閑話:ガラス玉の目
SIDE:サーロ
ミーティア人二人の気配が消えたのを確認したグスタフは、静かに口を開いた。
「で、どうだ? いけそうだったか?」
「んー、ちょっち難しいかも。単独行動中でも、あれを片付けるとしたら、レイトンとかニクスキーとかの武闘派を使わないと厳しい感じ」
「お前だったら?」
「共倒れなら出来るかも」
エウリューケは袖から覗く刺青を見ながら答えた。その、顔以外の右半身を覆うツタのようなデザインの刺青は彼女の研究成果であり、戦闘においての生命線だ。
だが、彼女自体が戦うことは難しい。それは本人もグスタフもわかっている。それは最後の手段だ。それ故、その最後の手段をとることがないように立ち回るのが最良の手段なのだ。
「で、じっちゃん!」
跳ねるようにグスタフに近づき、エウリューケはその顔を覗き込んだ。
「なんだよ」
「何であたしの認識阻害がバレたと思う?」
エウリューケは不思議だった。自分の魔術は完璧ではないが、それでも自信はある。不信感を抱いた後であればまだわからないでもないかもしれないが、しかし初対面で見抜かれるとは思っていなかった。
認識阻害の魔術。音や光、匂いで自らを捕捉されるのを防ぐ魔術だ。極めれば、完璧に姿を隠すことが出来る魔術。それは難易度が高く、習得しているだけで引く手数多となる魔術だ。
もっとも、姿を隠す魔術である以上、それを求めるのは後ろ暗い者たちが主だというのは想像に難くないことではあるが。
「あいつらはミーティア人。耳も鼻も目も、俺たちとは性能が違うんだよ。俺らより高い音は聞こえるし、微かな匂いもわかる。目は色が見えづらいらしいがな」
「ほえー」
エウリューケは驚く。
一つはその情報に。ミーティア人の存在自体は知っていたが、その身体の性能までは知らなかった。
そしてもう一つは、グスタフがそれを知っていたこと。国交も数百年前に断絶し、今では国境にある一部の街で姿がたまに見える程度だと聞くのに。
エウリューケ自身は、ミーティアに入ったことはない。けれど、それは目の前のグスタフとて同じはずだ。
どうしてそれを知っているのだろうか。本人の主観的にはわからないはずの色覚すら、どうして。
その疑問を察したグスタフが、先に答える。お気に入りの残り香のようなものを確認した高揚感から、ほんのわずかに口が軽くなっていた。もっとも、隠すようなことでもないのだが。
「俺の学んだ本草学でも、そんなものがあってな。人種によっても毒や薬が変わる。俺らが普通に食べているものも、他の人種にとっては毒のようになるものもある」
「薬効が違うことはあるけど、そんなに極端なのかえ」
「ああ。たとえばさっきの犬のほう。玉葱食わせると簡単に死ぬだろうな」
それを聞いて、エウリューケは噴き出す。そんな、それはまるで。
「犬みてぇー!」
「みたい、じゃなくて犬なんだ。犬のほうが感覚が鋭敏、って思えばさっきの話もわかるだろ」
「ああ、そっかー」
やっとエウリューケにも合点がいく。ようは、あの動物に似た姿は外見だけではないのだ。その能力もそれに準じている。
なるほど、地にかける爪があり、肉を噛みちぎる牙がある。人間よりも動物に近いのだろう。彼らも、人間なのだが。いいや、人間も動物と変わらないとみたほうが正しいのだろうか。
エウリューケの思考が回転を始める。
わずかに抱いた興味に脳の隙間がこじ開けられたようで、仮説や想像が液体となり、肉汁滴る焼き肉の如く脳内に溢れていった。
ならば、その発達過程もそうなのだろうか。エッセンの人間であれば、立ち上がるのには通常何ヶ月もかかる。けれど、彼らならば、獣に近い彼らならば生まれて数刻で立ち上がるのだろうか。
言葉はエッセンのものが通じていた。隣国ムジカルのように、発音などに独特の訛りがあるもののそれでも普通に話すことが出来ていた。つまり声帯などは自分たちに近い。直立歩行をしていることからして骨格も自分たちに近い。しかし、ならば動き方はどうなのだろうか。二足歩行と四足歩行の生物の間では骨格以外にも筋肉の付き方が変わる。先ほどの歩き方を見れば、猪よりも犬の方が二足歩行に慣れているようだった。手指部分の発達加減を見るならば、おそらく猪のほうは細かい作業が苦手なのだろう。摘まむ程度しか出来ないあの指では。
