柔らかい握手
宿の女将さんらしい女性は、僕の差し出した銀貨を見て笑顔を強めた。
そして部屋割りが書かれている紙をチラリと見て、一つ頷いてから僕に部屋を告げる。
「はいな、では二階の奥から二つ目の部屋で……」
「あー、そこじゃなくて、一番奥の部屋にしてやんなよ」
だが、そこに誰かが口を挟んだ。声の方を見れば、厨房から顔を覗かせた男性がそれを発していた。
「あんた、でも……」
「いいから。二つ目の部屋はまだ掃除が済んでいないんだ。へへ、すみませんね、一番奥の部屋でお願いします」
女将さんの抗議に軽い口調で異を唱えると、男性は僕の方を見て変更した部屋を口にした。僕の方で異論は無いので、頷いて答えると女将さんはやや溜め息を吐いて申し訳なさそうに会釈しながら僕に告げる。
「では、すみません。一番奥の部屋を使ってくださいな」
「わかりました」
そして宿帳に記名し、チェックアウトの時間や食事についての注意を聞いて、僕は割り当てられた部屋へ向かった。
ライプニッツ領で何度か宿には泊まっているが、どこも部屋は狭い。
そしてどこも四畳半ほどの部屋に藁で作られたベッドがデンと置かれて、後は小さな家具があったり無かったりだ。ちなみに今日の宿にはベッドしか置いていなかった。
木の床は使い込まれているのだろうか。汚れを落とすために削ったような跡がそこら中にあり、そして壁も頻繁に塗り直されているのだろう、目の大きな迷彩模様のように白や灰色の場所が混じっていた。
適当に荷物を降ろし、横になる。
藁のベッドはガサガサと音がして、正直寝心地はあまり良くない。今日はいつもの宿よりも少し値段は高かったが、何処もそれは変わらないらしい。
それから荷物の点検をして、持っている薬品や装備の確認をして夕ご飯までの時間を過ごす。
やがてチーズを焦がしたような匂いが漂ってきた。食事の時間だ。僕は背嚢を担いで下に向かう。この部屋は掛け金をクルリと回して施錠するしかなく、しかも外から施錠することは出来ない。荷物を置いていくのは不用心だろう。結局部屋の中には何一つ荷物を残すことなく、チェックインしたときとほぼ変わらない様子の部屋を背にして軋む階段を降りていった。
「ほいよ、簡単な料理しか無いが、おかわりなら出来るからね! 好きなだけしとくれよ!」
威勢のいい声とともに、厨房の受け取り口で皿が出される。茹でた芋に溶けたチーズがどろりと乗せられ、そこにたっぷりの胡椒がかかっている。
……個人的な考えだが、濃厚なチーズとジャガイモの組み合わせは、数ある食材の組み合わせの中でも最上級に近いと思う。ライプニッツ領の料理の中で、これが一番気に入っていた。
そして、付け合わせのように盛られたマカロニもこれまたチーズで和えられており、そこにリンゴのソースがかかっている。
レパートリーは少ないが、それでもその料理をお腹いっぱい食べられるのであれば文句は無い。ついでにもう一皿もらってから空いている席を探す。といっても、そんなに人気がある宿ではないのか二十席ほどあるテーブルの半分ほどしか埋まっていなかったが。
そのチーズ料理に舌鼓を打ちながら、明日は一気にミーティアまで行ってしまおうか、などと簡単な予定を立てていると視界の端に大きな影が見えた。
反射的にそちらに目を向ける。
するとそこでは、ちょうど夕方見かけた猪がとなりのテーブルに腰掛けるところだった。
その巨体は、僕が見上げるほどだから百八十センチメートル以上あるだろう。それに伴い体重もあるようで、ドスンと腰掛けた椅子が悲鳴を上げる。前足……と言っていいのかわからないが、前足の蹄は柔らかくなっていて物が掴めるようになっているようで、それを使って器用に匙を持つ。
猪がフイに顔を上げる。そんな姿をボーっと見ていた僕は、その猪と目が合い一瞬ドキリとした。
「……坊主。何じろじろ見てやがんだぁ?」
「ああ、すいません」
驚くほど明瞭な発音で、文句を言われる。そういえば、かなりの長い間観察していた。結構な失礼をしていた気がする。
「あったく、森人どもぁいつもそうだ。物珍しそうに俺らを見やがって」
「すいません。物知らずなもので」
とりあえず謝罪をする。猪の方はそれで済んだらしく、フォークを使ってジャガイモを口に運んでいった。
「あの、失礼ついでに一つお聞きしてもいいですか?」
「ああ? んだよ?」
「森人、って何です?」
「……ああ、悪かったな。ついつい口に出しちまうんだよ」
……猪の方からそう謝罪されるが、僕は一切意味がわかっていない。首を傾げていると、猪の毛深い眉間に皺が寄った気がする。
「……本当に知らなかっただけか?」
「ええ。申し訳ありませんが、どういう意味なんです?」
意味を聞いただけで、謝罪された。それが口に出してはいけない言葉だということはわかったが、僕は別にそれを咎めたいわけじゃない。
「……ライプニッツや、エッセンに住んでるお前等みたいな人間のことだよ。獣神様の末裔じゃねえお前等のことだ……一応言わねえようにはしてんだがなぁ……」
そうぼやき、蹄で器用に頭を掻く。話を聞くに、差別用語なのだろう。それを知らない僕は、言われたところで何も思わないが。
反省しているように耳をヘニョッとさせる猪に、僕も一応申し訳なさそうな顔を作る。発端は僕だし、彼はそんな反省をすることは無いだろう。
「そんな言葉自体初めて聞いたので、気にしないで結構です。……ですけど、そうですね。先程の僕の失礼もありますし、何も無かったということでどうでしょう」
「ああ、いいだろう。だが、知り合ってはいるな! 改めて挨拶しとくぜ、俺ぁアントルってんだ。アントル・スコッチ。ここで知り合ったのも何かの縁だしな、名前だけでも覚えといてくれや」
笑顔のような表情を作るアントル。……喋る直立歩行の猪。例え名前を忘れても、その存在は覚えているだろう。今のところはそれくらい強烈な印象だ。
「アントルさんですね。僕はカラスといいます」
差し出された手に応えて、僕も右手を差し出しその手を握る。
握手をしたその蹄は、ぷにぷにとして柔らかかった。




