閑話:光を見る資格
SIDE:クラリセンでのキーチ三人称
さして重要な情報はありませんので、人称が散ることや時間軸が前後するのがお好きでない方は次の話に進んでも大丈夫です。
「フッ!」
振るわれる槍には裂帛の気合いが籠もり、刃風が周囲の土埃を舞上げた。
クラリセンの討伐作戦。その中で、キーチは街の入り口から街道へ出る魔物を遮断する役目を担っていた。
街の入り口付近はそれほど魔物は多くない。
ほぼ全ての探索者が街道から街へ入り、魔物を掃討していくのだ。門の前は必ず通る。その折りに、魔物がいれば片付けていく。
ここに来る魔物は探索者達を僅かにすり抜けて来るのみ。そのために、ここはキーチ一人担当していれば充分だった。
石畳に踏み込み、逃げてきた大犬の口の中に槍を突き入れる。
ガフ、と僅かに吠えた大犬は、その上顎を突き破る一撃で脳を傷つけられ即死した。積み重なる死体を蹴って横に飛ばし足を踏み入れる場所を確保する。そうしなければ、いかに魔物が少ないとはいえ門の前の狭い広場はすぐに埋まってしまうだろう。
馬車と同等の重さを持つ大犬を蹴りとばし移動させる脚力は、探索者や騎士達の中でも抜きんでているものだった。
通行止めの対象は大犬ばかりでは無い。空を飛ぶ毒鳥も含まれている。
上空を高速で飛行する毒鳥。本来であれば届く位置で無いはずだが。
地面を走る影を確認したキーチは、青空に浮かんだ黒い点を見上げる。邪魔な探索者達がいない上空を、毒鳥が新たな街を目指して進んでいった。
それを見て、キーチの目が細くなる。
逃がすわけにはいかない。
ここで取り逃せば、その毒鳥は人を殺す。人では無く家畜を殺したとしても、それは同じ事だ。人のために生かされている家畜を殺せば、それは人に対する害だ。
石突きを強く石畳に叩きつける。
鈍い音がして、いくつかの小石に整形された。
その内のいくつかを穂先で刺していく。石達はまるで串団子のように槍の先に収まった。
「よっ!」
軽く掛け声を掛けて、キーチはその槍を振る。遠心力で飛ばされる小石は、弾丸のように毒鳥達を弾けさせた。
パラパラと落ちてくる毒鳥と、その腹に食い込まなかった小石達。それらを避けながら周囲を見ると、またしてもはぐれたのか、大犬がすぐ側まで迫っていた。
一匹、二匹と続けて襲ってくる大犬たち。
探索者に恐れをなしつつあるのだろうか。逃げてくるように、門を通ろうとする犬たちは増えてきていた。
飛びかかってくる犬を躱しながら、その下顎を頸動脈ごと削ぎ飛ばす。振り切られた槍の石突き方面から襲う大犬は、石突きを右目に突き入れられて脳を潰された。
踊るような足捌きに淀みない連撃。大犬たちをどけるときの脚力も加えて、それらを見れば人は惜しみない賞賛を贈るだろう。
事実、キーチはイラインの騎士団の中でも最上位の実力を持っていた。
だが、本人からしたらそうでは無い。
拙い。戦闘行為の中、キーチはそう自省していた。
キーチへ戦い方を教えた者たちであれば、もっと上手くやるだろう。師匠達の動きを思い浮かべて、キーチはもどかしい思いで一杯だった。
<天津風>と呼ばれたシウムならば、犬をどける手間を掛けること無くもっと効率的に短い時間で狩れるだろう。<爆水泡>カソクならば、一振りでもっと多くが死ぬだろう。
これだけの未熟な動きでは、師匠達に申し訳が立たない。
その思いが胸中に満ちたキーチは、積み上がる死体の意味を知らずにただひたすらに焦っていた。
街の反対側では、ほぼ同じ任を探索者のパーティが果たそうと奮闘していた。
三人の槍使いと一人の魔術師。四人で組を作る場合の、平均的な編成である。
遠間から槍を使い獲物を牽制し、そして槍達の背後から強力な魔術を撃ち込み決着を付ける。普遍的でもあるその戦法は、安定して強いからこそ普遍的だった。
今彼らの元に迷い込んだ大犬も、彼らのその戦法に押し止められていた。
飛びかかり来る大犬を横に躱しつつ、その毛皮に槍を突き入れる。跳ね返された穂先の向こうから筋肉の弾力が伝わり、槍使いの一人は奥歯を噛み締めた。
不完全な攻撃ではあるが、邪魔だ。大犬はそう判断し、その槍使いノイに狙いを定める。
