爆走
ひとしきり笑って、ようやくアントルの呼吸が整う。
それからまた看板の二人を見上げて噴き出すと、半笑いのまま僕に顔を向けた。
「しかしよお、カラス、これで済ますんか? 殺されかけたんだぜ? お前」
「殺されかけた、といっても実質何もされてませんし、その辺はもう不問でいいでしょう。これは実質、安眠を妨害された仕返しってとこです」
朝食をとったときには、もうどうでもよくなっていた。
これまで殺された人のために何かするというのも、お門違いだと思った。
安眠妨害の仕返し、僕の動機としてはその程度が妥当だろう。
それに、これが軽い仕返しだとも思ってはいない。
「まー、俺は何にもされちゃいねえからなんとも言わんが……。これだけじゃ、宿屋への仕返しって感じもしねえがな」
「信用第一の宿屋でこんなことが起きれば、潰れてもおかしくはないと思いますよ」
そう言ってから、僕は周囲を見渡す。もうすでに、人だかりになっていた。
「あとはこれを見たこの人たちが、面白おかしく周囲に言いふらせばもうそれで危ない」
「……風評被害ってやつか」
僕は頷く。根も葉もない噂であっても、皆が口を揃えて言えば真実となる。鶏肉が烏肉になったように。昔、正義感溢れる若者が、性犯罪者になったように。
「あの宿屋に泊まると、物が盗まれるという話を聞いた。そんな話を伝播していけば、どこかで噂は変化します。あの宿屋に泊まると、物が盗まれる。あの宿屋に泊まると、物が強奪される。あの宿屋に泊まると、荷物が奪われ宿泊客は売り飛ばされる。どう変わるのか。それは予測しきれませんが、絶対に変わっていきます」
語り手も変わっていくだろう。そういうメッセージとともに人が吊されていた、から始まり、誰かが被害にあった話を聞いた、友達の友達が被害にあった、そして自分が被害にあったなどという話まであってもおかしくはない。
噂とはそういうものだ。無責任で、制御しがたい。人がそれを面白いと思う限り、消えることはないだろう。
今隣で笑い転げていた、アントルの反応からしてもそう思う。
仮にこの件にアントルは関わりがなかったとしても、あれだけ笑っていたのだ。ふとしたときに、笑い話として誰かに話すだろう。
同じように、今周りにいる群衆も、きっと。
僕は振り返る。アントルを巻き込んだ透明化魔法が切れぬよう気を付けながら歩き出す。
「さ、行きましょう。この宿屋や看板がどうなろうと、あとは僕らには関係ありません」
「お、おう」
やりたいことはやった。あとは、成り行きに任せればいいだろう。
「殺されそうになったのにこれだけで済ますのかと思ったけど、そう言われて考えてみりゃ結構キツいことすんなぁ、お前」
「キツいでしょうか? 再起の機会まで与えてるのに」
噂に負けずに踏ん張れば、いつか笑い話に出来るかも知れない。それは温情というのではないだろうか。
振り返らずに答えると、アントルの足が止まる。僕がそちらを見れば、蹄で器用に首の後ろを掻きながら、ぼやくようにアントルは呟いた。
「……お前、いい奴か悪い奴かわかんねえな」
その言葉に、内心噴き出しながら、僕は答える。その答えなら、もうとうに出ている。
「僕はどっちでもないらしいです。ただの、勝手な奴ですよ」
「ガハハ! 違えねえ!」
それから並んで歩き、街を出て、南の街道に出る。これから走っていく気だが、アントルは付いてこれるだろうか? そう思って隣を見れば、アントルは四つん這いになって後ろ足で地面を蹴っていた。
「ガハハハ! 行くぞ、カラス! 俺様の速さについてこれるかな!?」
「……はい、ええと、多分」
僕の答えを聞いて、楽しそうに前を睨んで笑うアントルの体毛が変化する。焦茶だった毛皮に黄色が混ざり、それから光を放つように黄金色になる。これが、勇者の英雄譚に出てきた<動山>の魔法だろうか。
