世界の果てまで
雪山登山自体はなんてことない。
ただ寒く、足場が少し悪いだけの登山だ。
過酷な環境ではあるだろう。けれど、聖領に慣れている僕や、まさしくこの雪山に慣れているグーゼルにとって何の障害にもならなかった。
一歩足を踏み出すたび、粉雪がさらさらと斜面を滑り落ちる。多分、降ってから一切溶けていない。それなのに、氷として固まりもしないのは不思議だが、きっとそういうものなのだ。
何の匂いもしない澄んだ空気。見上げれば雲はあるが、そこまでの空気の透明感がいつもの街と比べても段違いだ。水蒸気なども全て凍り付いてしまうからだろう。
人工物もなく、当然僕ら以外の人の立てる音もない。
ごく稀に狐のような魔物が飛び出してくるが、それらはグーゼルが拳を振るい、雪についた赤い花のような模様へと変えてしまう。それらも、鳴き声は発しない。
静寂。そこに風の音と、僕らの衣擦れだけが響いていた。
しかし、見上げてみれば結構な斜面だ。
崖といってもいいくらいの急な雪面。他の場所を見れば垂直に近いので、これでもなだらかなところを通っているというのは間違いないと思うが……。
歩く、というよりも踏み固めた階段を上っていく感覚。極上の粉雪のため踏み固めるのも難しい。柔らかい綿を踏むような感触に、僕は足を捻らないように神経を尖らせていた。
雲を見るため、もはや視線は真上を向いているような気さえした。
「あの雪雲が覆ってんのが稜線なんだが、そっから先は常に吹雪だ。覚悟しときなよ」
「……ここらが最後の青空ということでしょうか」
グーゼルの言葉に振り返れば、一面の青空。しかし空、という感じでもない。
急な傾斜の反対側。視線を水平に向ければもはや踏んできたはずの雪面は見えず、視界が一色の青に染まる。
下を見れば、平らな場所や起伏なく雪面が下まで続く。澄んだ空気で霞むこともないためか、一瞬距離感を失ってしまうほど長い坂道。常人が転げ落ちたら数分は止まれないだろう。高いところに慣れている僕ですら、少しだけ耳元が粟立った。
太陽は雲で見えない。
そのため逆光になったその雲が更に黒く、僕らに覆い被さっていた。
僕らにとっては簡単な雪山。
しかし、やはり一人だけ問題があった。
雪の粒がちらりと落ちる。まだ青空が見えてはいるが、もう降ってきたか。
「雪が降ってきたのう」
しばらく黙っていたスティーブンが口を開く。それに応えて振り返りやや下を見れば、スティーブンは周囲を見回し何かを気にしていた。
「何でしょう」
「いや、雪に霧……、天気が悪くなってきたと思ってなぁ」
「……いえ?」
スティーブンの言葉に周囲を見渡すが、そんなものはない。むしろ、下界よりも更に澄んだ空気で遠くまでよく見える。リドニックの街でも綺麗だと思っていたが、それ以上に。
いや、しかし冗談の雰囲気ではない。スティーブンがそう言ったということは、何か根拠があるはずだ。
そう思い直し、僕も聞き返す。
「何故です?」
「いやいや、カラス殿こそ何を言って……」
そういって黙ったスティーブンの目は、少し虚ろな気がした。
それからスティーブンは両手を宙に泳がせる。まるで、何かを掴もうとしているかのように。
「……もう、雲の中じゃ。そういえばグーゼル殿は大丈夫か? 先ほどから姿が見えんが」
スティーブンは何を言っているのだろうか。
グーゼルも少しだけ先行し周囲を見ている。確かにそこにいる。見えないはずが……。
「……ああ」
「なんじゃ? 魔物か? それともムジカルの騎爬兵か? ちくと見とれ、儂がたたっ切って」
僕がその原因に気がついた声を出すと、スティーブンはその声に反応して妄想を始める。そうか、また僕は気がつかなかったらしい。いや、今回のはもしかして僕も影響を受けていたのだろうか。
雲へと迫るこの高さ。問題は寒さだけではない。
力なく暴れようとするスティーブンを拘束し、僕は少しだけ障壁を広げる。
そしてその障壁をまた狭める。それを何度も繰り返しながら、その中の空気をかき集めていった。
「何だ? どうした?」
