橙雲
犬ぞりはそれなりに速い。
頬に当たる風が冷たく、歩いていたときにかいた汗が乾くにつれ寒さまで感じてきた。
……もう少し、体表面の温度を上げないと。
「この速さなら、三日もあれば首都に着くじゃろ」
「別に首都に急いで行かなければいけない理由もないんですけど」
前で満足げに頷くスティーブンに、僕は嫌味のように言葉を吐いた。まあ、早くても遅くても構わないのだが。
犬ぞりを牽いているのはもちろん犬だ。
毛足が長いが、僕よりも小さい犬。それでも大型犬くらいの大きさはあるだろう灰色の犬たちが三頭力を合わせて牽いていた。
「この犬ぞり、まさか買ったんですか?」
金が入ったらいきなり高額の買い物をするとは、金銭感覚とかどうなっているのだろう。そう思い尋ねたが、余計な心配だったらしい。
「いや、そんなわけなかろう。借りたんじゃよ。街と街の間を連絡するように借りれたんでな。次の街で返して、新しいのを借りる」
「……面倒ですね」
一つ街を越えるたびに取り替えというわけか。業者が別なのか、それとも街ごとという取り決めがあるのかはわからないが、少しばかり面倒くさい気がする。
始点と終点が決まっているのは多分、持ち逃げ防止と犬たちを慮ってのことだと思う。昔イラインからクラリセンに向かうときにはハクを借りたが、あれは離して合図すれば勝手に帰った。しかし、犬はそうはいかないのだろう。まあ、ソリを引いているのだし、魔物と遭遇しても戦えないのだろうし。
若干の起伏が出てきた雪面をソリが跳ねる。しかし、犬たちは慣れているのか軽やかに跳び、それに合わせて走り続けた。
「ふぉう、楽しいもんじゃのう」
「上手いじゃないですか」
僕は感嘆の言葉を吐く。手綱を握るのはスティーブンだ。犬たちも慣れているとはいえ、割と快適に乗れているのはこの老人の手柄だろう。
そう思ったが、スティーブンは後ろを振り返り笑った。
「いやいや、犬たちが賢いんじゃよ。儂、馬すら乗れんもん」
「……よくそれで、犬ぞりを使おうと思いましたね」
前に向き直り、スティーブンはガハハーと笑う。
「人生何でもやってみるもんじゃわい。なあに、乗れんかったらそのときはそのときじゃ」
鞭を入れるように、手綱を振る。それに合わせて、犬たちは少しだけ速度を上げた。
やがて、午前にいた街と同じような街に僕らは辿り着いた。
やはり立ち並ぶ建物はかまくらのような雪のドームになっており、中は土壁と木で作られているようだ。
スティーブンは僕を見て、してやったりという顔を作る。
「到着、と。な? 早かったろ?」
「ええ。日が高い間に到着するとは思いませんでしたよ」
地平線を見ても、まだ太陽が雪面から少し離れている。別に早い分には構わないけれど、少しだけ想定外だ。
僕らは犬ぞりから降りる。街中では人力で動かすらしい。スティーブンは、犬たちそれぞれの体から繋がった綱を束ねて持つ。
「儂は犬たちを返してくるから、宿を取っておいてくれんか。ここで泊まっていくんじゃろ?」
「そう、ですね」
僕は少しだけ悩みながら答える。この街に来るのはもう少し遅い時間の予定だったから、この街で泊まろうとは思っていた。
だが、今は少し早い時間だ。目新しいものがあれば別だが、一つ前の街と同じような街であれば僕が長く逗留する理由はない。
「あの、本当に首都までついてくる気ですか?」
「もちろんじゃ。やっぱり人の多いところで宣伝したいじゃろ。それに、儂もリドニック初めてじゃし」
「初めてなら、一個一個丁寧に回っていけばいいじゃないですか」
先ほどの街だって、まだ出来ることは色々とあったはずだ。衛兵に売り込むのだって絶好の機会だったし、探索者も入門を希望している者がいたらしい。逗留して、仮の道場を開くことも出来たはずだ。
「そうじゃな。じゃが、それだと儂がつまらん。なあに、先ほどの街には一人師範代を呼んでおいた。半月もあれば到着して広めてくれるじゃろう」
「それを一個一個やってくには、人手が足りないんじゃ」
少しだけ宣伝して、興味を持った者が出た街に対して師範代を一人付ける。たしか、イラインの月野流道場には師範代が五人しかいないと聞いている。他の街にも道場を構えているのかもしれないが、総本山たるイラインですらそうであれば、他はもっと少ないはずだ。
確実に手が足りない。
「構わん構わん。より多くを学びたければ、イライン近くまでくればいいんじゃ。ミールマンに支部を置く計画もあるし、そっちでも構わんしな」
「そうですか……?」
何というか、適当だ。それを感じ、僕は少しだけ納得する。
月野流剣術。技術はすごいと思う。間近で見て、僕は素直にそう思った。
だが、それにしては評価が低く知られていない。もしかして月野流が大きくならないのは、開祖のこの性格のせいじゃないだろうか。
僕の思考をよそに、のしのしとスティーブンは犬ぞりを返しに歩き始める。
