勧誘
僕と老人は連れだって歩く。
その老人もリドニックの街に行く途中だったらしい。ならば、一緒に行ってもいいだろう。
腕と足を振り上げ、意気揚々と歩くその老人は、年齢にそぐわぬ元気な動きだった。
「それで、何で逃げてらっしゃったんですか?」
ちなみにその老人の名前は、シロイというらしい。月野流の目録は頑として教えてはもらえなかったが、それでも諸地域を回り月野流の宣伝に努めているということは、それなりに上の階位なのだろう。
しかし、それならばなおさら気になるというもの。
腕は立つはずだ。なのに、雪イルカから逃げていたのはどういうわけだろうか。
僕の問いに、困ったように目を逸らしたシロイは髭をしごく。顎髭も口髭もまとめて下に伸ばしているその髭は、年齢相応というべきか白く立派なものだった。
そして、恥ずかしそうに腰の鞘を示した。それは、初めて言葉を交わしたときと同じ動作だ。
「恥ずかしい話じゃが、応戦しようとしたときに剣を落としてのう……。リドニックの寒さを舐めていたわい。まさか、手が悴んで剣を取り落とすとは思わなんだ」
「……それは、また……」
擁護できない失敗だった。
剣術である月野流の剣士が、剣を取り落とすなど一番やってはいけないことだろうに。
月野流の技術は、まず鍔迫り合いから始まる。それは周知のことらしい。僕もあの後でグスタフさんに聞いた話ではあるが、ならば戦いのうちで剣は命に等しい。
初手をとれない。それはそれだけで、戦いの結果を左右してもおかしくないのだ。
……そうすると、やはり容易く僕に剣をおられたバーンの修練不足が目に付くが、それは今はいいだろう。多分、今は反省してまた修行に打ち込んでるだろうし。
「……月野流の、ご門人ですよね……?」
だから、あえてもう一度聞く。嫌味ではない。確認だ。月野流、というのが僕の勘違いという可能性もある。……殆どないか。
僕の質問に、シロイは兜を脱ぎ、頭を掻く。
「返す言葉もない……。剣さえあればあのような魔物、いや、もっと大きいらしい雪鯨すら一刀両断にしてやったのだが……」
「ええと、……そうですか……」
その言葉が強がりにしか思えず、僕は生返事を返してこの話を打ち切った。
「う、疑っておるな? 見ておれ、剣さえ手に入れば、巨鼠すら真っ二つに裂く儂の神技を見せて進ぜようではないか!」
「ええ、はい、期待して待ってます」
取り繕う言葉に、やはり僕の胸中に確信が満ちる。……月野流の門人に恩を売っておけばそれなりに役立つかと思ったが、この様子では期待薄だろうか。
老人の戯言。先ほどのは恐らくそうだったのだと思い直し、僕はさりげなく幾分か急いで街へと向かう。追いすがるように、シロイも足を早めた。
道しるべを辿った形ない道に、踏まれた跡が残りはじめる。
この道を使い何処かへ行ったというよりは、街の周辺を歩く際に街道跡を使ったという感じだろうか。だが、確実に人の痕跡。横道に逸れたり、また何処かから戻ってくるような足跡を見て、僕は街が近いことを悟る。
シロイもそれを感じ取ったようで、陽気に口を開く。
「おおっと、近くに街があるのかのう? 嬉しい事じゃ。鍛冶屋があればいいんじゃが……」
「まあ、小さい街でも大抵はあると思うので心配しなくてもいいでしょう」
剣があれば、というのは僅かな希望ではあるが、この老人とはその街に入ったところでお別れだ。月野流、ということは無視しても、恩は売れただろう。命を救ったこの恩は、また何処かで返してもらうとしよう。
「ちなみにカラス殿は、リドニックに何のために来たんじゃ? 政情不安定らしいこの国に、物見遊山で入るような者とは思えぬが」
「特に用事は……、と、物見遊山で大体合ってると思いますよ。この国出身の方が知り合いにいらっしゃいまして、その方から聞いた話を確かめに」
「ほう。どんな話じゃ?」
「なんでも、四色の雪が降るとか。白はよく見るとしても、赤や橙なんて見たことがありませんし」
無理矢理に作った観光の理由。だが、別に嘘を吐いているわけではない。
レヴィンのことがなくとも、それは見てみたいと思う話だ。レヴィンのことがなければその雪の話を聞くのは違う形で、興味を持つこともなかったかもしれないが。
「ふむ。儂もまだ見てないのう。しかし、そんなくらいでわざわざ?」
