暗がりからの誘い
旅というものは帰る場所があるから旅というのであって、帰る場所が無ければそれは単なる移動だ。
そして僕の帰る場所はイライン。その三番街にある、自らの力でようやく手に入れた家だ。当初は旅先で定住してしまうかもしれないなどと考えたが、そんなことはなかった。
今僕がいるのは、ライプニッツ領の酒場だ。
木の床に、揺れる火の灯りが緩く反射し、部屋の中を橙色に染めている。料理などを食べているものは少なく、皆葉巻の煙をくゆらせたり、小さな赤茶色の木の実を齧りながら、氷の入った蒸留酒をカランと鳴らしている。
適当に入った酒場は、そんな場所だった。
リコとの別れからしばらくはアウラ近郊を見て回り、それから僕はライプニッツ領まで引き返していた。
美味しい海産物とはしばらくお別れだが、それはまあ仕方がない。漁業権の関係で、ライプニッツ領で魚を捕るのは隠れて行わなければならないが、店もある。川魚などであればどこでも食べることが出来るのだ。
酒場に来たのは、美味しい料理を食べに来たというわけではない。
そもそも酒場は付き添いなどがいなければ年齢的に未だに追い出される場所なので、姿を隠している。食事は出来ない。それよりも、リコが聞いていたという酒場での噂、それを検証してみなければいけないのだ。
だが、こういった調査はやはり姿を隠しては難しいようだ。
クラリセンでの事件はもう日が経ち、吟遊詩人が歌うことも少ないだろう。事実、とんがり帽子をかぶり、椅子ごと体全体を覆うような外套を身に纏っている吟遊詩人が、酒場の片隅で静かに弦楽器を鳴らしながら歌っているのは、遠く何処かの国で革命が起きたというような話だ。
ぽつりぽつりと置かれたテーブルで静かに飲んでいるのは、落ち着いた紳士という感じの人たちが主だ。彼らが噂話に興じている様子もあまり見られず、話を聞くことも出来ない。
店を変えれば何とかなるだろうか。この店の雰囲気自体、噂話にそぐわない。他の、にぎやかな酒場ではどうだろう。いや、それも難しいか。クラリセンでの噂話が過去の話になっているのは変わらない。
探索ギルドで情報を募るか。いや、やはり人づてよりも、情報ソースに近い者から直接聞きたい。
……誰かに金でも握らせて付き添いを頼もうかと考えたが、それはやめておこう。何となく、背伸びしている気がして嫌な感じがする。
仕方がない、個人的に吟遊詩人から話を聞こう。壁の張り紙を見れば、詩人がいるのは日没から日の出までの間。ならば、明日の日の出にここに来れば、店から出てきた詩人と話が出来る。
とりあえず、それまでどこかで時間を潰そう。
薄暗い道に足を踏み出せば、砂利道だが舗装された歩きやすい道路が迎える。ライプニッツ領は一事が万事こんな様子だった。全体的な生活様式は、都市部はイラインと、小さな集落は開拓村とそう変わりはない。だがその細かなところは改善というか工夫され、まるで違っている。
石畳ではなく砂利道。だが、一応普請はされて歩きやすさはあまり変わらない。固く締まったその道は、石畳ほどではないが耐久性もあるだろう。
道を走っていた馬車の足回りには板バネのようなスプリングが使われ、若干快適になっているようだ。きっとオトフシが言っていた、『揺れに強い馬車』というのがこれだろう。見ていると車体が不安定に揺れていたため、快適さは人にもよるのだろうが。
街灯はイラインと比べて暗いか。そして油を滲みこませた灯心を燃やす灯明ではなく、ガス灯だ。色が違うので不思議に思い、根元を確認してみれば、どうやら複雑な機構で気化した油に点火していた。メンテナンスのことを考えれば灯明のようなものを使うべきだと思う。ただ噴き出している小さな炎も、明るさを考えるならば魚尾灯のような大きな炎にするべきだ。
そういった工夫。まだ技術発展の途上のようなその様は、この領特有のものだろう。
問題点はある気もするが、この世界で使われている以上、きっと何か利点もある。問題点をカバーできるほどの利点がなければ、普及するはずがないのだから。
そんな、この領では見慣れた物体を再度興味深く見ていると、一つ違和感を覚えた。
いや、違和感、というべきではないだろう。視線を感じたのだ。近くの路地から、僕を誰かが見ている
敵意は感じない。だが、親しげという感じでもない。殺気もないが、感情自体が感じられない。目的のみを持って僕を見ている。何故だかそんな気がした。
警戒を隠してそちらに向かって歩み寄る。路地の陰の中から、誰かが姿を現した。中肉中背。顔の左側に大きな傷があり、そして左耳まで削ぎ落ちているのが印象的な男だった。
「貴殿が、カラス殿か」
背中に担いだ大きな太刀が、歩くと同時にガシャリと揺れる。
「ええ。貴方は?」
自らは名乗らずに、ただ名前を尋ねる。割と非礼な行為だろう。それをとがめる気はないが。そして僕の誰何に応えることはなく、ただその男はゆっくりと口を開いた。
「主がお呼びだ。ついてこい」
「どこの誰かもわからない人の誘いに乗るほど、自信過剰に生まれていませんので」
即答する。理由はそのまま、僕についていく理由はない。そもそも誰だこの男は。
話が出来るような人には見えない。そして僕は尋問も拷問も苦手だ。主とやらが、探索ギルドを通さず僕へと依頼しようということかもしれないが、それならそれでこんな誘いに応じる気はない。
踵を返し、立ち去ろうと一歩踏み出す。この男が誰かは気になるが、それはこの後尾けていけばわかるだろう。まずは撒かなければ。
そう思った僕の背中から、剣呑な気配がする。見ていなくてもわかる。男は今、剣の柄を握った。
「こんな街中で刃傷沙汰とかやめましょうよ」
「貴殿に向けられるものではない。だが、貴殿の短慮で、首がいくつか落ちることはご理解いただきたい」
「その短慮で、あなたの首を落としてもいいんですが」
「主に捧げた体だ。それは御免被る」
振り返れば、瞳孔の広がった焦点の合わない瞳が僕を見ていた。スヴェンのような人間離れした目ではなく、信仰に染まっているような、そんな空虚な目。恐らく僕が戦闘態勢を見せれば、すぐにその刃が言葉に反して僕に向くだろう。
支配されている。そんな言葉が浮かんだ。
そしてその言葉。その支配という単語が、僕にその男の背後にいるものを予感させた。
「夜明けまでには帰らせてもらいますので」
「痛み入る」
そして、この先に答えがある。吟遊詩人に聞く手間も、省けたと思っていいかもしれない。そんな気がして、僕は男の誘いに乗って歩き始めた。




