雪の色一つ
少しでも近づこうと、外へ出る準備をする。
まだ雲は街の上までは来ておらず、少し離れている。だが、確実に近づいてきてはいた。
この分ならば、外に出てしばらく見ていればその雪が間近で見られるだろう、そう思って。
ぎしぎしと鳴る階段を降りてゆく。
その階段の下、受付カウンターと呼ぶべき場所では、先ほどの少女がせっせと編み物をしていた。
やがて、降りていく僕に気が付いて目を上げる。
「おでかけですか?」
「ええ。変わった色の雲が見えたので」
「え!? もしかして灰寄雲!?」
驚き、聞き返してくる少女。その拍子に編み物の目が一個はずれたように見えたが、そこは気にしないでおこう。多分そのまま続ければずれていくけど。
それよりも、何を驚いているのだろうか。
「灰寄雲っていうんですか? 橙色の綺麗な雲ですけど。夕日の色かな、と思ったんですが、違うんですね」
「橙……、あ、橙ですか……よかった……。お客さん、驚かさないでくださいよ」
胸を撫で下ろし、それからずれた目に気が付かないようでまた編み物を再開する少女。
「蛍火雲なんて珍しくもないじゃないですか。まったくもう、大げさですね」
「蛍火雲、っていうんですか? あの橙色の雲」
「当たり前……じゃない……そっか、お客さん、その服からしてエッセンの人なんですね」
元気よく口に出しかけた言葉を止めて、少女は納得したように頷く。それから手の中の帽子に目を戻し、手の動きを早めた。
「そう、あの橙色の雲は蛍火雲っていうんです。もうすぐ降りそうな感じでしたか?」
「ええ。あともう少し経ったら多分」
雲は近づいてはきているし、あの重そうな感じからして多分降るだろう。何の根拠もない、普通の雪雲を見た経験からだが。
「そーですか。じゃあ、ちょうどもうすぐ日も沈みますし、時間的にはいい感じですねー、うん、いい感じ」
「? 日が沈むのと何か関係があるんですか?」
僕がそう尋ねると、少女はにっこりと笑った表情を作る。それから、ふと何かに気が付いたかのように僅かに上を見て、歯を見せて唇を吊り上げニシシと笑った。
「夜になればわっかりますよ。そうですね、わかりやすいように、ちょっとお手伝いしてくれます?」
「何をすればいいかによりますけど……」
「簡単ですよ、今日の夕ご飯に使う野菜の収穫です! いや、別に手伝う必要もないんですけど、場所がいい感じなんですよ。よかったら、日が沈んだ頃にしばらく私ここにいますので、声かけてくださいな。来なくても別にいいですけど」
少女は笑いながら、また編み物を続ける。その表情に悪意はなく、ただ善意からのお誘いに見えた。
なるほど。まあ、畑とはいえ地元の人がおすすめするスポットなのだ。なら、旅行を楽しむために体験してみてもいいだろう。
「わかりました。じゃ、その時にまたお願いしますね。私も少し用事があるので」
スティーブンに場所を知らせなければいけない。まあ、待たせたら待たせたでまた相撲でもして待っているのかもしれないからいいんだけど。
僕の肯定的な返事に気をよくしたのか、少女は手を止めこちらを見た。
「うは、よっしゃ人手確保!」
「少しは隠しましょうよ」
それは、僕に面と向かって言うことじゃないだろう。
約束の後、僕は街に出る。
少し歩いて探し、スティーブンを見つけたときには、やはりスティーブンは賭け相撲をしていた。
だが、この街では力自慢が少ないらしい。見ていると早々に挑戦者もいなくなり、今度は報酬なく、子供相手にとっていた。
鎖帷子のスティーブンと、五歳過ぎくらいだろうか、それよりも二回りも三回りも小さい子供が組み合う。だが子供は手袋や帽子で防寒対策をしているためだろう、そこまでの体格差は無いようにも見えた。
