あの日の忘れ物
透明化し、邸内を早歩きで進んでいく。
目指すは離れの一つ。ストナの居住する部屋だ。
灯りはついている。だが、まだ食事は始まっていないだろう。恐らく今頃ルル達は夕食を取っている。ならば、使用人達への賄いよりは早くルル達よりは遅い彼女の食事は、まだ始まっていないはずだ。
使用人は中に控えていないことも多い。食事の準備中の今であれば尚更だ。
つまり、今はその部屋の中にストナ一人。絶好の機会である。
……女性が一人の時を狙って部屋に侵入する。それだけ聞くと外聞が悪いが仕方あるまい。実際に僕は今不法侵入者だ。
人は少ない方がいい。
ノックを三回。すぐに中から声が響く。
「……? どうぞ」
戸惑うような声。本来は来客など無いはずの時間だ。使用人であればカートの音がするはずであろうし、警戒するのが当然だろう。
だが、入れてくれるようだ。僕は迷わずに、ドアノブを回し、内開きのドアを押し開ける。
「失礼します」
僕の姿を見たストナは、一瞬眉を上げたが、すぐに落ち着き払い口を開いた。
「おや貴方は、……カラス、といいましたか」
「ご記憶にお留め頂き、光栄です」
僕がぺこりと頭を下げると、ストナは腰掛けていた椅子に座り直し、僕に向き直る。テーブルに置かれた細い指が、トトンと小さく音を鳴らした。
「この前は世話になったようですね。礼を言いましょう」
「いえ。たまたま通りかかったところでしたので。お加減はいかがでしょうか?」
「傷跡も残っていませんよ。良い腕だと、治療師も褒めておりました」
肩に手を回しながら、ストナは微笑む。
落ち着いた雰囲気に静かな言葉。本当に、道中とは違う態度だった。
「それで? 何の用でここに? この時間にここを訪ねてくるのであれば、それなりに重要な用事があるのでしょう?」
言葉は穏やかだ。だが視線が、身体の雰囲気が、僕に警戒を伝えてくる。当然だ。昨日家人が殺されているのだから、もしかして自分も、と思っても仕方がない。
口紅で真っ赤に塗られた唇が引き締まる。若干目を細め、ストナは僕を見つめた。
「少しお話ししたいことがあるだけです」
そんなに長い時間は話せない。不法侵入している身だ。使用人が戻ってくるまでの間に……。
そうだ。勢いでここまで来たが、どう話をすればいいだろうか。
というよりも、何を話せばいいだろうか。あの日決意した、僕を不足している者、劣っている者と見た視線。あれを引き出すためには……。
いやいや、あの視線を引き出してどうする。わざと馬鹿にされて、言い返す。まるで当たり屋じゃないか。
よく考えてみたら、僕は、何をしに来たのだろうか。
もう過ぎ去ったこと。
あのとき下に見られた視線を引き出して、何をしようというのだろうか。ストナは覚えていないだろう。僕すらも、覚えていなかったというのに。
僕の反応を待ち、ストナの身が固くなる。
「話したいこととは……」
ストナの方から催促する声が響く。だが僕の考えはまとまらない。
勢いで急いで来るのではなかった。後悔が内心を覆い尽す。そうだ、何をすれば……。
「いえ、何を話しに来たのか。僕にもわからなくなりました」
「……?」
首を振り、そう答えた僕を、ストナのポカンとした顔とその視線が突き刺す。
「覚えていらっしゃいますか。僕は昔、お嬢様とストナさんにお会いしたことがあるんですが」
「そんな……いつのことでしょうか」
片目を瞑り、首を傾げる。やはり、ストナは覚えていない。そんな小さな事だったのだ。彼女たちにとっては。
「いえ。覚えていらっしゃらないのであれば、それでいいんです」
僕は自分の掌を見つめながら、そう言葉に出す。
「多分、僕の用事はそれだけなんです。それだけ確かめに、ただ、それだけ」
自分に言い聞かせるように、そう口から言葉が零れた。
そうだ。今の彼女を笑ってどうするのだろう。
僕の気が済むのならそれでもいい。だが、多分僕の気もどうもならない。仮に『汚らしい貧民街の子供』と罵られたとして、それに言い返したとしても、僕は笑えない。
実際、今は彼女は僕に普通に接しているのだ。それは僕を個人として見ているからであって、身分を見ているわけではない。今更彼女を笑って、それで嫌な思いをするのは多分僕だ。
