足りない情報
水平線の向こうにいくつかある島。その一番左の島をとりあえず目指すと決めて、僕は海辺に佇む。
先ほどの魔物の出現などもう誰も気に留めていないようで、街は僕がここで海を見ていた時と同じ様子に戻っていた。
初心に帰る、とはいったものの、装備は大丈夫だろうか。僕は自分の体を叩くように見分していく。
服にほつれや痛みは殆どない。外套も、砂ぼこりで汚れてはいるものの穴などはない。
靴は……少し靴底が痛んでいるか。足を保護する用途はほぼ完全に残っているものの、剥がそうと思えば剥がれる程度には浮いている。それに全体的に細かい傷だらけだ。ここに来るまで走ってきたからだろう。今回は問題ないだろうが、そろそろ替え時だ。この街に靴屋があれば、あとで買おう。
鉈は大丈夫。この頃使っていなかったこともあってか、刃こぼれも傷も無い。この前研ぎ直してもらった時と比べても、そう変わってはいない。
あの時持っていなかった薬は?
外套の中を探り、確認していく。小瓶に収められた種々の薬品。見た目は白い液体や透明なクリーム、青い粉など。種類としては、消毒薬に血止めや獣除け、漁や猟に使える毒、熱冷ましに虫下し。他にも色々と、どれも少量ずつではあるが、瓶は損傷していない。品質には自信があるし、ちょっとした薬屋まで開けそうなくらいに種類が揃ってはいるが、これは僕の本職ではないのだ。今のところ、売る気はない。それに、売るとしたら量がちょっと足りない。
健康状態はどうだろうか。
今のところ体に異常はない。熱も平熱、聴力はいつも通り。鼻もしっかりと潮の匂いを嗅いでいる。視力は……開拓村にいた時と変わらず、平常だとやや悪いか。しかし問題ない。最後に、思考能力に異常は見られない、と思う。そればかりは自分ではわからないが。
以上、問題なし、とそう結論付ける。
そうしてしばらく待っていると、後ろから車輪を転がす音が聞こえてきた。
振り返るとそこには、今回の依頼主……でもないが、リコが樽を台車に乗せて運んできていた。
「お待たせ。見ての通り、これにいっぱいに欲しいんだけど」
リコが樽を示す。形はいわゆる洋樽だと思うが、大きさはビール樽を思い浮かべたものよりも二回りほど小さいくらいだろうか。多分、百リットルも入らない。
「わかりました」
それを念動力で持ち上げて、僕の横に持ってくる。中に汚れ等は見受けられない。やはり、薬を扱うのだ、一応清潔にはなっている。木の匂いしかしないので、酒を入れるなどした中古ではないようだ。焦がすことすらしていない。
「それで、そっちは? どこの山かはわかった?」
固唾を飲む、というような深刻な顔でリコはそう尋ねる。しかし、僕は力なく首を振った。
「いえ。やはり教えてもらえませんでした。なので少し時間はかかります」
「……そっか」
意外そうな顔もせず、リコは納得したように呟く。そして、やや笑顔を浮かべて口を開いた。
儚げな笑顔は、中性的というよりも、むしろ凛々しい美人といった佇まいだ。
「じゃ、さ。一応俺の情報も役には立ちそうだね」
「情報? 何のです?」
「その、調和水の採れる山の特徴だよ」
「是非ともお聞きしたいです」
聞いておかなければなるまい。指標があれば、当然のことながら手当たり次第に壊していくよりもだいぶ効率的になる。
鼻を高くするように、リコは続けた。
「薬師は教えてくれなかったんだけどね、樽の問屋が聞いたっていう話を教えてくれたんだ。……山頭が島を動かすとき、火薬を使って少し崩すっていうのは知ってる?」
「いいえ」
「……まあ、使って崩すんだけど、それにはやっぱり方向がある」
……ああ、少し予想がついた。
海流に乗せる以外に火薬を使って動かすというのであれば、火薬を炸裂させるのは進行方向とは逆の側だ。そして調和水が採れる山といえば、近くまで寄せるために必ず、沖からこの街に向かって移動させているはずだ。もちろん近づきすぎたのを遠ざけるためにこの街側にも火薬跡がついているかもしれないが、普通の浮島はこの街に近づける必要はない、と思う。そんなような判別法だろう。
