閑話:黒い刃
SIDE:石ころ屋とレシッド
少し先の本編に影響はありますが、登場人物の口から軽く語られます。
ニクスキーの異名の一つ、〈幽鬼〉は、ニクスキーの仕草から名付けられたものではない。
ポタポタと、石の床に血が垂れる。
ここは貧民街にある廃屋の一つ。その地下室で、酒場のような雰囲気の一室だ。
その蝋燭の明りだけの暗い部屋で、椅子にきつく縛り付けられ、文字通り情報を搾り取られた男は悔しそうに眼前の老人を睨んでいた。
「まあ、そう睨むなって。俺はお前のことをそれなりに買ってんだぜ?」
カウンター越しに、老人はそう微笑みかける。頬杖をついて、先程までの拷問をあっけらかんした顔で見ていた直後の事である。
信用など出来ない。拷問を受けてなお消えぬ瞳の中の炎は、目の前の老人、グスタフを煌々と照らしていた。
水筒からグイと水を一口含み、グスタフは語り続けた。
「お前のとった作戦は中々だったな。大量の商品を直接持ち込むのは目立つ。それを避けるために、まず少量の商品と『情報』を資産家どもに持ち込んで、客にしてから逆に仕入れ先に変える。その後の隠蔽も見事だよな。その客がとち狂って事件を起こすまで、俺らは気付かなかった」
一息にそこまで言って、だが、と眼光を鋭くする。そこには、先程までの親しみやすさは無い。
「この街で、俺らの他に麻薬は扱わせねえ。この街で禁制品を取り扱えるのは、俺らだけだ」
ダン、と強く水筒をカウンターに叩きつける。その音に、一瞬縛られた男は跳ねた。
「首領のサピオ、そいつは死ぬ。お前のいた組織は、早晩存在ごと消滅する」
グスタフはそう宣言した。言葉を重ねる度に、若頭の目に力が込められる。
「なあ、お前はあの組織の若頭だそうだが、どうだ? ここで働かねえか? その能力を最大限生かして、俺らのもとで麻薬を扱っちゃあ」
「……ふざけるな」
痛みを堪えながら、若頭と呼ばれた男は応える。全身に刻み込まれた傷は深く、知らぬ人間が見れば生きているのが不思議なほどだ。だが、命に支障は無い。その事実が、より一層若頭を苦しめていた。
「誰が、お前等の下でなど働くものか。この街に巣くう、底辺のゴミども。古くカビ臭いお前等の下でなど……」
キッパリと吐き捨てる。
石ころ屋の評判など、存在を知っている他の都の者からすればそんなものだ。自分は捕らえられ、死を待つ身。だが、そんな老朽化した組織など、下につく価値もない。それならば、死んだ方がマシだ。
若頭はそう考えた。
そうして、彼は自らが助かる最後の切符を破り捨てたのだ。
「そうか」
引き留めるグスタフではない。
「……ニクスキー」
溜め息を吐いてから、グスタフが、傍らに控えた最も信頼している部下の名を呼ぶ。
ニクスキーは、その呼びかけだけで意を察し、グスタフの心のままに刃を振るう。
ニクスキーは懐中から短刀を抜き放つ。
若頭の耳に、ぷつりと、何かが断ち切れた音がした。
「でえぇぇぇ! バッカじゃねえの!!?」
イラインの市街地。その建物の上、上空でレシッドの嘆く声が響いた。
今現在、追われている身である。大声を出し、敵に居場所を知らせることなど論外であるし、普段はそんなことを行う彼ではない。
だが、彼は叫ばずにはいられなかった。
彼の脇には肥満体型の小男が抱えられ、小さく喘ぎながらただ運ばれていた。
肥満体型のその男が、今現在のレシッドの雇い主であり、護衛対象である。
サピオと呼ばれた彼が、走るレシッドの脇に抱えられているのは、彼自身も不本意なことであった。
レシッドは屋根を走り、跳ね飛びながら逃げ続ける。
どこをどうやって追ってきているのかはわからない。だが、後れ毛がちりちりと震える。『ニクスキーは自分を捕捉し続けている』そう判断するのには充分だった。
“この街で商売敵に狙われている。この街での商談中、護衛についてほしい”
サピオからのそうした依頼をレシッドが受けたのは、偶然だった。
