閑話:書簡
SIDE:石ころ屋
「初めて来るけどここかぁ……」
若者が一人、貧民街の瓦礫を踏む。じゃりじゃりとした感触に、何か硬いものが土に埋まっているようなごつごつとした感触。
靴越しに伝わる荒れた地面の感触は街中とも野外とも違い、確かに踏んでいるのに立っている気がしない不安定なものだった。
脳内にある地図を参考に、まっすぐと歩き続ける。
やがて、排泄物の異臭などそういった類いではない、だが生臭い異臭が鼻をつく。
そして、聞こえてきたのは呻き声。苦しんでいるわけではないだろう。その出所を見れば、半壊した家屋の奥の暗がりだった。中では壁にもたれ掛かり座る、眼光だけが鋭い男が所々抜けた歯を見せながら薄く笑っていた。
ごくりと若者は唾を飲む。
野生動物ならば仕事柄幾度となく見ている。魔物すら見たことがある。
だが、敵意もなく、そして害意すらなくこちらに興味を示していない対象。それがこちらを見て笑っている。それがただ不気味だった。
背後は、イライン。その街の一角だ。
だが、貧民街の土地を踏んだ。それだけで、こうも様相が変わるのか。若者は立ち止まり、一歩足を引く。
たった今出てきたばかりだ。だが、背後の普通の喧噪が、酷く懐かしい気すらする。街中で誰かが喧嘩を始めたのだろう。遠くで罵り合う声に安心感すら覚えた。
(勘弁してくれよ……簡単な仕事って話じゃなかったのかよ……)
内心、若者は愚痴を吐く。
彼は探索者、その成り立てだった。
彼はそれなりに優秀だった。
現在十六歳。イラインではない小さな街で生まれ育った彼は、仲間内でも腕っ節は強く、それでいて礼儀正しかった。物覚えもよく、本は三度も読めばある程度諳んじることが出来た。末は学者か王宮官吏かとまで言われていたほどだ。
望めば騎士にもなれただろう。だが、彼は一攫千金を求めた。
平均的に優秀な彼。大成功を求めるのは難しいが、身を立てるのはそう難しくなかっただろう。そんな彼も、一つ欠点があった。子供の頃からの冒険心を、発達段階のうちに擦り切らすことが出来なかったのだ。
彼はそんな心根のまま成長した結果、自分の道を探索者に求めた。
もちろん、無謀な挑戦というわけではない。そのための準備も怠らなかった。伝手を辿り、野外での生活を学び、戦う術を得て、小遣い稼ぎをして装備も調えた。
そのおかげか、色付きではなくともそれなりにギルドからは信頼を得ていた。
まだ色付きとなる条件を満たしておらず、さらに色付きと呼ばれている者たちがいることすら知らない新人ではあるが、将来有望だと思って差し支えはない。
彼も、一歩一歩階段を踏んでいる自覚はあった。
もう少し経験を積めば、遺跡を紹介してくれるとギルドからも伝えられている。
能力と信用と経験。およそ全ての仕事に必要なその三つのうち、彼はまだどれも及第点とは言えない。だが前二つは、ギルドの求める水準を満たしつつあったのだ。
今日の仕事は、その経験を積むための仕事。
ギルド職員が、彼の今後を懸念して任せた仕事だった。
簡単な届け物。ただ貧民街に足を踏み入れ、ただその中にある雑貨屋『石ころ屋』に手紙を届ける。言ってしまえば簡単な仕事だ。
だが、その簡単な仕事を受けたことを、若者は貧民街に足を踏み入れたばかりながら後悔していた。
貧民街に入ってからすぐ感じていた嫌な視線。
振り返り、その角を見ても何もいない。だが、その奥で息を潜めている気配がする。
物陰には死体のような物が丸まっている。だが、飢えに晒されながらも彼らは生きている。
この街では人が死んだように動かない。なのに、その血走った暗い目で見られている気配が常にある。
剣呑な気配。勿論、荒事になっても若者は簡単に撃退できるだろう。生まれ育った街では武芸者に教えを乞うてもいる。曰く、自分の学んでいた武術であれば目録程度は与えても良いだろう、とまで鍛えられてはいた。
けれど、人の悪意は底が知れない。
出所はわからないが、今でも見つめられている気配がする。
死体のように転がっている彼ら。
彼らには、後がない。このまま待っていても死ぬのだ。
このまま死ぬか、それとも死にものぐるいで誰かから物を奪うのか、その選択肢しかない。
真っ当に働き、真っ当に報酬をもらい日々の糧を得る。そんな生き方は放棄した者たちだ。
若者は、戦うことは出来る。経験もある。だがそれは、訓練か知恵を持たない獣相手とのもののみだ。
後がなく、死にものぐるいで奪いに来る知恵を持った存在との闘争。
そんな、未知の闘争への恐怖が、若者の耳元を炙っていた。