グーゼルも、僕らの様子が気になったのだろう。足を止めてこちらを見る。グーゼルの方は問題ないらしい。
「スティーブン殿に意識の混濁が出ています。申し訳ありません、僕の失態でした」
謝りながら、少しずつ気圧を上げていく。一度に上げるのも問題あった気がするから、少しずつ。
「スティーブン殿」
「そうじゃ、今日は少し冷える。湯漬け飯がいいのう」
返答が噛み合わない。
急性高山病。要は酸素が足りず、体に不調が出ている。
……それは知識としては知ってはいたが、こんな急激に症状が出るのか。
闘気は基本的に物を強化する力。細胞の働きを強めて温度を作り出すことはある程度出来ても、やはり不足には弱いらしい。栄養分がなければ、もしくは酸素がなければ、多分その働きは極端に悪くなる。
仮にここでスティーブンが全力で闘気を活性化させても、程度の差こそあれこうなっていただろう。
「ゆっくり息を吸って」
「リンナ、久しぶりじゃのう、俺のところに戻ってきてくれたのか。あいつはどうしたんだ。お前はあいつに付いていくって」
もはやスティーブンの耳に僕の言葉が入っていない。
だんだんと周囲の酸素濃度を高くしているのでそのうち元に戻るとは思うが、これ以上は気の毒だ。
うわごとのように、何事かを喋っている。本人にも、人に知られたくないことはあるだろう。
……しかし、どうしようか。強引に肺に空気を入れてもいいが、普通に苦しいだろう。
「小僧めが! 俺の女房を、俺の!」
だがそれ以上に、これ以上喋るのも多分苦しい。早急になんとかしてしまおう。
スティーブンを手の届く位置まで近づける。もはや、首に手が届く距離。
無意識にわかっているのだろう。樽から降りようとはしない。けれど、その手は振り回されていた。
「失礼します」
「いったい何が気に入らな……クヒュ!」
本当は胸を叩きたいところだが、鎧に阻まれ壊さなければ厳しい。
なので、効果は劣るが首へと点穴する。喉仏の横一横指の位置に指を突き入れれば、スティーブンは一度息を吸い込んだ。
「ゴホッ、ゲホッ!」
「……大丈夫ですか?」
咳き込み苦しみ続けるスティーブンは、何が起きたのか理解していないらしい。
ただ喉を押さえて、荒く息を繰り返していた。
「何、何じゃ、いったい……」
「正気を失っていらっしゃったので。大丈夫そうですね」
声に力はないが、目に光は戻っている。一応は平気だろう。まだ目は霞んでいるだろうが、多分しばらくすれば元に戻る。
痛みと呼吸、荒療治だがこれでいいだろう。
息も絶え絶え。だが、今度は僕の姿をその目は捉えていた。
「儂が? 正気を? 何でまた」
「空気が薄かったので。すいません、僕が気にしていませんでした。ここからは大丈夫です」
もう気圧も地上と変わりがない。酸素もかき集めている。そういった障壁を作るのに大分多く魔力を使ってしまっているが、まあ許容範囲だろう。このまま三日は張り続けられるし。
グーゼルに遅れないよう、僕はまた歩き出す。
それからしばらく、スティーブンはまた黙り、そしてぽつりと呟いた。
「……本当に、過酷な山なんじゃな」
「ええ。本当に」
常人ならばここまで来ることは出来ないだろう。
仮に妖精の国を目指してきたところで、ここを突破するためには不老長寿を実現するための力が必要になる。
不老長寿を求めるためには、不老長寿が必要で、そしてそこに不老長寿があるとは思えない。
不合理な冒険だ。
ここを越えようとして、そして越えて何人もが命を落とした。彼らは、満足しているのだろうか。
そう話している間に、雪も強くなってくる。突風も吹くようになってきた。
「もう少しで稜線だ! 落ちんなよ!!」
「はい!」
落ちたところで僕は空を飛べばいいのだが、それでも危険は冒すべきではないだろう。ここには探索に来た。けれど僕は、冒険をしに来たのではないのだ。
……それならば、初めから飛べばよかったか。まあ、もうここまで来て今更だけど。
稜線上は、まさしく嵐のようだった。