想像と仮説と妄想が止まらない。
しかし、やはり直に見た方がいいだろうか。そう思い始める。
直に、その毛皮を裂き、腹を割り、温かな内臓の配置を見て、血管や筋肉の走行を肉眼でつぶさに観察する。そうしたい。そうしてもいいだろうか。そうすれば、同じ人種の怪我を治すことも容易となる。彼らを後のミーティア人の礎にするため、その身体を解剖してみても……。
エウリューケのその目。その息遣いにグスタフは危ういものを感じる。
これはまずい。釘を刺しておかなければ。そう思うほどには。
「何考えているかは大体わかるが、やめとけ。相打ちが精々ってお前もさっき言ってたろ」
「……そうよねー。そうします、はい」
思考の激流は急激に終息する。熱しやすく冷めやすい。長所でもあり短所でもあるところだった。
しかし、話していないこともある。
相打ちが精々、けれど、事前に準備しておけばその限りではない。
だが、それはエウリューケは言わない。まだ短いつきあいだ。そこまでは話さない。まだ信用できていないから。
故に、実行には移さない。残念ながら、彼らへの興味はいったんお預けだ。
残念ではある。知的好奇心をすぐに満たせないのは、彼女にとってむりやり息を止めているのと変わらないのだから。
「では-、また待機しとって待つのよ」
「おう」
エウリューケは姿を消す。先ほど見破られた認識阻害の魔術の改良点を考えながら。
最後に、とエウリューケは扉の外の方を見た。
ミーティア人の構造は人間よりも獣に近い。それが真実ならば。
生理的な面でも獣に近いだろう。彼らならば、犬や猪に。
ならば、行動様式も似通うはずだ。その食性も、つがいの選び方も。
ならば。
精神構造は、人間なのだろうか、獣なのだろうか。
そこまで考えて、エウリューケはそれ以上の推論を止めた。
しばらくの後、二人の獣の姿は街中にあった。景色と自らの記憶を比較しながら練り歩いているのだ。
周囲からの視線を気にしないようにして、サーロは早足で歩く。ミーティア人がエッセンを歩くことなどそうあることではなく、やはり通りすがった者は、必ず一度は振り返っていた。
それからしばらく歩き、二人はふと立ち止まる。なんの合図もなく同時に。
そして揃って、新しい家屋が並ぶ一角を見た。
「ここらへん、かぁ?」
「おそらく間違いないだろう」
三百年前の光景とは殆どすべてが変わってしまってはいるが、地形や遠く見えるネルグの姿、そして何より確かな直感で、二人はほぼ正確な位置関係を把握していた。
アントルは腰を落とし、四つん這いに近い態勢をとる。そうして幼い日の目線の再現を試みるが、大きく育ってしまった体には難しいことだった。
「懐かしいなぁ……」
それでも、そう呟く。視線の高さしか合わせることは出来ないが、その子供目線を想像し、そして思い出すことは出来た。
温かな日差し。太陽の匂いのする草。雨の日の後は、露が大きな葉に溜まっていた。
小鳥たちの鳴き声に、銅犬の氏族が連絡を取り合う遠吠え。『今日はあの丘まで行こう』などという他愛のない会話を、遠くでやりとりしていたのを聞いていた。
豊かな土の中にいる蚯蚓は太く肉付きもよく、味もよかった。緑色のものは土を含んでいるためあまり食べる気はしなかったので、桃色のものを選んで食べる美食家だった。
記憶の中の光景。
だが、現実の光景と重ねると全く異なっている。
道はこんな石で舗装などされていなかった。
こんなに、家は密集していなかった。
そしてこんなに、森人は歩いていなかった。
グルル、とサーロは喉を鳴らす。憎しみの声だ。
「全て、変わってしまったな」
「……ああ、変わっちまったなぁ」
変わっていないのは、ネルグの大きな木のみ。他の光景は、一切重ならない。
サーロもアントルも、それをよくわかっている。
アントルは膝をつきそうになる。ここまで変わってしまった。土地の見栄えも、匂いも、起伏も、そして思い出も。全て、全て変わってしまった。ライプニッツ領にいただけではわからなかったその様に、力が抜けるようだった。
対して、サーロはその光景から目を逸らさなかった。
