狼ではない
会計を済ませ、オルガさんとは別の道を選ぶ。別に同じ道で帰れなくもないが、その気はお互い無いらしい。それは特に理由があるわけではない。ただ単に、気まずいのだ
「それでは、カラス様。明日もまた、お会いしましょう」
「はい。また、明日」
明日になれば、またギルドの受付嬢と探索者として会うことになる。
……何事もなく、その関係が続けられるのだろうか。オルガさんはともかく、僕の方が平常に対応出来るかどうかはわからない。態度に出さずに、顔に出さずに、いつも通りに接することが、僕に出来るだろうか。
行かない、という選択肢もあるにはある。逃げ出し、もう会わないように違う街のギルドを使う。もう会わないように、イラインを出ていく。
自分の言葉の責任を、自分で取れないのが情けないとは思う。けれど僕の頭は、旅に出るという行為の理由に、多分それを追加していた。
軽く頭を下げ、貸衣装屋に行こうと歩き出す。
そして数歩、歩き始めた所で、抵抗を感じた。クイと後ろに引っ張られるように、外套の肩の辺りの生地が伸ばされる。
振り返れば、オルガさんが外套の裾を掴んでいた。
俯いたオルガさんは一瞬黙り、そして薄く笑いながら口を開いた。
「……また明日、お会い出来ますよね?」
「それは……」
勿論、と僕は即答出来なかった。儀礼のような挨拶ではない。明日の行動を尋ねる質問。軽く肯定すればいいのに、僕の口は凍り付いたように動かなかった。
「嫌ですよ、これきりカラス様がギルドに顔を出さなくなる、など」
それからオルガさんは顔を上げ、微笑みを僕に向けた。子供をあやすときのような、懇願するような微笑み。
「……はい、また明日、必ず」
僕は目を合せられずに顔を伏せる。……明日は必ず行く。けれどもその先は……。
そうだ、その先のことを話さなければ。
僕の心に義務感が湧く。僕は旅に出る。けれどもそれはオルガさんとは関係なく、決めていたことだ。
ここで僕が姿を消せば、オルガさんは自分の行動の結果と思ってしまうかもしれない。オルガさんに、非は一切無いのに。
拳を握り締め、顔を上げる。
「すいません、やはり夜道は物騒です。貸衣装屋に付き合って頂けませんか? 送っていきます」
真っ直ぐにオルガさんを見れば、どちらだろうか。困惑しているような、落ち込んでいるような、複雑な表情をしていた。
貸衣装屋で服を元に戻すまで、気の利いた会話も出来ずに夜道を歩いた。
街灯頼りの夜道は当然薄暗い。それに加えて、点けられた時から大分経っている。燃料の補給もなく、やや街灯は暗くなりつつあるように見えた。
元に戻った服装。その、目の粗いローブを撫でる。先程まで身に付けていたマントのような、滑らかな感触はそこには無い。
その感触に安心しながら、僕は横を歩くオルガさんに向けて口を開いた。
「実は、以前から計画……というには大ざっぱなんですが、計画があったんです」
「計画、ですか?」
「はい。旅に出て、見聞を広めようという計画です」
「旅……」
オルガさんが立ち止まる。
その顔は、凍り付いたように固まっていた。
僕はそれを振り返り、出来るだけ笑顔で言う。
「いつからかも決めていませんでしたが、オトフシさんと約束していた今日の食事会。それが終わったら、軽く準備をして出て行こうと、そういう計画でした」
肩にはらりと落ちた一房の髪の毛を、オルガさんは掻き上げる。その手は、震えて見えた。
「だから、オルガさんがギルドをやめるよりも先に、僕は出発します。……それだけ、伝えておかなければと思いまして」
「……優しいようで、そうでもない言葉ですね」
オルガさんは笑う。乾いた笑いに、僕の胸が痛んだ。
「でしたら、もうギルドには来ないと?」
「いいえ、行きます。それは今決めました」
僕はそうキッパリという。今度は口ごもりもしない。本当に、今決めた。そうだ、立つ鳥跡を濁さずというが、出来るだけ水を綺麗にしてから飛び立つのもいいだろう。
「準備はします。その準備の一環として、お金を稼がなければ」
「……その仕事の斡旋を、私に協力しろなどと言うのですか」
オルガさんも流石に嫌そうに顔を歪める。というよりも、嫌がってくれて嬉しい、と思うべきだろうか。
「いいえ。僕に、協力させてほしいんです」
だが、僕はオルガさんのために、この提案をするのだ。
「オトフシさん任せにしていたあの仕事、全て引き受けましょう。全て終わらせてから、旅支度をしようと思います」
