もしも魔法が使えたら
無力な赤ん坊になり、目を覚ますと父親がいなくなっていた。その上僕は今、どこかの森の中にいるらしい。一言で言うと、大ピンチである。
しかもお腹が空いている。普通であれば、産まれた直後の赤ん坊であれば、母乳を飲めば良い。近くにいるはずの母親が与えてくれるのだろう。
しかし今の僕には庇護者はなく、そして自分で動くことも難しい。唯一先ほどから気を操作できるようになったという前進はあるものの、使えばまた意識を失う。
困った。これでは生きていけない。
そこに思い至ると、ここまで考えないようにしていた考えが首をもたげた。
もしかして、自分は捨てられたのではないか。
もしかして、僕は死なせるためにこの森へと運ばれてきたのではないだろうか。
……それならば大変だ。
食料はどうすれば良い? 住処は? ここは危なくないのだろうか? それよりもまず、何をすれば良いのか?
頭の中で、これからとるべき行動についてリストアップされる。急がなくてはいけない。とりあえずは生きていかなくてはならないのだ。
顔も名前も知らない両親については、正直どうでもよかった。
兎にも角にも、まずは食糧確保である。
先ほど”気”について思いついたことがあった。
気を広げて物を触ることで物の感触がわかるのならば、物に気の感触を与えることもできるのではないか。
つまり、物を気で触り、動かすことができるのではないか。不可視なものを使い、離れた場所に作用を起こす。いわゆる念動力と呼ばれる現象。そんなことも起こせるのではないだろうか?
思いついたら躊躇すべきではない。やってみるべきである。
とりあえずの目標は、ちょうど真上辺りになっている赤い果実だ。食べられるかどうかわからないが、なにか食べなければどうせ死ぬ。
僕は手を伸ばし、グイッと気を伸ばすと赤い実にそれをまとわりつかせた。つるつるした表面を握るように力を込めると、意外と簡単に赤い実は落ちてきた。
ただし、僕をめがけて。
「のう……!?」
思わず短く叫んで身をよじるが、避けることはできずにお腹に直撃する。
痛い。
ものすごく痛い。
筋肉がないからか、内臓に直接響くような痛みを受けて酷く悶える。骨に異常はないだろうか。それよりも内臓は……。
激痛はまだ治まらない。しかしそれでも、初めての収穫に僕の頬は緩むのだった。
そして、ここでまた問題がおきる。赤い実を食べようと思ったは良いが、今の僕には歯が立たなかった。
なぜかといえば、文字通り歯がないのだ。
しようがないので、気で砕いて口の中に流し込む。口の中に流れ込んだ砕けた果肉と果汁を味わう。リンゴの甘みを半分にして、酸味を三倍くらいにしたような味だ。少なくとも即効性の毒ではなさそうなので、このまま食べ切る。が、正直不味い。耳の下辺りの筋肉が収縮した。
赤ん坊の胃の容量はやはり小さいらしい。果実一つで満腹に近い。僕は眉を顰めながら、この世界で初めての食事を終えたのだった。
お腹が満たされると、次のことを考えなくてはならない。
これからどうするべきか、である。
生きていくために必要な衣食住が、今の僕には何もない。
食べ物は、木の実を採ればいけるかもしれない。しかし、気が届く範囲にはもう片手で数えられる程度しか生っていない。
衣類はいま身に着けている布しかない。しばらくは大丈夫だろうが、体が大きくなれば足りなくなるだろう。なにより、使い続けて汚れた物は嫌だ。
そして住むところだ。雨風に晒され続けるのは嫌だし、ずっとこの木箱の中にいる訳にもいくまい。
それらを考えると、まず移動手段が必要だ。食と住に関しては、それで何とかなるかもしれない。まずはハイハイ……だろうか?
だが、まだ生まれてたぶん一日も経っていない。筋肉も何もない。もぞもぞと手足を動かすが、結局動くことはできなかった。
困った。
結局また、僕は気に頼ることにする。
体を気で覆い、芋虫のように移動する。体ではなく木箱ごと覆えば、木箱も一緒に動くことができた。
懸命に移動し、木の陰に落ち着けたので、とりあえずはこれで良しとしよう。
少しまた眠くなってきた。。そう思った途端、僕の意識は無くなった。
短い間寝ていたらしい。
幾分かスッキリした頭で、次に何をするか考える。
頼りないとはいえ、移動手段は手に入れた。これで、雨風はしのげる……と思う。食料もしばらくは大丈夫そうだ。衣食住のうち、食住は何とかなりそうというところか。では最後に、服についてだ。この布一枚では心細い。
しかし、さすがに布は手に入ると思えない。糸を入手し、織り上げて縫製する。そんな工程は、今の状況では不可能だろう。森の中で機織り機を自作した日本兵のニュースを聞いた覚えがあるが、それともまた事情が違うし、僕にそんな技能はない。
布を作ることはできない。ならば、布の代わりを見つける? 葉っぱを纏ってそれで凌ぐか。しかし、それでいつまで持つだろうか。
今だけならば良い、乳児である今ならば。だが、成長したらどうだろう。それなりの体格に腰簑のみ。森の中だけならば構わないだろうが、村や町などの人の中では確実に浮くだろう。わずかな記憶だが、両親はしっかりとした服を着ていたように思う。
そこまで考えたときに、視線を感じた。なにか、こちらを窺う気配がある気がする。
反射的に気を広げる。木々の間に、それはいた。
犬だ。
知っている普通の犬より多少大きく、体長は立っている大人より少し小さいほどだろうか。茶色く短い毛に覆われ、野生らしい筋肉に覆われている。
