閑話:石ころと犬
SIDE:イライン
パイア様の顔を思い出せなくなったのは、いつからだろうか。
いや、思い出せないなど、そんなはずはない。
頭に浮かんだ疑問を、サーロは即座に否定する。
どこかで、アントルが自らを呼んでいる。サーロはそう感じているものの、目の前の光景から目が離せなかった。
自分でもよくわかる。酷く意識が混濁している。時系列も位置関係も無茶苦茶だ。パイア様がいて、自分はそれを見ていて、そして子供のアントルとサーロがはしゃぎまわって遊んでいる。
そして自らの頬に感じる温かさ。固く手触りの良い毛皮。そういえば、蹄で毛繕いされるのが好きだった。
あれは、いつだっただろうか。そうだ、それはもう三百年以上前のことだ。
これは、夢。そうサーロは確信した。
まるで別の人間が自らの半生を追うように、何処からか声が響いてくるように、目の前には景色が広がる。
小さいアントルと、幼い日の自分。そしてその二人が駆け回る姿を笑って見ているのは、優しい陽だまりのような女性。
パイア様。アントルとサーロが、母と称して慕っている女性だった。
まだ身体の縞が消えていないアントルに食らいつくように、幼い自分がしがみつく。追いかけっこのつもりなのだろう。
お腹が空けば、パイア様の用意した木の実を食べる。疲れれば、木陰で丸くなって眠る。
本能に従い、ただ楽しむだけの日々。温かく輝いていた世界。それが永遠に続くと、アントルも自分も思っていたのに。
パイア様が小さな二人に笑いかける。だがしかし、サーロはその顔を見ることが出来なかった。
サーロの夢。その景色が一変する。
焼けた村、逃げ惑う幼子。自らの視線は高くなり、足元に転んだ銅犬の子供が自らと重なって見えた。
だが、その顔は恐怖と驚きに塗れて引きつり、助けを求めてサーロにしがみつく。
何とかしなければ。サーロが感じたのは、憤怒。そして義務。
成人となった自らは、この国で一番の猛者だ。皆からそう称えられ、そしてサーロ自身もそう思っていた。
なのに、守れなかった。
サーロは悲しみを反芻する。
自分が一番支えたいと願っていた女性を、サーロは守れなかったのだ。
「おぃ! サーロ!!」
肩を叩かれて、サーロの意識が覚醒する。まず感じたのは眩しさ。それが朝日によるものだと気が付いた彼は、何の気なしに周囲を見渡した。ゆっくりとした瞬き。その重い瞼の向こう側に見えているのは、ミーティアではほとんど見られない石造りの大きな壁だった。
小鳥たちの囀りが聞こえる。動物と同じような見た目を持ち、同じような能力を持つミーティア人であっても、動物の言葉を解することは出来ない。ただその声が、ミーティアで聞くのと違う声音なのはよくわかった。
サーロは自らを起こした親友、アントルの顔を見て溜息を吐く。いつみても変り映えのない顔だ。そう悪態をついたのは、心の中だけだ。
「朝か」
「おぅ。お前が『今日は野宿がいい』とか言わなきゃ、今頃寝台の上で起きれたのによぉ」
一声だけ返せば、それがまた何倍にもなって返ってくる。喧しいが、楽しいやつだ。サーロのアントル評は、そんなところだった。
背にした木の幹から体を剥がすように起こせば、目の前にはアントルが作った野草の煮込みが用意されている。周囲の森で採れた野草を塩を使って煮ただけの簡単な料理。近くの川に魚を捕りに行くこともなく、処理の面倒な狩りをする気もない。物臭なアントルの得意料理だった。
「またこれか……」
「文句言うならテメェで作れや、ああ? いつも俺が作ってんだろうがぁ」
出来れば肉、せめて魚が食べたい。サーロとしてはそう望んでいるものの、アントルの言うことももっともである。アントルに肉を食べる習慣はない。よって、サーロが自らの好みの料理を用意するのなら、二人分、別々のものをということになる。朝に弱いサーロがアントルの分も朝食を用意することなど到底できるはずもない。そして、自分の分だけ作るなどという不義理も出来ずに、無言でサーロはそのスープを啜っていた。
