街から消える日
予想に反してというのは失礼なことだとは思うが、予想に反して依頼は片付いていった。
遺品の回収、細かい魔物の駆除、殺し方まで指定されている魔物の素材収集など。オトフシとレシッドの助力もあってか、半月ほどでほぼ全てが片付いていた。
オルガさんにとってもそれは嬉しい悲鳴を上げる出来事のようで、日ごと減っていく書類の束から、何枚かずつ書類を僕らに渡す度にオルガさんの顔も明るくなっていく。
それにつれて、溜め息も増えていったように見えたのは、僕の期待が見せた幻だろう。
ともかく、そういった具合に、僕の旅立ちへの障害は消えていった。
「……あとは、挨拶回りでもしようかな」
障害は消え去り、もう旅立ちも目前。準備が終わり次第、目的地も無い旅に出ようかと思う頃。朝目を覚ました僕は、唐突にそう思った。
別に今生の別れでもない。気に入らなければ数日で帰ってきてもおかしくないほど、何も考えていない旅。挨拶回りも何もいらないだろう。そうは思うのだが、何故か僕は挨拶回りを思いついた。
そんなことをしてしまえば、容易に帰ってくることも出来なくなるだろうに。いや恐らく、それを狙っているのだろう。意志の弱い僕を縛るために、僕自身が考えた縄。きっと無意識に、そういったものが必要だと思っていたのだ。
誰にする必要があるだろう。
グスタフさん? この街で一番世話になっていて、そういった事であれば一番に知らせるべき人、そうは思う。だが仮に挨拶をして、すぐに帰ってきたとしてもグスタフさんは何も言わないだろう。必要ではあるが、縄として使うのであれば他の人だ。
オルガさんにはもう言ってある。レシッドにも、オトフシにも。
困った。挨拶に回ろうにも、回る先が無い。
仕方ない。溜め息を吐いて考えを打ち切る。……結局、僕の意思次第なのだ。すぐに帰ってくるか、それとも長い間各地を回る旅になるのか。案外何処かに定住してしまうかもしれないが、それもその時の僕次第だろう。
人に頼りきりじゃいけない。そろそろ、一人で立ち上がるべきなのだ。
今の僕には動く足がある。自分で立てるはずだ。思えば、開拓村ではフラウに、この街ではグスタフさんに、クラリセンではレイトンに、護衛任務ではオトフシに、そうやって皆に助けられてきた。もうそろそろ、自分の意思決定まで人に委ねるのはやめるべきだろう。
僕はもう十歳だ。あと五年もすれば、この国では成人だ。それまでは子供、そう思ってはいたが、成人になれば突然大人になるわけではないだろう。一歩ずつ、階段を踏みしめるように成長していかなければ。
そうだ。全て、自分で決めなければいけないのだ。
皆に依存せず、ここを出ていこう。姿を消して突然この街に現れたように、今回も突然姿を消そう。それぐらいできっと、ちょうどいい。
決意した。ならば、すぐに行動しなければ。
いつものローブを羽織る。いつものように荷物を持ち、そしていつものように扉を開ける。
黄色がかった朝日が眩しい。その光に目を細めながら、扉の鍵を閉める。
この扉の鍵がいつ開かれるかはわからない。だが、開くときは僕の意思だ。僕はそう決めた。
石畳を踏みながら、しばらくは使われない鍵を指先でクルクル回して、とりあえず僕は東に向かった。
貧民街、懐かしい。ここからこの街の生活が始まったのだ。瓦礫が散らばり、屋内のはずなのに雨ざらしの部屋。イラインの中で、砂利や土が露出している数少ない場所。
その街の一角、ひび割れた看板の商店はいつも通り、朝早くなのにもう人の気配がしていた。
「おはようございます」
扉を開き、カウンターに肘をついて来客を見ていた老人。グスタフさんに、僕は明るく声を掛ける。
珍しいものを見たかのように、グスタフさんは眉を上げた。
「おう。どうした?」
相変わらず、前置きも無しに用件を尋ねる。その様は本当にいつものグスタフさんで、何だか少し嬉しくなった。僕はグスタフさんの前に歩み寄ると、ローブのポケットを探りながら答えた。
「一つお願いがありまして」
「わかった」
返答が早い。僕は何も出していないし、詳しい用件を話してもいないのに。話が早いのはいいが、僕なら絶対にしないであろう反応だった。何でもする店ではあるが、少しは選り好みしても良いと思う。
「これを、預かっていてほしいんです」
カチャリと鍵をカウンターに置く。僕の、家の鍵だった。グスタフさんはそれをつまみ上げ、片目で眺める。
「こいつを預かれって……、何の鍵だ?」
「僕が生活していた家の鍵です。グスタフさんに手に入れてもらった、三番街の」
「……そうか」
僕が答えると、それだけ言ってグスタフさんはその鍵を戸棚に仕舞った。これは、その理由を察しているのだろうか、それとも興味が無いのだろうか。微妙な反応だ。
代金を請求されると思い、僕は背嚢の中からコインの山を掴み出す。だが、グスタフさんはその仕草を見ても反応しない。ただじっと、僕の顔を見つめていた。
そして瞬きを何度か繰り返し、それからゆっくりと口を開く。
「まあ、なんだ。身体に気を付けてな」
「……気がついてましたか」
「当たり前だろう。予測はしていたさ。むしろ、遅いくらいだと思ってたな」
黄色い歯を見せて、グスタフさんは笑う。主語も目的語も無いが、それでも言っている意味はわかる。
グスタフさんは、気付いていた。僕が旅に出ようとしていることを。
僕は目を閉じ息を吐く。ならば、もう他の挨拶もいらない。
「いつぐらいまでだ?」
「決めてませんので、これを僕が受け取りに来るまで、ですかね」
グスタフさん相手ならば意地を張る必要も無い。素直に、そう言うだけでいい。
「わかった。ちゃんと取りに来いよ」
「わかりました」
皺の増えた顔。その皺を深くして、グスタフさんは表情を作る。
「では、行ってきます」
僕が頭を下げると、グスタフさんは満足げに溜め息を吐きながら何度も頷いていた。
簡単な挨拶だ。だが、終わった。後は姿を消すだけだ。
貧民街から出る者を、見咎める者などいない。検問も無く、ただ歩いて出るだけで街を出て行ける。砂利の足音も消え、絡まった木の根を踏み始めた頃には、もう僕は街を出ていた。
仕事で必要になったからでもなく、追われてでもなく、初めて僕は旅に出る。
足が向いた方向だ。とりあえず、ネルグの南方面、そちらに行ってみようか。
時間が経ち、朝日ではなくなった太陽。その光で作られた影は今、たしかに僕の足下に着いてきていた。