指名依頼ではない。ただ、ギルドの受付嬢が勧めてきた依頼だ。それなりにギルドを信用して、そして自らの腕を信用している彼は、その依頼を警戒心無く受けたのだ。
いつもならば、それでも問題は無かった。
その日も本来ならば問題は無かった。というよりも、本来ならばレシッドに勧められることは無かっただろう。
自らが応対した探索者が、護衛依頼を終えて予定の期日も過ぎたにもかかわらず、イラインまで戻ってこない。そうした心配に、受付嬢の心が囚われていなければ。
ちょっとしたミスである。ギルド職員が閲覧出来る、依頼に関してのちょっとした注釈。それを見落としただけの。
だがその小さなミスは、今まさにレシッドを命の危機に陥れていた。
レシッドが、この依頼の危険に気がついたのは襲撃を受けてからである。
サピオに帯同し、商店街を歩く。そして、たまたま、人混みを避けて路地裏に入ったのが運の尽きだった。
一緒にいた四人の私兵が、一斉に倒れる。
いつ斬られたのかわからない。だが、路地裏に四つの死体がいきなり作られた。それだけは理解出来た。
「な……!?」
レシッドとサピオの驚く声が重なる。一瞬の意識の空白。だが、レシッドもプロである。すぐに立て直し、サピオを連れてその場を離脱しようとした。
騒ぐ彼を小脇に抱え、屋根の上へと飛び上がる。
その時チラリと、路地裏の入り口にニクスキーの姿を見れたのは、ひとえに彼の優秀さが為した奇跡だった。
雇い主を狙っているのは、ニクスキー。それを理解したレシッドの顔に、思わず笑いが浮かんだ。
楽しいわけではない。歓喜の笑いでもない。命を諦めた、絶望の笑顔である。
レシッドは、いや、この街の暗闇で仕事をしているものであれば、必ず恐れている。この街で彼らが敵対したくない人物を挙げれば、五つ名前が挙がる内には必ず挙がる名前。それがニクスキーだ。
この街で彼と敵対するのは、即ち死を意味していた。
「ハッ、ハッ、……!」
息が上がりながらも懸命に走る。本来であれば、人を二,三人抱えて走ろうとも息一つ切らすレシッドではない。ただ、必死なのだ。追いつかれれば、死ぬ。
頼みになるのは自らの足だけだ。本気を出せば、誰にも追いつかれない自慢の足。自らの中で一番頼りになるその足は、今自らの命を守る最後の砦となっていた。
「レシッド殿、いったい何が……」
「黙ってやがれ! 舌噛むぞ!」
未だに事態が飲み込めず、サピオはレシッドの方へ仰け反り顔を向ける。その危機感の足りない顔に、レシッドは内心何度も溜め息を吐くのだった。
チラリと振り返る。路地裏の陰の何処かで、幽鬼のような影がちらりと見えた気がした。
「まだ、遠いか……!」
安堵の言葉。振り切ってはいないが、追いつかれてもいない。その事実に内心一息ついたレシッドに、上空からの影がかかる。
上空を飛ぶ鳥の影だろう。そう思い、レシッドは気にしなかった。
そのため、その攻撃に刃を合わせられたのは、ただの偶然だ。
猟犬故の、その嗅覚が、無意識に刃を抜かせたのだ。
ギン、と金属を打ち合わす音が響いた。
刃を出したレシッド自身、予想だにしなかった音。
そんな。
斜め前を見たレシッドは驚愕に顔を染める。
ニクスキーの身体は宙を舞い、サピオの首筋には小刀が迫っていたのだ。
「うおわぁ!!?」
その身体を振り払うように小刀を横薙ぎに払う。ニクスキーはその刃を、掌に忍ばせた鉄片で受け止めた。
恐れられているニクスキーは、表情が変わらないことでも有名である。
だが、レシッドは見た。
小刀を受け止めたニクスキーの、微かな笑顔を。
ニクスキーは空中で蹴りを放つ。当然レシッドに防がれたその蹴りの勢いで、後方に跳びながら独り言のように呟いた。
「よくやる」
短いが、紛れもない称賛の言葉。風の音がそう聞こえたのだろう。レシッドはそう思った。
煙突を足場に、再度ニクスキーが跳躍する。
まずい、今度は防げない。そう考えたレシッドは、両手に小刀を構えた。
支えが消え、投げ出されたサピオは、先程までとは違う類いの浮遊感に口を全開した。
「おぇぇぇぇぇ!」