その温かいスープの何処かに、懐かしい味がする。それこそネルグに近づいている証だろう。アントルもサーロも、無意識にそろってネルグを見上げる。
その、幹から遥か何千里も離れたここからでも見える巨木。その姿は昔この辺りに住んでいた時から何も変わってはいない。そして目の前の壁の向こう側は、イライン。三百年前にエッセンの人間に奪われた、サーロたちの住居があった場所である。
「さーて、行くべぁ」
「ああ」
焚火を手早く片付けて、アントルが重たい腰を上げる。その野外での調理に慣れた所作は、流石しばらく傭兵として働いていただけあるだろう。
鍛錬を続けていただけの自分とは大違いだ。そう、自嘲してサーロは隠れて溜息を吐いた。
目の前の石壁、そこに裂け目のように開いた門をくぐり、中を見る。
街の周囲は、やはり通行人が多かった。そして当然、中は一段と多い。その人込みを見て、一瞬サーロは硬直する。
まだ朝だ。にもかかわらず、適当に石を投げれば必ず誰かに当たるほどの人の数。そんなもの、ミーティアでは見たことがない光景だ。ここに至るまで、いくつも通ったエッセンの街や村にも人が多かったが、ここはまた格別だ。
未だ慣れない人の多さ、そして、未だに森人への嫌悪感も消えてはいない。
やはり、いっそここで皆殺しにしてしまおうか。衛兵や騎士など、いくら邪魔者が現れようとも、あの少年ほどの脅威ではあるまい。何百倍も容易く、そしてすぐに終わるだろう。
拳を握り締め、そんなことまで考えてしまうほどには。
トン、と背中を叩かれる。サーロが横を見れば、苦笑しながらアントルが中を指さす。
「何固まってんだよ、行こうぜぇ」
「あ、ああ……」
その温かな笑みに、サーロは戦意が萎えていくのをありありと感じていた。
二人の足は、揃って瓦礫を踏む。目的地は貧民街。正式にはイラインではない。
そこは整備などされておらず、そして中途半端に人の手が入った土地。イラインの、そのネルグに面する位置に置かれたその一角は、およそ人の住む土地とは思えなかった。
当然だ。市民権もなく、街からは守られるはずもなく、その代わりに追われるような民の住む街。国やイラインからの庇護もなく暮らす彼らは、そのような土地にしか住めないのだ。
雨風をかろうじて防げる家屋が撤去されず、そして市民から嫌悪されているその住民たちが立ち退きを迫られていないのは理由がある。
簡単だ。
一部の栄養状態も悪く、満足に運動も出来ない住民にうってつけの仕事があるからである。
ネルグから魔物が出てきたときに、真っ先に肉の盾になるという仕事が。
もはやイラインも大きくなり、ネルグに開拓村も多く作られた今となってはほとんどそのような事態は起こらないが、それでもなおその機能は健在だ。
サーロの足に、瓦礫を踏んだ不快感が伝わる。柔らかい地面でもなく、砂利のような細かい礫ではなく、岩のような硬い足場でもない。そんな中途半端な足元は、二人にとって甚だ不快だった。
「こんな場所に……本当にあるのか……?」
「嘘つく理由がねえだろがよぉ」
二人は見回し、石ころ屋の看板を探す。即ち、カラスと名乗るあの少年の口に上った雑貨屋である。
周囲を見回し道を探る。そんな仕草は、この街の住人にとって獲物であると示すしぐさだった。
「治安も悪い……。このような輩、即刻集落の長により処罰されるべきではないか。生き残っていることがおかしい」
「エッセンの奴らでも、多分そんな許してねえと思うぞ」
死角であろう方向から忍び寄り、そして隙をついて駆け寄ってくるぼろぼろの男。目は虚ろで焦点が定まっておらず、その震える手足は力強い行動ができるようには到底思えない。
それでもなお、男は来た。
男の手の中にある刃こぼれと錆だらけの短剣は、アントルの背嚢の紐を切るように突き出され、その紐が切れると同時に背中に突き立てられるだろう。
