神話の奇人
「さあさあ、この手を掴みたまえよっ! この満天の星空の中、逢引きといこうじゃないか!」
目の前にいる不審な女性は、そう元気に言って手を差し出した。青い髪を何本もの細い三つ編みにして垂らしている。厚着のせいで露出部分が強調され、薄暗くなった店内に、白い手が浮かび上がって見える。その手に刻まれている蔦のような文様は刺青だろうか。
言葉は優しく、僕を助けてくれるそうだ。その八重歯が出る笑顔に悪意は見えず、確かに信用できそうな感じではあるが。だが。
「……どなたですか?」
僕はこの女性を知らない。先ほどから誰だ誰だと聞いてばかりな気がするが、本当に誰だこの人。顔も名前も知らなかった者に連れてこられてこうなった現状、また同じ愚を犯すわけにはいかない。
僕が警戒心を露わにして身を引くと、残念そうに女性は唇を尖らせた。
「ちぇー。このエウリューケちゃんがせっかく助けてあげるってのに。カラスくんなんかお腹に石詰めて川に沈んじゃえ」
「随分と物騒な……」
拷問どころかすごいこと言ってるこの人。けれども、そうか、この人が。
「貴方がエウリューケさんでしたか」
レイトンが言っていた、石ころ屋の新入りだ。周囲を取り囲む衛兵たちに全く悟られずに喫茶店に入り、僕に気付かれずに目の前まで忍び寄ることができる。……なるほど、かなり腕は立つ。
僕の言葉に満面の笑みを作ると、エウリューケは高らかに言った。
「そうだよー!」
両手を上げてくるりと回る。もつれた足が瓦礫に引っかかり、よろけている様を見て少し信憑性は薄くなったが、まあいい。
「すいません、では僕も離脱しますので、エウリューケさんも見つからないように……」
「納得したしじゃあ行こう!」
透明化し店を出ようとした僕の腕を、エウリューケの冷たい手が掴む。
次の瞬間、景色が歪んだ。
森の中。人の明かりは小さいものでも障害になっていたのか、街の中よりも星が綺麗に見える。
夜目の利かない鳥たちは寝静まり、梟などもいないのかその他の羽音もしない。
真っ暗な闇の中で、僕は戸惑っていた。
「え? 何です? これ」
腕に伝わるエウリューケの手の感触はそのままだが、それ以外の全てが一瞬で変化した。
足元は土になり、頬に感じるのは隙間風ではなく爽やかな夜風だ。周囲にあった建物や衛兵たちは消え失せ、その代わりに木々が茂る。
これは、どういうことだ。
慌てて手の先の暗闇を見れば、そこには先程と変わらない、エウリューケの姿もあった。
「ウィッヒッヒー! 驚いたでしょ! これぞエウリューケちゃんの最大の武器にして最終奥義! く」
「空間転移、ですか」
「う間転移……! ってちょっとあんたぁ!」
驚いた。これこそ英雄譚で出てきた魔術の一つじゃないか。旅先で王都の危機を知った勇者を、大賢者が国を跨いで送り届けるために使ったという魔術。
だがしかし、その魔術は複雑な魔法陣と二日に及ぶ詠唱が必要な上、その当時比肩するものなしと讃えられた魔力を持った魔女だったからこそ成し得た奇跡に近い技だったと、そう聞いている。
事実、現在空間転移を使える者はいないわけではないが、滅多にいないそうだ。その者らも、一週間の準備と三日の詠唱の末、一尺動かすというのが精々らしい。
なのに。
空の端を見れば、街らしき気配がする。
つまり、何百メートルもの距離を僕らは一瞬のうちに移動した。
目の前の着膨れした女性は、魔法陣もなく無詠唱で一瞬のうちに遥か遠くまで僕を飛ばした。
腕が立つ、どころじゃない。神話の登場人物以上と言っても過言ではないのだ。
「どうやって……、いや、どんな修練をして……」
「おや? あたしの凄さに気がついたかにゃ?」
不満げな顔をしていたエウリューケが、胸を張って……体型がわからないが多分胸を張って威張る。
そして嬉しそうに僕の背中を叩いた。
「でもでもごめんねー! これ一応禁術やら使ってるからねぇ、教えらんないの! ごめんねー?」
「残念です」
まあ仕方がない。やはり自分で工夫してみるしかないか。空間転移も、僕が原理が想像できずに使うことのできない魔法の一つだ。何をどうすればいいのか。その辺りは、魔術を『そういうもの』として捉えられるこの世界の人間のほうが有利だ。
「もっとも、君ならすぐに辿り着けるんじゃないかな? 君の知恵の泉の話は聞いてるよー!」
「……えっと?」
何の話だろうか。
「君が見つけたちっちゃい生き物の話だよ。あれであたしの研究が百年、いや二百年は進んだね! だから飽きちゃったんだけど!!」
「それはまあ、僕の手柄ではないですし……」
三日熱の話か。グスタフさんから伝わったのかな。
「ま、その辺はおいておいて、こめん、あたし寝る!」
「え」
唐突に丸くなる。木の根本で、着ている服に埋もれるようにしゃがみこんだ。
「想定外に転移を使っちゃって魔力が限界……。眠いのよ」
「でしたら、どこかもっと……」
良い場所を、と言おうとしたが、もうエウリューケに動く気はなさそうだ。白い左手をパタパタと振って拒絶の意思を示していた。
「明日詳しいことを話すから、今日はここまでにしとくれやす。魔力切れで動く気力ががが……」
「はあ、じゃあ起きるまで待ってます」
ついでに周囲の警戒もしておこう。街から少し離れた場所とはいえ、誰か来ないとも限らない。それに、エウリューケも顔を多分衛兵に見られている。
「あれれ? 今襲われたらあたし逃げられない!? きゃー! か弱い美少女と強引な男の子との爛れた恋物語が始まっちゃう!? 致し方ない!」
やっぱり放っておいていいかな。
寝言を叫び続ける布の塊を見ながら、僕はそう思った。




