誰にでもある怖い話
ホラーじゃないです。
ギルドでの報酬の受け取りも終わり、僕らは昼食をとるために食堂に入った。
リドニックでの食事もミールマンと同じく注文はとらないらしい。席に着くと、そう待たずに煮込み料理が運ばれてきた。
対面にはスティーブン。その崩れた顔があった。
「剣も手に入ったし、もはや怖いもんはなしじゃ」
うははー、と明るくスティーブンは笑う。
報酬を使ってその場に居合わせた衛兵から剣を譲り受け、さらに入門したいという探索者の声を聞いて上機嫌だ。
温かい料理を前にしてえびす顔で笑うその姿は、もうどこにでもいる陽気な老人だった。
まあ、その辺はどうでも良い。
僕は運ばれてきた料理を見て涎を飲み込む。
とろりとした桃色の汁に浮かべられた大きな塊肉は、僕が初めて食べる、雪海豚の肉なのだから。
塊は三枚肉のように、皮とその下に厚い脂肪がついている。恐らく、脂肪が少ない部位を使ったのだろう、五センチほどのクリーム色の脂肪の下に、茹でられてなお赤みを帯びた筋肉がついていた。
掌ほどの面積の肉の塊。それは、僕らが先ほど狩った雪海豚の肉だった。
街に運ばれてきた雪海豚は、ほぼ全て飲食店で引き取られたらしい。報酬として個人で食べるために一部持っていった者もいるようだが、殆ど全てが。
はじめは僕もそうしようかと思った。銀貨五枚程度増えるよりも、そちらの方が気になる。
もしくは別に僕が雪海豚を探し出して狩ってみてもいいと思った。
だが、その肉が飲食店に引き取られると知って、どちらもやめた。普通に食べに食堂に行こう。そう思った。
理由はいくつかある。
まず、一頭狩っても食べきれないこと。大きさは、普通の海豚と同じようなものだ。一頭の可食部分がどこだかは知らないが、それでも一人で一食分で食べられる量ではあるまい。腐らせて無駄にするのも勿体ない。
それに、調理方法もわからない。竜とか苦い鳥とか例外はあるが、大抵の肉は焼いて食べれば何とかなる。味付けも塩があれば最低限問題はない。だが、どうせならば美味しく食べたい。
色々と試してみるのもいいが、初めて食べる食材だ。プロの示す『正しい食べ方』を体験してからでもいいだろう。
あの苦い鳥は、やはりこの辺りでも食べられてはいないようだったから出来なかったが。
とにかく、きちんと調理された状態で食べてみたかった。
その結果、出てきた料理がこれだ。
僕は目の前の料理を改めて見る。
シチューのような汁に浸かった角煮のような雪海豚の肉。この見た目だけでも、食堂で調理してもらう価値はあった。僕ならば、分厚い皮はまず剥いてしまうだろう。一度くらいは別にして食べてみようとは思うだろうが。
スプーンを突き入れると、その皮も簡単に裂ける。生きているときのゴムのような感触は消えてしまい、大福の皮のような裂け方をした。
その下の脂肪も柔らかい。こちらは手触りなど残ってはおらず、ゼリーのようにスプーンを素通りさせる。豚や牛の脂身とは違うらしい。
そして、一番下の赤身の部分。三枚肉のような、とは思ったがこの層が一番薄い。だが一番しっかりとしてはいるらしく、赤身の魚を煮たような感じで、繊維が残っていた。
三層に削り取られた肉を、汁に絡めて口に運ぶ。少々酸味のあるシチューだが、これはこれだけでも美味しい。
口の中で咀嚼すると、酸味の中に繊維を噛み砕く食感が伝わる。脂身の感触は一切なかった。
だが、味で一番アピールの激しい部分は、脂身だったらしい。
飲み込むと、まるで豚脂を飲み込んだように喉の奥を脂が伝っていった。
僕が首を傾げるが、それを見てスティーブンは今まさに食べようとしていたスプーンを止めた。
「なんじゃ?」
「……いえ。なんというか、油抜き的なことをしなくていいのかなぁ……って」
「ふむ?」
スティーブンは、僕の言葉が何を指しているのかわからなかったようで、疑問の息を吐きながらスプーンの動きを再開する。
三枚肉をケーキを食べやすくするかのようにカットし、それを口に運ぶ。
それから、もごもごと口の中で噛み砕き、ようやく僕の言葉の意味がわかったように頷いた。
「……なるほどのう。まあ、こんなもんじゃろう」
「美味しいんですが、あんまり量は食べられませんね」
まあ、不味いわけではないし、むしろ美味しい。
よく言えば、こってりとしたシチュー。だが、悪くいえば脂っこい。嫌な臭いなどもしない質のいい脂なのだが、良質な豚脂を飲んでいるような感覚といえば良いのか。
毒が効かないように、僕は本来ならない症状だが、量を食べれば胃にもたれる感じがする。