そしてノイに注意が奪われたその瞬間、大犬のこめかみ目掛けて攻撃する者がいた。残りの槍使いの一人である。その槍も傷を与えるには至らず、だが犬はまたそちらを向いて吠えた。
大犬が僅かに体重を前足に乗せる。その気配に、ノイが魔術師と犬の直線上に身体を置いた。次の瞬間、大犬の突撃を一身に受け、ノイの槍と身体が軋む。
「く……!!」
大犬との間に挟んだ槍が無ければ、肋骨が折れていたであろう。
衝撃で痺れる腕に何とか力を込め、構え直した背後から声が響く。
「詠唱終わり! 行くよ《炎砲》!」
ノイの頭を掠めて、弾丸が大犬の眉間に当たる。大犬の身体が後ろに跳ねて、そして身体ごと弾き飛ばされる。飛ばされて横倒しになった犬は起き上がろうとし、そして足を踏み出そうと足掻いたところで力尽きた。
頭蓋の陥没。即死には至らなかったが、大犬に死をもたらすには充分なものだった。
残心とばかりに周囲を見渡し、何もいないことを確認。パーティはホッと一息ついた。
小休止中も、前衛が肩で息をして次に備えている。魔術師は呪文の詠唱に関わる意識の集中に余念が無い。
ノイは今回の死闘を振り返る。今回も何とかなった。これで四匹目。体力の限界は近付いている。
次の大犬が現れたのは二分後。魔術師が、上空を飛ぶ毒鳥を撃ち落としたのとほぼ同時であった。
彼らの苦戦にさしたる理由は無い。
平均的な探索者である彼らにしてみれば、これはいつものことだった。
魔物は脅威だ。探索者達は皆そう理解している。
闘気や魔力を使い身体を強化し、ものによっては魔法も使う。立ち向かうのに単独で向かうのは愚の骨頂。気のおけない仲間と隊伍を組んで狩りに当たる。それが普通のことであり、定石だった。
探索者の半数以上は、ギルドから区別されているのを知らない。仕事を斡旋されている上位の探索者。彼らは自分たちとはものが違うのだと、半数以上の者はただ漠然と考えていた。
もっともその区別は何の根拠も無いわけではない。色付きという呼称を知らず、そしてギルド証の色が違うことすら気がつかない彼らには、当然の扱いなのかもしれない。
この世界であれば、魔力を持つ者を除いて誰もが開眼出来る闘気という力。
自らの身体をいじめ抜いて身につけるその力を得ていないのは、機会が無かった訳でも時間が無かったわけでもない。それを得ていないということからも、その扱いの正当性が見て取れていた。
また一匹、大犬を屠る。
これで都合五匹。彼らには、大金星にも等しい数だった。
その高揚感に、彼らにも油断が生まれた。
ノイの腕が脱力する。次来た大犬は、もっと速く狩れるかもしれない。大犬ばかりではない。門を離れ、まだ残っているかもしれない泥牛や羽長蟻を探してもいいかもしれない。
彼らの胸中に湧いた、勇気に似た感情。その感情は彼らの動きを鈍らせ精彩さを欠かせていた。
しばらくして現れた犬に向けて槍を構え、ノイは叫んだ。
「こいつ片付けたら、中行ってみようぜ!」
そう仲間に呼びかける。
応える声が広場に響く。前衛の一人は賛成し、前衛のもう一人と魔術師は反対した。
二対二で分れた意見。一番大きな力を持ち、パーティの生命線でもある魔術師は反対している。だが、このパーティのリーダーはノイである。同じ数であれば、ノイのいる意見が優先された。
実際彼らであっても、街の中心部で戦うことは出来ただろう。魔物を殺せるかどうかは運によるが、戦うところまでは。
その相談が、大犬がいないときに行われたのであれば問題は無かった。
だが、次を見ている彼ら。今目の前にいる脅威への対抗をおろそかにした彼らは、間違いなく街で戦うことは出来ない。
現れた大犬に、いつものように槍を振るう。
毛皮を叩き、肉を打ち、注意を散らしながら魔術師の準備を待つ。
だが、今の彼らはいつもと違う。勇気に似た感情、それは決して勇気では無い。
いつもならいなせた攻撃を、ノイは躱すことが出来なかった。
胴体に感じる衝撃。
思わず挟んだ腕からビキビキと音がした。突き抜ける衝撃に鳩尾が潰され、息を全て絞り出された。
息苦しさと鋭利な痛み。思わず左腕に手をやると、二の腕がぐにゃりと曲がる。焼けた金属を骨に押し当てられた様な痛みに、ノイは叫んだ。
「ぃがっ……!!」