過去の扱いを、許せる者と許せない者がいるだろう。僕がどちらかとはまだ決まってはいない。
しかし、許す許さないではない。僕は、忘れていたのだ。それは、どちらもしなくていいと、僕自身が思っていたのだろう。
僕はあれから頑張った。勉強して、金を稼いで、一軒家を買った。その努力は、きっともう報われている。
だから、何もせずに帰ろう。
待たせたオトフシと突然訪ねたストナには悪いが、何もせず、このまま帰ろう。
笑うのは、これから受ける視線だけで良い。
顔を上げ、不思議そうに僕を見つめるストナに微笑みかける。
「申し訳ありません。不躾な訪問、本当に失礼致しました」
「いえ。……ですが、子供だからと、何でも許されるとは思わないことですね」
目を鋭くし、ストナは僕を窘める。僕はその言葉に内心苦笑しながら、ただ「はい」と一言答えた。
帰ろう。そう振り返り、扉に手を掛けたところで、オトフシの言葉を思い出した。
それと同時に、僕の心にイタズラ心が湧いてくる。過去の発言についてはもういいだろう。忘れていたのだから。
だが、道中の態度は覚えている。いくらルルのためとはいえ、目に余る態度だった。
思い出したら少し気分が悪くなってきた。ちょうど良い。僕への卒業試験として、少し挑発してみようか。
「そういえば、先程ルルお嬢様ともお会いしました」
「……そうですか」
振り返りストナを見ると、次に僕が何を言うのかと、複雑な表情を見せていた。
僕は笑顔で続けた。
「ここに来てからすっかり垢抜け、以前にも増して可憐になったご様子」
「当然です。私の娘ですから」
娘を褒められて多少喜んではいるのだろう。声が若干弾んでいた。僕も本心ではあるので、それはいい。
「私も、あのような女性を嫁に貰えれば、きっと天にも昇る心地なのでしょうね」
「フ、市井にはあれほど出来た娘はおりませんよ。ですがまあ、頑張ることです」
「そうですね。では、私も頑張れば、ルルお嬢様をいただけますか?」
「は?」
一瞬で、声に怒気が混ざる。正直怖くなったが、僕は笑顔を必死に保った。
「市井にはあれほどの女性はいらっしゃらない。であれば、やはりルルお嬢様を貰うしか……」
ないでしょう、と続けようとした僕の言葉を遮り、目を吊り上げたストナが拳を作り宣言した。
「黙りなさい。お前などに、ルルを嫁に出せるはずがない。お前のような平民に、大事なルルを渡すわけないでしょう……!!」
僕はその言葉を聞いて、本当の笑顔が出た。
卒業試験は合格だ。ストナはもう僕を、貧民街の汚らしい子供とは思えないのだ。
「……ですよね!」
にこっと笑ってそう言うと、呆気にとられたようにストナは眉を上げた。
「重ね重ね失礼を。戯れに申すようなことではございませんでした。申し訳ありません」
僕が頭を下げると、ストナは拳を下げ、静かに言う。
「次はありませんよ」
「ええ。それは勿論」
言うつもりもない。ただ挑発のためにルルを引き合いに出したのは申し訳ないが、本人も聞いていないのだから良いだろう。ストナが伝えるとは思えないし。
「では、これでお暇致します。失礼致しました」
「フン」
シッシッと追い払うように手を振り、ストナは応える。その仕草を背に、僕はザブロック邸を後にした。
「戻ってきたか」
「ええ。お待たせしました」
僕の荷物を足下に置き、腕を組んでオトフシは待っていた。
その荷物を持ち上げ担ぐと、少し重たく感じる。
「淑女を待たせるとは、お前もなっていないな」
オトフシの足下には、砂利がどけられた足跡が散乱している。それを見て、少し心苦しくなった。
「いや、本当、申し訳ありませんでした」
「フフン、逢い引きの待ち合わせならば否定するだろうが、生憎今は違うからな。いくらでも文句を言ってやるぞ」
所謂『待った?』『ううん、今来たところ』のことだろうか。この世界でもそんなものがあるとは初耳だ。
「それで? 忘れ物はあったのか?」
「すいません。ここに忘れ物は無かったみたいです」
そう言った僕の表情から何かを察したのだろう。
「そうか」
オトフシは、それだけ言って、歩き出す。
僕はそこに並ぼうと、やや小走りで追い縋っていく。
二人とも、ザブロック邸を振り返ることは無かった。