「じいちゃんつえー」
「ほほ、お主もなかなかやるのう」
明らかに負ける勝負ではないが、それでもやはりスティーブンは手加減をし、苦戦を演出している。サービス精神旺盛ということだろうか。
だが、やはり負ける気はないらしい。
「ぐぬぬ……、とあー!」
「うわ!!」
近くにあった新雪に子供を投げ入れる。ぼふっ、と盛大に雪に塗れながら着地した子供は、雪のおかげだろう、受け身も取れていないのに元気そうだ。
「はっはー! 見たか、お主らも月野流に入門して鍛えなおさんとのう!!」
そして、スティーブンも宣伝は忘れない。
腰に手を当て胸を張り、何人かの子供に向けてそう言い放つ。
「月野流ー? すごいの?」
「じいちゃんそれすごいのか?」
スティーブンの宣伝文句に子供は目を輝かせてそう口々に聞き返した。
「おう、すごいぞー。月野流を学べば、誰でも強くなれる。弱い者は強くなるし、強いものでももっと強くなる。じゃからおすすめじゃよ。水天流も黒々流も何のその、じゃ」
「じゃあさ、じいちゃん導師様よりも強いのか?」
「おうとも、その導師様とやらが誰だかは知らんが、月野流は無敵じゃよ。……剣さえあればな」
途中までは威勢よく、そして自信満々だった声が最後急に小さくなった。本人も嘘を吐く気はないのか、本当のことを言うらしい。
いや、多分バーンもクリスも剣が無くてもそれなりに戦えるとは思うけれど。剣術とはいえ、組み打ちはあるだろうに。
ふと、周囲が暗くなる。別に今いきなり暗くなったわけではないが、空気が途切れて皆周囲の様子に改めて気が付いたのだろう。
子供たちもスティーブンも、少しだけ声を潜めた。
「と、もう暗くなってきたのう。そろそろ帰りや。夜道が危ないのはどこも一緒じゃろう」
「ええー? 爺ちゃんもう一回、もう一回!」
子供たちは、遊んでもらえたことが嬉しいのか、スティーブンにもう一勝負をせがむ。
だが、スティーブンはそれを優しく押しとどめた。
「夜道を歩かせて、何かあったら親御さんに申し訳がたたんわ。もう少しだけやりたいというその気持ちは、明日にとっておくんじゃ。そうすれば、明日が楽しみになるじゃろ?」
「明日もじいちゃんいるの?」
「おう、朝このへんにいると思うから、大丈夫じゃ。年寄りの朝は早いんじゃし」
「わかったー」
不満げに、だが納得したようで子供たちは引き下がる。
手を振り小さくなっていく背中を、スティーブンは満足そうに笑ってみていた。
ようやく僕が声を掛けられる。
「大人気じゃないですか」
「……金にならんが、いいもんじゃの。前途ある子供と接するのは」
僕の言葉を茶化さず、しみじみとスティーブンは呟く。
「と、カラス殿もいたのか。声かけてくれればよかったのに」
「楽しそうでしたからね」
あの和気藹々とした空気に割って入る勇気は無い。
それに何というか、巻き込まれても困る。
「それよりも、宿が決まりました。もう部屋も取ってあるので、こちらの鍵をお使いください」
「おう、すまんな!」
僕はスティーブンの分の鍵を渡そうと示す。だが、スティーブンはそれを受け取ろうとする気は見せるものの、その懐に手を入れる気配は無い。
「ん? どうした?」
「銅貨三枚です」
「そうか、すまんのう。奢りとは」
「一言も言っていませんが」
何を自然に奢られようとしているのか。
そう文句を言おうとして気が付く。そういえば、僕も自然とやっていた。いや、僕自身が望んだことではないので今まで気が付かなかったが、そういえばスティーブンが立て替えているものがあったか。
「いえ、すいません。犬ぞりの賃貸料はおいくらでしたか?」
「なんじゃ、急に。儂とお主の仲じゃろう? それくらい、いいていいて」