こんなところで生活するのはよほどの強者が、それとも彼らのような持たざる者ばかりだろう。そう感じ、若者は唾を飲んだ。
足は早くなり、歩いているというよりも小走りで道を急ぐ。
こんなところにいては駄目だ。早く、仕事を完了しこの街を出なければ。
そう、ギルドの思惑通りの圧力を感じ取りながら、彼は足早に石ころ屋を目指した。
ギイ、と音を立てながら扉を開く。目当ての店の外観の古さに何を思う間もなく、ただ早く仕事を終えたくて若者は急ぎ足を踏み入れた。
「こんにちは」
小さな店。だが人の暮らしている気配がする。それだけで、若者は何故か少しだけ息を吐いた。安心感とは違う。しかし安心感に似た感覚に僅かに体の力が抜けた。
若者が挨拶をした先にいたのは、枯木のような老人。だが、その目は生きており、若者はこの街に踏み入れて初めて生者に出会った気がした。
「何の用事だ」
挨拶もなく、老人は用件の催促をする。その目に気圧され、若者はまた一歩下がった。今度は畏怖だった。
「え、ええと、こちらのグスタフさんに手紙を届けよとの依頼があって参りました。カラスさんからのお手紙です、それとこちら、受領証ですご記名ください」
一息に若者は用件を吐いた。
だがその立ち位置は一歩遠く、手を伸ばしてもグスタフのいるカウンターには届かない。
悪意あってのことではない。無意識の怯えが、若者をそれ以上近くには寄せなかった。
グスタフが溜息を吐く。
新人か。それも、多分度胸と注意力を養わせるための……。そう、ほぼ正確にギルドの意図を読み取り、それと同時に顎でその手紙を示す。
グスタフの小さな動作。ただそれだけで、若者の前に青髪の少女がぴょこんと現れた。
所々を細く編んだ長い髪の毛。少女はその重たそうな髪を揺らしながら、若者に一歩詰め寄る。
「はいはいこちらいただくでごわすー」
そう気の抜けた声を発しながら手紙を奪い取り、そのままバケツリレーのようにグスタフの前に置いた。
驚き、若者は声も出ない。
見た目は十代後半だろうか。自分よりも少しだけ年上で、見た目も悪くはない。だが、その少女が突然目の前に現れた。
これは、話に聞く認識阻害の魔術だろうか。この少女の? いや、目の前の老人の?
目の前に突然現れたことと、高度な魔術の両方に驚きながら、また若者は一歩下がる。もはや、背中には扉があった。
実際には認識阻害よりももっと高度な、伝説上のものともいえる魔術が行使されたことなど、若者は知る由もない。彼には、魔術の素養などないのだ。
「じゃあ、これで終わりだな」
グスタフが記名を終え、また青髪の少女伝いに手渡された受領証を手に、若者は自然と頭を垂れた。
何故かはその場にいる誰にもわからない。だが、若者は感じていた。ここから無事に帰れる幸運を。
「ありがとうございます。では」
若者は踵を返そうとする。これで、後は警戒をしながら帰る。
恐ろしい。何故かはわからないが恐ろしい。そう感じてしまった若者は、それなりに鋭い感性を持っていた。だからこそ、ギルドからも目を掛けられているのだから。
「ねえ」
その振り返る若者に声を掛ける者がいた。老人ではない。だが、肩越しに掛けられたそのおどろおどろしい声に、睾丸が縮み上がる。
「この店に来て、無傷で帰れると思っているのかね……ヒッヒッヒ……」
肩を掴まれたわけでもない。何の拘束もされていない。なのに何故か足を止めてしまった若者は、振り返るのをやめて目を戻す。
その声の主、青髪の少女は笑いながら、しかし無表情な目で若者を見つめていた。
「……!!」
「駄目だよ、駄目……この店にきたからには、片手くらい置いていってくれなくちゃあ……」
ゆらりと、狂気が迫る。
若者は、蛇に睨まれた蛙のように足を竦ませる。
ああ、やはりこの店に入ってすぐに覚えた安心感などまやかしだったのだ。
そうだ、先ほどからずっと感じていた悍ましい視線。その視線の飛び交う街に堂々と営業している店が、まともだったはずはない。
何をされたわけでもない。だが、自分は抗おうとも一矢報いることすら出来ないだろう。そんな考えが若者を支配する。
本当に、何をされたわけでもないのに。
「その辺にしとけ、エウリューケ」
「はーい」
グスタフの制止に、ケロッとした顔でエウリューケは後ろに小さく跳ねる。それと同時に、若者が感じていた不気味な感覚も潮が引けるように消え去っていった。
「すまねえな。冗談だ、冗談。タチの悪い冗談だよ。勿論、帰っていいさ。両手両足自由なまんまでな」
「……、し、失礼しました」