僅かな落下である。だがサピオはその不快感に、叫び声を止められなかった。
「うっせ!」
レシッドはサピオを蹴り飛ばす。攻撃のためではない。移動のためだ。
ふんわりと蹴られたサピオの身体は重力に逆らい、ニクスキーと反対方向に放物線を描いて飛んだ。
「……健気だな、猟犬」
「こちとら、裏切るわけにはいかねえんでな!」
口早に交わる口舌の刃。だが、そんなものに意味はない。足場に使おうと、レシッドにつかみかかるニクスキーの手を、レシッドは渾身の力を込めて躱す。
レシッドの両手の刃による牽制。ニクスキーほどの手練れでも、僅かに隙が出来てしまう。
両者の間に空いた空間。ニクスキーはそこに、硝子の球体を発見した。
なるほど。ニクスキーはレシッドの意図を理解する。
目を瞑る。戦闘中とは思えぬ大胆さだが、レシッドが離れつつある事はわかっている。
次の瞬間、瞼の向こう側で、橙色の光が広がる。
そして目を開けば、レシッドの姿は消え失せていた。
「ふむ」
手近な屋根に着地したニクスキーは暫し瞑目する。
乱された精神をもう一度集中しているのだ。そして目を開き、周囲を見回す。
行くべき方向を見定めたニクスキーは、ゆっくりと、しかし確かな歩みでまた歩き出した。
また路地裏に潜伏し、空から見えないようにレシッドは走っていた。
「一個銀貨十枚だぞ! 足が出らあ!」
泣きそうになりながら……実際に涙をうっすら浮かべて走っているのは、奥の手の一つを放出したからに他ならない。
レシッドが使った奥の手は、最近出回るようになった懐炉である。
一寸ほどの直径の硝子玉。その小ささにもかかわらず、闘気を篭めれば温かく、極寒の地でもとりあえずの暖を確保出来る優れものだ。
その懐炉は、魔道具である。三つも買えば一家族の収入が簡単に消えてしまう高価な道具。
それを壊す使い方を発見したのは、とある探索者だった。
闘気を篭めればじんわりと温まり光を発する。ある日、その使い方に疑問を持った者がいたのだ。
『闘気をもっと多く篭めたらどうなるのだろう?』
単純な疑問だ。だが、実験出来る者は少ない。その高価さ故に、皆だましだまし使うのが当たり前なはずだ。金のない探索者なら尚更である。
だがその時、無鉄砲なその男が実行してしまったのだ。
結果は簡単だ。
闘気に耐えられず、魔道具は過剰な熱と光を生産した。
そして、破裂。劈く音と閃光を発し、砕け散ったのだ。
夜中に行われたその実験で、その男は近所からつるし上げを食らったという。
その噂を耳にした者たちは、男を馬鹿にした。
『高価な魔道具を、そんなことで無駄にするとは阿呆だな』
口々にそう言った人々の中で、その活用法に気がついた探索者達だけは、彼にそれとなく賛辞を送っていたそうだ。
レシッドの使った奥の手は、まさにそれである。
手持ちの八つの懐炉を、閃光弾として解き放つ。
惜しげもなく放出したそれは、金貨にして三枚と少し。
稼いでいないわけではないが、貯蓄をしないレシッドにとってはまさに虎の子だった。
閃光と同時に離脱。そして、空中に放ったサピオを回収し、逃走する。
レシッドの策は功を奏し、後れ毛の第六感も反応しなくなった。
ニクスキーの気配は何処かへ消えた。これで逃げ切れる。レシッドはそう僅かに安堵する。
「なあ、この街の何処かに、避難所と……か……」
「そんなもの、王者は作らんでもよいのだ。まったく、余計な手間をとらせてくれる! 石ころ屋め、古いだけの組織と放置していたが、私をこんな目に遭わせるとは、万死に値する!」
レシッドの呼びかけに応え、サピオは口を開く。
そして、地上に降りた安堵から止まらないその言葉は、硬直したレシッドの様子を無視して吐き出され続けた。
「護衛の者どもも不甲斐ない。だが、やはり、色付きを雇ったのは正解だった。どうだ? お前を客分としてこれからも……ん? どうした?」
サピオは気がつかない。
商才はあった。いくつもの都市にまたがり広げた組織は、彼の商才と統率力が無ければたしかに成立しなかっただろう。
