二話 ここは異世界でした
さて、目下の障害は始末したし、こんどは質問の時間と行こうか。
「で、おかしなこと聞くけど、ここどこ?」
「えっ、ここは、えっと、トリナール東の森です」
あっけにとられていたらしい女の子の言葉からは動揺が感じ取れる。あんなデカい怪物を一瞬で蹴散らしたんだから無理もないだろう。俺だって昔なら同じく半ば上の空の状態だし、追い払うどころか、全力ダッシュで逃げていただろう。
それにしても聞いたことのない地名だ。ここが見知らぬ土地であるのは間違いないらしい。似たような名前の大都市は知っているのだが、あの街には森と言えるようなものはなく、せいぜい木々に覆われた公園がある程度。あんなデカい怪物は絶対に出てこない。
「それにしてもすごいです。あんなのを簡単に、しかも生かしたまま逃がすなんて。さぞ高名な魔導師さまなんでしょうね」
彼女は打って変わって、輝いている碧眼で俺を見つめている。賛辞は嫌というほど耳にしてきたが、今回は自分の力で成し遂げた事で讃えられている。褒め言葉を言われるくらいならストレートに批判された方がいいくらいだったのだが、なんだか嬉しい気がする。自分で何かをして人を救ったなんていつ以来だろうか。
「そんな大それた者じゃない。それと、もっと楽な態度でいいよ」
彼女も俺も同じような年齢だろう。
「いいのですか?」
「むしろこちら側から願い出たいくらいだ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「ああ、それでいい。俺はハルカ・ブラックウッド、君は?」
名を名乗ると、彼女の表情が一瞬、意識しなければ気がつかないほどであるが険しくなり、直後に前と同じく敬意を湛えた瞳に戻った。ふむ。
「リーネよ、よろしくお願いね。名字があるってことはあなた貴族?」
「いや、君は名字がないのかい?」
「当たり前でしょ。名字があるのは貴族だけ。平民は名前しかないわ」
思いもよらぬ返事が返ってきた。名字がないのは問題がない。文化圏によってはそういう人もいるからだ。しかし、名字の有無が身分の貴賤につながるなど大昔の話のはず。貴族の称号は今なお存在している。『彼ら』の一人がそうだ。そう、称号だけ。それに付随する特権はもはや存在しない。下手したら封建制度よりもひどい格差があるかもしれない碌でもない時代だが、法による身分格差がないのはいいことだ。
とにかく、今の世界に封建制度は存在しない。もし、本来の世界ならば例外などない。とすると、もしかして?
「もう一度おかしなことを聞く。この世界の名前は?」
つい頭を抱えてしまった俺に、彼女はいぶかしげな表情を浮かべている。そりゃそうだ、ここがどこだとか、挙句の果てには世界の名前などという常識を訪ねているのだから。
「本当におかしなことをきくわね。まあいいわ。ソールシア、それがこの世界の名前よ」
やはり異世界か。今の俺はめったなことでは驚かないし、そうであろうという予測が名字云々の時点で出来ていた。けれど、何かでガツンと頭を殴られたような感じがする。まったく、世の中想像しないようなことが起きるものだ。
ここで一つ、興味深いことを思いだした。欲深いあの連中は今の世界だけでは飽き足らず、別の世界へ進出しようと莫大な予算をつぎ込んでいたということだ。その計画を知ったのは去年で、計画の進展については全く知らない。知っているのは巨額の資金を異世界開発に使用していたという事実だけだ。
まさか、これは連中の仕業なのか? いや、間違いなくあの男は俺を始末したがっていた。不穏分子は徹底的に、跡形もなく踏み潰すあの男が俺に復讐の機会をあたえるような真似をするわけがない。ならば、俺はあの牢獄から逃げ出せたと考えてもいいのだろうか? 異世界開発の進行具合は不明だが、無数にあるだろう広漠たる異世界で俺を発見できる可能性は海に落ちた指輪を見つけるくらい、連中の力を以ってしても、海が砂漠になる程度だ。
「あなた大丈夫? 貴族かもしれない人に言うのは失礼かもしれないけど」
心配してくれているのだろうか。手が邪魔して見えないかもしれないが、俺の口元は緩んでいる。今すぐにでも大笑いしたいくらいだ。リーネがいるからできないけれど、それこそ狂ったほどに。未知の世界に物思いを患っているのでも、畏怖の念を覚えているのでもない。純粋に嬉しいんだ。あの監獄を抜け出せたのだから。出口のないと思われた迷宮に光がさしたのだ。
脳みそから全身に急速に拡散する喜びをどうにか抑えて、改めて彼女を見てみると、かなりの美少女だ。服こそ地味なワンピースだが、腰のあたりまで伸びるしなやかな髪、白磁のように肌は真っ白い。そして出る所と出ないところがはっきりしている理想的な健康体形はワンピースの上からでも把握できる。背の高さと同じくらい、女子としては結構高めの部類だ。
人をかわいいとか思える機能が自分に残っていたのにもまた驚いた。ほとんどの感情を失ったと思っていたのに、驚いたり、魅了されたり、興奮したり、まだまだ俺も捨てたもんじゃない。まったく、十七歳にして精神は枯れきった老人ではしょうがない。
……この世界で俺はバカになっていいのだろうか? いいんだ。そうしよう。重責から解放されて、秘密を抱えたただの平民としてこの世界で生きるんだ。すでに普通の人間の一生分を超える苦難を味わってきた。俺にはその権利があるんだ!
「平気だし、俺は単なる平民さ。変な気を遣う必要はまったく皆無だぜ。名字があるのは没落貴族の末裔だからで、今は爵位も何もないんだから」
少々きついかもしれないが、一応つじつまが合う。没落貴族で爵位もなく、身分は平民。暮らしは中産階級と同程度。問題はない。魔法に関しても、貴族だから使えるというわけでもないみたいだし。
「ふーん、まあいっか。ところで、あなた男の子よね?」
「はいそうです」
待ってましたよその質問。いつもより遅いくらいで、決まりきった回答を即座に返す。そう、俺の見た目は残念ながら、同世代の少年よりは少女に近いのだ。ずっと昔からそう扱われてきた。俺の数少ないコンプレックスの一つが容姿だ。
連中がどんな理由で俺を選んだのかさっぱり理解できない。もっと頼れそうな青少年を選べばいいのに、何の因果か俺だった。指導者に期待しないで、自分の力で努力しろという意味だったのかは知りようがないが、とにかく俺だった。唯一選ばれる要素があるとすれば、義賊まがいの事をしていたくらいだな。
「ホントに! 可愛すぎよ、あなた!」
煌めく碧眼の瞳はサファイアだ。俺からすればリーネの方がかわいいのに。女性のほとんどは褒めてくれる――侮辱にしか聞こえない――が、野郎の一部からは批判され、蛇蝎の如く嫌っている奴もいる。女々しいとかなんとか。
その通りとしか言いようがないが現在、連中の情報操作によって俺を嫌う人間は減少した。親しい友人もなよなよしてるとは考えていないはずだ。
「いや、本当に勘弁してクダサイ」
「あなた変な服着てるわね。あたしが似合う服見繕ってあげる。感謝しなさい。さあ、行くわよ」
巨大ヤギに怯えていた少女の面影は完全にない。目をますます輝かせて俺を引っ張って行こうとする。当面はお世話になれるかもしれないし。このまま従うのが得策だろう。でもやっぱり女の子の格好は嫌だ! はあ。
この調子だと、この世界でも苦労することになるが、元の世界とはベクトルの違う苦労だ。俺はため息を吐きつつも、心のどこかでそれを楽しみにしていた。いや、女装じゃないよ。