「ええ。そんなくらいで」
そんな小さな理由ですら、僕には大きな理由だ。
そうやって無理矢理にでも用事を作らなければ何もしようとはしない。それは僕の性格らしい。
「まあ、若いうちは色々と経験せんといかんな。雪の鑑賞のための旅。結構なことじゃわい」
シロイは納得したようで、口を開けて笑顔を作る。そして僕に先んじて歩き出した。
一歩踏み出すたびに、ガチャンガチャンと鎧が鳴る。戦場でもないのに、金属製の鎧とは用心深いのか臆病なのかわからない。
それからも何歩か歩き、そして振り返る。
「面白いのう。ならば、カラス殿」
「はい」
意を決したかのようなその表情が気になったが、足を止めずに続きを促す。金属製の重たい鎧を身につけた上で、僕と同じように雪の上を歩くのだ。それなりに膂力もあるのだろうか。そんな、関係のない話を考えながら。
「カラス殿は何か武術を学んでおるか?」
「いえ? 少しばかり水天流の心得はありますが、学んで覚えた武術はありません」
「心得はある、にも関わらず学んで覚えてはおらん。ならば、門人ではない、と捉えてよろしいな」
「ええ」
話の流れに、その続きが予想できた。僕の答えなど最初から決まっている話題だが、退屈しのぎの会話だ。止める気はない。
「ならば、カラス殿。儂の下で月野流を学んでみてはいかがじゃろうか」
「お断りします」
止める気はないが、受ける気もさらさらないのだが。
「即答じゃと!? 何ゆえ!!?」
驚いたようにシロイは吠える。下の歯を全て見せるように大きな口を開けた。
いや、むしろ断ってその反応をされることのほうが意外なのだが。
「あの、失礼ですけれど、学ぶ理由が見当たらないというか、……」
「月野流は天下無双じゃぞ? 剣を持てば負けることなど知ることもなく……」
「いえ、あの、しかしシロイ殿は雪イルカから逃げ……」
僕が言いかけた言葉に、シロイの顔が若干青く染まる。寒さに微かに震えており、顔色も悪かったがそれがさらに悪くなった。
雪イルカから逃げていた。その醜態を思い出したのか、シロイは叫ぶ。
「あれは剣を持っておらんかったからじゃ! 剣さえあれば、剣さえあればあのようなもの!」
キーッと地団駄を踏みながら、言い訳の言葉を繰り返す。しかし、先の逃走はそれだけで言い逃れできるものではないだろう。
「月野流は剣術ですし、剣を持っていれば強い、というのはわかります。ですが、それでも……」
剣を持っていれば強い。似たような者にモノケルがいたか。しかし、モノケルですら闘うことは出来ていた。たしかに剣を持っていなければ脅威たり得なかったが、それでも剣がなくともあのような凡百な魔物に負ける彼ではあるまい。
「ぬあぁぁ! 口惜しや……!」
荒い息を繰り返しながら、シロイは憤懣やるかたない様子を見せる。
僕が言ったことは自分でもわかってはいるのだろう。けれど、見ないふりをしていた、というのが正しいのかもしれない。
「いや、まあ、それ以上に僕が拝師とかに向いていないということもあるんですが……」
取りなすように僕は言葉を口に出す。
その瞬間、街が目の前に現れた。
まだ遠くにあるが、それでも肉眼でははっきりと見える。
本当に、突然現れたという感覚が正しいと思う。
雪に埋もれた街。建物は低く、ところどころ露出しているところからすれば木造だろうか? だが、露出しているところもそうそうなく、まるで『かまくら』のような小さな雪の山が並ぶ。
雪のせいだろうか、向こうからの音は殆どない。
人通りもあるにはあるが、まばらで交通はあまりない。
街というよりも村といった方が正しいような小さな集落だ。背景の白い色に完璧に溶け込んでおり、見えていたはずなのに目立たない街。それが、突然目の前に現れたと錯覚した。
シロイもそう思ったらしい。
僕の勧誘も一瞬忘れ、街を見て目を見開く。それから先ほどまでの話を意識して有耶無耶にするよう、大きな声を出した。
「おお、あれは街か!」
「ええ。何というところかすら知りませんが」
よかった。これで退屈からも、シロイからも解放される。あそこの街でリドニックの首都の方角を聞いて、あとは適当にそこを目指していこう。
「急ごうではないか、カラス殿!」
大股で歩き始めたシロイの後を追うように、僕もその街に入っていった。




