少女の小さな決意
ギルドで申請を終えた僕は、ザブロック邸に急ぎ引き返した。
明日の朝まで、一応髭たちはいる。刺客を待つ以上、コックスも手を出そうとはしないとは思う。
だが、その保証はどこにも無い。遅効性の毒物や魔術か何か、今夜使われてもおかしくはないのだ。
信頼できる人を呼ぶのは僕が行動するためには必要なことだ。だが、本当は一時もルルの側を離れるわけにはいかないとも思う。
髭たちは今は間違いなくルルの味方だろう。それは少しは信用すべきだと思う。
それでも心のどこかに残る心配の種は、僕に常に焦燥感を与えていた。
土埃も上げぬよう、駆け込みながらも慎重に庭に着地する。
見えずとも、埃が舞えば痕跡が残る。誰かに違和感を覚えさせるのはなるべく避けたい。
暗くなりつつある外の明かりを補うように、邸内には明かりが点り始めている。もうそろそろ夕御飯の時間だった。
ルルの側に付き従うように、僕は食堂へ滑り込んだ。
もう三回目の夕食ではあるが、やはりまだルルは慣れないらしい。食卓に、金属の音が響き渡った。
「ぁぅ……すみません……」
銀食器を取り落とし、新しいナイフとフォークを使用人が用意する。
溜め息を吐き、顰めっ面をしながらコックスはそれを黙って見ていた。
カチャカチャと皿と銀食器がぶつかる音だけが響く。
奥方にコックス、そしてルル。その他四人の使用人で大勢いる食卓のはずなのに、誰も言葉一つあげない静かな食事。
もとより、僕が参加しているわけではない。だが、何故だろう。その静かな食卓に、僕は参加したいとは思えない。
食事とは、もっと楽しいはずなのに。
硫酸紙のようなもので蒸し焼きにされた猪肉は美味しそうな匂いを放っている。だが、一人で食べた竜の肉の方が、まだ美味しそうな気がした。
食後のお茶を傾けながら、ようやくコックスが口を開いた。
「まるで獣だな。庶民といえども、食器の扱い程度は出来ると思っていたが。それは私の買いかぶりだったようだ」
「……すいません」
「もしや、ルル嬢はミーティア出身だったかな? そうだ、あの国であれば、まだ手を使うのが作法だったはずだからな」
謝るルルを無視して、コックスは嫌味を続ける。
そもそも、いきなり何もかも完璧にやれというのは無理な話なのだ。それを、無理矢理連れて来られた上に強制され、学ぶ時間も無く実践させられる。
出来なくて、当たり前だ。
ルルの拳が握り締められる。それとは違った意味でかもしれないが、僕の拳も無意識に握り固められた。
「そこまでです、コックス。慣れぬ作法に戸惑う者を嘲笑うなど」
「そう仰られましても」
奥方のルル擁護にも悪びれもせずに、コックスは返した。角砂糖を摘まんだ指を舐め取りながら、首を傾げる。
「で、あるならば、ルル嬢はいつになったら我らと食卓を共に出来ると?」
「我ら生粋の青い血は、教育係より幼少の頃から学び育てられましょう。それと同じ時間……とは言いませんが、まだ待つべきです」
「レグリス様は、甘い」
「貴方が性急すぎるのです」
静かな言い争いが始まる。
いつものことなのだろうか。使用人達は落ち着いたもので、食器の片付けをする者も壁際に控えている者も、表情は何一つ変えずに自らの仕事を続けていた。
間に挟まれたルルは、おろおろと二人を交互に見る。
その言い争いは、短時間で終わった。
「そんなことでは、亡き兄上の遺言といえども、新生されるザブロック家の一員として」
「新生などさせません、守り受け継いでいくことこそ」
あまり仲よさそうとも思えなかったが、そもそも仲が悪かったのか。
そんな争いで悪くなっていく雰囲気を打開するその言葉は、ルルから放たれた。
「ぁ……あの!」
服の端を丸めながら、ルルは辿々しく言葉を選んでいく。
「不作法で、ごめんなさい。私、こんなご飯を頂いたのはこの家に来て初めてで……」
「ハ、だろうね」
「コックス」
じろりと奥方がコックスを睨む。コックスは肩を竦めて口角をわざとらしく上げた。
「きょ、教育係、なんていらっしゃるんですね」
「……そうですね。大抵は、家令が兼任しますが」
「あの、私、頑張ります。ですから、私に、礼儀とか、作法とか、そういうものを誰か教えてくださる方はいらっしゃいませんでしょうか!?」
そうした突然の申し出に、奥方とコックスの目が揃って丸くなる。
先程まで表情を崩さなかった使用人の雰囲気も、どこかざわついた気がする。
コックスが掌を自分の目に当てる。
奥方は、僅かに微笑み息を吐いた。
「いらっしゃいますか、ではありません。『付けてください』でいいのです。貴方はもうこの家の一員なんですから」
コックスはつまらなそうに部屋の隅を見つめるが、それを気にする者は誰もいなかったらしい。
「コックス、これで文句はないでしょう。ルルには教育係を用意します。不作法は、それでもなお直らないのであれば……」
「……フン。いいでしょう」
一転して、おそらく初めて見せるであろう満面の笑みで、コックスはルルに言った。
「ならば、精進するがいい。間に合えばいいけどな」
「……!」
その意味がわかったものは、僕の他に誰がいるだろうか。
表情が読めずにわからないが、使用人にはいない……と思う。奥方はどちらかわからない。
ルルは、間違いなく気付いていないだろう。
言うだけ言って満足したのか、コックスは使用人が開けた扉をコツンと叩きながら、部屋から出て行く。その足音が遠ざかっていくまで、僕はその扉の先を見ていた。
「さて、ルル」
「はい!」
嫌味な叔父が消えて、少しばかり楽になったらしい。ルルは先程よりも少し大きな声で応えた。
「本来貴方の年齢であれば、他家に行儀見習いとして奉公に出してもいいのですが……聞いていたとおり、まずは教育係を用意しましょう。教育がいつまでかかるかは貴方次第ですが、少なくともしばらくは外出は出来なくなります。よろしいですね?」
「……はい。よろしくお願いします」
「フフ。では、明日以降、急ぎ見繕いますので、励みなさい。今日はもう休むように」
それだけ言って、奥方も出て行く。
後に残されたルルの拳は、我慢や忍耐で作られたものではない。僕にはそう思えた。
それからルルが寝静まるのを待ち、僕も屋根の上で寝転がる。
明日から、ルルはそれなりの教育を受けることになるだろう。そして、貴族の名に恥じない立派な淑女へと成長するのだ。
その未来への展望を、邪魔するわけにはいかない。
コックスの最後の言葉。その意味を、ルルにわからせるわけにはいかない。
早く。ギルドへ頼んだ言付けは届いているのだろうか。
最悪、何も考えずにコックスを殺すことになる。だが、ルルの未来を邪魔してしまう結末は避けたい。
次期当主が消えれば、家はどうなるのか。こういう知恵が無いのが本当に腹立たしい。ルルは自ら学ぼうとしているのに、僕は怠っていた。
無意識に奥歯を噛み締める。ギリという音を聞いて気がついた。
何故かはわからない。だが、僕は今悔しがっているのだろうか。それとも悲しいのだろうか。
僕の内心を覆い隠すように、雲が月を隠す。
それと同時に、視界の端を、白い鳥が横切ったのが見えた。