泣き叫ばなかったのは僅かな意地だ。一瞬で噴き出た脂汗を拭おうともせずに、残った脚力で後ろに跳んだ。
前に残った二人は、目を見開きノイを見る。戦場で、敵から目を離すのは致命的な行動だ。このとき大犬が飛びかからなかったのは、ただ運が良かったのだろう。
前衛の二人は生唾を飲み込む。
先程賛成した一人は自らを恥じた。何故行けると思ったのか。ノイがこんなに簡単にやられるのだ。油断をすれば、この地獄の入り口ですら厳しいのに、どうしてその爆心地に行こうと思ってしまったのだろうか。
ともあれ、ノイが抜けた。逃げるわけにはいかない。各個撃破されては目も当てられないことになる。
前衛の意見は、目線を交わすだけで統一された。
先程よりも厳しいが、二人で抑えて魔術師を待つ。その決意に、構えた槍先が少し上を向いた。
だが、すぐにその決意は無駄になる。
槍使いの一人が瞬きをする。
その目を瞑り、そして開けた時には、戦場の様相は一変していた。
響く轟音。細かい礫が脛に当たり、地面が抉られたことを槍使いに伝えた。
瞬きをする前には大犬が座っていた。しかしどうしたことだろう。次に目を開けたときには、犬の代わりに少年が立っていたのだ。
黒い外套を羽織った少年は、戸惑うように瞬きを繰り返した。
「……あれ?」
戸惑っているのは少年ばかりではない。誰も彼も、その場にいる五人は、みなそれぞれに戸惑っていた。
ノイは見た。少年の足下に、原形を留めていない犬の死体を。
痛みに呻きながらノイは理解する。
圧倒的な力。何歩も離れたここにいるだけで感じる圧力に、その風貌。そして、大犬の頭は砕けている。
最近名を上げた探索者の少年。
お伽話の登場人物に近い狐を殺した。
そしてこの戦場の何処かにいるであろう、あの生意気なレヴィンの腕を砕いた。
《狐砕き》とあだ名される、カラスに間違いないだろう。
助けに来たという訳ではなさそうで、カラスは人を探してすぐに立ち去っていった。圧力が消えて、四人はホッと息を吐く。
ノイは屋根を駆けていく少年の後ろ姿を見ながら、ただ違う世界というものを感じた気がした。
駆けていくその向こう側。彼は、その地獄の住人なのだ。
街の西側で、キーチは直立していた。
大犬も毒鳥も一段落し、ここしばらくは来ていない。
先程オラヴの叫び声が聞こえてからしばらく経つ。強化された聴覚でも、もう殆ど戦闘の音は聞こえなかった。
きっともうすぐ終わりだろう。
空を見れば毒鳥も、それに対抗していた紙燕ももういない。警戒は必要だが、一つ段階を下げても良さそうだ。
そう判断したキーチの耳に、やはりオラヴの声が届いた。
「全兵力に告ぐ! 戦闘一時停止! 戦闘行為をやめて、一度拠点まで退却せよ!」
やはり、終わりだ。
槍を握る手に力が入る。戦闘の終わりがやや残念だと思ったのは、ただ純粋にその向上心からだった。
戦闘は終わりだ。だが、キーチは騎士である。その立場上、早くに撤退してはまずいだろう。そう思い、警戒しながら街を出ていく探索者達をひたすら見送っていた。
探索者たちが一段落すればまたそれで、伝令という本来の仕事の時間だ。
緩んだ気を引き締め、肩を回しながらキーチは街の中を見つめた。
やがて、オラヴがやってくる。
「お疲れ様です! ストゥルソン殿! これで探索者の方々も最後でしょうか?」
ストゥルソン卿の責任感の強さから、誰かを残して来ることはないだろう。キーチは軽い気持ちで、そう問いかける。だが、オラヴは首を横に振った。
「いや、まだじゃ。どうも北のほうで問題が起きたらしくてのう。今カラスが向かっとる」
「お……私も見てきましょうか?」
「それには及ばんよ。儂が行く。お主は……」
恐らく拠点に戻れと言うのだろうと、そうキーチは察する。だがそれはできない。失礼なことではあるが、それを遮りキーチは言った。
「では、他の町を守護する騎士団の者に伝えて参ります。これ以降もまた、作戦通りに?」
「……作戦通りで構わん。半刻後、最後の掃討じゃ。では任せた」
オラヴは微笑み、そしてその巨体を翻す。
キーチにもそして微笑んだオラヴにも、その笑みの理由はわからなかった。
オラヴの後ろ姿を見送り、キーチは溜め息を吐いた。
身のこなしからして、違う。何をされたわけでもない、言われたわけでもない。