スティーブンは、誤魔化すように首を振る。いや、よくはない。
「いいえ。いくらでしたか?」
気の置けない親友だとかそういうことならともかく、そこまでスティーブンと仲がいいつもりはない。というか、今日会ったばかりなのだ。気がついたときに貸し借りはなくしておくべきだと思う。
とりあえず銅貨を数枚手の中で遊ばせる。
そのままじっと見つめると、観念したかのようにスティーブンは息を吐いた。
「鉄貨八枚じゃった。端金じゃよ」
「わかりました。では、こちらで」
背嚢の中から改めて硬貨を出し、スティーブンに渡す。それをスティーブンは残念そうに受け取った。
「で、銅貨三枚です。よろしくお願いします」
「ぐぬぅ……、せっかくの儲けがほとんど飛んでしもうたわ……」
しぶしぶといった感じで、スティーブンは先ほどの相撲で得た硬貨を入れた袋から三枚の銅貨を取り出す。
そういえば、国が違うのに同じ硬貨なのか。と僕はその三枚を見たが、そのうち一枚の柄が他の二枚と違っていた。やはり国によって違うようだが、それでも価値は同じらしい。同じように使われているからきっとそうなのだろう。
実質、エッセンとムジカルの属国であるこの国は、そういった面でも他の国に依存していたのだ。
スティーブンを連れて宿へと戻る。
もうすぐ日が完全に沈む。そうしたら、野菜の収穫を手伝うんだっけ。
「ぎにゃー! あたしの馬鹿ー!」
宿の前あたりまで戻ると、受付の少女の声が中から響く。それを聞き流し、僕は空を見た。
もう、街の真上にある橙色に光る雲。それはまだ、夕日を浴びて燃えるような色をしていた。
「騒々しいのう」
「元気のいい女の子が店番でした」
本当に、なんとなくエウリューケに似ている。縁者といわれれば疑わない。
スティーブンの声に、視線を地上へと戻す。それから宿屋に足を踏み入れた。
「あ、いらっしゃ……とお客さんでしたか! では、こちらまでお願いします」
僕らの姿を見た少女は、元気よく僕を誘導する。金属の靴にこびりついた雪を落としながら、スティーブンはその言葉に首をかしげた。
「なんぞ用でもあるのか?」
「ええ。ちょっとしたお手伝いです。スティーブン殿の部屋は二階の奥なので、どうぞ」
スティーブンなら手伝うといいそうなものだが、とりあえずスティーブンを残し、僕は少女の後を追う。
少女は、厨房を覗き込んで母親らしき人に声をかけていた。
「おかーさん、私畑行ってくる!」
「はーい」
元気のいい声が中から響いたが、少しだけ声が低く、少女との年齢差がわかる。
母親は奥で料理の準備中なのだろう。こちらからは後ろ姿しか見えないが、長い茶色の髪が揺れていた。
案内された先は、かまくらの横にある煙突のような円柱の中だった。
見上げるほどの高さのその壁は、一応元は木で組まれているようでそれが所々露出している。しかし基本的には内部にも雪が付着しほぼ雪しか見えない。
広さはそんなにはない。目測だが、多分十二畳ほどの円形。そんな、白い筒状の敷地内に、驚くべきものがあった。
いや、エッセンでも普通に見ていたし、ミールマンを出てからも見ていたものだ。
だが、誇張でもなくこの国に入ってから初めて見る気がする。
畑、というからにはやはり必要なのだろう。
黒々とした湿った土が、筒の中心には広がっていた。
「はー」
「まだ雪は降ってきてないらしいし、先にやっちゃおう。お客さんは、そこの列全部引っこ抜いてってくれるかな!」
土に感心している僕を気にせず、少女はその畑に植えられた作物を指さす。大根の葉のようなその下に、球状の赤い根が埋まっているのがわかった。
知っているものと同じものかどうかはわからないけれど、これは赤蕪かな?