グスタフの謝罪に緩んだ空気。その隙を逃さず、もう一度若者は頭を下げて店を飛び出す。
もう、小走りではない。疾走。
店だけではなく、貧民街という場所に若者はいたくなかった。
その若者の疾走を物陰から観察している影がある。
それは彼の今回積む『経験』を確認していた、ギルドの諜報部員。若者が感じていた視線のうちの一つだった。
諜報部員は一つ頷く。思った通りの経験を彼は積んでくれた。
彼は能力は人並み以上にある。飲み込みも早い。だが、そのために一つ大きな欠点があった。
彼は、順風満帆すぎた。今まで、何となく上手く出来過ぎてきてしまっていたのだ。
野外では、幸か不幸か重大な事故に遭遇したことはない。
獣と遭遇しても、恐怖は感じない。簡単に撃退できるから。
そして大きな脅威と遭遇したこともない。一定以下の脅威を取り除く最低限の対策はもうぬかりなく整えてしまうし、それで回避できない脅威と遭遇していないからこそ、彼は未だに生きているのだ。
だから、今回は彼に任務中常に恐怖を感じていてほしかった。
恐怖するから人は周囲に注意を向ける。警戒する。しかし今現在、恐怖のない彼は警戒心が鈍っていた。
警戒心がなければ、遺跡に行かせることは出来ない。罠や動物、場合によっては魔物にすら遭遇する危険な場所へは行かせられない。
これが、どこにでもいる木っ端探索者ならば別に構わない。だが彼は、それなりにいい駒にはなる。
だからこそ彼へと出した仕事に、手厚い監視。
それは成功した。
彼は恐怖を覚えた。未知のものに対し、警戒するということ。
中の確認までは出来なかったが、恐らく格上への無意識の警戒まで彼は行うことが出来た。
今回は、成功した。もう何度か、違った種類の恐怖を覚えさせれば、彼の経験も充分となるだろう。
それから色付きになれるかどうかは彼の努力次第だが。
そこから先は自らの業務範囲外だ。
そう考えて思考を打ち切った諜報部員は、陰に紛れるように姿を消した。
「さて」
「何かな何かな、カラス君からのお手紙だって? ねー開けて-、はやく開けてー」
エウリューケの催促を無言で無視しながら、グスタフは封筒を開く。
内容を除く、手紙自体は既にエウリューケが確認済みだ。怪しい魔術等が掛けられている様子もなく、薬品等を含ませてあることもない。
故に安心して、グスタフはその封筒を遠慮なく探った。
漂白された質の良い紙に包まれた、同質の紙。その上に、慣れていない文字が躍る。
「一応、カラスの筆跡だが……」
「あたしに負けず汚ない字ですのう」
「書き慣れてねえだけだろ。お前の読めない字よりはマシだな」
軽口に反撃され、エウリューケは唇を尖らせる。まさしく、彼女の研究メモよりはマシなものだったので、それ以上エウリューケは反論しなかった。もっとも彼女の場合は、読まれても読み取れないようにわざと変形させているということもあるのだが。
二人は目を走らせる。そこには、突然手紙を送ったことに対する謝罪と現状、それに用件だけが記してあった。
突然の文、申し訳ありません。
故あってのことですが、約束もなくこのような形で連絡する非礼をお許しください。
私は現在リドニック手前、ミールマンにいます。
これからまたリドニックに向けて発ちますので、この文に対する質問等はお受けできませんがご理解ください。
この文をお送りした理由ですが、そのミールマンで面白い少年と出会いました。
名前はモスク。ミールマンにおける孤児の住処、通陽口で生活していた少年です。
彼は現在、このミールマンの地下深くに存在していたシャナに譲り受けた、焦熱鬼の髪を携えその石ころ屋へ向かっています。
事情を記すと長くなりますので、その辺りの事情は本人に聞いて頂ければと思います。
恐らく信じがたいことだとは思いますので先に結論だけお伝えしておきますが、シャナと焦熱鬼の存在は事実でした。
順調であれば恐らくこの文が届いてから一週間もかからず到着するでしょう。
<猟犬>レシッドが護衛についていますので、それを調べれば正確にわかると思います。
到着し、石ころ屋に赴いた際には焦熱鬼の毛髪の買い取りをお願いします。
対価は、全額彼に渡して頂ければ幸いです。
またモスクについて。
簡単に説明しますと、教育も受けておらず、礼儀も整ってはいない少年です。そして、やはり貧民街の孤児と同じく貧弱な体で労働等には向いていないでしょう。
しかし彼は孤児という身分もない身で、常に生き残るために全身全霊を傾けていました。