だが、巨大な組織を率いている故に、長年部下に囲まれ巨大な組織を率い続けているが故に、危機を察知する能力は衰えてしまっていた。
「無駄話をして……!」
レシッドは言葉の途中で小刀を構える。過たず、その小刀にニクスキーの神速の突きが阻まれた。
「おう……!?」
サピオが驚きの声を上げ、目を丸くして息を詰まらせる。
レシッドが見たのは、路地の入り口から入ってくる影である。三十歩以上離れたその場所にあった霞む影。一瞬たりとも油断は出来なかった。
その距離に、意味の無いことを知っていたのだ。
予想通り、次の瞬間にはニクスキーは眼前に迫り、サピオを狙う小刀があった。
安堵の溜め息を吐く間もない。一撃で、終わるはずがないのだから。
サピオには見えない攻防。
生半可な者の目には見えはしない。レシッドとニクスキーの間に、刃の嵐が結ばれていた。
レシッドは、片手でサピオを庇いながらである。片手のレシッドと両手のニクスキー、刃の差し合いであれば勝負の行方は明白だ。
だがレシッドは、肩の肉を抉られ肘の骨を削られ、脇の動脈に僅かな傷を入れられながらも持ちこたえていた。
それは、レシッドにもニクスキーにも予想外の出来事だ。
五合、六合と防がれていく刃に、ニクスキーも驚きを隠せなかった。
何せ、理由は明白だったのだ。
レシッドは、自らの身体を殆ど省みることなく斬り合いに応じていたのだから。
これは、ニクスキーの採った手段の結果でもある。
ニクスキーは、空中での攻防で、ある程度レシッドの能力を認めていたのだ。それは、先程の一撃を防がれたところで決定的になる。
先程までは、執拗なまでにサピオのみを狙っていた。他の護衛が死んだのはついでである。だが、レシッドがいる限り、容易に手は出せない。そして、サピオからレシッドを引き剥がすのも容易ではない。
そう考えたニクスキーの採った案が、レシッドとサピオ、両者を同時に攻撃することだった。
先程までは、レシッドのことはサピオを運ぶ羽虫程度にしか思っていなかった。だが、今は違う。ハッキリと障害として、レシッドを意識していた。
そして、レシッドへの攻撃とサピオへの攻撃を同時に行った。
レシッドが、自らの命を守ろうと力を自らに集中すれば、サピオは簡単に狩れる。そして、レシッドは、そうするだろう。探索者とは自らの身体を第一に考えるものだ。
そう考えていた。
だが、その結果がこれである。
レシッドは自らの身は最低限にしか守らず、その身を挺して、傷つきながらもサピオを守護していた。レシッドとサピオへの攻撃が等分されているとすると、サピオへの攻撃は単純に半分となる。半分だからこそ、何とか凌げているのだ。
木綿色のシャツは血に染まり、その切れ目から、皮膚がその奥まで見えている。
血の飛沫を壁に飛ばしながら、息を切らしながら、懸命に主人を守ろうと必死になっていた。
一歩ニクスキーが引く。
剣戟が止み、レシッドは眉を顰める。手の中の命はまだ尽きていないのだ。なのに何故、攻撃が止んだのだろうか。
止まった空気にレシッドが飲まれつつあるそのとき、平時は殆ど喋らないニクスキーの口が、重々しく開いた。
「〈猟犬〉とはよく言ったものだ。その忠義に敬意を払い、俺はひとつ禁を破ろう」
一瞬の困惑、その後、レシッドの表情が変わる。
「まさか……」
「な、なんだ?」
レシッドに抱えられ、まだ事態が飲み込めていないサピオ。そのサピオの視界を塞ぐように、レシッドの身体が反転した。
「ふむ」
微かに聞こえたニクスキーの声。その声とほぼ同時に、路地裏を爆炎が覆い尽した。
雑踏で、群衆が騒ぎ出す。
真っ昼間の商店街、その路地裏から轟音とともに火の手が上がったのだ。
一目散に逃げる者、怖い物見たさに近付く者、衛兵を呼ぼうと走る者。逞しく、すばしっこい様々な人間達が、路地の入り口付近に入り乱れていた。
まだ、灼熱の風を吐き出す中を覗き込む者はいない。
そこには、ニクスキーと、倒れ伏す影があった。
