後編 かわいくなりたい
今日は快晴だった。
うららかな春の一日だ。
俺は実家を出て、近くの山道を歩いた。実家周りの一帯はある意味ばあちゃんの縄張りだ。
道端には、おとぎの国を想像させるカラフルな花々が咲いていた。ばあちゃんが一生懸命育てたものだ。
時折通り過ぎる風は、陽の温かさを乗せた優しい風である。
頬を撫でるその風が心地よい。
しばらく歩くと、桜の木に覆われた細道に差し掛かった。
こういう所は人目に付きにくい事もあり、昔から獣道と称され、警戒されている。通るときは、熊よけのために鈴などで音を出す必要がある。
熊は凶暴な肉食獣に思われがちだが、こちらが近づかなければ大人しいものだ。人が発する音に反応して逃げていく。『シャトゥーン』の小説みたいな人食い熊はまれである。
まあ、幼い頃しか田舎にいなかった俺にとっては、全てじいさんやばあさんの受け売りなのだが。
音を出すものが無ければ、人間自身が音を出さなければならない。だからって鈴みたいに身体を揺らすわけじゃない。
俺は、調子外れの歌を歌い始めた。
どうせ近くに民家や人はない。カラオケに行く友達もいない俺は、日頃のストレスを発散する事にした。
……ぽー……
俺の歌に混じって、何やら音がした。風の音だろうか。
……ぽぽ、ぽっぽぽ、ぽっ……
違う。風じゃ、ない。
(鳥……?でもない、か。熊でもない。だが生き物の声だ。意思を持っている声だ。どこだ、どこから聞こえてくる?)
それは、どうやら俺の歌に合わせているらしい。俺は歌うのをやめ辺りを見回したが、人影はない。
……ぽぽっぽ、ぽ、ぽぽ……
その音、いや声は近づいてきていた。だが一向に姿が見えない。
透明人間か?馬鹿な。昨晩の出来事と言い、俺はここに来てから頭がおかしくなっているのか。長年の都会暮らしからの、ちょっとしたカルチャーショックといったところか。
これも幻聴か?
そう考えた俺は、やおら耳をふさいだ。
当たり前だが、何も聞こえなくなった。
無音は、次第に心を落ち着かせてくれた。
数秒の後、ゆっくりと手を離した。
あの声は聞こえなかった。
やはり幻聴だったか。
それにしても幻聴まで聞くとは、そろそろまずいんじゃないか。もしかしてばあちゃん達は、それを察して帰るよう促したのかもし
「ぽーーーーーーーーーーーーーーーーー」
俺は振り返った。
そこには、一人の女性がいた。
真っ白なワンピースに、同じく真っ白な帽子を被っている。
目深に被った帽子で、表情はうかがい知れない。
彼女の頭部は、隣の桜の木と同じ高さにあった。その木の高さは、約二メートル半。古来の尺貫法に換算すれば、
約八尺。
「八尺様」
俺はもう一度、その名を口にした。
そう、昨晩見たあいつ。あの顔つきは、最近インターネットで出回っている画像に瓜二つだった。ネット上の掲示板で「この子すごい怖いんだがお前らの力で何とかかわいくさせてやってくれ」というスレに上げられたのが初出らしい。
その画像の名は「八尺様」。
八尺様とは、田舎の都市伝説に出てくる、背の高い女性の名だ。田舎に帰省する若い男性が魅入られ、彼女から逃れるには一夜を過ごし、日の出ている間に帰るしかない。
昨晩はそれを思い出し、俺は八尺様と言ったのだ。
目の前の女性は、帽子を取ろうとした。
その下は、その顔は、まさか。
「ぽ?」
透き通るような白い肌。
大きなくりくりとした目。
顔にかかった長めの前髪。
特徴は一致する。しかし、あいつではなかった。あいつとは大違いの、可愛らしい女性だった。
彼女は、八尺様は言葉を発しない。
いつも「ぽぽぽ……」という不思議な声を出すだけだ。
八尺様は俺をじっと見つめていた。
俺は何と言って良いかわからず、黙っていた。
すると、八尺様はにっこりと笑った。都市伝説や例の画像にあるような不気味な笑みではない。
春風のような、優しい笑みだった。
俺はただ、その光景に見とれていた。それは、見る者の心に安らぎを与えてくれる。
まるで、俺が描いていた故郷のように。
二人の間に一陣の風が吹き、花吹雪が舞った。
八尺様は、消えていた。
実家に戻り、ばあちゃんとおじさんに八尺様の事を伝えた。
二人は「ついに見てしまったか」と落胆して、俺が知りえていなかった事を全て説明してくれた。
幼少の頃、俺はこの土地で、八尺様に魅入られていたのだ。
実家の二階の部屋は、俺が八尺様をやり過ごすために、一夜を過ごした部屋だったそうだ。高校で習った「物忌み」に近い。
