閑話:内緒の楽しみ
三人称のいわゆるSIDE:○○
ここに限らず、閑話はフレーバーテキスト的なもので本編の流れに関わりません。
この村には妖精がいる。エルシーはそう朧気ながらも確信していた。
妖精。それは月の欠片。そしてお伽話の中の存在。勇者の冒険譚では羽の生えた小さな少女がそうであり、エルシーの地元だったミールマンの近くでは、ぼろ切れを纏い髪の毛を伸ばしっぱなしにした小男だ。
もっとも、その存在を信じているのは幼い子供くらいで、七歳を数える頃には誰もがその存在を否定してしまう儚い存在でもあるが。
だが、夢見がちだと夫に叱られてばかりの彼女は、大人になっても妖精を信じ続けている希有な女性だった。
そして類は友を呼ぶという言葉通りに、彼女と仲が良い女性達もまた、半信半疑ながらも信じていた。
今朝もいつもの井戸端会議が始まる。
井戸の周囲で始まるから井戸端会議というのであるが、やはり小さなこの村ではそれは顕著だった。
朝の水汲みは基本的に女性の仕事だ。夫や小さな子供は畑仕事や家畜の世話に出かけ、女性はそれを待っている間に共用井戸の水を家に持ち帰る。誰が言うともなく、そういうものだった。
そして、皆がそれぞれいつもの時間に井戸で水を汲むため、顔を合わせる人もいつも固定となってしまう。その結果が、井戸端会議である。
もっとも井戸以外でもそれは行われ、軒先で行われることもあれば、誰かの家に軽食を持ち寄ってすることもある。噂話や時事の話題は、小さな村ではそれだけで楽しみになるのだ。
水を汲んだ水桶を地面に置き、それから誰からともなく話し始める。
今日も、エルシーを含む五人の会議が始まっていた。
「あら、昨日はそちらのお宅が?」
「ええ、ええ。なので、今日は大猟かもしれませんよ。余ったらお裾分けしますね」
今日のトピックは、三件隣のお宅の調味料が、少なくなっていたということだ。
エルシーも何度も経験がある。最初気がついたときには、気のせいだと思った。それが一月ほどの間隔で二,三度繰り返されて、ようやく違和感を覚えた。そして最初に気がついたときから一年も経つ頃には確信していた。
塩が、少なくなっている。
大した量ではない。一度に、子供の手で一掴みほど。注意してみたところで、ほんの少し違和感を覚える程度。だが、確実にそれは減っていた。
本来ならば当然、それは騒ぎにするべきだろう。小さな共同体で、盗みを働くということ。それは共同体全体への裏切り行為に値するし、そもそも盗み自体由々しき犯罪だ。すぐに全体にその情報を共有し、そして対策をするべきだ。
だが、エルシーはそれをしなかった。悪意があったわけではない。ただその直前に一つ、見てしまっていたからだ。
ふらつき転びそうな我が子が、不自然な体勢から立ち上がり何事もなく歩き始めた姿を。
それを見たのは一度だけだ。塩の消失とは一切関係なく、ただある日、他の仕事をしている最中、ふと見た息子が不自然な動きをしていた。
それは奇怪なことだ。それだけで、大騒ぎをしてもおかしくはない。ただ息子も不快そうではなく、ただ助かって楽しそうに笑っていたということが、エルシーの周囲へ訴える気を何となく失せさせた。
出来事を深く考えないということの是非を置いておけば、その子供本位な考え方は母親としての美徳ではあるだろう。その息子を助けた何者かが、息子を傷つける存在ではなかったという幸運とは無関係でもあるが。
息子を助けてくれた存在。その存在をエルシーは確信した。
心当たりという程までもいかない、予兆はあったのだ。フラウが赤ん坊の時に、たまに何もない空間を見て笑っていた。我が子一人きりのはずの部屋から、我が子の笑い声が聞こえていた。
それまでは深く考えていなかった。子供とはそういうものだ。外を舞う小鳥の囀りに笑い、雲の影を怖がり泣く。そんな、大人にはわからない快不快の感情がそうさせているのだろう。そう思っていた。
たしかにそれは正しかった。フラウは妖精を見て笑っていたわけではない。妖精と話して楽しんでいたわけではない。ただ頬をくすぐる隙間風に、天井の空間に想像した楽しい光景に笑っていただけだ。
だがしかし、エルシーはそうは思わなかった。
古くからの伝承、妖精が我が子を笑わせていたのだと、そのときそう思った。いや、本当はいないことなどわかっている。けれどもその心の中に生きていた少女は、そう願った。その願いが、大人の彼女の判断を鈍らせる。