「綱もねえけど! こっから下ってく! 鉤靴もねえけど滑り落ちるな!!」
「わかりました!!」
大きな声で叫ばないと聞こえづらいほどの風の音。障壁についた雪が、たちまち壁のように分厚くなっていく。障壁内部の温度では足りない。障壁表面の温度を上げないと溶けてもいかないか。
「……本当に、なんか申し訳ないのう……」
小声でスティーブンは頭を下げる。たしかにスティーブンは何もやっていないし、心苦しいだろう。しかしそれを謝ることが出来るのであれば構わない。
「僕は北壁を見るために来てるので。お礼ならグーゼル殿に」
そしてそのお礼もまだ早い。全て終わってから言えばいいだろう。
しかし、また長い下り坂だ。
ソリでもあれば滑っていけるだろうに。いや、この断崖絶壁加減ならば無理か。
上りと同様、下りも坂は厳しい。場所によっては、垂直な壁が続いているかのような。
本当に、『北壁』とはここではないのだろうか。
といっても、今度は駆け下りるのだ。そう手間はかからない。
新雪に足を埋めないように注意しながら、上りよりも大分速いペースで駆け下りていく。
本当はこんなことをしては危ないだろうに。そうは思うが、グーゼルもほとんど加減せず、そして僕はそれについていくように減速はしなかった。
上った時間の半分以下で、その麓らしきところに到着する。
といっても、もはや吹雪だ。青空など微塵も見えず、薄暗い中、十歩先も見えないような雪が吹き荒れている。ただ、風は少しだけ穏やかになった。本当に少しだけだが。
その足下の傾斜が若干なだらかになっただけ。だが、空気は薄くない。確かにここは麓のようだ。
走り出す前、ザスザスと歩きながら、グーゼルは方向を確かめる。
そして何かを手で払いながら、振り返った。
「この辺はそこかしこに蜚蛭がいるから、食われたら……」
「これですか?」
「吸い付いている頭を横から……、問題ないみてえだな」
僕が示したのは、障壁に吸い付くように食いついている青白い蛭。大人の人差し指ほどの大きさだったが、その食いついた口から白っぽくて赤い粘膜と、細かい歯が無数に見えた。
雪に紛れて飛んでくるからわかりづらいが、それでもグーゼルは障壁も使わずそれを何匹も弾いている。その様を見て、銃弾なども弾いて躱す光景が浮かんだ。
それからしばらく跳ねて、飛んで、魔物を殺しながら移動する。
そう手こずることはないようで、僕らは全くそちらに手出しはしなかった。というよりも、手出しをする前にグーゼルが片付けていた。本当に、頭が下がる。
やがて、グーゼルが足を止める。
僕もそれに合わせて足を止めた。だが目の前には何もなく、ただ普通の雪景色だ。
「何か……」
「足下の雪蹴飛ばすんじゃねえぞ。一歩ずつ、少しずつ歩くんだ」
グーゼルはそれから一歩踏み出す。それに合わせて何歩か歩く。
やがて、またぴたりと足を止めた。
「さて、到着だ」
そういって見ている先には何もない。けれど、確かに何かを見ている。
僕も倣うように、その横に立つ。
突然、壁が現れた。
「うへ!? これが?」
ホワイトアウトし霞んだ光景が突然途切れる。いや、というよりも本当に霧の中から突然壁が現れたような錯覚を覚えた。もはや向こう側は陰すら見えない。
グーゼルは頷き、そして僕とスティーブンを交互に見る。
「ほ、ほおお、これがか……」
スティーブンも樽から降り、そして一歩壁に近づく。だがその動きを、スティーブンの前に出した手で制し、身を引いてグーゼルは壁を指し示した。
「ここが、お前らが目指してた北壁だ」
見上げても、横を見ても限りはない。吹雪のせいかもしれないが、端が一切見えない。
「ここまでが世界で、ここから世界が始まってる」
見た目は漆喰のような、それでいてプラスチックのような透明感のある白。それが、一切の傷も起伏もなく行く道を遮っている。
なるほど、確かにこれは壁だ。仕切りでも柵でも、ましてや山でもない。本当に、壁。
「ようこそ、世界の果てへ」
そう言って口元だけニッと笑ったグーゼルは、ただ無感情に壁を見つめていた。