僕は、口の中で唾液と脂身を混ぜながら考える。
多分、寒い地域だからだろうと思う。
寒さをしのぐのは、色々と方法がある。熱い料理を食べるという単純なものや、辛いものを食べたり酒を飲んで紛らわせるというもの。
多分、この脂肪はカロリーを多くする、という方法だろう。体を震わせ発熱するために、大きく消費するカロリーを補うため。そして、脂肪を付けて寒さに強くなるために発達した料理。
食べ慣れている人にはいいのだろう。それに別に、不味いわけではない。
だが、温暖な地方出身の僕にとって、頻繁には食べたくない味だった。
「ほっほ、カラス殿くらいの年齢でも、そんなことを思うんかいのう」
笑い飛ばすように、スティーブンは白い歯を見せる。そのスプーンは、進んではいなかった。
「年齢は関係なくないですか」
「いやいや、あるんじゃよ。カラス殿は十歳ちょっとくらいじゃろ。それくらいなら、わからんじゃろうなぁ」
おそるおそる、といった感じでシチューを啜る。硬いものなどないはずなのに、飲み込むのに一苦労するように喉を大きく動かしていた。
「歳をとると、脂が辛いんじゃよ。肉は脂身よりも赤身が食べやすくなるし、油をじゃんじゃん使った炒め物も量が食べられなくなる」
「……はぁ……」
生返事だが、別に否定しているわけではない。だが少しだけ、ピンとこなかった。
「昔はのう、儂も泥牛の背中の霜降り肉は大好物じゃったし、鴨の脂煮も行きつけの食堂で必ず頼んでおったわい。じゃが、のう……」
懐かしむようにスティーブンは笑う。
「齢三十を超えたくらいからかの、霜降り肉を食べた次の日に腹を下すようになったし、酒と合わせると脂煮も吐いてしまうようになった。……おう、食堂で話すようなことじゃなかったの」
「……じゃあ、この料理も」
「いや、平らげてやるわい。儂は生涯現役じゃ、そう決めておるでのう、老いになど負けるわけにはいかんじゃろ」
スティーブンのスプーンの速度が上がる。美味しそうに笑顔を作りながらも、顔の何処かの筋肉が緊張していた。
「まあ、止めませんけど。……しかし、闘気を使えるスティーブン殿が老いを気にするというのも不思議な話ですね」
闘気を使える者は老化が遅い。それこそ、常人の何倍も生きられるだろう。三百年を生きているサーロがいい例だ。
「仕方ないじゃろ。儂は闘気を身につけるのが遅かったんでな。この体は普通に老いていく。定命の者と変わらずな」
「……そうですか」
そういうこともあるか。
愚痴のように、もしくは僕への教育のように、もそもそと肉を咀嚼しながらスティーブンは語り続ける。
「齢六十を超えると耳も遠くなってくるし、物覚えが悪くなってきたのが自分でもわかった。昨日食べたものが思い出せないんじゃよ。昔のことはよく覚えとるのにのう」
「それはまた……」
身につまされる話になってきた。僕もいずれはそうなるのだろう。けれど。
「齢七十を超えると、日々体から力が抜けてゆくんじゃ。昨日持ち上げられた石が持ち上がらん。昨日よりも大きな力で斬らんと岩が斬れん。どうじゃ、恐ろしいじゃろ?」
「いや、まあそうですけど……」
脅かすような言葉に、僕は同意していいかわからなくなる。それを今まさに体感しているであろう老人が、目の前にいるのだから。
僕も三枚肉を咀嚼する。冷めてきてはあまり美味しくないだろう。
少しだけ、シチューの表面に脂が張ってきていた。
「齢八十はまだ儂も経験しておらん。どうなるのかわからんのう。じゃが、推測は立つ。自分の体にすら日々重さを感じるんじゃ。口も渇き、耳も詰まったかのようになる。目の前も見えん。そこまでいけば、恐らく旅も続けられなくなる」
「まだまだ先の話じゃないですか」
スティーブンはこれだけ元気なのだ。七十歳を超えているとはいえ、多分、まだ衰えるには早いだろう。
「先の話じゃが、もう十年とない」
僕を見る目が、年相応の老人の目になって見えた。皺だらけの顔、少しシミの浮かんだ肌、口元を覆う白い髭には艶がない。
「ま、それまでは月野流を広める旅を続けるとするんじゃがな。十年は長い長い」
一転して、明るい顔を作る。今までの陰のある顔は、どこかへ消えていった。
「ほれ、カラス殿、匙が止まっておるぞ。冷めては美味しくなかろうに」
「え、ええ」
スティーブンに促され、僕も三枚肉を口に運ぶ。脂身の甘みが口の中に広がった。
「そうじゃ、儂も聞いておきたかったんじゃが」
「何です?」
もう汁だけになった皿をスプーンで掻きながら、スティーブンは口を開いた。