僕は手を押し出すようなジェスチャーをしながら、予想した言葉を吐く。
「向こう側に火薬の跡がある山を探せばいいんでしょうか?」
「……えっと、そうなんだ……けど……」
見る間に鼻が低くなっていく気がするリコ。実際に鼻が伸びたりはしていないが、そんな雰囲気だった。ちょっと申し訳ない。
「あ、あとね、やっぱり調和水の近くは木も枯れちゃうらしい。だから、川に苔とか何も生えていない山が狙い目だよ。調和水自体が枯れちゃってるから、苔までいくとどうだろうって感じがするけど」
「そういえば、生物が耐えられないっていうとそんな感じですよね。でも、川辺に木がない……、でしたらここでいうと……」
言葉を切り、沖のほうに目を凝らす。遠くにあるのは米粒のように小さな山で、しかも青みがかって霞んでいる。ではあるが、闘気を使った鮮明な像では、木々の姿まで充分見える。
「あれと、あの山。その右もちょっと怪しい感じでしょうか」
「俺には見えてないってこと、忘れないでね?」
少し、リコの顔に困った感じが混じったのも、しっかりと見えた。
さて、ではそれで必要な情報も手に入った。グスタフさんと比べれば流石に足りない気もするが、今回の顧客は僕のほうではない。リコの要望に、足りない情報でもしっかりと応えなければなるまい。
「では、行ってきます。今日中に、多分日が沈むまでには戻りますので」
「……本当に、気を付けてね。さっきいた大蛇とかだって俺らには太刀打ちできないんだ。君は竜を見ているかもしれないし、もう麻痺しているかもしれないけど……」
「心配要りませんって」
リコの言葉を笑って遮り、浮かび上がる。横倒しにした樽に腰かけて横を向いた。
今回は樽ごと僕の体を運ぶように。僕は、見当をつけた島に向かって飛行を始めた。
潮風を切り、僕は進む。
キラキラと太陽を反射する海面を覗けば、いくらか魚影も見える気がする。潜ってみれば確実にわかるのだろうが、今日の目的は海水浴ではないのだ。危険なことはなるべく避けたい。
……とは思ったが、やはり危険とは向こうからやってくるのだ。
「ケーーーー!!」
ザパリと海面が盛り上がる。それと同時に、けたたましい鳴き声が響いた。
飛沫の向こうに見えたのは、まず黄色い嘴、そして赤く縁どられた目。そしてその突進を躱した僕の目に映ったのは、弾いた水の玉を纏った茶色い羽毛に覆われたお腹だった。
少し離れてみれば、飛行するその巨体の全体像が確認できる。
尾が多い雉。そんな感じの鳥だった。ただその巨体は不自然なほどで少し僕は笑ってしまった。
象のような巨体。その胴の大きさは成人男性を十数人は乗せられそうなほどで、広げた翼は獣臭さが感じられないほど離れているのに視界に入りきらない。
「奇襲するなら、鳴き声を上げないほうがいいと思います」
僕はちょっとしたアドバイスを口にする。そのアドバイスなど聞けないだろうし、例え聞く耳を持っていたとしても活かす機会は永久に訪れないだろう。
もう一度飛びかかってきた雉の嘴のちょうど中央、鋭く研がれたようなそこを摘まんで押し止める。
魔力を集中させて、そこに不可視の刃を形作る。鋭く、大きな縦の刃。
その刃をすうっと雉の尾に向けて動かす。
鳴き声一つ上げずに、雉は真っ二つとなって臓物をばらまきつつ海へと落ちていった。
血で染まった海面を見つめて、僕は懐かしく思い出す。
そう、僕の初めての仕事でも、大きな猛禽に襲われたのだ。
あの時は、『食べないから』と殺さなかった。しかし、今日は違う。あの日も今も、仕事としてここに来ているのだ。
障害ならば排除すべきだった。その反省を、今日活かした。
成長したのか、それともやはり何か麻痺してしまったのか。
何の躊躇もなく巨鳥を殺した僕に、その死体を食べに集まり水面を荒らす魚の群れが、何か言っている気がした。