一切の迷いなく行動に移す。
今夜はきっと旨い飯が食える。そう期待して。
もらった。ひったくり未遂犯はそう思った。
しかし、全速力で駆け寄ったその男は次の瞬間、驚愕する。
「だが、ちょうどいい。道案内を頼もうではないか」
その短剣が、犬の手に摘ままれる。二人の死角にあったはずの短剣はねじ曲がり、いつの間にかひったくり未遂犯の横に立っているサーロ。ひったくりは叫ぼうとするが、その口が開いた瞬間、頭と顎を押さえられてくぐもった素っ頓狂な声を上げた。
「石ころ屋、という雑貨屋に行きたい。わかったか?」
「……! ……!!」
頭蓋骨から鳴る不気味な音。明瞭な返事もできずに、ひったくりは頷きを繰り返す。生への渇望から、ひったくりの目に涙が滴り落ちていた。
老人が水瓶の前に立つ。
それは、もう十年以上前からの老人の朝の日課だった。
枯木のような老人、対外的にグスタフと名乗っているその老人の目の前にある水瓶の中にあるのは、ただの水だ。
貧民街の一角にある井戸から汲み上げた、何の変哲もない無味無臭のただの水。イラインの中に引き込まれている川さえもそのままでは飲用には適さない水だというのに、その井戸から無味無臭の水が出るというのはこの男の主導による井戸の管理の成果だ。矢面には立たず、あたかも住民たちが自主的に管理しているかのように思わせながらもしっかりと手綱を握る。それはこの男の手腕を示していた。
その水瓶の中に、一滴の雫を垂らす。竹筒に入っていたそのとろりとした液体は、薬師として一流のグスタフの手によって、測らずとも狙った量が確実に混和されていく。副作用は最小に、効果は最大となるように。
僅かに水瓶を揺らし、その水面のうねる様子を見てグスタフは頷いた。その日飲む分は、それで完成だ。
水筒に移されたその水薬は、石ころ屋で唯一といっていい、グスタフのためだけに用意しているものだった。
朝日を浴びて橙に染まったカウンターに腰かける。先ほど作った水を一口含み、そしてそれから、店の入り口を眺めて来客を待った。各地に散った部下からの報告を受け取りながら。
ギィと軋む音がして、扉が開かれる。不要になった案内役を道の端に放り投げながら、サーロは店内を見回す。
建材は表の看板と同様に傷み、とても古いものだと想像できた。だが同時に、埃や塵などはほぼ無く、この店の清潔さも見て取れた。
踏みしめるたびに音が鳴る木の床は、見た目に反してしっかりとしていて、踏み心地もよくサーロは内心感心しているほどだ。
「珍しい客だ。新顔だな」
目の前の店主にそう切り出され、サーロは一歩たじろぐ。そして、目でアントルに助けを求めた。今まで銅犬の族長であり続け、そして傅かれる立場だった自らに対等に接する族長ではない者。そんな存在に、未だにサーロは弱かった。
サーロの代わりに、店主の『珍しい』という部分を確認すべくアントルが口を開く。
「ミーティア人は駄目かぁ?」
「客の差別はしない主義だ。誰だろうと、等しく客だよ。で、用件も知ってる」
カウンターから身を乗り出してから、グスタフは座り直す。サーロはその瞳の中に炎が見える気がした。
「前置きは苦手だ。率直に聞くが……見つかったか?」
何を、とグスタフは言わない。サーロは無言で腰の袋から書類を取り出しカウンターに放り投げた。
「早えな。ひと月って話だったが……」
「身どもら……いや、身どもには作り出してしまった責任がある。力を尽くすのは当然だ」
「こいつ頑張ったんだぜぇ? 集計所に催促にいったり、自分で調査に出向いたりよぉ」
そうゲラゲラと笑いながらサーロを指差すアントルは、周囲の空気を読んで自ら口を閉じた。そして蹄で口を押さえ、目だけでサーロを促す。
「……フン。結論から言えば、見つかった。西の端の集落で、一人の老婆が覚えていたよ……他の者は忘れたい記憶として、記憶に蓋をしていたようだがな」