だがキーチは、色付きの探索者の力に改めて内心打ちのめされていた。
今思えば、昨日からそうだった。
殆どの探索者からは感じなかったが、上司から注意しろと言われた二つ名付きの探索者――色付きと言うらしいが――は、やはり何処か違う。
立ち居振る舞いか、その隙のなさか。判別出来ない細かい部分に、キーチは凄みを感じていた。
戦ってもきっと負ける。村を出て、騎士団に入ってからも数人からしか感じたことがないその感覚。それを昨日から感じていたのだ。
オラヴやレイトン、オトフシ、カラス。それぞれからそれぞれ異なる威圧感を感じとり、キーチの胸の高鳴りは止まらなかった。
見た目では一番与しやすそうな、カラスというあの小さな少年。どこか懐かしい雰囲気のあの少年にすら今は負けている。そう思うと、キーチの腕には力が入った。
あの少年も、今の自分より強いのだ。ならば、いつか自分もあれほど強くなれるだろう。出来る者がいるのだ。自分も、出来る。
キーチも駆け出した。まずは仕事をこなしてから。強くなる、その決意は終わってからでいい。
他の騎士団への連絡が、今の自分の仕事だ。
次は彼らと肩を並べられるように。そうなりたいという願いを込めて、キーチの足音は響き渡った。
連絡も終わり、再度の掃討に備えてキーチは拠点で心身を休める。
だがそこに、深刻な顔をしたオラヴから発表があった。
犯人が見つかった。そして、死んだ。
その報に沸き立つ探索者たちを、キーチは冷静な眼で見つめていた。
犯人は、事故で死んだとオラヴは言った。ならば裁きは? この惨状を引き起こした責任は、その犯人にとらせられないのか。
犯人が死んだことに対して、むしろ怒りが沸いた。
犯人は、あの世へと逃げ切ったのだ。償いもせず、きっと反省をせず。
後半はキーチの勝手な想像だったが、この場にいる多くの者たちよりも、キーチは深く考えていた。
だが、過ぎたことを病んでも仕方がない。
犯人は死んだ。次にやることは、街をもとに戻すことだ。キーチはそう思い直す。
掃討が始まり、キーチは槍を振るう。
思い直したキーチの槍に力が過分に込められていたことを、本人は気付いていただろうか。
掃討の最中、キーチは違和感を覚えた。
魔物が、動物が増えている。それも、クラリセンを駆け抜けるように逃げ惑いながら。
どこかで地響きが聞こえる。北の森から、迫るように。
その違和感の正体は、既視感だった。
経験したことがあるのだ。暮らしていた開拓村で、五年前、ただ吠える生物に身体が疎んだ日。
まさか。
キーチは地響きのする北を見る。その予感は、的中した。
上がる土煙に、もたげられた蜥蜴のような頭。街の建物より高くに上げられているのは、その巨体故にだろう。
色こそ違うが見間違うはずがない。
キーチにとっての強者の象徴。
竜がそこで吠えていた。
周囲の探索者たちが悲鳴を上げる。
槍を取り落とす者に、声にならない笑いを上げる者。
皆それぞれ反応は違うが、胸中は統一されていた。
絶望だった。
キーチの脇を、探索者が駆けていく。その一人を皮切りに、我先にと皆逃げて行く。
当然の反応だろう。およそ人が相手取ることなど出来ない魔物、竜。
それが目と鼻の先に現れているのだ。
絶望しているのは、キーチも例外ではない。
竜を相手取れるとしたら、この国そして王を守護するいくつかの聖騎士団。そして、単騎で相手取れるのはその団長たちくらいだろう。皆はそう思った。
当然その者たちは、この近くにいない。ならば逃げるしかない。道理だ。
だが、キーチは知っている。
聖騎士団長でなくても、単独で竜を撃ち落とせる者がいる。弓を用いて牽制し、方向を変え、被害の出ないよう定めて撃ち落とす。なりふり構わずでもなく、理性と余裕を持ってそれが可能な者を知っている。
五年前にキーチは見た。身体中の細胞が戦闘を嫌がり縮こまるほどの恐怖の中、竜が撃ち落とされる姿を見たのだ。
竜を倒せる者を知っている。それはキーチの心の中で、他の探索者とは異なる確かな優位性になっていた。
キーチの足が竜の方を向く。
戦わねばならない。そう思った。
デンアを知っているということは、確かにキーチの心に余裕を作っていた。