それが、荒い息と垂れる涎を隠そうともせずにこちらを窺っている。はっきりとはわからないが、その後ろにまだ数匹いるようだ。
まずい。まだ自衛の力も持たず、小さく柔らかい自分は格好の餌だろう。
体が緊張する。せめて声を上げようとするも、喘ぐだけしかできない。
今はまだ警戒しているから襲ってこないのだろうが、じきにこちらに襲い掛かってくるだろう。
まずい。抵抗する術は、なにか、なにかないか。反撃する手段はなにか……。
考えを巡らせているうちに、向こうが動いた。こちらが何もできないと判断したようで、ゆっくりと歩いてくる。一、二、三匹。やはり後ろに二匹いた。
どうする。こちらには何もない。もとより対抗できるとは思えないが、緊張からだろう、手足は動かせない。気で叩いて追い払う? いや、効くとは思えない。体を動かすことができるとはいえ、そんな力で衝撃を起こすだけでは驚かす程度がせいぜいだ。
待てよ? 驚いて逃げてくれれば良いのか。
一番偉いのは、一番前の犬だろうか。僕はその犬の目と鼻をめがけて、気を動かす。デコピン程度であろうが、驚けば良い。
キャイン、と意外とかわいらしい声をあげて犬が後ろに跳ぶ。後の二匹もそれに合わせるように後ろに下がる。成功か。
こちらを見て犬が唸る。自分より小さい、ただの肉としか思ってなかった存在に抵抗されたのが気に入らないのか、威嚇をやめない。
もう一度、今度は三匹ともに両目に衝撃を与える。また少し後ろに跳んだ。
明らかな抵抗に犬たちも警戒レベルを上げたのか、少しずつ後退さっていく。そうして、木々の間に身を隠した。
明らかな脅威が眼前からは消えた。その事実に少しほっとするも、まだ終わっていない。木々の間から、まだ犬がこちらを見ている。
まだ狙われている。しかし、どうしたものか。現状、これ以上の抵抗ができない。どうやって追い払えば良いのか。
当然というかおそらく、前世では犬に襲われた経験などないだろう。見当もつかない。
どうするのか、依然危機は去っていないのだ。こうしている間にも、犬が襲い掛かってくるかもしれない。僕の命は今、風前の灯火だ。
風前の灯火? そうだ、火だ。野生動物は火を使えば追い払えるかもしれない!
そう考えたところでまた壁に突き当たる。
火などどうやって起こせば良いのか。木をこすり合わせようにも、そんな精密な動作はできそうにない。ライターやマッチなど、そんな物はない。今雷が目の前に落ちてくれれば、山火事でも起きれば火が手に入るだろう。勿論、そんなこと都合の良いことはありえないが。
……現実逃避している場合じゃない。しかし、手の打ちようがない。
生まれてまだそう時間も経ってないのに、もう死ぬのか。また、なのか初めてなのかはわからないが、死ぬのか。
なぜか、命への執着はあまりなかった。まだあまり生きていないからなのか、前世も含め、もう充分生きたからなのか。それはわからない。
犬がまた近づいてきた。
牙をはっきりと見せて、唸り声をあげながら、ゆっくりと歩いてくる。
とりあえず、また目へと攻撃する。しかし、今度は反応が違った。
確かに当たった。しかし、犬は少し仰け反るが、歩みを止めずに近づいてくる。その攻撃が危険ではないことを知ってしまったのだろう。
落胆に目を瞑る。
ああ、これは駄目だ。もはや駄目だ。
もう僕にできることは、せめて苦しまずに死ねるように祈ることだけだ。
あの牙は、痛いだろうか。まず食いつくのはリーダーだろう、先頭の犬だ。僕のお腹を突き破って、胃や腸を引きずり出し、血を溢れさせながら噛み砕く。そしてにちゃにちゃと血を噛みながら、残りの肉塊を後ろの二匹に下賜するのだ。
なぜだろう。その得意げな顔を想像すると、無性に腹が立ってきた。食われるのは仕方ないだろう。けれどあの犬に、最後の一刺しがしたい。なにか、あの犬に傷跡を残したい。
目を開け、懸命に首を動かし顔を犬に向ける。何もできないながら、僕は犬を睨み付ける。どうにかして痛い思いをさせたい。抵抗する手段はない。しかし、何も考えずにはいられなかった。
せめて最期の抵抗だ。気を細くして耳に突っ込む。鼓膜まで届く前に、犬は頭を振って避ける。喉の奥に大きな塊を作る。なにかむせたような咳をしただけだ。刃物のように鋭く尖らせた気で、突き刺す。けれど、犬の毛皮には勝てなかった。
犬が近づく。もう、爪が届く。匂いまで感じられる。もう、最期なのか。
涙が出てくる。執着がないなんて嘘だ。諦めなんか決してつかない。
万策尽きた。
でも、心の中では罵り続ける。
死ね、お前なんて死んでしまえ。なにか、なにか起きて死んでしまえ! 頭を打って死ね! 溺れて死ね! 火達磨になって死ね!
それは突然だった。
火達磨になれば良いと思った。その次の瞬間、本当に、火が付いたのだ。
ボワッという音とともに、犬の目の前に火の玉が現れた。それは野球ボールほどの大きさだったが、少しの熱気と光が感じられた。一瞬で消えたが、それは確かに火の玉だった。
犬が驚いて飛び上がる。そして、こちらを何度か振り返ると、足早に森の中に消えていった。今度は本当に、遠くまで逃げたらしい。
僕は呆気にとられながらも、その後ろ姿を感じ取る。無意識に溜息を吐いた。
何が起きたのかはわからないが、ひとまずの危機は去った。
安心は勿論まだできない。しかし、疲労感が体を包む。僕はまた、意識を失った。