「……これを収穫するんですね。何かコツとか……」
「いいよ、別にこれから料理すれば形なんか崩れるんだし、ちょっとくらいひげ根が残ったって誰も気にしないって。とにかく掘り出してくれればいいよ」
どこを切ってはいけない、とか、ここを傷つけないように、とかそういうことがあるのかと聞こうと思ったが、何もないならいいや。
「わかりました」
ならば一気に引き抜いてやろう。
「私は収穫したものを入れる箱を持ってくるから……」
「では」
念動力を蕪だけに作用させる。根も葉も傷つけないように保護しながら。
ゾボリと一気に一列が引き抜かれる。赤蕪の埋まっていた穴はそのままに、少しだけ飛び出た細い根っこも切らないように、土一粒さえ表面に残さないようにすべて守りながら丁寧に。
空中で整列させて、次の指示を待つ。
「で、その箱に入れればいいんですか?」
その箱がまだどこだかはわからないが。
「う、うん。お客さん、魔法使いだったんだ!?」
「はい。そういう感じですね」
箱が来ないのでピラミッド型に適当に積み上げる。人の頭の半分くらいの大きさのものが十二個。一つ一つがずっしりと重いため、すべて合わせて持てばそれなりに重労働か。なるほど、人手をほしがった理由もわかる。
「うわー、私魔法使いを働かせちゃったよ-。うわー……」
呆然、といった感じで少女は立ち尽くす。そのあたりは別にどうでもいいのに。
「運びますか。先ほどの厨房まででよろしいですか」
とりあえず、箱を持ってこないのであれば直接運べばいいや。
すべてまとめて持ち上げる。多分、子供一人持ち上げるよりもだいぶ重たい。それを動かし、かまくらのほうへ歩き出したとき、ふと鼻先に何か冷たいものが触れた。
「あ、と、ちょ、……。降ってきた! お客さん、これを見たかったんでしょ? 仕事は後でいいよ、後で!」
焦るように、少女が再起動する。そして僕の肩をたたき、上を指さす。
その円筒の上部、空が見える場所から、雪が降ってきている。それも、橙色のものが。
「本当に、橙色なんですね」
目の前に落ちてきた雪を見れば、本当にオレンジ色だ。光の屈折とかそういう感じではなく、どちらかといえば絵の具を垂らしたような色。
だがそれは指先に落とすと、溶けて普通の水になってしまった。
嗅いでも舐めても無味無臭だ。本当に、普通の水。
変わった光景。
白い雪の上に薄くオレンジ色の雪が積もり、まるで種類の違う綿を重ねたように透ける。
不思議な光景だ。空から雪と雨以外のものが降ってくるのを、僕は初めて見た。
不思議な光景。見られてよかった。そう思う。
だが、これが『いい感じ』なのだろうか? 僕は首を捻る。これくらいなら、外と変わらない。
まさか、野菜の収穫を手伝わされただけなのか。この少女の奸計に、僕は引っかかってしまったのだろうか。
少しだけ抗議の意を込めて、少女を見る。
少女は今気がついたかのように「あっ」と声を上げると、円筒の端においてあった長い柄杓のような棒を手に取った。
「ごめんごめん、消すの忘れてました」
そう言いながら、燭台にその長い棒を近づけ、そして先端をかぶせる。
火が消える。当然、その付近は暗くなる。
少女はそのまま四カ所すべてを回り、円筒内の明かりを消して回る。一個一個消えるたびに、畑は暗くなっていった。
暗くなっていくという錯覚。いや、一瞬本当にそう思ったのだ。
だがすぐに違うと気がつく。そうだ、今目の前にあるのは尋常な様子ではない。
「どうよ!」
少女が胸を張る。その声につられてではないが、畑を見回せば、なるほど、確かにこれは綺麗だ。
なんせ、雪が発光しているのだ。
まるで電飾の光が落ちてきているかのように、雪が光っている。
なるほど、明かりがあってはわかりづらい。その、火花にもみえるオレンジ色の光は地面に積もり、下から温かい光で照らす。
その暖色の光を反射するのが、円筒に付着した雪だ。表面が若干溶けているその雪はまた温かく光り、内部をそれだけでも照らしている。
白い雪の上に発光するオレンジ色の光が積もり、空からも蛍が降りてきているように深深と雪が降り続ける。
雪を手の中で丸めれば、ふんわりとした光の塊になる。
光が満ちる、幻想的な光景。
僕はその中で、光を眺めてしばし佇む。
本当に、幸先がいいようだ。
初めて見る、素敵な雪景色。
僕はそれを、野菜が来ないことを不審に思った少女の母親が呼びに来るまで、存分に楽しんでいた。