中でも廃棄階層の探索に力を入れてたため、地下から発見した本から得た知識より、ミールマンを建築する際の力学や工学に既に精通しています。
さらに、ミールマンを網羅する通気口の複雑な構造を覚える立体把握力や、廃棄階層内部の構造を上下の柱のみを頼りに解析する応用力など、既に高い能力はあるでしょう。
向学心も申し分ありません。
彼には実現の難しい夢があります。その詳細は、彼の口から聞いて頂きたいですが。
本来は、一生を費やす夢だと思います。
しかしグスタフさんの力添えさえあれば、二十年、ことによれば十年もあれば形にはなるかもしれません。
石ころ屋の利益にもなるかもしれません。
是非とも、彼の話を聞き、お力添えください。
以上、突然の連絡失礼しました。
追伸
ウェイトと名乗る聖騎士が、よろしくと仰っていました。
心配ないとは思いますが、お気をつけください。
「……少年の話を聞いてくれ、か」
手紙を読み終えたグスタフが呟く。
モスクという少年。カラスがここまではっきり応援するなど珍しいことだ。そう思った。
目を掛けている少年が、さらに目を掛けた少年。それがこの店を訪ねてくるという。
「誰だろう、このモスクって子。カラス君たら、あたしってものがありながら、よそで別の女を作るなんて、生意気ね!」
「読んだ感じ女じゃねえし、そもそもお前には関係ないだろう」
文章を読み取る気もなくガルルと唸るエウリューケを、グスタフは視界に入れずにただ宥める。
「ま、了解した。面白い奴が来そうなんだな」
「カラス君が褒めるって相当よ? きっと全身が目映く光ってたり、口から常に火を噴いてたりするんだから」
パサリとグスタフは手紙をカウンターに放り、それから思い直し、丁寧に畳んで机にしまう。
その閉じた引き出しを見つめて、暫し黙った。
やがて水筒を取り出し、一口呷る。
「しかし、やっぱり魔法使いだな。十年もあれば、か。簡単に言いやがってな」
顔は不敵な笑顔だ。だが声は苦々しく、目を閉じればエウリューケにはそこに悶え苦しんでいる老人がいる気がした。
「……やっぱり、厳しいかい?」
その質問は、手紙に関してのものではない。グスタフの体を蝕む、逃れられない運命についてだ。
「俺ら定命のもんはこれで精一杯なんだよ」
グスタフは手に持った水筒に目を向ける。それを握り締める手には、弱々しい力しか入らなかった。
「最近量を増やしたみたいだけど、もうそれ以上増やすのはあまりおすすめは出来ないよ。調和水。いくら薄めても、それは毒には変わりないんだから」
真面目なエウリューケの顔。そこには、医学を志すものとしての高潔なものがあった。
人の生き死にに無頓着な彼女とて、積極的に死んでほしいわけではないのだ。
むしろ、死なずに済む者は助けたい。それ故に、彼女は治療師のギルドを追われたのだから。
「お前らにはわかんねえんだよ。俺らの時間は短えんだ。こんな対策しか取れねえくらいにな」
苛立つ声。その苛立ちは、エウリューケに向けられたものではない。ただ自らの体と、その運命に向けられたものだった。
「まだ、時間は足りねえ。この貧民街の惨状を、誰も理解しようとしねえ。まだまだ、時間はいくらあっても足りねえんだ。俺の頭が動きゃあそれでいい。ここに座っていられるなら、毒でも何でも飲んでやろうじゃねえか」
「へいへい。まあ、それで死ぬような下手はうたねーだろうけどさ」
止めても無駄だ。そうエウリューケは悟った。
エウリューケが研究を止められないように、誰もこの老人を止めることは出来ないのだ。
止まるとしたら、それは彼の求める正義の一刺しが彼の喉に突き刺さったとき。
もしくは運命が彼に追いついたとき。それだけだ。
「と、誰か来たよ」
「クク、今日は千客万来だな。潰れちまってもいいのにな、こんな店」
忌々しげにグスタフはそんな軽口を叩く。だがその態度に反して、珍しく機嫌が良いとエウリューケは思った。
「まあまあ、まだまだそれには時間がかかるんじゃないかにゃー」
台車のガラガラという音が外で響く。
重たい荷物が載っているのだろう。押している人間の多少荒くなった息まで聞こえてくるようだ。
音が店の前で止まり、やがて扉が開かれる。
挨拶の後、カウンターに歩み寄ってきた顔にグスタフは用事を確信し、にやりと笑う。
どうやら、今度の客は買い取りを所望しているらしい。それもそのはず、その水は、グスタフが依頼していたものだった。
「置いてけー! 片目置いてけー!」
そして、今日はそういう気分なのだろう。
またしても客を驚かすエウリューケの元気な声が、寂れた街に響き渡った。




