめくれ、削られ、斬られている。
明らかな斬撃。それも、数えるのも難しいほどの無数のもの。
「……!!」
「この子を使って足止め? 趣味が悪いなぁ……」
プリシラはそう口にしたと思うと、僕の後ろまで跳ぶ。やはり、あの男と同じく掻き消えるような雰囲気で。
そんなに大きな通りでもないが、人通りはあったはず。しかし、通行人はいつの間にか消えていた。
どこかから声が響く。
「匂いを嗅ぎたければ、吸い込んではいけない。触りたければ、指を伸ばしてはいけない……。中目録以上の秘伝を、簡単に明かすんだね」
「四禁忌。もう、覚えている者も少ないんだ。別に構わないでしょう?」
今度はプリシラが腕を振り抜く。いつの間にか握られていた打刀のような短い剣は、虚空を斬って空気を裂く。
それを躱すよう、跳び退さった陰を確認し、視界におさめればようやくその声の主の姿が見えた。
「カラス君。やはり君はついている。……そこでじっとしていなよ。じゃないと死ぬから」
目の前の女性の言葉と被らせるような言葉を吐き、レイトン・ドルグワントは嬉しそうに笑っていた。