「ここまでとは。お前一人助かるのであれば、いくらでも手があっただろうに」
その言葉に、倒れているレシッドは応えない。火から避けるようにうつ伏せに倒れ、弱々しく呼吸を繰り返していた。
「まあ、これでお前も脱落だ。養生して、また向かってくるがいい」
ニクスキーは背を向ける。
気遣う言葉。それは、雇い主を庇い背中に大火傷を負ったレシッドに対しての敬意だった。
雑踏を掻き分けて、サピオは慣れぬ疾走をしていた。
はじめ、ニクスキーの使った火薬玉の爆炎に紛れて、レシッドに投げ飛ばされた彼は、したたかに地面に背中を打ち付けて悶絶していた。
だが、すぐにそれどころではないことを悟る。今は背中の痛みより自分の命だ。
今は逃げなければならない。一人になろうとも、例え足が千切れようとも、守るべきは自分の命だ。
自らの子供に等しい構成員を守るため、自らの命を第一に考える。大勢の構成員を下につけた反社会組織の首領には、それぐらいの覚悟があった。
今回のイライン進出は失敗だっただろう。
それを認めるのは難しかったが、もうわかった。
だが、次は上手くやる。石ころ屋への対策も万全に、もっと旨味のある儲け話を手に、もう一度イライン進出へ挑戦する。
だから、そのためには今は逃げなくては。
汗を噴き出しながら走る小太りの男は、煙を上げるような闘志に燃えていた。
群衆を掻き分けて走る。
走る者たちを避けながら、立ち止まった者たちを退かしながら、懸命にイラインの外へ向かう。
早く、構成員の誰かに連絡を付け、ミールマンまで引き返す。そうしてから……。
考えつつ疾走するサピオが、群衆の一人にぶつかる。
トン、という軽い衝撃。肩が触れるような衝突だが、今のサピオにとっては苛立たしいことこの上なかった。
しかし、文句を言っている暇は無い。ぶつかったマントを着た誰かに、舌打ちをしながらサピオはまた走り出す。
もうすぐ北門だ。衛兵に金を握らせ伝書鳩を借りて、それで……。
そう、それで部下に手紙を……。
考えが途切れ途切れになってくる。
サピオは眠気を感じ、目を強く瞬いた。
おかしい。何だ、強烈な眠気に、目の前も暗く……。
周囲の人間が、あっと声を上げる。
サピオの膝の力が抜ける。膝を折りながら、尻餅をつくように倒れ込む。もう、走れない。
地に着いた掌に、粘りつく液体の感触があった。
何故だ、何が起きた?
目の前が急激に暗くなる。それと同時に、胸に激痛が走った。
「いっ!?」
掠れゆくサピオの視界。目が開けてられない。その中で最後に見た光景は、自分の胸から生えている、小さな小刀だった。
周囲の人間は、小刀を突き刺したまま走る人間に驚きの声を上げたのだ。
場面はグスタフの前、ニクスキーが若頭に小刀を振るった所まで戻る。
ぷつんという音とともに、若頭の、先程まで感じていた全身の激痛が消え去った。
「ぉ……ぁ……」
どういうことだ? 痛みは感じない。だが、その疑問を口からだそうとすれば、僅かな掠れ声しか出せなかった。
「本当に、残念だな」
グスタフが立ち上がり、奥へと消えていく。若頭は、動かせない身体でそれを見送った。
ニクスキーはじっと動かない。ただ若頭を見つめ、微動だにせず待っていた。
「ぉ……ぇ……ぉぁぁ」
若頭は、何とか事態を把握しようとニクスキーに問いかけようとする。
だが、やはり声帯を震わせることは出来ず、そして顔も向けられずに必死に目だけを動かしてニクスキーを見た。
ニクスキーは溜め息を吐き、若頭に歩み寄る。
そして人差し指で、とん、とこめかみを突いた。
ころんと頭が転がり落ちる。
次の瞬間、若頭は見た。血を噴き出して痙攣する、自らの身体の後ろ姿を。
そしてもう一度ぷつりと、今度は若頭の意識が途絶えた。
ニクスキーの異名の一つ、〈幽鬼〉は、ニクスキーの仕草から名付けられたものではない。
それは、筋繊維を割り開き、細胞を剥がす精妙な太刀筋の結果。
自らの死を知らず、幽鬼の如く歩き回る獲物。
その姿を見て、付けられた異名である。