歯を食いしばる。拳を握りしめる。ここまで変えられてしまった。建ち並ぶ住居は変わり果て、思い出の丘は削り取られて。すれ違うようにして走る子供が、不愉快だった。
「……あの日、見たことを覚えていると言ったな」
「ああ。覚えてるよ。全部、全部よぉ」
サーロとアントルの脳裏に、同じ光景が浮かぶ。
このイラインとなってしまった土地から逃げた最後の日。パイアを救おうとして、兵士たち相手に大立ち回りをした最後の日を。
「間違い、ないな!!」
「おう! 磨猿の偵察が確認してる! 大きな照猪が運び込まれたって!!!」
二人は走りながら現状を報告する。枝を避け、根を躱し、森を走り抜けながらである。
事の発端は、この日の昼にアントルが受けた報告だった。すでにエッセンの侵攻が始まり、戦いが各地で行われ、もう既に負け戦の様相を呈していたときである。
曰く、この先に開けた草原があり、またその先に小さな前線基地がある。そこに、大きな照猪が運び込まれたというものだ。
照猪の氏族と聞いて、照猪の若き戦士であるアントルが怒るのは当然だ。けれど、それ以外に重要な理由があった。それが、銅犬の戦士であるサーロが付いてきている理由であり、そして、二人だけで行動している理由でもある。
運び込まれた照猪が、女性だった。
その報告を聞いて、アントルの全身の毛が逆立った。
もしや。いや、間違いない。そう想像して、サーロに伝えに走った。
運び込まれた大きな女性の猪。それを聞いて、確信したのだ。
それは、照猪の女性パイア。二人がパイア様と呼んで慕う女性だと。
パイアはこの数日前、エッセンの兵士に囚われていた。
非戦闘民の待機していた避難所を急襲した兵士に、為す術なくその身柄を確保されてしまったのだという。
小さな子供を守るために、盾となった。大きな剣を振りかざした兵士から小さな翠鳥の男の子を守るために、その身を張って。そうアントルは聞いている。
二人は憤慨し、そしてその兵士たちを追っていた。
なにせ、美しい女性だ。その豊満な腹は温かく、豊穣を約束するようで。控えめに付いていた牙はしおらしく、美しい中にもそのかわいらしさを湛えていた。蹄の色も色っぽく、揃った毛並みも相まって扇情的な色さえ見えた。
あの美しい女性が兵士たちに囚われてしまった。その後の扱いは想像に難くない。戦時である。どう猛な森人たちが、捕虜に対してどんな扱いをするか、わかったものではない。
そう、二人は考えていた。
実際には、エッセンの人間に彼女に性的欲求を抱く者などそうはおらず、そういった類いの心配は無用なものなのだが。
そして、捕虜というのも甘く見ていた。この二人はまだ、人間の恐ろしさを勘違いしていた。
やがて、見回りの兵士が見える。
二人の足は止まらない。もとより一直線に駆け抜ける性分のアントルは当然として、サーロも。憧れであり、慕う女性を救うために。今は回り道は出来なかった。
「どけ!!」
「がっ……!!!」
五人一組で行動する兵士たちが紙くずのように飛ぶ。生死すらも気にしない。今はただ、パイアの無事を祈っていた。
もはや、木々を折りながら二人は走る。途中幾人かの兵士を蹴散らしながらも、歩みは止めない。止まらない。
そして、とうとう警報が鳴る。彼らの存在が知れ渡り、兵士たちが動いた。
勇猛で知られる銅犬。彼らに対抗して作られた鐘の音が耳を劈く。轟音ではないが、高音でサーロの耳に突き刺されたかのような痛みが走った。
「……!!」
「サーロ! 耳塞いで乗れ!!」
既に四つ足で走っていたアントルが、サーロに自らの背を示す。それに応えてサーロがまたがると、アントルの毛が金色に染まった。
出来る限り知られずに近づきたかったが仕方がない。ここからは、傷を付くことを厭わない。パイア様のもとまで走り抜ける。全てを壊して。
そう、決意した。
アントルの身体が膨れあがる。
「やるのか!?」
「おうよ!!」
地面に食い込む蹄の後が深くなる。巻き上がる土埃が増えていく。
足音が大きくなる。否、大きくなるのは足音だけではない。
「なんだあれは!!」
「〈動山〉のアントルだ!! 皆、全力で横に逃げろ!!!」
アントルの姿を見た兵士たちが叫ぶ。
アントルの武勇は、エッセンにもそれなりに知れ渡っている。戦場では多くの兵士を弾き飛ばし、挽き潰し、骸に変えていた。