母さえも、とサーロが口の中で呟いたのは、アントルにも誰にも聞こえていなかった。
「よくやった。これであとはどうにでもしてやるよ」
「しかし、それで大丈夫なのか? この調査でわかったことは、名前以外無いと言ってもいい。貴様らがどんな者たちなのかは知らぬが、役には立たぬだろう。名前も、変えられている恐れさえある」
「問題ねえな」
グスタフは胸を張りそう言い切る。それから腰の水筒に手をやり、一口飲んで空になった水筒を振った。
「変えたところで、本人は前の名前を覚えてる。全く形跡が残らないなんて有り得ねえ。調査のしようはいくらでもあんだよ。ブロンコからケネスに、セシルからトリストラムに、みてえにな」
「……その辺りは、身どもらにはわからんようだ」
「まあ、仕方ねえさ。とにかく、記憶には残ってんだ。記録に残らねえでもな」
名前の変化の推察は難しい。長年の経験からなるその知恵を、受け継ごうとしても出来るものではない。だからグスタフも、他の誰かに出来ると期待してはいなかった。
カラン、と空になった水筒が投げ捨てられる。
「さて、話はそれだけだろう。他の用件はあるか?」
「無いな。この店には、身どもの欲しいものはなさそうだ」
グスタフの後ろの商品棚を見回しながらサーロはそう吐き捨てる。実際にはその後ろに大量の商品が所狭しと並べられているのだが、それもサーロは把握していた。そして、薬や金貨など、エッセンの人間であれば喉から手が出るほど欲しがるような物品が大量に置いてあることも。
「いや、ちょっと聞きてえんだけど」
「何だ?」
話が終わりそうになったその時、アントルが声を上げる。そして、カウンターの奥、布がかけられた出入口を指して首を傾げた。
「さっきから、そいつすっげぇ気になるんだ。俺らへの警戒か?」
「そこは流石に黙っておいてやるのが優しさだろう。アントル、誰しも失敗はするものだ」
「でもよぉ……」
窘めるサーロに言い募ろうとするアントル。その様子を見ていて、グスタフは溜息を吐いた。
「出てこい、エウリューケ」
「駄目なのぉ? ていうか、あたし何でバレたのよ?」
光の輪郭を伴い、何もなかった空間に女性が姿を見せる。細く編んだ長い髪を何本も垂らして、厚い毛布のような服を何層にも重ねて着ている。まるでどこか寒い地方の、寒い雪の夜にでもするような服装で、唇を尖らせながら彼女は現れた。
「……あの少年とは違うな。やはり、真ん中よりも上というのは謙遜だったか」
「こいつも凄腕ではあるんだが……。悪いことしたな、こいつはお前らに対する警戒じゃねえよ」
こいつ、と示されたエウリューケは自らを指さし舌を出す。そのお茶目な笑顔は、紹介している老人とは正反対のものだ。
「どこにでもいる、用心棒役だ。気にするな」
「石ころ屋の新入り、エウリューケでーす!! お兄さんたち、これからよろしくね!」
明るい挨拶に、顔に近づけたピースサイン。サーロはその仕草に、何となく不快感を覚えた。
「……用は済んだな。帰るぞ、アントル」
「お、おお」
それ以上エウリューケを視界に入れないように、踵を返したサーロ。それを追うように、アントルも動く。だがふと立ち止まったサーロにぶつかりそうになり、たたらを踏んで床を軋ませた。
グスタフの顔も見ずに、それでもグスタフに向けてポツリとサーロは口を開く。
「甘露とは、珍しいものを使っている」
「……よくわかったな」
グスタフが僅かに眉を顰めたのは、店の誰も見てはいなかった。
「それを使わなければ、成せぬことでもあるのか?」
「お前らとは違えからな」
「失敗をしないことだ。……あの少年が悲しむ」
「俺らは最後まで失敗しねえよ。そういうやつらの集まりだ」
アントルには理解が追い付かない言葉の応酬。その決着がついたのか、サーロはふと笑って店を踏み出す。
「身どもと同じ者を作り出さぬよう、せいぜい気を付けることだ」
石ころ屋の看板を眺めながら、サーロはそう呟いた。




