旅をさせよと人はいう
「さて、あとは逃げるだけですね」
僕は半分お尋ね者だ。犯人と断定はされていないものの、このまま王都に留まっては嫌疑が強まる恐れも残っている。早々に王都を発ち、イラインへ、家へ帰ろう。
伸びをしながらそう言った僕に、オトフシは微笑んだ。
「妾は今夜は都にいる。お前とはここでお別れだ」
「それは……そうですね。では、またイラインでお会いしましょう」
僕と一緒にいてオトフシまで疑われては困る。僕の居場所を知らないはずのオトフシが、僕と一緒にいては不自然だ。誰かに見られては困るし、僕が姿を見せないのであれば、そもそも一緒にいる意味も無いだろう。
「今日は、本当にありがとうございました」
「フフン、なに、何度も言うが、あの家がどうにかなるのは妾の望むところでもないのだ」
目を瞑り、何でもないようにオトフシは笑う。それでも、恩は感じている。お礼は言っておきたかった。
では、これで別れようか。そう思い、僕が別れの挨拶を述べようとしたのと同時に、オトフシは目を開く。
そして口の端を歪めながら、何かに気がついたかのように頷いた。
「いや、そうだな。それほどまでに言うのであれば、今度お礼でもしてもらおうか」
「……やぶさかではありませんが、常識的な範囲でお願いします」
頼みぐらいは聞こう。そう思って僕が言葉を待つと、オトフシは、僕に容疑がかかったことを伝えたときの紙燕のような悪い笑顔をした。やっぱり本人もしていたのだろうか。
「簡単なことだよ。今度、一番街で食事でも奢ってもらおう。夕食をな!」
「……それくらい構いませんけど……」
「フフン、言ったな? 言ったな!?」
何だろう。その程度のことで、楽しそうに笑っている。もしかして、僕は不味いことを約束してしまったのだろうか。
「クク、どうするかな。あいつを楽しませてやるのもいいが、悔しがる顔も見てみたい……」
「……何をさせる気ですか?」
あいつ? 不穏な言葉が聞こえた。誰がどう楽しむのだろうか。
まさか。
僕は、恐る恐る尋ねる。
「誰か、お知り合いの経営している食堂でも……?」
その食堂で、料理の価格をつり上げ、僕の小遣いを吐き出させようとしている? まるでぼったくりバーのように。いや、そんな卑劣な真似を、する人ではない……と、思う……が……。
「何だその目は? ……ああ、なんだ。安心するがいい。良心的な価格設定の店で構わんよ。いっそ、お前が店を決めてもいい」
「安心出来ません……」
「しかし、お前も『構わない』と言ったのだ。よもや、前言を翻すわけではあるまい?」
拳を口に当て、クフクフと笑う。何か企んでいる顔だ、これ。
だが確かに僕は了承した。……諦めるしかあるまい。
「お手柔らかにお願いします」
「フフン、楽しみだな。予定はお前がイラインにいるときに追って知らせる。約束は守れよ」
「わかってますよ」
うわぁ……。何を奢らされるんだろう。
恩があろうとも、軽はずみな約束はするべきではない。これは、護衛の旅で学んだ一番大きな事かもしれない。
満足げに、オトフシは場を閉める。
「では、またイラインで会おう」
「……はい。ではまた……」
言葉と同時に、僕は姿を隠す。オトフシはそれを確認すると、身体の力を抜き宿へと足を向け歩き始めた。
ここで付いていっては、駄目だろう。
とりあえず、今日中に二つは街を越えたい。僕は門を越え、麦畑の中を森に向かって走り出した。
トットッと森の中を駆けながら、帰りの時間を計算する。
イラインから王都までの距離は約千五百里だった。僕が走ったとして、どれくらいの時間がかかるんだろう。
たしか、イラインからクラリセンまでが大体四百里で、そこを全力で走ったときは一時間くらいだったか。
……あれ? 単純に計算して、三時間四十五分で着く計算だ。
いやいや、あれは全力疾走だったから、そんなに長い距離は走れないだろう。それに休憩時間も必要だ。余裕を持って走っても……、五時間くらいで着くか……?
え? 五時間? そんなに短いのか。馬車で来たときは五日間かける予定だった距離が、たったの五時間?