だが、所詮猪。前にさえ立たなければ問題はない。直接見たことがない兵士たちはそう思った。
事実、そうだった。アントルに出来るのは、ただひたすら走ることのみ。前にさえ立たなければ問題ないのだ。
そう、前にさえ立たなければ。
アントルの身体が膨れあがる。
風船のように、寒さに耐える鳥のように、大きくなる。それに伴い、重さも増える。
「しゃあああああ!!」
吠えるその声も、もはやアントルの声ではない。低く、多くなっている。地響きのように。
アントルの使う魔法、《動山》。それは、勇者の時代にも使われた魔法。
記述が簡単であるため、多くの人間が軽視してしまう。それは単純な質量攻撃である。
その字を見て、『山を動かすなど無理だろう』と勝手に勘違いをしてしまう人間すらいる。
それもその通りだ。山を動かすなど到底出来るはずがない。
魔法使いであろうとも、一人の人間に山を動かすなど出来るはずがない。そのような大規模なことは、アントルにも起こすことは出来ない。
アントルが起こす作用は、もっと簡単なものだ。
もっと簡単で、ささやかなものだ。
山を動かすのではない。
山が動くのだ。
「うわああああ!!!」
悪夢だった。兵士たちが叫ぶ。
轟音と共に迫る巨獣。見上げても鼻先を下から見ることしか出来ず、その前方の範囲から逃れることは出来ない。
前に立たなければ問題ない。けれど、前に立たないでいられないほどの巨大さ。
見上げても視界に入りきらないほどの巨体に、兵士たちは為す術がなかった。
身体の質量は体積に比例する。単純に考えて、身体が十倍の大きさになれば重さは千倍となる。十倍程度でそれだ。
受け止めることなど出来はしない。飛んでくる山を受け止めることが出来ないように。
矢は身体を覆う剛毛に止められる、また、闘気を使った強弓が刺さろうとも今のアントルには針の先が刺さったようなものだ。
兵士たちの盾すら意味を成さない。剣は弾かれ、突き立てようとしたときにはもうその者にはその速度と質量が牙を剥く。
もはやその疾走を止めるものはおらず、アントルの走った後には、兵士たちの轢死体が川のように転がっていた。
「あまり基地は壊すな!!」
「わあってるよ!!」
その、進行方向にある基地は壊してはいけないもの。アントルもそれは知っていた。
故に、その手前で止まろうと努力する。足が軋み、鼻先が建物を突いた。
「ふふぇぇ……!!」
それから、安堵の息を吐きながらアントルは縮んでいく。矢も抜け、傷は縮み、そこには一頭の大きな猪が戻ってきていた。
「ここからは身どもが戦う。お前は少し休め」
「んなわけにはいかねえだろ。俺だって戦えんだよ」
崩れ、おあつらえ向きに入り口の開いた建物の中に、二人は駆け込んでいく。
その先に、見たことを後悔するようなものがあることを知らずに。
やはり、少しの妨害はあった。
その基地の司令官であるエッセンの貴族に雇われた探索者に妨害され、二人は傷を負う。
それでもなお、諦めなかった。
パイア様はどこだ。そう叫びながら、建物の中を駆け回る。
やがて、サーロの鼻に匂いが届く。その匂いに、サーロの口が裂けるように開いた。
「いるぞ!! こっちだ!!」
喜びに駆け出す。この匂いは間違いない。愛しいパイア様の匂いだ。
だが。
一抹の不安にサーロの足がやや鈍る。
この臭いはなんだ。パイア様の匂いに混じり鼻に届く、油の臭いは。それに、この濃厚な血の臭いは。これは、森人の血の臭いではない。まさか。
まさか。
同じように、鼻が鋭いはずのアントルは疑問に思わなかった。
だからこそ、その部屋に一番に駆け込んでしまった。大好きな母がいると信じて。
その先に森人の気配があることも気にせず、そして牢のようでもないその部屋が、なんのための部屋かも気にせず。
大好きな母が、そこにいると信じていた。
「サーロ!! 来んな!!」
反射的に、アントルはサーロを呼ぶ。まだ入り口についておらず、まだ中を見ていない相棒を止めるために。
自分も、見たくなかった、見るべきではなかった。
その先にあった光景を。その先にあった、母の姿を。
「パイア様!」
しかし、それを無視してサーロは飛び込む。アントルの言葉よりも、大好きな義母の身を案じて。
そして、動きを止めた。動けなかった。