騒ぎ立てることはしない。けれど、もしも誰かが声を上げれば、その時は改めて証言する。
大人の現実的な判断と、少女の夢見がちな願望のせめぎ合いの末。それが、エルシーの出した結論だった。
しかしやがて、塩や調味料の消失に気がつく者が他にも現れる。それが女性達の中で噂として広まるのに、そう時間はかからなかった。
けれども、誰もそれを騒ぎにはしようとしない。誰かの口に上るまでは皆それを自分の気のせいだと思っていたし、そして口に上った後もそれは、女性達の間で楽しみにすらなっていた。
何故か? それは、例えば塩が消えた日は、決まって良いことが起こるからだ。
それが何かは決まっていない。薪の火付けが手早く出来たり、暑い夏の農作業中に心地の良い風が吹いたり、猟師の旦那が大猟だったりと、その幸運は様々だ。
やがて、誰かが言い出した。それは、『妖精の仕業』だと。
ミールマン地方で信じられていた『妖精』は、食物と衣服を求めて家人のいない家屋を探索し、そして僅かな食物を盗み、そのお礼に家畜の世話や家事の手伝いをしていくという。
そういえば、と誰かが言った。自分の家の子供が、水遊びの最中に衣服を紛失したと。
肌に張り付いた布がうっとうしくて、子供が脱ぎ去った直後、それを紛失してしまったという。
勿論、妖精がそれを盗んだなどと誰も思わない。ただ単に、何かの拍子に流れていってしまったのだろう。皆も薄々そう思っていた。
だが、食物の消失に、衣服の紛失。その二つの事象をつなぎ合わせて、噂話は『妖精』を作り出す。
楽しみに飢えている女性達にとって、その噂話は大事なものだ。もしも夫に話してしまえば、その噂話は真相を確かめられてしまう。噂話ではなくなってしまう。
果たして、飢えた自分たちの楽しみを守るために、驚くほど堅くその秘密は守られることとなった。
その噂話をする時間帯、件の『妖精』は水浴びや鍛錬を日課にしていたという偶然も、それを助けた。
『妖精』がその噂話を知れば、その『妖精』も消えていたであろうから。
勿論その秘密への代償はある。都市部で働くよりも少ない稼ぎから捻出された日々の糧。その中から、僅かながら何かが消えていく。それはたしかに忌むべき事だ。
だがそれを代償に、旦那への秘密を持つ背徳感。それを彼女らは欲した。浮気などよりも簡単に得られ、そして露見しても自らが大きく傷つくわけではない噂話。そしてそれを隠していた言い訳となり得る幸運も揃っている。
日常の中で感じられるその僅かな高揚感に、彼女らは心の何処かで酔いしれているのだ。
『知らぬは亭主ばかりなり』という言葉。
それはどの世界であっても、そして不貞以外にも当てはまっていた。
ある日、村で一騒動が起こる。
猪の死体が見つかったのだ。それも、何者かに殺された無残な姿で。
村人達は慌てた。猪が死んだことに対してではない。猪を殺すような存在が、この村にいたということに対してだ。
男達はすぐさま捜索隊を結成し、そして山狩りを行った。しかし大した成果は無かった。
恐ろしい。女性達もそう思った。その犯人は自分たちの話していた『妖精』ではないか。そういう話が持ち上がるほどに。
たしかに、地方によっては恐ろしい妖精もいる。どこかでは、幼子を抱えた女性に取り付き、その魂を奪うという鳥の姿をした妖精の伝説もあると聞く。
エルシーが子供の頃、酒に酔った旅人から聞いた話ではあるため、何処の話かも定かではないが。
だがしかし、秘密の共有はその集団の結束を強化し、そしてそれを維持する力を持つ。端から見れば愚かなことではあるが、本人達にとってそれはとても重要な事だ。
妖精の仕業と決まったわけではない。皆はどうにかして現状を維持しようと、そう明るく否定する。
その結果。その事件は噂の露見に決定的なこともなく、『妖精の噂』の背徳感に恐怖感を付け加えるだけに留まった。
彼女らの秘密の限界が近付くのは、まだ先のことだ。
ある日。もう妖精の存在が女性達の間で当然のものとなっていた冬。
新年祭が近く、彼女たちもその準備に忙しさを感じ始めた頃。エルシーも、その祭りの準備に携わっていた。
今年の彼女の役割は、砂糖菓子の用意である。扁桃と砂糖の粉を練って作るその粘土のような生地を成形し、牛の形を作る。地元では子供の頃から従事していた年越しの仕事ではあるが、エルシーはこれが苦手だった。