まあ、ここで泊まるのもいいだろう。道中かまくらでも作って一夜を明かすのも面白そうだが、そういえば僕はこの国での宿を知らないのだ。
……料理が僕の口に合わない予感はもうしているけれど。
僕も適当な宿を探しに歩き始める。
少し離れれば全景が見えるくらいの小さな街だ。この規模であれば、恐らく宿は一つか二つしかあるまい。
しかし、前の街と同じくこの街でも食料品を売っているようなところが見当たらない。今までの街では大体食堂か商店で金を払いがてら聞いているが、この街でも聞きづらそうだ。やはり足で探すしかない。
幸いといっていいのか隣の国なので当然というべきか、文字はエッセンと同じものだ。看板を見ればわかるだろう。
思った通り、少し歩けば小さな宿らしきものが見つかった。
周りと比べて一回り大きなかまくら。窓の部分、溶けて開いているところを見れば四階建てだろうか。少しだけ温かい風が入り口から微かに吹いている。
横にある雪で出来た円筒形の建物も、他にいくつかあるものよりは少しだけ大きく、それが一階部分で繋がっているように見えた。
入ると、中は温かい。
探索ギルドや食堂もそうだったが、周囲を覆っている雪が断熱材の役割も果たしているのか一歩入るだけで空気が全然違うのだ。
だが、小さな窓だけではやはり明かり取りには足りないのだろう。ミールマンと同じく、まだ日が出ているのに蝋燭の灯りがついていた。
入り口から入ってすぐのすのこのような場所で足下の雪を落とす。
それから目の前のカウンターを見れば、待っていたわけでもないようだが、少女が編み途中の帽子を置いて、立ち上がった。
「いらっしゃい」
「ええと、泊まりたいんですが部屋は二つ空いてますか?」
多分この大きさならば一人部屋しかない……というのは経験則からだが、二人部屋があってもなんとなく同じ部屋にはしたくない。なのでそう言うと、少女は部屋割りを見ることもなく快活に答えた。
「もっちろんですよ! 何泊されていきますか? 三食食事付きなら一泊銅貨三枚、食事なしなら銅貨二枚です」
「ええと、一泊でいいので……食事は……」
どうしようか。僕は言葉を止める。
どんなものが出てくるのかわからないのだ。それならば食堂で好きなものを……。
と思ったが、よく考えれば食堂でもこの国はメニューを選べないのだ。どこでも変わらなかった。
「では食事付きで。明日の午前には出ますので、今日の夜と明日の朝、二食分で結構です」
「わっかりました。では、ご案内します……が、鍵、えーと、鍵……」
ごそごそと少女はカウンターの下を漁る。だが、少し待っても一向に見つかる気配はなかった。
「ちょっと待ってくださいね。……あれ、そういえば二部屋というのは、お連れさんがいるんですか?」
「……ええ。自分のもとっておいてくれと言われたので」
そういえば、スティーブンの分も食事付きで大丈夫だったろうか。まあ、文句を言われても構うまい。
「それで二人分、ってことは、……お客さん、女の子連れ? そんな年格好でやりますなぁ、末恐ろしい」
ニヒヒと少女は手を動かしながら笑う。なんとなく、躁状態のエウリューケと似ている気がした。
「違います。勝手についてくるおじいさんですよ」
「……それはそれで恐ろしいですね」
「恐ろしいです」
そういえば、どうしてついてくるのだろうか。勝手に一人で行けばいいのに。
やがて鍵が見つかったようで、硬貨と引き替えに小さな鍵が二つ僕の手に落とされる。
「二階の奥とその隣です。日没や日の出の後に声かけてもらえば、食事は部屋か食堂までお持ちします」
「わかりました」
「ごゆっくりー」
元気な声に見送られ、僕は階段を昇る。
とりあえず部屋を確認して、それからスティーブンを探そうか。
取った部屋は二つとも変わらず、木製の床に机とベッドが一つずつあった。
ミールマンとは違い、こちらは普通の宿に見える。鍵も問題なさそうで、僕はベッドに倒れ込み一息吐いた。
寝転がった位置からちょうど小さな窓を通し空が見える。
先ほどまでは青空だったが。少しだけ空に赤みが混じっていた。そろそろ日が沈むのだろう。
だが、その空を見て少しだけ違和感を覚えた。
違う、それは空だが見ているのは空の色ではない。僕は身を起こし、窓から外を見る。
夕日の色、そう見えた。だが少しだけ違う。
夕日があるのは確かだ。だが空はまだ僅かに黄色くなってきているくらいのもので、赤くはない。ましてや、そんな柔らかい黄色みを帯びた赤色に染まってなどいない。
「へえ……」
僕は顔の高さにある窓の縁に手を掛けてまた息を吐く。
リドニック一日目で一つ見れるとは運がいいのだろうか。
急激に発達したのだろう、雪や雨を降らせる類いのどんよりとした雲。それは夕日に照らされた茜色……ではなく、薄い橙色。
光の加減などではない。他の雲との差も明らかな、色のついた雲だった。