「何であの場で値上げ交渉などしたんじゃ? そりゃ、儂らにとっちゃありがたいことなんじゃが」
「ああ、それですか」
僕も三枚肉最後の一切れを口の中に入れ、ゴクリと飲み込んでから口を開いた。
「だって、あの雪鯱討伐は想定外でしょう。作戦外ですし、別料金をいただかなければ」
「そりゃ建前じゃろ。ならば、もっともらわんと割に合わんし」
確かに、増額されたのは銀貨十枚。対して、雪海豚では金貨一枚。倍になってもおかしくはないのに。
「……ああいった討伐作戦に探索者を使う行為に対し、抵抗を作るためです」
スティーブンにはもうほぼ見抜かれているだろう。だから僕は、それ以上は惚けず素直に答えた。
「抵抗、ならばあの町長にはもうあるじゃろう。元々儂らを使うのを渋っておったし」
「ええ。ですのでそこに実例を作ってあげました。『探索者をこういった公の作戦で使うのは避けた方がいい。想定外のことに対し、報酬の増額を要求されてしまう』と。これであの町長の言葉が通りやすくなったでしょう」
「いや、そうじゃとは思うが……」
「大体、あそこで探索者を使うのは僕も反対なんですよ」
汁を僕も掻き込む。スティーブンよりも早く終わりそうだ。
「何故じゃ?」
「街を守るのは、衛兵たちと騎士たちの仕事です」
スティーブンの疑問に、簡潔にそう言い切る。
スティーブンは、もうそれで理解したように僅かに頷いた。
「まあ、のう」
「探索者は依頼を受けて何でもやるとはいえ、恒常的な戦力として期待するのは間違っているんですよ。人手が必要だったり、緊急時だったりとかは理解できますけれど、元々それに頼らなければいけないというのはおかしい」
ふう、と一息吐きながら僕は皿を少し押しのける。なんかもう、今日はこれだけでいい気分だ。
「今回の作戦だって、恐らく適切な運用をしていれば衛兵と騎士だけで何とかなったでしょう。僕たちすら、必要なかった」
「その適切な運用をさせるために、まず探索者を使いづらくさせる、と。回りくどいやり方じゃのう」
スティーブンもスプーンを置く。空の器が机に並んでいた。
「ま、適切な運用をするかしないかは知りませんね。僕は探索者に正当な報酬を支払わせる要求をしただけなので、そこまで考えるのは町長の仕事ですよ」
何というか、口の中の油を切りたい。お茶か何かほしい。多分、水分を買おうとするとお酒しか出てこないけど。
仕方なく、水筒の氷を溶かして啜る。またあとで雪を詰めておこう。
「そうですね、衛兵たちが強くなればいいんですよ。そういえば、天下無双の流派の名前を最近聞きましたね」
「おっほっ」
スティーブンが、頬を緩ませる。まるで、今気が付いたかのように。
「そうじゃ、そうじゃな、売り込む機会を作ってくれたんじゃな、いや、気が利くのう」
「その辺りは僕は手出ししませんので、頑張ってください」
僕は席を立つ。これくらいでいいだろう。昼も過ぎ、僕は次の街に向かいたい。
スティーブンをこの街にしばらく逗留させる名目も出来た。
「それでは。またどこかでお会いしましょう」
「おう、またな!」
また引き留められるかと思ったが、今の話が功を奏したらしい。スティーブンは素直に手を振る。
まあ、素直なのはいいことだ。僕はもう一度頭を下げて、それから店員にお礼を告げて店を出る。
道は先ほど聞けた。ここよりやや北東に、大人が歩いて五日ほど。それでリドニック首都に着くらしい。
その道すがらの街で、休憩したり腹ごしらえをしながらのんびり向かおう。
僕は街を出て、歩き出す。
とりあえず次の街には日暮れまでに着くだろう。ちらちらと雪の舞う道に足を踏み入れる。
新雪は柔らかい。僕は足を取られないように気をつけながら、ひたすら歩き続ける。
「お待たせしたのう!!」
雪で音が吸収されているのだろう。静かな道のりだ。きっと、次の街も白く静かなのだろう。
ここから先にはまた違った種類の魔物も出るそうだし、気をつけなければいけない。
犬の息が荒く聞こえる。
「いや、カラス殿は首都に向かうんじゃろ、やはり月野流も、人の多いところで宣伝せねばな!」
ソリとかあれば少しだけ早く行けるんだろうけれど、それでものどかな道だ。飽きたら飛んでいけばいいし、走って行ってもいい。
「いや、やはり一人旅はいいなぁ」
「聞こえとるんじゃろうが!」
スティーブンは二人乗りの犬ぞりを操りながら、僕に向けてとても元気に叫んでいた。
いやだから、宣伝活動をしてくればいいのに。
僕もスティーブンも、種類は違う笑顔を互いに向け合っていた。