「賊めら!! ここまできたか!!!」
パイアの横にいる兵士が叫ぶ。だが、二人ともそんなものを聞いてはいなかった。
ただ、パイアの目に身竦められていた。
いいや、それはパイアの目ではない。
パイアの身体は針金で固定され、今は乾燥を待つばかりである。
その温かな毛並みはそのままに、肌に触れればきっと冷たい。
力なく、二人を見つめているのは、あの優しげな目では決してない。
そこに、はめ込まれていたのはガラス玉。
その部屋の中央に置かれていたのは、二人が慕う、照猪のパイア。
その、剥製だった。
時は現在のイラインに戻る。
二人の周囲から消えた音が、戻ってきた気がした。
「探索者どもは手強かった。思えば、あのときのことを考えればまだ銅犬の者たちの鍛錬不足は明白だったかもしれぬ」
「とくにあの銀髪の兄妹はやばかったなぁ。あいつらとはもう戦いたくないしよぉ」
二人とも、笑いながらそう話す。談笑しているのではない。話題を、暗に逸らしていた。
だが、サーロは居住まいを正す。一つ咳払いをすると、アントルも唾を飲んだ。
「パイア様の目を、覚えているか」
「……おう。俺らを、優しく見守っててくれたあの目な」
サーロの言葉の真意をわかっていながらも、アントルは惚けて答える。
それに苦笑で応え、サーロは街を見渡した。
「あの日、身どもは誓ったのだ。森人を生かしてはおけないと。生かしておく訳にはいかないと」
パイアの顔を思い出そうとする度に、あの目が浮かぶ。何も映さず、ただ宙を見つめているガラス玉の目を。
サーロには、優しげな目など思い出せない。
握りしめた拳から光が立ち上がる。無意識に込めた闘気は、もはや霧のように見えていた。
「当然だろう。パイア様は、この国の貴族どもの慰み者となった。存在すら否定され、ただの美術品とされてしまった」
「……そうだな」
アントルも否定は出来ない。憎しみも悲しみも、痛いほどにわかっていた。
いや、実母である以上、サーロよりもよくわかっていただろう。
「じゃ、やっぱぶっ壊すか」
だからこそ、明るくそう言う。本心からだった。
今戦うわけにはいかない。今エッセンとミーティアの間で戦争が起きれば、まず間違いなく殲滅されてしまうだろう。三百年前のような退却戦すら出来ない。ただの、一方的な虐殺だ。
戦いたくはない。子孫たちに迷惑をかけるわけにはいかない。もう、自分たちのような復讐者を作りたくもない。
そうは思う。
けれど、親友がまだその気なら。
「この街ぶっ壊すくらいなら、いけるだろぉ」
一矢報いることくらいは出来る。パイアに見守られ、サーロと一緒に駆け回ったこの丘のあった場所を一時取り返すくらいであれば。
「あの少年との約束を反故にする気か」
「あ、そいつがあったなぁ」
苦笑しながら、アントルはその矛を収める。そうだ。自分の言葉に従い戦争を止めてくれた。あの少年に報いなければ、猪の面目が立たない。
サーロも同じだった。今はあの少年に免じて、ことを起こさない。義理堅い、犬の性分だった。
「……今回は、敵情視察ということで我慢するさ。いずれ奪い返すときには、手を貸せ」
「おうよ」
その時まで憎しみが消えていなければ。
その時までパイア様の目を思い出せなければ。その時は躊躇なく奪い返そう。
パイア様との思い出の眠るこの地を。
その日のために、三百年もの間準備を続けているのだから。
「感傷に浸っている時間はなかったな。アントル、他を案内しろ」
「他ってもなぁ……、飯屋でも行くかぁ? エッセンの料理くらい、食べといてもいいだろぉ?」
「……食えるものならな」
サーロはそう答えて、ふと立ち並ぶ住宅を見る。
活気のある街だ。
今のミーティアには望めない人口密度に、商店や公共施設が充実している。
大人は温かく子供を見守り、子供は精一杯にはしゃいで遊んでいる。
「やったなー!」
「おまえー!!」
喧嘩を始めたようで、転がりじゃれ合う姿もある。きっと、そういう微笑ましいものを、自分はミーティアから奪い続けてきたのだ。
そう、初めて自覚する。自分が、そうしてきたのだと。
喧嘩している兄弟らしき森人。そして、それをみる母親の目。
そのパイアと同じ種類の目を見て、サーロは泣きながら笑った。