練った生地を大まかな形にまとめ、決められた箇所に鋏で切れ込みを入れ、捻って伸ばしてヘラで整える。
何度も作り直し、砕いては練り直し、そしてなんとか形にして溜め息を吐く。その繰り返しだ。本来はしっとりと美味しく出来上がるはずだが、その作り直しの過程で変質して食感が不味くなるのが本当に残念と彼女も思っていた。
だが、祝いの物でもあるし、そんな味など気にする者もいないだろう。そう思いながら作っていく。子供の世話や作り直しのために時間がかかり、一向に数が揃わなかったがそれに関しては彼女は何も思わなかった。
ただ、途中で数が増えていたのは、子供のイタズラだろうか、それとも妖精のイタズラだろうか。エルシーにそれは判別出来なかったが、どちらにせよ少し嬉しく感じて機嫌良く残りを作り上げていく。
これは自分が食べよう。そう思い、印をつけておくのも忘れずに。
新年も過ぎ、種まきの時期となって、畑の手入れを始める頃。
パンと塩漬け肉のスープという簡素な夕食を取っていたエルシーの食卓で、エルシーにとって、いや、村の女性達にとっては聞きたくないであろう言葉が息子の口から吐き出された。
「今日ね、新しい友達が出来たんだ!」
今日あったことを何気なく親に報告出来る。それは健全な家庭の証しである。
しかしその嬉しそうな息子の言葉。本来ならば喜ぶべきその言葉を聞いて、エルシーの胸はドキリと震える。
まさか。そう、嫌な考えをしてしまうのは、もうそろそろ時間の問題だと皆が薄々思っていたからだろう。秘密の崩壊。それは起こらないはずもなく、まだ起こっていないだけ。それだけだった。
その崩壊が自分の息子によって引き起こされるとは、エルシーも思ってはいなかった。だが、心の何処かで腑にも落ちている。
その『妖精』の幸運は、フラウにまつわるものが多かった気がする。考えてみれば、フラウが乳児の時からして、妖精はフラウと遊んでいたのだ。そして直接幸運が起きているという、他の家では聞かない話。きっと、妖精に一番近しい子供はフラウなのだろう。
息子への憤りは無い。だが、少しの虚しさと、女性達の間の秘密を壊してしまったことに申し訳なさを感じた。
実際には皆残念に思いこそすれ、すぐに忘れ去り新しい噂を作るだろう。だがそれは、終わってから言えることである。その時のエルシーは、ただただ皆への謝罪を考えるので頭がいっぱいだった。
夫の顔を見れば、不信感を露わにして眉を顰めている。
それは当然の反応だろう。そうエルシーも思う。最近、誰かが越してきたという話は聞かない。そこにいきなり現れた正体不明の子供。子供かどうかすらわからない。正体不明のその存在に、警戒するのは当然だ。
続くフラウへの詳細な聞き取り。それから間もなく、夫はそれを村の重役であるシウムに報告に出かけた。
明かりの無い村で、夜も更けた頃出かけるというその行為。それはそれだけでその事の重大性を示し、それもまたエルシーを苦しめた。
秘密はいつか必ず暴かれる。
女性達が共有していたその秘密は、その日暴かれることになる。
その寂しさと、楽しみを失った喪失感。それを胸に、エルシーはそっと月を見上げる。曇り空の雲の切れ目から、満月の光が差し込んでいる。
考えてみれば、フラウが幼い頃から、その妖精はこの村にいたと思う。そして、フラウを見守り守ってきてくれたのだ。
その妖精には何もしてあげられない。
シウムに彼と仲の良いカソク、そしてデンア。全員が全員、凄腕の探索者だと聞いている。
姿を見せた、小さな少年。きっと彼はすぐに見つかってしまうだろう。エルシーは彼を守れない。ここ数年、皆の無聊を慰めた彼の助けにはなれない。
むしろ、おびき出して捕まえる案を出すべきだ。この村の一員として、彼を。
だが、それも出来ない。
今まで我が子に幸運を授けてくれた恩を、仇で返すことなど出来はしない。
村の一員として、夢見がちな少女として、彼女の葛藤は続く。
だが、時間は待ってはくれない。
何もしては上げられない。その無力さを噛み締めながら、彼女は妖精の無事を祈っていた。
どうか、見つからずに逃げおおせてほしい。
そして、また息子を笑わせてほしい。
彼女の願いを聞き入れたのだろうか。
満月は妖精を隠すように、雲の中に姿を消した。