朝の愚痴とて嘘ではないだろう。それでオルガさんの気が楽になるのであれば、それを片付けるくらいはしよう。少しだけ大変だろうが、出発の日も決めていなかったのだ。それくらい、旅は後回しにしても構わないだろう。
「……百件近くありますよ?」
目を細め、オルガさんが確認するように尋ねる。その言葉に少し動揺するも、それをなるべく表には出さぬように、胸を張って僕は答えた。
「一日三件受けていけば、一ヶ月で終わる量ですね」
一日三件も受けられるかはわからないが、それくらいの量だ。年内には終わるだろう……とは思うが、どうだろうか。
「フフフ、何ですか、それ」
特に可笑しな事は言っていないはずなのに、オルガさんは口に手を当てて笑う。目の端に少しだけ、涙が見えた。
「……一ヶ月で終わると思いますか?」
「さて、どうでしょう。もし仮に、依頼が増えていけば終わらないかもしれませんね」
そう、もしもオルガさんが僕に嫌がらせをしようと思えば、絶対に終わらないだろう。だが、振った男だ。好きなだけ甚振ってくれて構わない。整理がついたら、きっと終わるだろう。
「わかりました。明日から覚悟してくださいね」
「精一杯頑張らせて頂きます」
このオルガさんの微笑みが、嗜虐的なものではない事を祈る。
それから三番街を少し歩いて、細い間口のアパートのような建物の前でオルガさんが立ち止まる。そして、その建物を指差して言った。
「ここが私の家です」
「あ、はい。ではここでお別れですね」
今度こそお別れだ。もう道草は食えないし、こんな場所で立ち話もおかしなものだろう。
だが、オルガさんは建物を見上げて動かない。数秒動かずに固まり、そして顔だけ向けて僕を見た。
「……上がっていかれますか? お茶くらいお出ししますよ」
「こんな夜分に女性の家に行くのも悪いですし、遠慮します」
「そうですか。残念です」
僕が断ると、オルガさんは軽やかに階段を上がっていく。四階建てのように見えるが、階毎に部屋が分れているのだろうか。それとも入り口が一階に無いだけなのだろうか。その踊り場を曲がると、オルガさんは髪の毛を垂らしてヒョコッと顔を出した。
「ムジカルから取り寄せた、高価な花茶があるのですが……」
「是……!」
一瞬ご相伴に預かろうとした僕の足を全力で止める。咳払いして誤魔化すと、オルガさんはカラカラと笑った。
「フフ、まあ、いつでも歓迎致しますので、気が向いたらどうぞお訪ねください。この時間であれば、大抵おりますので」
「とても、魅力的ですが、遠慮します」
僕が拳を握り締めてそう宣言すると、会釈をし、今度こそオルガさんは踊り場の奥へと消えていった。
扉が開く音、閉じる音、そして足音が消え、しんと静まりかえる。
もう、隣に人はいない。足音も一つだけで、ただ月だけがついてくる。
見上げれば、その月は三日月で、僕を嗤っているように見えた。
家に戻り、ローブを脱ぎ捨てて横になる。
……疲れた。本当にそう思う。以前のような軽食ではない、一流のフルコース。見ている分には良かったが、自分で食べるとこうも疲れるのか。スプーンの上げ下げから口への運び方、そして手洗いや口を拭くまでのマナーの連続。これを日常的にこなしている一番街の住人は凄いと思う。そして、それと肩を並べられるほどに成長したルルも。
そして、それに加えての真面目な話。僕の将来、そして相手の将来にも関わる大事な話。
断わってよかったのか、本当に、受けなくてよかったのか。今でも少し悩んでいる。
しかし、適当な返事はしたくなかった。好きでもなく、会ったことも無い者と結婚するのが当たり前なこの世界の貴族たちの価値観をまだ理解は出来ない。僕は、好きな人と結婚したい。
オルガさんが嫌いとは言わない。というか、嫌いなわけがない。だが、結婚まで考えるかと言われるとそうでもない。
少なくとも今の僕は、オルガさんと結婚して幸せに出来る自信は無い。だからやはり、断わってよかったのだろう。難しく考えずとも良い。その話はきっと、それだけで終わりなのだ。
今生初めてと言っていいほど、真剣に人生について悩んだ夜だった。
精神的な疲れに、眠気はすぐにやってくる。着替えも明日の用意もせずに、投げ出した四肢の力が抜ける。目の前が暗くなり、瞼を閉じた実感すらないほど速やかに、僕は眠りに誘われていった。
そして、今日の食事会のせいだろう。
僕は、夢を見た。