「おお、自信満々だな! いいぞいいぞ、若え奴はそうじゃなきゃなぁ! じゃあ、行くぜぇ!!」
そこから僕の反応を待たずに、アントルは走り出す。初速からトップスピード、そんな感じの加速だ。ヒュン、という軽い音が一瞬鳴り、それからドドドという地響きが飛んでいく。
あっという間に後ろ姿が米粒のような大きさになる頃、呆気にとられていた僕はようやく正気に戻る。そして、出遅れたことに気がついた。
「……一緒に行くかって言ったの誰だろうなぁ……」
思わずそう口に出してから、走り出す。地面の蹄の跡を辿りながら、一路南を目指す。
アントルの速さ自体はそれほどでもないらしく、すぐに追いついた。走っているときに後ろに現れる金の光は綺麗だが、そんなことはどうでもよろしい。
「アントルさん、アントルさん」
「お?」
僕が呼びかけると、アントルは目だけこちらに向ける。置いていったことにすら気がついていないようだ。だがそれも、今はどうでもいい。それよりも。
「何でぇ?」
「足元、酷いことになってます!」
アントルの走る蹄の跡、それは全て強い衝撃を与えられ、何かが炸裂したかのような大きな穴になっていた。それも、全て僕の足がスッポリと収まるくらいの。歩く分には問題は少ないと思うが、馬車などは難儀するだろう道になってしまっている。
「おお、……ガハハ、気にすんな! 勝手にどうにかなるもんよ!」
「えぇ…………」
笑い飛ばすアントル。だが、舗装された砂利道が勝手になんとかなるわけがない。何処かが負担して直していくのだろう。
それに、被害を受けているのは道だけではない。
「ダラ!!」
アントルの気合いの籠もった声が響く。その次の瞬間、曲がりくねった道の脇に生えていた木の幹が弾けた。いや、違う。アントルが衝突したのだ。そして、穴を開けながら通過していった。
……蛇行している道を無視して直進しているのだ。後ろを見れば、森だった場所の木々が倒れて、ハッキリとした道が出来ている。
地形まで変えるのはやり過ぎだろう。幹までは治せないが、倒れた木々を起こし、地面の形を軽く整えながらアントルに追従していく。軽い気持ちで道連れを承諾したが、これは失敗だっただろうか。僕の負担が増えている。
「アントルさん、一旦止まりましょう」
「ノッて来たところだぜぇ! まだまだぁ!!」
僕の言葉を無視して、アントルはスピードを上げる。レシッドには少し及ばないものの、既にかなりの速さだ。そしてそれに伴い被害が増えていく。
溜め息を吐いて、念動力を使う。
戦う気はないが、これは止めなければいけないだろう。アントルをふわりと持ち上げ、その勢いを殺す。二,三度気付かずに空を蹴ったアントルは、ようやく気がついたようで僕に抗議の視線を向けた。
「あ、おま、何すんだよ!!」
「もう少し、道に優しく走りましょうよ」
禁じる人がいないからといって、人に迷惑を掛けていいわけではない。道にも森にも優しくないその走り方は、今はやめるべきだろう。僕が後ろを指差すと、アントルは反駁する。
「もっと速く走らねえと、俺の立つ瀬がねえだろが!」
「……充分じゃないでしょうか?」
普通の猪よりは大分速い。きっとこのペースなら、日没までにミーティアに着けるだろう。だが、アントルは納得がいかないらしい。
「だ、だってよぉ……」
眉を寄せるように、アントルは表情を歪める。そして少し身をくねらせて小さな声になった。
「お前だって、簡単についてこれてんじゃねえか。まだこれじゃ遅えんだよ」
「そんなことですか……」
というか、僕を振り切るために走っていたのか。
……だから、誘ったのはどっちだ。僕は内心頭を抱えた。




