空を駆ける猪
項垂れたように四肢の力を抜き、アントルはぶらりと垂れ下がる。上下は逆だが、何というか、捕獲されて手足を縛られ吊された猪のように見えた。そのまんまだが。
「俺の走りについてこれる奴なんかそう見たことねえのによぉ。お前、速いんだな」
「……ええ、ありがとうございます」
レシッドやレイトン辺りと比べてしまえば逆にアントルはそんなに速くはないが、ミーティアのレベルでは違うということだろうか。……チーターや馬などのミーティア人種はどうなのだろう。
「それはそれとして、本当にやり過ぎです。見てください、通ってきた跡がクッキリと……」
指で示す先には、木々が折れて一直線に開かれた道。地面を直しつつ来たが、限界はあった。この世界で、森の表面ではなく地面が地平線を作ったのを初めて見た気がする。
「ちょうどいいじゃねえか、こーんな曲がりくねった道じゃなくてよぉ、真っ直ぐにこのまま道を引いちまえばいいんだよ!」
「多分、少しでも平坦に作ろうとしたんでしょう。それは出来ませんよ」
項垂れた様子から、ぶひー、と鼻息を荒くしてそう主張するアントルを軽くあしらう。そもそもそれは隣接する街の権限だ。一介の傭兵や探索者が決められることではない。
激しく手足を動かすアントル。だが、拘束は解かない。やがて諦めたように、また四肢を投げ出した。
「……降ろしてくれよぉ……」
「降ろしたらまた走り出しちゃうでしょう?」
「そりゃ、当ぜ……いや、我慢するから降ろしてくれぇ……!」
先程までは立っていた耳をペショッと折り曲げ、アントルは懇願を続ける。
「では、出来るだけ静かにお願いしますね?」
「わかった」
何度も太い首を動かし頷くアントルを地面にそっと降ろす。降ろされたアントルは元気なさげにスクッと立ち上がると、口を開く。
「……行こうぜぇ……」
トボトボと歩き出すアントルは、先程よりも一回り小さく見えた。それを見て、何だか可哀想になってきた。……いや、僕も含め種々の生き物が暮らす森だ。僕の目の届くところで、必要以上に荒らさせるのは気分が良くない。
「……じゃ、僕を乗せて走ってください。それなら止めませ」
「本当か!?」
言い切る前に、勢いよく振り返ったアントルはバァァと音が出るほどに輝いて見える。昨日も言っていたが、乗せるのはいいのか。しかし、言ったはいいがそれもあまり気分が良くない。アントルがただの猪ならばいいのだろうが、これだけ普通に話している相手の背中に乗るというのも申し訳ない。
「……すいません。僕を乗せなくても結構です。ただ、下を向かずに走っていってください」
「何だよ、乗らねえのか。だが、走ってもいいんだな!?」
「ええ。止めません」
言うがはやいか、またアントルの身体が金色に染まる。危ない、遅れては困る。
魔力を展開し、備えた。
「よっしゃあ!! 行くぜぇ!! カラス! ついてこれるもんならついてこいよ!!」
「ついていきますとも」
走り出したアントルの足元に、障壁を作る要領で透明な足場を作る。それを坂にし、森の上まで駆け上がらせる。もはや地面は遙か下、生身で落下すれば死ぬであろう高さだ。
「うおぃ!? なんだこれ!?」
「……そのまま走ってってください」
驚くアントルの横を追従して飛行しながら、そう告げる。怖がる素振りもなく走り続ける辺り肝は太いのだろう。下を向くなと注意はしたが、リアクションがないのもそれはそれで少しばかり残念だった。
森の上を通れば、森を荒らさずに済む。そしてアントルも、障害物に突っ込んで速度を落とさずに済む。効果は覿面だった。
「すげえ、すげえな! こりゃすげえ!」
語彙少なく、嬉しそうに驚くアントルの足は止まらない。背後にたなびく金の粒子は、先程にもまして輝きを増す。足元を見れば、この近辺の街で設置しているのだろう、一里ごとに置かれた塚が見える。
それが、飛ぶように後方に移動していく。一つ塚が見えたと思ったら、三度呼吸する間に次の塚が見える。その繰り返しだ。やはり、先程のは加速の途中だったのか。
横を見れば、得意げに笑うアントルの牙がキラリと見えた。
すぐさま次の街が見える。本当にあっという間だった。
これを繰り返していけば、日没どころか日が高いうちにミーティアに着くだろう。そう思うくらいの速さだ。いや、実際僕は行ったことがないからわからないが。
「このまま行けば、どれくらいにミーティアに着きますか?」
「ガハハハ! あと一刻もありゃあ行けるぜ!!」
元気よくアントルがそう叫ぶが、ならばいいだろう。休憩が必要かと思ったが、アントルにそんな素振りはない。ならば、続けていこう。
上空から楽しむライプニッツ領の光景も変わっていた。
進んでいくうちに、森がどんどんとまばらになっていく。ネルグはもう見えないし、もはやこの辺りは森というよりも大きな林といった風情だ。たまに眼下に見える街も、畑などよりも建物が目立つようになっている。
ネルグ周辺だったイラインやクラリセンとは違い、王都と同じようにここはもう人の世界なのだ。魔物に怯える必要もなく、身を守るとしたら同じ人間に対して。昨日の件も含めて、もうそんな世界なのだろう。
やがて、大きな木の壁が見える。高さは二メートルくらいだろうか。もちろん、このまま飛んでいけば普通に飛び越えられる高さではあるが、左右を見ても、それが地平線の先まで伸びている様は圧巻だった。
そしてその先は草原のようで、向こうには集落らしき場所も見えた。
それを確認出来た辺りから、アントルの足が鈍くなる。そして、目前まで迫ったところで、完全に静止した。
「おう、カラス、降ろしてくれ! 門を通るぞ!」
「はい。門ってのは……あれですか」
アントルの鼻先が示す場所では小さな建物がチョコンと二つ並んでいる。先程から無視していた街道がそこに繋がっているということは、そこが門なのだろう。
アントルごとそこの近くへと飛行していき、ゆっくりと地面に降りる。
「僕は詳しくないんですが、通らないといけないんですか?」
「当たり前だろ。ここ通らんと、宿り木持ち扱いされちまう!」
「宿り木……というのは……」
あの、樹木に寄生し蔦を絡ませるあれだろうか。僕が首を傾げると、アントルはまた申し訳なさそうに眉の部分を顰める。
「ああ、すまん、また」
「いえ、意味がよくわからないので……」
だが、反応的に薄らとわかる。『森人』と同じく、何らかの差別用語なのだろう。犯罪者という可能性もあるが。
「そこら辺の意味は、あとで詳しく教えて頂きたいです」
異文化交流の始まりは知るところからだろう。それをあとで聞きたい。
「でもそれよりまずは……」
目の前の門は高さが五メートルほどだろうか。開放されており、向こうの草原がよく見える。
その門の両脇には大きな犬が二頭……二人か? 立っており、その手で器用に槍を持っている。
問題は、その二人の槍が交差し、道を塞いでいること。
「何であの二人が僕を睨んでいるのか、教えてもらえませんか?」
そして鋭い目で、僕のほうを睨んでいることだった。