思わず立ち止まる。流れていた景色が止まり、踏ん張った足下の地面が派手に削れた。
ふと温い空気を感じて空を見上げた。
月が綺麗だ。街と街を結ぶ街道の中間地点であるここは、周囲の灯りもなくて真っ暗になっている。
人の気配もなく、虫の声が小さく響いている。そろそろバッタの時期だろうか。折角、貴族の食卓を見る機会があったのだ。塩焼きだけではなく、今度は塩蒸しとかそういうものもやってみよう。
……現実逃避をしている場合ではない。
何だ。五日間の旅が、僕は五時間で済むのか。これならば、ルルとストナを乗せた駕籠を、僕が担いで運んだ方がよっぽど早く安全で済んだ気がする。
いや、駕籠で五時間はキツいから、そこは馬車でよかったか。
……しかし、思う。
「この世界って、こんなに狭いんだな……」
ポツリと呟いた言葉が暗闇に溶けていく。
それは、僕の移動能力のせいだろうか。それでも、副都から国の中央である王都まで、走って五時間。一日かければ、エッセン王国の反対側まで行けるかもしれない。
可愛い子には旅をさせよ。あの言葉は、社会の厳しさを体験させろという意味だったと思う。だが、その言葉の文字通り、旅に出て良かったかもしれない。
以前、生まれ育った村を出てイラインで暮らし始めて、随分と僕の世界は広がったと思った。
それからクラリセンへと頻繁に出かけて、千里があまり遠くないことを知った。
今回王都に出て、この世界の狭さを知った。
今まで僕のいた世界は、この狭い世界のほんの一部分だ。僕の世界は広がってなどいなかった。ただ狭苦しい範囲を塗りつぶしているように埋めているだけだったのだ。
今度、遠出してみよう。
隣の国や、聖領、色んな所に行ってみたい。
この狭い国だけを、僕の住む世界だと思っては勿体ない。
僕でも何日かかかる遠くまで。
オトフシとの約束を果たしたら、行ってみようかな。
追われてではない、義務でもない、初めての旅。何処へ行こうか。まだ決めてない。
とりあえず、イラインへ帰ろう。何処へ行くか決めるのは、出て行くときでいいだろう。
頬に当たる夜風が気持ちいい。
夕日が沈んでから、真夜中を越えて、朝方には、僕はイラインへと戻っていた。
「お帰りなさいませ。つつがなく済んだようで、何よりでした」
「ありがとうございます」
一眠りしてから向かったギルドでは、オルガさんが待っていた。護衛依頼終了についてはギルドを通じて知っていたのだろう。建物に入った僕の姿を認めると、僅かな微笑みを浮かべて会釈して声をかけてきた。
「オトフシ様より、今回の護衛任務も問題無く終了出来たと報告もありました。これで一応の適性審査は終了となります」
「それは良かったです」
ただ無事に終了したことを伝えられただけだ。なのに、何故か僕はホッとしていた。
「それにしても、何をしていらっしゃったんでしょう? 護衛終了から、もう二週間近く経っておりますが」
「王都が楽しくて、つい」
無難に答えておく。まさか、次期当主殺害のために何日も潜伏していたとは言えまい。
「まあ、この街とは随分と違いますからね」
オルガさんはそう答えたが、それでも表情は納得していない様子だった。
「仕方がないことかもしれませんが、それでも、行方が長時間知れないのは探索者を管理する身としては困ります。そこだけが、今回は減点評価ですね。道中何処かで依頼でも受けてくだされば、こちらとしても心配せずに済みましたのに」
僕を叱るような言葉が続く。だがそこで言葉が切れ、オルガさんは指先を唇に当てて塞ぐように止めた。
「と、不要な物言いでしたね。申し訳ありません」
「いえ、これからは参考にさせて頂きます」
あまり叱られたくはないし。
少し話して、それから次の仕事が入ったようで、オルガさんは奥へと小走りで駆けていく。
一人になった僕は、掲示板を眺める。
だが、めぼしい依頼はない。今日は休めということだろう。
流石に走り通しはキツかったようだ。今日は帰ろう。今日は休んで、明日からまた頑張ろう。
ギルドから出た僕に、午前の強い日差しが降ってきていた。