だが、それだけで竜に立ち向かえるわけがない。
彼を支えているのは、正義感と責任感だった。
昨夜オラヴは言った。「街のために死力を尽くす」と。そう騎士階級である彼が言ったのだ。
国のために、街のために、民草のために。誰かのために戦うその思いはきっと、階級である騎士も組織名である騎士も変わらない。キーチはそう信じていた。
空気が濃くなり壁と化したように、キーチの歩みは鈍い。
しかしこの足を止めるわけにはいかない。
竜には勝てないだろう。キーチは分析するまでもなくそう思う。手は震える。足は止まりそうだ。先程どっと噴き出た汗で、身体は冷え切っている。
だが、勝てる勝てないではないのだ。
人々を守る武力集団。騎士たちであれば、ここで逃げるわけにはいかない。
務めを果たすのだ。どんな魔物であれ、人々の安全を脅かす存在に背を向けることなど許されない。
その矜持が、キーチの足を止めさせなかった。
戦闘の始まった音がする。
木々が折れ、地面が割れ、命を奪い合う音がする。
誰かが竜と戦っている。その剛胆な者は誰だろうか。まずキーチはオラヴを思い浮かべた。ストゥルソン卿ならば、人々を守るため立ちはだかることが出来る。話に聞く魔剣ならば、巨竜の肉を裂き骨を断つだろう。
だがその武器を失ったことは知られている。
「総員! 退却しているものは戻れ! 竜は打ち倒される! 臆せず魔物を排除せよ!」
それに、今聞こえたのはオラヴの声だ。竜から大分離れた位置から発せられたその言葉で、オラヴが戦っているという線は消えた。
ならば、誰だろうか。
駆けて行くキーチの脳内で、次の候補が検索される。
オトフシは違う。魔術師ではあるが、得意なのは紙を操り索敵や戦闘をこなす紙術らしい。大規模な魔術も使えるだろうが、あの竜相手に戦えるほどではない……と思う。
失礼な話ではあるが、と誰にいうわけでもないのに内心キーチは付け足した。
では、レイトン・ドルグワントか。戦い方はさっぱりわからないが、オラヴやオトフシと並び称される程だ。竜を相手取り、今戦っているのは彼かもしれない。
そう勝手に納得し、キーチの思考は止まった。
そして、キーチの足も止まる。
それは臆したからでは無い。竜の圧力に負けたからでも無い。
歩みを進める、必要が無くなったのだ。
目映い閃光が走った。
空から地面へと降るように走るその光に、視界が真っ白に染まった。
次に、雷が焼き付いたかのように暗転する視界。
その奥で続いているはずの、戦闘音が止まる。
キーチは考える。
今のはなんだ。今の光は、まるで、あの日見た竜の最期。
脳裏に浮かんだ光景に、今の光景が重なる。
あれは、《山徹し》。そのものだった。
だが、もう一つ。何故だかわからないがキーチの脳裏に一つの光景が浮かぶ。
折り重なった猪の死体。足掻くように蹴られた地面。自分も村をも動かした、正体不明の存在。何度も行われた山狩りは効果を見せず、見つからずに逃げおおせている妖精とも言われる人外の者。
浮かんだ光景を打ち消すようにキーチは頭を振る。
今そんなことを思い出している暇は無い。今は無関係だ。仕事とも、《山徹し》とも。
しかし、震えは止まらない。今度の震えは恐れからでは無かった。
その震えにキーチのつま先は反転し、再び街中へ誘われる。
それからのキーチの働きぶりは、虎が爪を研ぎ終えたように凄まじいものだった。
近くにいた探索者は、そう後に語った。
竜を打ち倒す火を見ることが出来るのは、竜を打ち倒す意思を持った者だけである。遙か昔の英雄譚には、そう記されている。
この日クラリセンには色付きとも呼ばれる強者や、数多の英雄候補が集まっていた。
彼らは戦う力を持ち、そして強い。
だが、偶然も手伝っただろう。
大勢の者は、建物からの照り返しを見た。白く染まる空を見た。
葛藤するオトフシは自らの手を見つめ、迷いを消そうと奮闘するオラヴは指揮をすべき者たちを見据え、そしてレイトンはまだ見ぬ巨悪を消し去るため、獣人の姉妹を見ていた。
この日、竜を打ち倒す光を直接見ることが出来たのは、撃った本人のカラス。
そしてもう一人。責務のために奮い立ち、絶望に塗れても歩みを止めなかった、キーチ・シミング。
ただその二人だけだったという。