幼かった事もあり、出ようとする俺は布団に包んで縛られたという。立派な虐待だが、それをしなくてはならないほど、俺の家族は八尺様を恐れていたのだろう。
引っ越しの車もそうだ。八尺様の土地から逃げる時は、魅入られた者の周囲を血縁関係のある男性で囲み、八尺様の目をごまかさなければならない。
そして、その時に少しでも外の景色を覗いたら、八尺様と目が合い、魂を抜き取られてしまうという。
俺が幼少期に体験した引っ越しは、全て八尺様から逃れるためのものだったのだ。
「お前に八尺様の災いが降りかからないよう、おれだぢはお前を、この土地へ寄りつかせなかったんだ」
おじさんがそう言って、長い話が終わった。
「これで分かったべ、お前はここさいたら駄目だ。早ぐ帰れ」
ばあちゃんが鬼気迫る顔で言った。帰らせるために、また血縁関係の男性を集めるとも言いだした。
「俺は一人で帰る」
俺は思い切ってそう言った。当然、ばあちゃんは驚き、許してくれなかった。
「俺は、八尺様は悪いものじゃないように思えるんだ。ネットやこの土地で言われているのは、被害妄想に過ぎない。現に俺は二度も出会ったのに、ぴんぴんしている」
「インターネットと昔からの話を一緒にしちゃいかん。大体お前の……」
「確かに昨晩会ったのは、その言い伝えがあってもおかしくないほど恐ろしい顔だった。だけど、さっき出会った八尺様は、こう言っちゃなんだけど、とても可愛らしい普通の女性だった。あの笑顔を見ると、心が安らぐんだ」
ばあちゃんはなおも反論しようとしたが、俺はその隙を与えなかった。
「恐ろしい方の顔は、この土地に根付いた八尺様を恐れる心が、そうさせたんだと思う。だけど、俺は恐れなかった。驚きはしたけど、忌み嫌うほどではなかった。あらぬ偏見もなにもない、まっさらな気持ちで八尺様と出会ったんだ」
ばあちゃんもおじさんも、黙って俺の言葉を聞いていた。
「八尺様はきっと昔から、かわいくなりたかったんだよ。本当の姿で、皆から愛されたかったんだ」
昼過ぎ、俺は自分の車に乗った。
ばあちゃんは、畑で採れた野菜を土産にくれた。俺に言い負かされたからか、その表情は諦めに似た気持ちが見えた。
「じゃあ、来年も来るから」
元気よくそう言い残すと、俺は車を発進させた。
運転しながら、バックミラーを見た。
遠くでばあちゃんとおじさんが手を振っていた。そして実家の近くにある桜の木の隣には、八尺様がいた。さっき出会ったままの表情だ。
やっぱり、彼女は悪いものじゃない。
彼女は、この故郷の化身だ。
そして、故郷を彩る桜の化身なのだろう。
自然は、ともすればちっぽけな人間達を怯えさせ、畏敬の念を抱かせる大きな存在だ。同時に、その度量で人間を包み込んで安らぎを与える、母なる存在でもある。
その自然の新たなる始まりを告げる、春の桜。
八尺様は今、ようやくその花を咲かせたのだ。
車は、桜の木々が覆いかぶさる道に入った。
ようやく見る事が出来た、帰り道の景色はきれいだった。
それは、故郷と俺の呪縛を解く事ができたからかもしれない。
満足げにその光景を眺める俺は、そのまま助手席の窓を見た。
窓の外から、八尺様が覗き込んでいた。
こんなところまで見送りに来てくれたのか。
彼女はにっこりとあの笑顔を浮かべ、俺と目を合わせた。
俺と目を合わせた。
目を合わせた。
強い風が吹き、桜の花弁が散った。
それらはどんどん量を増し、ピンクの巨大なカーテンとなって車のフロントガラスに覆い被さってきた。
横でも後ろでも、狂ったように花弁が上へ下へと舞っていた。
俺の車が、桜の花弁に包まれていく。もう前も後ろもわからない。今どこを走っているのかもわからない。
ふいに、地面に当たるタイヤの音が途切れた。
車体が大きく回転する。
俺が最後に聞いたのは、花弁がこすり合う音にまぎれた
「ぽ、ぽ、ぽ……」
という声だった。
実家で、男の祖母と親戚の男が立ち尽くしていた。
男の祖父は、男が故郷を離れてから亡くなっている。八尺様に魅入られた男の、身代わりとなって。
「あいつはまた、八尺様さ魅入られた。もう、守ってやる必要もねぐなった」
祖母が小さく呟いた。
東北の田舎に、満開の桜が咲き誇っていた。
美しい花を咲かせる桜は、その魅力で人間をおびき寄せ、魂を吸い取るという言い伝えがある。
彼らの屍に深く根を張り、今年も桜は怪しく美しく咲いている。
(終)