白銀の姫君
「それまで!」
模擬戦終了の合図が告げられた。
青年は対戦相手に一礼すると、その場を後にしようとしたが、
「クロノ」
審判を勤めていた中年の男性に呼び止められた。
中年とは言っても、雰囲気はとても若々しく、余計な脂肪や筋肉が一切付いてない磨きあげられた肉体をしていた。
「何ですか、父さん」
クロノと呼ばれた青年は、抑揚のない声で返事をした。
「わざわざすまなかったな。演習に付き合わせて」
「気にしないで下さい。父さんの頼みならいくらでも」
クロノは言葉では殊勝なことを言っているが、口調は先程のようにまったく起伏がなかった。 しかし、父さんと呼ばれた男性はそれを気にすることなく、
「そうか、そう言ってくれると助かる。また頼むと思うからよろしくな」
彼は知っていた。
クロノは単に感情を表に出すことが下手なだけであって、本当に父の頼みを快く受けていることを。
クロノは父親に会釈すると演習場を後にした。
先刻の戦いに反省点がないか、頭の中で反芻しながら廊下を歩くクロノの背後に、怪しい影が一つ現れた。
「見つけた♪」
その影は楽しそうに口端を吊り上げた。
「クーロー……」
その影は全力で走って背後からクロノに近づき、
「……ノ!」
全身で全力で体当たりを、もとい抱き着いた。
抱き着いた後も絞め殺さんばかりのいきおいで抱きしめてくる。
抱き着かれたクロノは、というと、
「……」
首を極められ、息が出来ず声も出せず、密かに人生を終えようとしていた。
しかしこんなところで死ぬわけにもいかず、とりあえず首を極めている腕をタップする。
「あ」
そこでようやく背後の人物はクロノの顔が青くなっていることに気がつき、力を緩めた。
「げほっげほっ」
酸素を吸い込める喜びを噛み締めながら、咳込むクロノ。
「あはは、ゴメンね!ついうっかり!」
件の人物は全く悪びれた様子もなく、またもクロノに飛び掛かろうとしていた。
「ル、ルキア様……これ以上は冗談抜きで危険ですので」
クロノが手で動きを制止しながら、懇願する。
「そ、仕方ないわね。にしてもクロノまだまだね! 私に背後を取られるなんて」
「申し訳ございません姫様」
「もう、また姫って言った! さっきはちゃんと名前で呼んだのに! 余裕が出来ると姫って言うのね」
ルキア、あるいは姫と呼ばれた少女は不満そうに指摘した。
「姫様は姫様ですから」
「それは何度も聞いたわ。余裕がないと名前で呼ぶのなら、常に首でも締めていようかしら」 クロノからすれば恐ろしい言葉が呟かれた。
「考え直して下さい姫様」
「じゃあ、ルキアって呼んで。なんなら呼び捨てで構わないわよ」
ルキアはクロノが頼んだ瞬間に切り返した。
その、あまりにもの間のなさにクロノが怪訝そうに尋ねる。
「今の流れ、すでに考えてありましたね?」
「なんのことかしらっ」
その悪戯っぽい笑みは全てを肯定していた。
クロノは溜め息を一つつくと、
「立場をお考え下さい。私のような一介の兵士が主人たる姫様を呼び捨てになど出来るわけがないでしょう」
「近衛騎士の次席は一介の兵士じゃないと思うんだけどなぁ。それに昔は呼び捨てだったじゃない」
「それは3歳くらいの時の話でしょう」
「それなら、姫って呼びはじめたのなんてここ1・2年じゃない。せめて名前で呼びなさいよー」
「だだをこねないで下さい」
「えー、じゃあ今から言うこと聞いてくれたら今回は諦めてあげる」
「またですか? 今度はなんですか?」
「うーんとね、」
ルキアはたっぷりと間を置いてから、満面の笑みで答えた。
「城の外に出たい!」
「駄目です」
瞬殺だった。
「じゃあ、名前で呼んで」
こちらも即答。
「……」
クロノは見た目には無表情に、見るものがみれば困り果てた顔で黙った。
「……」
ルキアは見た目には満面の笑みで、誰が見ても極上の笑顔で黙った。
「はぁ」
深い深い溜め息がクロノの口から漏れる。
それを見たルキアは勝利を確信した。
「仕方ありませんね」
「やったっ」
「ただし、王の許可を得たら、です」
「じゃあ父様に聞いてくるっ」
嬉しくて跳びはねるように、ルキアは方向転換し、目的地へと向かう。
振り返った拍子に、髪がふわりと舞い、クロノは思わず見とれてしまった。
ルキアの銀の髪は膝下まで届くほど長く、陽の光を浴びて輝いているように見えた。
繊細で柔和、華美であり、しとやかで。
ルキアは髪飾りをほとんど付けない。
それはどんな髪飾りを付けようとも、圧倒的なまでの存在感と美しさを持つ銀の髪が人々を魅了してしまうため、髪飾りを見る者などいないからだ。
豪奢な髪飾りも引立て役にすらならない。
毎日のように見ているクロノですら、ルキアの髪に心奪われることは少なくなかった。
「どうしたのークロノー? 早く父様の所まで行くよー」
その呼び声でクロノは我に帰り、
「今行きます」
照れ隠しに、素っ気なく答えた。